■BC600〜BC55
■BC55〜AD84

ブリトン人部族名
ATREBATES
CATUVELLAUNI
BRIGANTES
TRINOVANTES
CANTIACI
REGNI
BELGAE
DUROTRIGES
DUMNONII
ICENI
CORITANI
CORONOVII
SILURES
DEMETAE
ORDOVICES
GANGANI
DECEANGLI
SETANTII
PARISI
CARVENTII
SELGOVAE
NOVANTAE
VOTADINI
DAMNONI
VENICONES
DOBUNNI

カレドニア人部族名
VERTURIONES
EPIDII
CALEDONES
VACOMAGI
TAEXALI
DECANTAE
CREONES
CARNONACAE
SMERTAE
CAERENII
CORNOVII

ローマ帝国のBRITAIN征服
【B.C.55〜A.D.84】

 ユリウス・カエサルがB.C.55年から54年にかけて行ったブリテン遠征は、ローマ側からみると得るところはほとんどなかったといえる。 しかし彼のガリア征服はブリテン南東部を開放し、交易と外交によってローマ化に多大な影響を与えた。 その結果、国家形成の過程が急速に早まり、強力な部族王国が出現した。

 その中でもAtrebates【アトレバテス族】、Catuvellauni【カトゥエラニ族】、Trinovantes【トリノヴァンテス族】の3つの部族が有力であった。

 アトレバテス族、カトゥエラニ族はColchesterをめぐり覇権を争っていたが、 やがてこの二つの部族はクノベリヌスという王によって統一される。 彼は勢力を拡大しブリテン南東部を支配下に置いた。彼の死後、カラタクストゴドゥムヌスという二人の息子が王国を相続した。

 カラタクスとトゴドゥムヌスはアトレバテス族を攻撃し、ローマと同盟を結んでいた王を追放した。 このことは、「ローマ帝国内の自己の地位の安定と名声を得ること、そしてローマ帝国内の余剰兵力をうまく分割すること」 を欲していたローマ皇帝クラウディウス帝に、格好の口実を与えてしまった。

 A.D.43春、クラウディウス帝は総攻撃を命じ、40,000〜50,000人からなる精鋭部隊を送り込んだとされている。 Colchesterは約2ヶ月で占領され、トゴドゥムヌスは殺害されたが、 カラタクスはWales南部のSilures【シルレス族】のもとに逃亡した。

 ローマ帝国軍は当初A.D.47年に征服した地域において国境を定めようとしていた可能性がある。 しかしカラタクスがシルレス族のもとでその後も抵抗を続けたためWales南部に向け更なる侵攻を続けることになった。

 しかし、その最中A.D.60 Iceni【イケニ族】Boudca【ボーディケア】が率いる軍が反乱が起こしLondinium【ロンディニウム】 他南部の都市が攻撃され破壊されてしまう。 ローマ帝国軍はボーディケア反乱軍を鎮圧する。

 さらにBrigantes【ブリガンテス族】女王カルティマンドゥアの夫であるウェネティウスが反乱を起こしたため、 ローマ帝国軍は北上することになる。

 総督アグリコラはA.D.84年にはグラウピウス山の戦いで勝利し、全島支配を確立しようとしていた。 しかし彼はローマに召還され、その後の侵攻は中断された。残されたローマ帝国軍はアグリコラの築いた国境は守りきることが出来ず カレドニア(現在のScotland)から撤退していった。