ラーメン屋までの道すがら、小蒔が話題にしたのは旧校舎に出るという幽霊の噂だった。
「アン子がね、今度追っかけてるネタなんだって。なんでも、夜になると赤い光が見えるとか、人影が見えたとか。目撃した人は結構居るみたい」
幽霊話の苦手な醍醐は、赤い光だの人影だののくだりで完全に硬直してしまっている。
「そういや、アン子のヤツ、昨日ンなコト言ってたな…」
真神学園の旧校舎は、戦時中から残る年代物の建物で、今では立入禁止になっている。しかし、この年頃の好奇心にはどんな障害も大した問題ではなく、封じられた扉とは別に入れる場所があるということは京一も噂話に聞いていた。
「けどよ、行方不明になってるヤツらが居るって話だろ?いくらあのアン子でもそうそう潜り込めねェんじゃねェの?」
そう言いながら、ちらりと京一は緋勇を窺った。
緋勇は、どうとも掴めない表情で、だが注意深く耳を傾けているようだった。勿論、醍醐のように平静を装いつつ怯えている風ではない。
『旧校舎』
緋勇は、酷くこの単語に敏感に反応しているように、京一には思える。
(何か、気にしてるみてェなんだよな…)
京一が入学したときには、既に旧校舎は立入禁止の廃屋状態だった。興味が無かったので、入ったこともない。中も古びた教室だという話で、少なくとも、転校したての人間が興味を持つような場所ではないはずだ。
「しかし、今時幽霊話ねェ…大体、幽霊ってなァ夏に出るモンだろ?緋勇?そう思わねェ?」
話を振ると、緋勇は頷いて首を傾げた。
「確かに、今はあんまり怪談話に向いてる季節じゃないよな。けど、それなのに話が出てくるってことは…」
そこで言葉を切ってしまった緋勇に、醍醐が顔を引きつらせる。それに追い打ちを掛けるように小蒔が続けた。
「前からそういう噂はあったけど、最近特に見たって話が多くて、噂の真相を確かめようって入る生徒も居るって」
「な、中にか?あそこは確か、柵とかあって立入禁止になっているはずだろ?そんなに簡単に入れるとは思えんが…」
「部の連中に、抜け道があるって聞いたことあるぜ」
「あ、アン子も同じ事言ってたッ。スクープだって随分張り切ってたけど、大丈夫かなァ…」
「大丈夫大丈夫。アレは殺したって死なねーよ。第一、幽霊なんて眉唾もんだぜ?」
「うッ、うむ。京一の言うとおりだ」
京一の言葉に、醍醐が強張った笑みを浮かべつつ頷いた時だった。
「待って、みんなーーッッ」
「アン子!?」
噂の本人が、息も絶え絶えな様子で現れたのだ。
「どうしたのさ?なんかあったの?」
「美里ちゃんを探してッッ!」
「葵?葵がどうかしたの?」
尋常でないアン子の様子に、小蒔の顔色が変わる。
なんとか息を整えて、アン子は話し始めた。
「あたし、どうしても旧校舎の取材したくて、美里ちゃんに鍵を借りて貰って一緒に行ったの。けど、中に入って取材してたら…」
「中に入ったのか!?」
醍醐はぎょっと目を見開き、緋勇はすっと目を細めた。
「そしたら、赤い光が沢山追いかけてきて…一緒に逃げたんだけど、気が付いたらはぐれてて…」
アン子の言葉を遮るように、緋勇が踵を返した。
「急いだ方がいい。遠野さん、案内してくれる?」
それ以上の言葉を拒む勢いだった。
その、厳しさすら感じさせる表情に、アン子が息を呑む。
「わ、わかったわ」
足早に真神へと引き返す緋勇の後を、慌ててアン子が追う。京一もその後を追った。足早に進む緋勇にやっと追いついた時、小さな呟きが聞こえた。
「やっぱり…あそこが?」
厳しい緋勇の横顔に、その呟きの意味も問いただせず、京一は只黙って横を歩くしかなかった。
間近で見る旧校舎は、今にも崩れそうな雰囲気すら漂う代物だった。
「ここよ。ここを、こう、外して…」
アン子が柵を外すと、そこに人が潜れる程度の穴が現れた。
「ここか…」
醍醐がごくりと息を呑んだのに、こんな事態ながら思わず笑ってしまう。
「やめとくか?醍醐」
そう尋ねた京一に、醍醐は首を振った。
「美里が心配だ。行くさ。しかし桜井、お前は…」
醍醐の言葉を、小蒔は断固とした口調で遮った。
「帰れって言うのはなしだよ?言われても、勝手に着いてくからね!」
絶対に譲らないといった風な小蒔には、何を言っても無駄だろう。醍醐もそれ以上は言わなかった。
「行きましょ」
アン子の促しに、一同は校舎の中へ進む。
入った途端、鼻につくかび臭い匂いと、足を踏み出す度に巻き上がる埃の洗礼が一同を待っていた。
「うわ…凄いほこり。それに…やっぱちょっと不気味な感じだね」
照明もなく、割れた窓を板で打ち付けてある場所もある内部は、流石に何ともいえない雰囲気が漂っている。日頃元気な小蒔ですら、それには気圧されてしまっているようだった。
「気をつけて。何が出てくるか、わからないから」
あの、スクープとなれば目先の危険などどこへやらのアン子ですら、声に緊張がある。醍醐はもとより、緋勇の表情も相変わらず硬かった。緊張感だけが張りつめていきそうで、京一はわざと大げさに笑い声を上げた。
「大丈夫だろ。男が4人も居るんだ。別に怖いこたァねーさッ」
「ちょっと、京一。男はこの場に3人しか居ないだろッ」
「何を仰有る、美少年。お前もちょっとばかし小せェけど立派な男だろーが」
「なんだとーーーッッ」
案の定、小蒔は緊張を忘れて怒り出し、アン子や醍醐も笑っている。緋勇も、笑顔とまではいかなくても、強張っていた表情を緩めたようだった。
空気が和んだことで、緊張が和らいだらしい。アン子が歩きながら旧校舎の前身について話し始めた。
「ミサちゃんから聞いた話なんだけど、ここには元々、陸軍の訓練学校があったんだって」
醍醐が頷いた。
「それは、俺も聞いたことがある。なんでも地下に、実験用の施設があったらしい」
「そうそう。でも…」
アン子が不思議そうに首を傾げる。
「意外ね、醍醐君がそんな事知ってるなんて」
「ホント、詳しいんだね。なんで?」
「もう死んでしまったが、俺のじいさんが軍人でな。この学校の話も親父からよく聞かされたからな」
「ふーん、ちょっと興味深いわね。故人じゃなけりゃ、本人に取材したいとこなんだけど…」
「この校舎の一階の奥には地下へ行ける梯子があるらしい」
「へー、面白そうだな。行ってみようぜッ」
京一は、内緒話をする時のように、緋勇の耳に口を寄せた。怖いほどの緊張は感じられなくなったとはいえ、まだ固い表情をしていた緋勇の顔を覗き込む。
緋勇が、一体何に対して緊張しているのかはわからない。けれどどうあれ、傍目に痛いほどの緊張など、役に立つとは思えない。
「お宝とか、あるかもしんねェだろ?」
その声を聞きつけた小蒔が、きっとなる。
「京一ッッ、この非常事態になに不謹慎なこと言ってんのさ!葵はどうするんだよッ」
「あッ、そーいやそうだったな。いやァ、悪ィ悪ィ」
「まったくもう…キミってヤツはどうしてそう、緊張感がないんだよッッ」
小蒔は怒ったが、京一の目的は成功した。覗き込んだ京一に対して、緋勇は苦笑に近いながら笑みを浮かべたのだ。
「宝探しは、また今度な」
京一の意図に気が付いたのか、単に呆れただけなのか。その辺はわからなかったが、その笑顔に間違いなく京一は安堵した。
(なんで、こんなんで安心してるんだか…)
優しいと緋勇に評された事を思い出して、京一はがしがしと頭をかいた。知り合って3日の相手に、どうも、らしくないことをしている自覚はある。だが、今はそれを追求している時ではない。
「へいへい、俺が悪かったって。んで、アン子。どの辺で美里とはぐれたんだよ?」
「この先に保健室があって、その先で赤い光が襲ってきたのよ」
しかし、周囲を見渡しても怪しい気配は感じられない。美里の姿も、廊下には無かった。
「どこ行ったのかしら…」
「まだ、この中には居るんだろう?教室の中も探してみるか」
その時だった。
「ねぇ、あれ…なに?」
小蒔が震える声で指した先は、ある教室の窓だった。そこに、ぼんやりと青白い光のようなものが映っている。
「遠野…お前が見たのはあれか?」
「違うわ。赤くて小さな光だった。それがすっごくたくさん…」
「おい、誰か倒れてるぜッ」
ひび割れたガラスの隙間から、白い制服の端らしきものを見つけた京一が声を上げる。
「美里ちゃん!?」
「葵なの?」
机の散乱する埃臭い教室内に倒れていたのは美里だった。一見したところ怪我はない。
だが、それ以上にはっきりとわかる異常があった。
青白い光が美里の体を包んでいる。いや、美里の体そのものが発光しているようだった。
「美里が…光っているのか?」
「人間て、光るモンなのか?一体どうなって…ッ」
傍らの緋勇を振り返った京一は、声を失った。
緋勇の顔は、今にも叫びだしそうなほど激しい驚愕の色を浮かべていた。顔色は青を通り越して白くすら見える。
「おい、緋勇…」
尋常でない様に、思わず声を掛けるが、緋勇にはまるで聞こえてないようだった。食い入るように倒れている美里を見つめ、一歩一歩近づいていく。
その姿に気圧されるように、誰も動けない中で、緋勇は美里の傍らに跪いた。
伸ばされた手が、触れたか触れないかの瞬間、美里を覆っていた光は、内側に収束するように消えていった。
それを合図に、我に返ったように小蒔が美里の元へ走り寄った。緋勇が、ゆっくりと美里を抱き起こす。
「美里さん!」
「あおいッ!」
呼びかける声に、美里の瞼がぴくりと動いた。
「ん―――」
「あおいッッ!!」
うっすらと開かれた美里の目が、抱き起こしている緋勇を捕らえる。
「緋勇、くん?」
緋勇の顔に深い安堵が浮かんだ。
「大丈夫?動ける?」
「わたし…」
「あおいっ!どっか痛いトコない?平気?」
「小蒔…」
美里は少しぼうっとしていたようだったが、じきに現状を思い出したようだった。
「わたし…気を失ってたのね」
「ごめんね。美里ちゃん。あの時はぐれちゃったから…」
似合わないほどしゅんとしているアン子に、美里は笑って首を振った。
「そんな…謝らないで。みんなで探しに来てくれたじゃない。ありがとう」
緋勇に助け起こされて、美里は立ち上がった。どうやら、怪我もないようである。
「美里、何があったんだ?」
醍醐の問いに、美里は目を閉じて答えた。
「あの時、赤い光が追ってきて…逃げられないって思った時、急に目の前が白くなって…後は覚えてないの」
「それなんだけど、美里ちゃん、覚えてない?気を失ってる時に…」
その時、不穏な気配を感じ取った京一はばっと振り返った。
最初ははっきりとは目に見えなかった。
しかし、何もないはずの宙に、小さな赤い光が一つ、二つと数を増していく。京一だけではない。醍醐も緋勇もそれに気づいたようだった。
「アン子、その話は後だ。美里を連れて行けッ!」
「で、でも…」
「早く行け!数が増えてるッ!」
殆ど怒鳴りつけるような緋勇の声に、アン子が弾かれたように美里の手を取った。
「桜井、お前も行けッ!」
ところが、言われた小蒔はそれには従わなかった。二人を教室の外へ押し出すと、ぴしゃりと戸を閉めてしまったのだ。
「なッッ―――桜井ッッ!何してる!早く行け!」
「イ・ヤ・だ!一緒に居るよ。だって…」
小蒔の言うとおりだった。戸を閉めたことが原因なのか、小さな赤い光は一気にその数を増やしていたのである。ここで扉を開ければ、外に飛び出して美里達が危なくなる。
「くッッ」
醍醐が厳しい表情で唇を噛む。醍醐の心理としては、小蒔も逃がしておきたかったのだろう。
厳しい表情で増えていく赤い光を見ていた緋勇が、小蒔を振り返った。
「桜井さん、ちょっとの間、我慢してくれる?どうも、あれをなんとかしないと外へは出られないみたいだから」
「大丈夫だよ、緋勇クン。ボクは平気だから」
「なるべく、早く片づけるから。それと、桜井さん、その包み、弓だよね?」
「えっ、ああ…うん。部活帰りだったから…」
「用意、できる?」
「一応、一通りは持ってるけど…」
「近づいてきそうだったら、それで追い払って。危ないと思ったら、必ず大声で知らせて。…絶対に、桜井さんの所には行かせないから」
緋勇の真摯な表情に、小蒔が息を呑んで頷く。
「…わかった」
小蒔に頷きを返して、緋勇は醍醐と京一に向き直った。
「桜井さんの方に行かせちゃ駄目だ。けど、こっちが飛び出して囲まれるのはまずい。なるべく囲い込むようにして、一匹ずつ叩くようにして数を減らそう」
一見、緋勇の声は冷静だった。しかし、その瞳には、隠しきれないような激情が浮かんでいる。
何かに、酷く怒っている。
訳もなく京一はそう感じた。
「それが一番か…」
呟く醍醐は、緋勇の異常には気が付いていないようだった。しかし、今はそれを追求している時ではない。
赤い光はどんどん数を増して、今や一個の巨大な生物のようだった。数が増えた分、その正体もはっきりと見える。
それは、巨大なコウモリ達の集団だった。大きさだけでなく、異様な目の光と牙が、普通のコウモリとは明らかに違う。
「取りあえず、やるしかねェな」
とにかく、この場をなんとかしなければどうにもならない。
京一の言葉に反応したように、最初の一匹が耳障りな鳴き声を上げて襲いかかってくる。
緋勇が一歩踏み出して拳を震ったのを合図に、黴臭い旧校舎での戦闘は始まった。
コウモリ達は、決して手強い相手ではなかったが、如何せん数が多かった。すばしっこく飛び回るコウモリを手早く叩きながらも、京一は焦りに声を上げた。
「おい…緋勇ッ!」
京一達には飛び出すな、と言っておきながら、緋勇は自らコウモリの群の中に突っ込んでいくのだ。
(あの、馬鹿がッ)
とても、見てはいられない。
確かに、緋勇は強い。緋勇が纏めて吹き飛ばしたコウモリを外側で待ちかまえて叩き落とすのは楽ですらある。
しかし、こんな戦い方は嫌だった。
緋勇一人を危険の中に置いて、外側からそれを見ているなど冗談ではない。コウモリ達は強くはないが、如何せん数が多い。緋勇の拳にうっすらと血が滲むのを見て、京一はかっとなって怒鳴った。
「緋勇ッッ!聞こえねェのかッ!!」
緋勇が呼びかけにも答えないのに舌打ちして、京一はコウモリの群へと突っ込んだ。
「京一ッッ!」
醍醐が驚いて叫ぶが、それで足を止める京一ではない。
視界を塞ぐコウモリを叩き落として、その先にいる緋勇の背を目指す。腕を牙が掠めたが、それも気にならなかった。
「緋勇ッッ!」
至近距離で怒鳴ると、振り向いた緋勇の目が驚愕に開かれる。
「蓬莱寺ッッ!」
緋勇の拳が、京一の背後から迫っていたコウモリを打った。きいっと悲鳴を残して、コウモリが落ちる。その勢いのまま、緋勇は京一に怒りを露わにした眼差しを向けた。
「何してる!飛び出しちゃ駄目だ、つっただろ!」
負けずに京一も怒鳴り返す。
「馬鹿野郎、そりゃこっちの台詞だ!先に突っ込んだのはどっちだと思ってる!」
「俺は良いんだよッ!」
「どういう理屈だ、そりゃ!」
緋勇の目にも怒気があったが、それ以上に京一は頭に来ていた。
「見くびるんじゃねェよ!目の前でお前一人に美味しいトコ持って行かれて黙ってられるか!ちっとは回せっての!」
緋勇の目が怒りとは違うものによって見開かれる。それに満足して、京一はにやりと笑った。
「自分だけカッコつけてんじゃねーよ。ちゃんと半分、寄越してもらうからなッ!」
そういって見返した緋勇の表情からは、既に怒気は消えていた。その唇が、ゆっくりと笑みを刻む。
「…欲しけりゃ、自分で持ってくんだな」
応えるように、京一もまた不敵に笑った。
「上等ッ」
緋勇と京一がコウモリを吹き飛ばし、醍醐と小蒔が飛ばされたコウモリ達を仕留めていく。それがしばらく続けば、大量にいたコウモリ達も、次第に数を減らしていく。
程なく、ほぼコウモリ達は全滅した。床には、コウモリの屍が黒い山を作っている。
最後のコウモリを醍醐の回し蹴りが打ち落とし、小蒔がほっと息を吐いた。
「やったね!醍醐クン!」
「桜井も、よくやったよ。お前の弓には随分助けられた」
「へへへッ。さんきゅ。けど…」
小蒔が跪いて、床の黒い山を見つめた。
「なんなんだろね、このコウモリ…普通じゃないよね、こんなの。何か、凄い牙だし…」
小蒔がよく見ようと身を屈めた時だった。
「キィッッ」
既に動いてないはずのコウモリ達の中の一匹が急に飛び出したのだ。
「桜井!」
醍醐が慌てて駆け寄るが、コウモリは小蒔の目前に居る。
「小蒔ッッ」
「桜井さん!」
得物が弓である以上、接近戦には完全に向いていない。硬直した小蒔に、コウモリが牙を向けた時だった。
「小蒔っっ!」
叫び声と共に、光が小蒔の体を包み込む。その光に弾かれて、コウモリは一瞬怯んだ。その隙に醍醐が追いつき、コウモリに止めを刺した。
一同に安堵の空気が流れる。からりと扉が開いて、外に出たはずの美里が走り込んできた。先刻の光の主は美里だったらしい。
「小蒔、大丈夫?」
小蒔は、葵の発した光が自分を救ったことよりも、葵の容態の方が気に掛かるらしく、心配そうにその顔を覗き込む。
「葵…どうして?」
葵の顔色は良くなかったが、全員の無事な姿を見て安堵したのか、表情は穏やかだった。
「ごめんね、小蒔。どうしても、みんなの事が心配で…アン子ちゃんに、先生を呼びに行ってもらって…」
しかし、美里は最後まで言葉を紡げなかった。その体が、再び青い光に包まれたのだ。
「美里…?」
「熱い…体が…」
「葵っっ!」
小蒔が、慌てて美里に手を差し伸べる。
しかし、その時―――
目覚めよ―――――
不意に頭の中に響いた声に、京一の体が強張った。その声に応えるかのように、自分の中に得体の知れない『氣』が膨れあがっていく。
「くッ…どうやら、おかしいのは美里だけじゃないらしい。俺の体も…」
「なに、これ―――?」
醍醐や、小蒔も同じようなものを感じているらしい。
「こいつは―――」
体を支えきれなくなって、京一は膝をついた。ぼやける視界に、誰かの足が映る。何とか顔を上げると、そこには、同じように青い光に包まれて膝をつき、何とも言えない表情を浮かべる緋勇が居た。
「何、痛そうな…ツラ…」
思い通りに動かない体がもどかしい。どうしてそんな…
迷子になったガキみてーなツラ、してるんだよ?
そう聞きたかったが、それ以上言葉には出来なかった。京一の意識は、そこで途切れたのである。
「う…」
誰かの呻き声で、京一は目を覚ました。背中に、固い感触があり、目には、暗い空が飛び込んでくる。
「…いっっ」
反射的に身を起こそうとして、全身に走った鈍い痛みに、京一は顔を顰めた。傍らでは。同じように醍醐が顔を顰めて起き上がっていた。
「うーん…」
「桜井ッ」
倒れている小蒔が頭を振りながら起き上がるのに、醍醐が慌てて手を貸す。その横で、美里も小蒔の背を支えていた。
「小蒔、大丈夫?」
「あおい…」
美里も小蒔も、怪我はないようだった。
「ちっ…」
背中の埃を叩きつつ立ち上がった京一は、脇に倒れている人間に気づいてぎょっとした。
意識を失う寸前に見た、緋勇の頼りなげな表情が蘇る。
「おい、緋勇ッッ!」
呼びかけながら膝をつくと、長い前髪がさらりと流れて、現れた瞼が微かに動いた。
「ほうらい、じ…?」
開かれた瞳が一瞬酷く不安定に揺れて、それが京一を映した途端、生彩を取り戻した。
「大丈夫か?」
「ああ、何とか…」
「ほれ」
京一が差し出した手を、緋勇は、何故か酷く複雑な面持ちで眺めた。その様子に、京一はわざと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「こういう場面じゃ、おねェちゃんだけに手を貸してやる事にしてんだけどよ、今日は特別に貸してやるわ」
その言葉に、緋勇も笑顔になる。
「んじゃ、特別に甘えるよ」
そう言って重ねられた手を、京一は笑って握り返して引き上げた。
「どうやら、みんな無事か…」
全員がなんとか立ち上がったところで、醍醐が安堵の息を漏らした。
「一体、どうなってんだ?」
「ここ、旧校舎の前だよね?どうして、こんな所に…」
首を傾げる小蒔に、醍醐も顎に手を当てる。
「…さあ、な。その辺は俺にもわからない」
「なんだろう…急に眩暈がして、気が遠くなって…」
「………」
京一にもあの感覚の説明はつかなかった。ただ、体の中から何かが溢れそうな感覚は、今は綺麗に消え失せている。
「美里は、体は何ともないか?」
「ええ…大丈夫。ありがとう、みんな」
「ふむ…コウモリといい、俺達を包んだ青い光といい…この旧校舎には何があるというんだ…」
眉を寄せる醍醐に、緋勇が首を振った。
「…わからない。けど、何か…得体の知れないものを感じる」
「緋勇…」
「コウモリもそうだけど、さっきの光も…ここは普通じゃない。あれは一体…」
最後は殆ど呟くように黙り込んでしまった緋勇の表情は恐ろしく固いものだった。
「………」
「緋勇クン…」
誰もが真剣な緋勇の雰囲気に飲まれる中、京一は自分のカンが当たっていることを確信した。
やはり、緋勇は『旧校舎』について、何かを知っている。けれど、それをこの場で問えない雰囲気が、緋勇にはあった。
「まァ、いいじゃねェか。美里も無事だったんだしよ」
殊更明るく言った京一に、醍醐が乗る。
「…そうだな」
「そうそうッ」
ふっと緩んだ空気に、小蒔も笑顔になって、
「何か、安心したらお腹減っちゃった」
「まったく、おめェは…」
「なんだよッッ」
「はははッ、桜井らしいな。さっきはラーメン屋に行き損ねたものな。食って帰るか?」
「そうだね。いこーーーッ」
元気良く腕を突き出す小蒔に、美里も笑みを浮かべた。
「小蒔ったら」
「よっしゃ、そうと決まれば早く行こーぜッ」
言うなり、京一は傍らの緋勇の手を掴んだ。
「蓬莱寺…っ」
慌てたような声を上げる緋勇に構わず、京一はそのまま走り出す。
「ちょっと、待ってよ京一ッ!」
慌てて後を追ってくる小蒔に木刀を持った手を振って、京一はつられて一緒に走っている緋勇ににやりと笑いかけた。
「アイツ、さっきの奢り話、覚えてると思うか?」
「さっきのって…ああ、ラーメンを奢るってあれ?」
「そうそう、けど、色々あっただろ?こうやって走って、止めに気を逸らして誤魔化すんだよッ」
緋勇は、一瞬の沈黙の後、堪え切れぬといった風に吹き出した。
「蓬莱寺、それ、ちょっとせこくないか?」
「いいんだよ、あんな男女に奢る金などねェっての!」
「こら〜!京一、今、何か余計なこと言っただろーー?」
「おうおう、地獄耳〜」
「なんだとう―――ッッ!」
小蒔が一段とスピードを上げて追いかけてくる中、京一は掴んだ緋勇の手を少し強く握りしめる。
「いくぜッ!」
返ってきたのは、呆れたような、けれど暖かな表情で。それが妙に嬉しくて、京一は少しだけ先刻の声の響きを忘れることが出来た。
目覚めよ――――――
その声に呼ばれる、自分の中の得体の知れない感覚のことも。
けれど、泣き出しそうな表情の緋勇と、それを見てこみあげた焦燥に似た想いだけは、なかなか消え失せてはくれなかった。
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