K-1



 


エッセイとはワタクシである


加 藤 良 一


2002年3月5日




 エッセイとは何かと、問われてすみやかに答えられる自信などない。
 エッセイは、エッセーとかエセーなどとも書かれるが、いずれも外国語を日本読みにしたものであるから、どれが正しいということではない。日本語では、随筆、試論、小論などという。


 固有名詞としての『エセー』は、1580年に出版されたモンテーニュの著書“Essais”(随想録)を指す。原題は“Les Essais de Michel de Montaigne”である。Essaisは、フランス語の動詞、試みる、ためすという意味のエセイエ Essayer の名詞形で、試み、ためしということである。

 モンテーニュは『エッセー』の冒頭でつぎのように述べている。

 読者よ、これは正直一途の書物である。はじめにことわっておくが、これを書いた私の目的はわが家だけの、私的なものでしかない。あなたの用に役立てることも、私の栄誉を輝かすこともいっさい考えなかった。そういう試みは私の力に余ることだ。私はこれを身内や友人たちだけの便宜のために書いたのだ。つまり彼らが私と死別した後に(それはすぐにも彼らに起こることだ)、この書物の中に私の生き方や気質の特徴をいくらかでも見いだせるように。また、そうやって、彼らが私についてもっていた知識をより完全に、より生き生きと育ててくれるようにと思って書いたのだ。もしも世間の好評を求めるためだったら、私はもっと装いをこらし、慎重な歩き方で姿を現したことであろう。私は単純な、自然の、非常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。というのは、私が描く対象は私自身だからだ。ここには、世間に対する尊敬にさしさわりがない限り、私の欠点や生まれながらの姿がありのままに描かれてあるはずだ。もしも私が、いまでも原始の掟を守りながら快適な自由を楽しんでいるといわれるあの民族の中に暮らしているのだったら、きっと、進んで、自分を残る隈なく、赤裸々に描いたであろう。読者よ、このように私自身が私の書物の題材なのだ。あなたが、こんなにつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。
                  モンテーニュにて。1580年3月1日。
                                   (『エセー』原二郎 訳)


 1580年頃に文芸のジャンルとして“エッセイ”があったわけではなく、モンテーニュが初めて試みたものらしい。自分自身と向き合って、ごまかしなく書く試みをしたものである。

 「わたしがここにお目にかけるのは、もっぱらわたしのもって生まれた能力の試しなのであって、決してわたしが後に得た能力(学問知識)の試しではないのだ。だから自分の無知をうっかり人に見られても、わたしは別に困りもしないのである。」
 「学問とか知識をお求めになりたい人は、ほかのしかるべき本をお読みになればいいことで、この本では何も読者に物事を知らせようとしているのではない。」
と。こう言っていただけると、筆者のように「後に得た能力」が怪しい者にとっては、心休まるものがある。つまり、極めて主観的で私的なもの、それがエッセイの真髄であろうか。


 『エッセイを書くたしなみ』(木村治美著、文芸春秋)という本は、エッセイとは何かとい うことを具体的に言い表している本のひとつである。著者は東京教育大英米文学科、同大学院文学研究科博士過程修了のエッセイストである。この人のエッセイ論は、ほかの人とは少 しちがっていて思わず感心してしまった。簡単に紹介しよう。

 エッセイとは、“形は日本庭園に似て”形式にこだわらず、その効用は“自分を見つめるために”あるのだから、人生を豊かにするために“いましか書けないことを書く”のだと いう。
 書くにあたっては、まずテーマを考える。ついで“ポジティブ思考”で読後にほのぼのした感動を残し、“意見文にも個性的な切り口”を見せて自分独自の見方がほしい。“普遍化のための目配り”を忘れず、客観的な視点をさりげなく滲ませ、“抽象論はつまらない”ので避けながら具体的事実をふまえることに注意する。そして何はともあれまず書いてみようと提案している。

 “書くことが無くてもまず書いてみよう”などと乱暴なこともいっている。読者の気を引く“題のつけかた”も重要なことである。 書き出しの工夫としては、例を引きつつ“読者の好奇心”を引き、“長すぎる前置きに注意”して適当なバランスを確保し、ついつい書きたくなるが“無関係な情報は捨てる”勇気も必要である。そのほかにも大切なことがいろいろ書かれているが、これくらいにしておこう。


 木村治美さんは、エッセイにふさわしい形は、ベルサイユ宮殿の庭園のような幾何学的構造ではなく、自然をそのまま採り入れたような、個々の細部の構成ではなく、全体がひとつのまとまりを与えるような、いわば日本庭園のような構造ではないかという。
 起承転結などに縛られなくてもいいし、理路整然と順序立てて述べなくてもいい。けれども、全体としてのまとまりがないようでは困るから、かえって難しいのかもしれない。加えて本家本元のフランスでは、エッセイがあまり発達していない、という話しは面白い。むしろ、海を渡ったイギリスで開花しているが、それはイギリス庭園と日本庭園の共通項とも関係しているのではないか、との考察は納得できるものがある。


 評論家で国文学者の谷沢永一氏によると、エッセイとは、論文ではないから、“リクツに走らない”、“論証による重みをつけない”、“結論や要約による恰好をつけない”、その“焦点は抽象的な命題ではなく”、その“筆法たるや大上段であってはならぬ”、また、“自分を棚においてはいけない”、のであり、エッセイの根っ子は“ワタクシ”である。
 エッセイは、書き手の体温に即しながら、肌の温もりで暖めながら、語りつづけるという手法が欠かせない。さらに「エッセイは、我が国に通常の随筆ではない」、随筆が身辺雑記にとどまり「受け身にまわった感受性」がその本性でありオードブル的であるのにたいして、エッセイはメインディッシュだといい切る。
 そこに期待される栄養素は、書き手の個性がかもしだす人の世の生きる智恵であり、エッセイに多少とも積極的な、湧きいづるもの、滲みでるもの、が求められる。物腰は終始やわらかくとも、内部は凛としていなければならぬ、と、ここではエッセイと随筆が別のものとして書かれている。

 私は、随筆とはあくまでエッセイの翻訳語かと思い込んでいたから、別の角度からの見方を知った気がする。
 こうしてみるとエッセイの姿がおぼろげながらも見えてきはしないだろうか。エッセイもなかなか格調のあるジャンルの一つである。







ことばコーナーTopへ   Home Page(表紙)へ