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音楽を聴く喜び



小林泰明

 

 

 連休には、久しぶりにゆっくりと自宅で音楽を聴く機会をもった。それは、かねてからの計画でもあった。我が家のオーディオ機器も時がたったので、スピーカーの音響調整(ボイシング)をやってもらい、同時に高純度のスピーカーコードと機器をつなぐコードを新しいものに取り替えて、ようやく音が落ち着いてきたので、会社の音楽ファンに来てもらい、音楽を聴いてもらいたかったからである。
 日本人の習性として、検査機器にしても寸分の狂いのないものでないと納得できないところがあるから、アンプでも音量調整の目盛りを0にしたときに、小さなノイズ(残留雑音)が出るようなものは日本人向きではない。かつて英国のアンプを使ったことがあるが、立派に?ノイズが出る。聞くところによると、英国人は少なくとも音楽を聴くときに邪魔にさえならなければ、全く気にしないとのことである。アンプの残留雑音の有無でも、その国の国民性が分かるような気がする。日本人の完全癖は、音楽を聴くこと以前に機器の性能が気になり、出てくる音を楽しむ余裕もなくしてしまうものかと思ってしまう。
 我が家の装置は決して自慢できるほどのものではないが、ただ一つ10年以上前に買った時の私の選択は間違っていなかったと思っている。真空管のアンプもスピーカーも故障したことはないし、10年たってようやく納得のいく音が出るようになった。先日、ボイシングをしてもらった専門家から、「相当に聴きやすい音になりましたね」と言われて、あたかも着やすい着物や住みなれた家のように、機器にもある程度の年数が必要であることが分かった。
 音楽も自分の納得のできる音で聴くことが大切で、この“納得”の部分に暇と金をかけ、そして自分の耳に合わせて機器を調整していかなければならない。衝動的な買い物好きな、そして大概はそれで失敗することの多い私だが、ことオーディオ機器に関しては、これを買い替えようと思っても1年以上じっくりと考えてから購入するから妙である。敬愛する内田百關謳カが生きておられたら、あの大きな目玉をギョロリとむいて、「欲しければ、まず買ってしまって、それから金策を考えるようでなければ駄目だ」と言われるかも知れないが、私にはそこまでの度胸はない。やはり、我流の錬金術で「自動車を買うことに比べれば、大分安いよ」などとうそぶいて、腹積もりをしつつカタログを見ているときが実に楽しく、分かっているけどやめられなくなってくる。物にはバランスが重要な要素であり、良いD/Aコンバーターを購入したら、CDトランスポートが見劣りしてきた。以前この随想ですばらしい音の出るCDプレーヤーを待望すると書いたことがあるが、CDが開発されて10年、そろそろその待望のCDプレーヤーが市場に出てきたからまた忙しくなってきた。
 それはそれとして、現在の装置で久しぶりにモーツァルトの弦楽四重奏のいわゆる“ハイドンセット”を聴いた。この六曲のうちの一部は私がかつてザルツブルクの宮廷音楽学校で聴いた思い出深い曲であるが、その演奏による弦の響きについうっとりする。正に至福の時というのであろうか。遠い過去がよみがえり、木造の古い建物の中で両サイドにローソクを立て、少し高い台の上で奏でる弦楽器の響きは天使のささやきにも聴こえ、今でも私の脳裡に焼きついて離れない。音楽とは本当にすばらしいものである。

 


エッセイ集「あれや これや」(1996年10月1日)より転載


 著者は薬科大学出身で、元製薬会社会長まで務めた方であり、音楽やオーディオにも造詣が深い 。ご自宅には建物に作り付けのオーディオ装置をお持ちである。このエッセイは、レコードからCDへの転換期の頃に書かれたもの。


      
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