M-16

 

ピアノタッチ

 

 

魚 水 愛 子

 

 
 


 またどうして、加藤さんはピアノの「タッチ」について知りたくなったのでしょう。
 「もっと研究せい」という私へのメッセージ? などとひねくれて考えずに(家庭ではこうしてすぐけんかになったりしますが)、ここは自分の頭を整理するためにも、素直に考えてみます。
 「タッチ」とは、「音の指先によるコントロールの仕方」と考えていますが、ピアノは基本的に打楽器ですので、その音は、タッチによって強さと長さと、それとたぶん共鳴の仕方がコントロールできるものと考えています。また、指先によるものとはいえ、結局は指先がつながっている腕や体、更には、神経や感性と切り離しては考えられないものだと言えます。

 ピアノのハンマーが弦をたたく時間は一定で、1000分の秒だと、聞いたことがあります。ハンマーのスピードによって音の強さが変わります。そして弦の振動を止めるダンパーが、(鍵盤から指が離れることにより弦の上に落ちるのですが、)振動を止めるまでの時間によって音の長さが変わるわけです。たくさんの縦横に並ぶ音符がある中、それぞれの1000分の秒を、どのようなスピードでハンマーが弦をたたくか、その後どのくらいの時間弦を鳴らしておくかで、それこそ、千差万別の微妙なタッチが生まれるのだと思います。

 また、これは私の想像ですが、共鳴を誘うタッチ、誘わないタッチというのがあるように思います。いわゆる響きと言われているものですが、これは結局ハンマーのスピードと音の長さの、ひとつひとつの音に対する微妙なバランスなのだと思うのです(ハンマーを包むフェルトの弾性とも関連していると思います)。聞こえてくる音が、同じような強さ、弱さでも、通る音、通らない音、芯の有る音、無い音、がっちりした音、つぶれたような音などの違いがあるという経験はどなたもお持ちと思います。バランスの良いタッチで弦が正しく振動すれば、楽器自体にも共鳴し、空気から鼓膜に心地よく伝わっていくように思います。

 このように音色や響きが1000分の秒から生まれ、複雑な積み重ねでいかようにも変わっていくのですから、近代におけるピアノのアクションの発達とその繊細な機能にあらためて感嘆してしまいます。複雑な積み重ねというのは、演奏者の音楽や音符の捉え方、また演奏者自身の身体的条件だけでなく、アクション自体の無数とも思えるネジのわずかな回し加減等でも違ってきます。繊細なアクション機能であるだけに、有名ピアニストになると、自分に合ったピアノでないと弾かないとか、専属の調律師が常時一緒にいるという人もいるくらいです。ミケランジェリやホロヴィッツはその点でも有名でした。

 ところで、ハンマーが弦をたたく前とたたいた後の指、手、腕の処理の仕方がタッチにおけるテクニックであるわけですが、たたく前は、指のどの部分をどのような角度で、どれくらいの圧力をかけ、どんなスピードでどちらに向かって鍵盤を押すか、あるいは、落とすかといったことが考えられます。
 音が鳴った後はすでにハンマーは離れているので、必要以上の圧力は不要です。動きの妨げにもなります。あとは、どのように指、手、腕を動かして鍵盤から離し、ダンパーの落ちるスピードと落ちるまでの時間をどれくらいにして、次の音へつなげるかといったことが考えられます。

 とはいえテクニックは、理論や理屈も大切かもしれませんが、むしろ感性や心、人間性と結びつきながら、勘や経験や訓練によって自然に磨かれていくものだと思います。つまり、イメージする→弾く→試す→考える→イメージするといった作業を繰り返す事により自然に磨かれていくように思います。不思議と、明るく元気な気持ちの時と、暗く沈んだ気持ちの時では、歩く早さも踏み込む力も自然と違ってくるように、表現する心と体、腕、指の動作とは無関係ではなく、タッチのみにおいても熟練した人ほど一体です。ピアノという楽器はそれに耐えうる機能を持っています。

 私は、ピアノという楽器にあらためて賛嘆しつつ、音楽も、またそれを奏でる人間の心と体の機能そのものも、現存の理論のみで片付けられるような小さなものではなく、宇宙規模的な無限の計りしれなさを感じます。
 そう、私はタッチひとつ、宇宙規模的な自分との距離に日々悪戦苦闘しているわけです。(なあんてね。「もう手遅れだよ歳考えな」、「いや、人生に手遅れということはない」こんな問答を繰り返しつつ、気楽にちょっとだけ努力しております。)

 

2002年10月16日

 

 

参考:
 「ピアノの音色はタッチで変るか」という刺激的な本がある。著者は、吉川茂という水中構造音響学の専門家である。彼の主張を聞いてみよう。
 その昔、「ピアノの音色はタッチなんかでは変らない」と、タッチにばかり執心するピアニストはいらないと「ピアニスト無用論」を展開した兼常清佐(かねつねきよすけ)という人物がいた。この人は音楽家ではないが、ピアノをこよなく愛していたという。だからこそ、彼はタッチというようなものが横行することに我慢ならなかったそうだ。
 「ピアノのタッチ」は、考えれば考えるほどむずかしいテーマである。ピアノという楽器は、演奏者の指が鍵盤を叩くと、複雑な機構を介して最後に表面にフェルトを貼ったハンマーが、弦を叩いて音を出す仕組みになっている。ピアニストがどんなに気持ちを入れ込んで鍵盤を叩いても、エスケープメントによってピアニストの手から完全に切り離されてしまうのである。そこで、ピアニストの「タッチ」の問題が取り沙汰されることになる。
 このテーマはぼくの頭からずっと長いこと離れないでいた。そこで思い切って何人かのピアニストに、このことについて質問してみた。上の魚水愛子さんの小文はそれに対するご返事である。これを読む限り、いずれにしても一筋縄ではいかない問題であることがよくわかる。

加藤良一

 


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