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結 城 市 民 音 楽 祭

手づくりコンサート誕生にまつわるエピソード



 小林 明夫 (つむぎの里ゆうき男声合唱団:Top Tenor )

 (2003年11月17日)


 


 手づくりコンサートの前身は元々結城市文化祭の一環として行われていた合同音楽演奏会でした。内容としては市内小中学校の合唱・器楽クラブと一般合唱団が中心で、学校の音楽顧問の先生の力を借りたイベントでした。

ある年、開催日程まで決定していたにもかかわらず、数ヶ月前になって急に「学校関係は一切タッチしない」ということになってしまい、一時はコンサート中止寸前までいったのですが「折角場所も日時も決定しているのに今更中止はできない」と奮起して、当時存在した結城市民混声合唱団のメンバーの尽力もあって急遽新しいスタイル(学校中心から市民中心へ)の音楽祭を作りあげたのです。

それを発案・企画したのが私で、準備・運営の中心となったのが恩田さん(現ゆうきエコー女声合唱団代表)というわけです。
 もともと手づくりコンサートは「独力ではリサイタルやコンサートを開く事ができないアマチュア音楽愛好家・演奏家のために共同参加・共同運営のコンサートを作ってアマチュア音楽愛好家・演奏家の輪(和)を広げましょう」、「出演者は演奏するだけではなく、裏方として準備から後片付けまで参加するのを義務とし、コンサートづくりを経験することを通して、自らコンサートを企画・運営できるような人材を育てる場としていきましょう」という精神でスタートしました。
 “手づくり”の名前もその精神から、その時つけた名前です。最初の2〜3年はアクロスのような立派な音楽ホールもまだ無く、中央公民館の2Fホールで行いました。音響も照明もあったものではない会議室のようなホールの小上がりのようなステージで、市報に載せてもらった出演者募集の記事に応募してくださった皆さんと市民混声合唱団とが本当に“手作り”で、しかしあくまで“コンサート形式”に細部までこだわって行ったのです。

私はステマネ(ステージ・マネージャー)として袖(といってもただの狭い通路)に入り、準備・照明・楽器の搬入・搬出等を一手に行い、恩田さんはアナウンスの方と一緒に表で進行を取り仕切りました。そして出演者が交代で裏方として協力し合い、手当たり次第・出たとこ勝負のようなパニック寸前の慌しさの中で、なんとか第1回目を成功させる事ができました。
 しかし実のところ、私は第1回目だけお手伝いして、2回目からはわざと運営に参加しませんでした。それは目的の後者にあるように、「1回目で経験した事を活かして自分達だけでどこまでやれるのか、市民混声合唱団のメンバーは自らコンサートを運営できる人材に育ったのか」ということを試したかったのです。
 そして私の想像を越えて、恩田さんを中心とした市民混声のメンバーは頑張ってコンサートを作り上げ、現在のように盛大な形になって今も続いているわけです。もちろんお気づきでしょうが、その時の市民混声のメンバーは指導者の交代と男声不足から後に女声合唱団となりましたが、それが現在の“ゆうきエコー”のお姉様方です。

十数回にわたる歴史の中で現在は近隣市町村を含めた合唱団体のみのコンサートに形を変えましたが、最初の頃は結城市民のみによる独唱あり、ピアノあり、バイオリンあり、アンサンブルありでバラエティに富んでいましたし、それらに触れることもいい経験をさせていただいたと思っています。

このコンサートの生みの親としては、現在も立派になって継続し、出演者の皆さんから「手づくりコンサートの温かい雰囲気が好きです」とか「是非来年もまた出演させてください」というお言葉をいただけることを本当に嬉しく思っています。育ての親・恩田さんをはじめとするゆうきエコーの皆さんや、実行委員会の皆さん、参加団体の皆さんのご尽力に心から感謝する次第です。
 そして“手づくりコンサート”に出演した皆さんがそれぞれの街で新たな“手づくりコンサート”をたくさん立ち上げてくださることを夢見て・・・・音楽の輪(和)が限りなく拡がっていくことを。

 
 




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