M-55



 



上野の森フィルハーモニー管弦楽団

第1回演奏会

 



加 藤 良 一

2004年12月29日


 



 東京藝術大学、東京音楽大学などの音大在学生により結成されたオーケストラの第1回演奏会を聴いた。クリスマス直前の12月22日(水)、練馬文化センター大ホールでその演奏会は開催された。
 指揮者の高井優希さんは、東京藝術大学音楽学部指揮科に在学する学生で今回の演奏会の音楽監督も勤めた。そして、コンサート・ミストレスは、以前このホームページで 「魚水ゆり ヴァイオリンリサイタル」(M-47) として紹介した魚水由里さんである。由里は本名で、ソロ活動をするときだけゆりとしているという。彼女も東京藝術大学の学生である。このようなオーケストラがどうしていままでなかったのか不思議なくらいである。

 コンサート・ミストレスとは、女性に対する呼び方で、オーケストラ全体のまとめ役のことである。以前は、このような呼び名はなかったそうだから、おそらく差別用語の見直し論議から出てきたものだろう。男性の場合にはコンサート・マスターとなる。一般的には第一ヴァイオリンの首席奏者が担当することが多いけれど、かならずしも決まりがあるわけではなく、ヴァイオリン以外の奏者のこともある。それぞれ、コンミスとかコンマスとか略して呼ばれる。

 上野の森フィルに参加したメンバーは、パンフに掲げられたコピー 「21世紀を担う音楽家達による、燦然と輝く熱演!」 に示されているとおり、これからの活躍が期待される音楽家たちである。それにしてもこのコピーはいかにも古めかしいスタイルだ。たぶん学生諸君が考えたものではないだろう。

 初めてのコンサートのプログラムをどうするか、これはけっこう神経を使うところである。今回は、幕開けに立原勇作曲の 「白鳥によせる詩曲」 を、ついでベートーヴェンの 「交響曲第8番ヘ長調」、そして最後にショスタコーヴィチの 「交響曲第5番ニ短調」 をメインとしてもってきた。この組み合わせはなかなか面白い。いわゆる静と動、快活と激情、平和と革命とでもいうような対立する要素がうまく組み合わされている。白鳥をモチーフにした静かなイントロからコンサートがはじまり、優美で楽しくある意味で気楽なベートーヴェンで気分が高揚し、最後のショスタコーヴィチの爆発的なフォルティッシモで幕が降りる。この構成は、やはりインスペクター・ライブラリアンの権頭真由さんによるものなのだろうか。とにかくよくできたプログラムである。

 ショスタコーヴィチの 「第5番」 は、ベートーヴェンの 「第5番<運命>」 と並び称されるほどの曲で、ショスタコーヴィチの代表作でもある。この曲は、1937年のソビエト革命20周年を記念して作られた。その前の年、ショスタコーヴィチは 「第4番」 を作曲していたが、ときの政府に受け入れられないのではないかと危惧し、自ら初演を断念したといわれている。当時のソ連は、社会主義体制のもとであらゆる活動が規制され、芸術にも多くの制限があったからだ。第二次世界大戦がはじまったのが1939年だから、世界中が政治的に緊迫していた時代背景がそこにはある。
 「この交響曲の主題は人間性(人格)の設立ということである。この作品は終始抒情的に着想されてはいるが、その中心には一人の人間を据えて、そのあらゆる体験を考えてみた。フィナーレは、それまでの諸楽章の悲劇的に緊迫したものを解決し、あかるい人生観、生きる喜びへと導く」 とショスタコーヴィチ自身が語っている。

 上野の森フィルは、音大に在学しながらふだんはソロ活動をしているメンバーの集りだけにさすがに粒が揃っている。指揮者の高井優希さんは、背が高くてひょろりとしていて、どちらかというと控えめな指揮をするタイプに見えるが、ショスタコーヴィチの終楽章では指揮台の上でジャンプした。ここぞというところでは爆発する若さと熱気をうちに秘めている。あのパワーはなかなかのものである。

 終楽章の終わりに弦楽器が高音で演奏し続ける部分は、コンミスの魚水ゆりさんのお母さんがお気に入りの箇所のようで、「ショスタコーヴィチの不条理への悲しみや苦しみみたいなものがクローズアップされている感じ」 がするといういっぽうで、演奏している者にとっては、「非音楽的な音を連続して弾かねばならず弦が傷むんだよ。実際、練習の時あの部分をたくさん弾いていたら、弦が切れてしまった人もいたんだ」 とは、魚水ゆりさんの嘆きである。

 弦楽アンサンブルもよいし、管楽器群も安定していた。たしかに細部の乱れがなかったわけではないが、それとて音楽全体に影響するほどのものではなかった。若いにもかかわらず冷静さを失わず、かつ情熱が溢れる演奏は思わず惹きこまれてしまう。第2回目のコンサートが待ち遠しいオーケストラである。