グレン・グールドは、夏目漱石の愛読者だった。
このことはぼくにしてみれば、ほんとうに意外なことだった。これが「『草枕』変奏曲」(横田庄一郎著、朔北社)を最初に手にしたときに感じた偽らぬ印象だった。この本は、グールドと漱石のつながりを書いたものである。あの天才ピアニストの音楽が、どこで夏目漱石とつながるというのだろう。カナダ人の音楽家が、日本のそれも古い時代の小説を日本人以上に愛した。とても興味深いテーマだ。
夏目漱石の「草枕」は、じつはかなり昔に読んだきりなので、すでに内容を忘れかけていた。漱石は、学生時代から好きな作家のひとりだった。角川書店が昭和45年に出した初版本「夏目漱石全集」を発売と同時に、なけなしの金をはたいて買ったくらいである。もっとも「草枕」はそれより前にいちおう読んではいた。
グレン・グールドといえば、コンサートを否定し、レコーディング一辺倒に走ったピアニストである。夏でも寒いからと、黒いコートを着込んでスタジオ入りし、何時間もお湯に両手を漬けて暖めたり、かつて聞いたことがないような解釈でモーツアルトやベートーヴェンを弾いたりと、とかく風変わりな演奏家というイメージがつきまとっている。さらに、病弱で文字どおり病気のデパートのような人だった。
グールドは、ピアノを演奏しながら「歌う」ことでも有名だった。ちなみに、ぼくが持っているレコードにも彼のうなるようなハミングがピアノの音とともに録音されている。また、グールド愛用の古いピアノ用椅子は、折り畳み式で脚の長さがすこしずつちがう傾いたものであった。写真を見てもそのことはよくわかる。グールドはいつもギシギシとおかしな椅子を軋ませながら演奏していたのである。いくらか偏執的なところがあったらしいし、とにかく型破りな人であった。しかし、グールド自身は『ぼくはエキセントリックじゃない』と言っているが。
こんなエピソードもある。ある演奏会でのできごと。すでに巨匠といわれていたレナード・バーンスタインの指揮で、たしかベートーヴェンの「皇帝」――だったと思うが、その演奏をするとき、バーンスタインが、はじめに聴衆に向かって「これから演奏される音楽は私の解釈ではなく、あくまでピアニスト・グールドのものである」とわざわざ前置きをしてからはじめた。つまり、本番にいたる最後まで、指揮者とピアニストの解釈が折り合わなかったのである。あのバーンスタインを相手に、グールドは自己の解釈を最後まで曲げなかったのである。
たとえば、グールドの弾くモーツアルト。ピアノソナタ「トルコ行進曲」を聴いてもらえばすぐに納得がいくことだろう。あの極端に遅い速度は何としたことか。ふつうのピアニストの演奏では、アップテンポで軽快な調子だが、これがひとたびグールドにかかると信じられないほどの遅さで奏でられてしまう。ところが、そんな異例に遅いテンポで聴いてみると、こちらのほうがむしろモーツアルトの良さを引きだしているように聞こえてくるから不思議である。
その奇人変人天才グールドが、夏目漱石を好んで読んだという。「『草枕』変奏曲」はこの二者を結びつけて論じた本だったから、本屋の店頭で見つけたときには思わず値段もたしかめずに買い求めてしまった。行きがかり上、「草枕」を本棚から引っ張り出して再度読み直すことになったことはいうまでもない。
草枕には、ミレーの描いた「オフェーリア」が出てくる。ミレーといっても「落ち穂拾い」や「晩鐘」などを描いた、ジャン=フランソワ・ミレーではなく、サー・ジョン・エヴァレット・ミレーのほうである。
「オフェーリア」という絵はちょっと不思議なところがある。場面は、うっそうと木々が繁る静かな森の中。水草が繁茂する狭く薄暗い川に、ドレスを身につけたオフェーリアが仰向けに浮いている。オフェーリアはうつろな眼差しを虚空に漂わせ、赤いくちびるは茫然と薄く開かれている。右手には赤と白の花をつかんだまま、静かに死を待っている──かどうかは曖昧なのでよくわからないが…。ドレスを着たままだからか、胸から顔にかけて水面からずいぶん浮き出ている。オフェーリアが首を起こしているのではないかと思わせるほどである。オフェーリアはもちろん死んだようには見えない。しかしあのまま浮いていたのでは
死ぬこともできないし、いったいどうなるのか。
小説「草枕」の冒頭は、つぎのようにはじまっている。
山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ
引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、畫が出來る。
声に出して読んでみると、まことに気持ちのいいリズムに溢れた文章である。このリズムは、少なくも英語への翻訳で再現することはまずできない相談であろう。仮にリズミカルな英語の文章に翻訳できたとしても、それはあくまで英語のリズムであろうから、われわれ日本人がが感じ取るものとは少しく異なっているにちがいない。
草枕に出てくる画工は、お那美さんの顔を土左衛門の顔に使いたかったらしいが、そこで漱石は、
しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶は固より、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレー のオフェーリアは成功するかも知れないが、彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つの土左衛門をかいて見たい。然し思う様な顔はそう容易く心に浮かんで来そうもない。
と画工にいわせている。
グールドが読んだ「草枕」は、もちろん日本語ではない。1965年にロンドンで出版されたアラン・ターニーが訳した“The Three - Cornered World”(三角の世界)である。三角の世界とは「四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでよかろう」という漱石の文章からとったものであった。
「『草枕』変奏曲」にも書かれているとおり、「草枕」という小説はたしかにこれといった筋もない展開が続いていくばかりである。はなしとしては、主人公の画工は、けっきょく一枚の絵も描かず、お那美さんというすこし気が触れた――いや、ほんとうは気など触れてはいないのではないかと、ぼくは密かににらんでいるのだが、その美人の出戻りとのやりとりがあるだけである。
グールドは「草枕」を「二○世紀の小説の最高傑作の一つ」と評価して愛読し、生涯手許から放さなかった。彼の死の枕元には聖書とともにこの「草枕」が置かれていたという。グールドがこの小説にこれほど入れ込むというのは、いったいどういうことか。カナダ人のグールドが日本人に通ずる感性を持ちあわせていたのだろうか。それとも漱石の作品が世界で親しまれる普遍性を獲得していることによるのであろうか。
話しがそれるが、それにしても感心するのは、日本語としてもすこぶる難しい言葉がやたらに出てくるこの小説を、よくも外国人が訳したものだということである。日本人であるぼくにとっても、この小説はかなり難解である。こんなものをよくぞ訳したと称賛したい。
漱石の文章には、現代人であるわれわれがもはや使っていない言葉がひんぱんに出てくるし、読んだときのリズムや感触がやはり古風に感じられる。そんな漱石の面白さを翻訳でほんとうにじゅうぶん出せるものだろうか。翻訳と原文を読みくらべてはいないから、いい加減なことは言えないが、何割かは翻訳しきれない部分が残っているのではないかと心配しないわけではない。肝心なことは、グールドにとって見たこともない日本の文化や習慣が果たして理解できたのであろうか、ということである。
こんな疑問が最後まで消しきれないでいた。しかし、われわれ日本人が、たとえばドストエフスキーを読む場合のような逆の立場を考えたときに、ロシアの文化や習慣をかならずしもじゅうぶんに知らなくとも、その小説を楽しむことができたという事実は何を意味するだろう。書き手の人間を捉える目がたしかなものであれば、文化や歴史そして国境を超えたかたちで通じることは理解できるということであろうか。
グールドが漱石を正しく(!)理解していたかどうかなど、さほど心配するほどのことはなさそうである。