その翌日も良い天気だった。
京一が、珍しくも予鈴前に教室に辿り着いたのは、偏に昨日の件…風変わりな転校生が気になっていたからだった。
よくよく考えれば、転校早々学園の札付きに目を付けられてそれを返り討ちにし、総番と名高い男に興味を抱かせる人種などそうそう居ない。そう思っている京一本人が、男に興味を抱くという稀な行為で周囲を密かに驚かせているのだが、本人は気づいていなかった。
とにかく、退屈気味だった高校生活に降って湧いた面白そうなネタである。今日は帰りにでも行きつけのラーメン屋に誘い、じっくり話をしてみるつもりだった。
「あれ?京一?」
三階への階段で行き会った小蒔は、京一の姿を見て目を丸くした。
「…今日はい〜い天気なのに、こりゃ雪が降るかな〜」
「人の顔見るなり、そりゃどーゆー意味だ、小蒔」
「そりゃ、京一がこんな時間に来てるからに決まってるよ。どうしたのさ?何か悪いモンでも食べたとか?」
「…お前なぁ。日頃どーゆー目で俺を見てるんだっ!」
そう言いつつも、京一は自分がそう言われても仕方のないという自覚はある。何せ、普段の京一のモットーは出欠前に着席できればそれでOKだ。
「そりゃ、自分の胸に手を当てれば、思い当たることは沢山あるんじゃないの?」
「うっっ…」
自覚があるだけに有効な反論を返せずに、詰まる京一の背中から、楽しげな笑い声が響いた。
「ははっ、京一の一本負けだな。やはり日頃の行いは大事だっていう事だ」
「おはよ、醍醐クン。やっぱそう思うよね?」
「まあ、普段があれでは、な」
「てめェには言われたくねェぞ、醍醐。てめェだって昨日は一日、トレーニングルームに籠もってフケててだろーが!」
「ま、それはそうだが…気にするな、昨日は朝練のつもりが時間を忘れてしまってな」
「気にするなって言われてそうですかって頷けるかっ!」
「寝坊で万年遅刻常習犯の京一と醍醐クンじゃ、信用度が違うんだよッ…って、あれ?醍醐クン、今日は朝練は?」
小蒔の問いに、醍醐はこの男には似合わない、曖昧な笑みを浮かべた。
「あァ…昨日はやりすぎたからな。今日はやめておこうかと思ってな」
そう言いつつも、醍醐の目は泳いでいる。今のが本心からの言葉ではないことがわかる程度には付き合いは長い。京一は肩を竦めた。
「似合わねェぞ。妙な誤魔化しはよ。…で?ヤツは来てンのかよ?」
「なに?誤魔化しって…なんかあったの?」
小蒔が首を傾げた所へ、タイミング良く声がかかる。
「おはよう、みんな」
「あ、おはよ、葵」
「おはよう、美里」
「よォ、はえーな」
「何言ってんのさ。葵はこれが普通!早くておかしいのは京一の方だって言ってるじゃないか」
「はいはい、わーったよ、美少年。そーゆーことにしといてやらぁ」
「誰が美少年だっっ!」
「ふふふ」
いつもの軽口の応酬を笑いながら見守っていた美里も、今朝はどこか落ち着かなかった。ふとした折りに、視線が教室のあちこちに飛んでいる。それに気づいた小蒔が、再び首を傾げた。
「どしたのさ、葵?何か…気になることでもあんの?」
「ええ…緋勇くんはまだ、来ていない?」
「緋勇クン?」
一瞬きょとんとした小蒔が、すぐにしたり顔になって美里を肘でつついた。
「葵ってば、本当に緋勇クンのコト、気に入ったんだね〜。いやあ、目出度いッ。応援するよッ」
「ちっ、違うのよ小蒔!」
顔を真っ赤にして狼狽える美里に、小蒔は笑いつつもからかうことをやめない。ひたすら赤くなって何も言えない美里を見かねて醍醐が口を挟んだ。
「桜井…その辺にしておいてやれ。美里は本当に緋勇のことを案じているだけだ」
「へ?案じるって…なんかあったの?」
「まァな」
赤面したまま言葉もない美里に代わって、京一は昨日の一件を話してやった。
「そんなことがあったんだ…それで、みんな緋勇クンのコト心配してんだね。怪我…とかはなかったんだよね?」
「ばーか、俺様がついてるのに怪我なんかさせっかよ」
「うん、京一は普段はアホだけど喧嘩の技だけは凄いからね。そのへんは信用してる」
「おい、普段はアホってのはどーゆー意味だっ!」
「あはは、冗談だって。けど、佐久間クンをぶっ飛ばすなんて、緋勇クンて強いんだねぇ。あんまそんな風には見えなかったけど」
小蒔の疑問も尤もで、問題の緋勇龍麻は、背丈はあるが、佐久間と比べれば体格では完全に負けている。雰囲気も穏やかで、決して喧嘩慣れしている風ではない。
「まーな。ありゃァ見かけ通りのヤツじゃねーよ」
「ふーん。なんか、謎の転校生、だね。それで、珍しく京一が男の子を気にしてんだ」
「ふんッ」
「しかし…遅いな、緋勇は。もう予鈴だぞ」
確かに、予鈴前で教室内の人間は増えてきていたが、気になっている人間の姿だけは見えない。
「怪我…とかはなかったと思うのだけれど…」
不安そうに呟いた美里に、京一も教室も見回してあることに気が付く。
「そういや、佐久間のヤローも見えねェな。引っ付いている連中は来てるみてーだけど」
教室の片隅には、動くことも辛そうな様子で机に懐いている一団が居る。手加減していたとはいえ、昨日の今日で登校してきたことは誉めてやるべきだろう。
しかし、その中に佐久間の姿はない。
「まさか、また…」
美里の顔が不安げに歪む。
「それは…あり得ないとは言えんか」
醍醐の眉間にも皺が生まれる。諦めの悪い佐久間のことを誰よりも知っているのは醍醐だ。別れ際の様子から、佐久間があのまま引き下がらないであろうことは知っている筈だった。
「ちょっと、俺は見てくる」
「あ、私も…」
表情を固くした醍醐と美里が教室を出ようとしたそこへ、ひょっこりと噂の本人が顔を出した。
「おはよう」
左手で、鞄よりも大きな紙袋を抱えた緋勇は、醍醐達の不安など全く知らない顔で笑っている。それを見て、不安げに曇っていた美里の表情がぱっと明るくなった。
「おはよう、緋勇君」
「おはよう、美里さん」
「おはよ、緋勇クン。あ、その袋、もしかして!」
昨日の一件を見ていない小蒔は、醍醐達の危惧に今ひとつ実感が湧かないらしい。それよりも、緋勇の抱えた紙袋の方が気になるらしく、興味深そうにそれを覗き込んだ。
「それ、旭堂のパンでしょ?あそこのパン、美味しいんだよね〜」
小蒔の好奇に満ちた視線に、緋勇は笑って答えた。
「店の名前は覚えてないけど、朝、行きがけに転んで立てなくなってた人に行き会っちゃったんだ。近くだったから送っていったら、そこがパン屋さんでさ。えらく喜んでくれて、色々パンを分けてくれたんだ」
「うわ〜いいじゃん。ココのパン、美味しいんだよ!けど、うちとは反対の方向だから、朝はなかなか行きにくいんだよね〜」
確かに、紙袋からは食欲をそそる香ばしい匂いが立ち上っている。
きらきらと目を輝かせている小蒔に、くすりと笑って緋勇は尋ねた。
「桜井さんも、食べる?」
「食べる食べるッッ!緋勇クン、やっぱ君っていい人だねッ」
その様子には、緋勇の事を謎の転校生と評した事など、綺麗に忘れていることが傍目から見てもわかる。目を輝かせる小蒔の背後に、勢い良く振られている尻尾を見た気がして、京一は頭を抱えた。
「小蒔…お前にとっちゃ、食い物くれる相手なら誰でもいい人なんじゃねーの?」
「安心しなよ。京一には貰おうと思わないから」
「そういうコト言ってんじゃねぇ!」
「あ、もしかして自分も食べたいとか?駄目だよ、早い者勝ちだから!」
「……お前なぁ」
子供のようなやり取りを見ていた緋勇が、堪えきれないといった風に小さく吹き出した。
「蓬莱寺、心配しなくてもお前の分もあるよ」
「だっ、だからそーゆーこと言ってんじゃねぇ、っての。…けどまぁ、くれる、っつーモンは有り難く頂くけどよ」
「…京一、それじゃ桜井のことはとやかく言えないぞ?」
「だーっ、だから、小蒔と一緒にすんなって!」
軽口の応酬をこなしつつも、京一は緋勇の顔をこっそり窺ってみる。
穏やかに笑うその表情からは、昨日の名残は感じられない。やはり、見た目からは、喧嘩慣れした札付きを軽くあしらってしまう実力者だとは信じられなかった。
「もうすぐ授業始まっちゃうけど、そんな良い匂いしてるんだから一個だけ、味見しない?」
「お前なァ…俺はそこまでは言わねェぞ?」
「あ、なんだ。やっぱ京一要らないんだ?」
「誰がそんなこと言ったっての!」
小蒔の懇願めいた眼差しに、緋勇は笑って袋を差し出した。
「良いよ、好きなだけ」
「わッ、ありがと!」
「小蒔…お前の食欲にゃ、負けるわ、俺」
「なんだよッ」
「おや?違うってのか?美少年」
「美少年って言うなッ。あんふぁもふぁべふぇるでふぉ!」
「やはましー。おまへほろふってねへほっ」
「お前ら…どっちもどっちじゃないのか?」
お互い、パンを頬張りつつでは睨み合いもコメディにしか見えない。呆れて醍醐は口を挟んだが、当然、それを聞く二人ではない。
「…二人とも、そろそろ先生が来てしまうわ」
苦笑に近い笑みを浮かべて二人のやり取りを見守っていた美里にやんわりと注意を促され、その時点でやっと京一は我に返った。
(た〜ッ。しまった。こんなことしてー訳じゃねーのによッ)
意識してやっている訳ではないのだが、小蒔と話しているとどうしてもいつもの調子になってしまう。これでは話をするどころではない。やはり最初の目論見通り、話は後にした方が良さそうだった。
放課後、それぞれの目的地へ散っていく生徒の中で、京一は緋勇に声を掛けた。
「おいッ、緋勇ーッ。待てったらッ」
「蓬莱寺。どうしたんだ?」
呼びかけると、穏やかな眼差しが振り返る。そういやコイツ、いつもこんな顔だなと思いつつ、京一は目的を告げた。
「へへへッ、一緒に帰ろうぜッ」
「ああ、それは構わないけど…蓬莱寺、剣道部って言ってなかったっけ?部活は良いのか?」
「あんなモン、毎日やってらんねーって。高校生活は短いんだからエンジョイしねーとな!」
胸を張って言う京一に、緋勇はくすりと笑った。
「剣道部のヤツには悪いけど、丁度良かった。俺も頼みたいことがあったんだ」
「頼みたいこと?」
「俺、こっちに越してきたの3日前なんだ。ちょっとばたばたしててさ。引っ越しの片づけとかはなんとか済ませたんだけど、ここらへんさっぱりわからなくて困ってんだ。良かったら、ざっと教えて貰えたらって思って」
「なんだ、そんなことか」
頼み事、と言われて少々身構えていた京一は、あっけなさに拍子抜けした。それに、目的を考えれば、こっちからお願いしたいような頼み事でもある。
「いいぜ、ガッコの回りなら、縄張りも同然だかんな。どこでも案内してやるって」
「そりゃ、頼もしいな。よろしくお願いします、蓬莱寺先生」
戯けた風に頭を下げる緋勇に、京一は鷹揚に頷いた。
「おう、任せろッ!そうと決まりゃ、はやいトコ行こうぜ…実はな」
声を潜めた京一に釣られるように、緋勇も前屈みになる。
「この時間、学校帰りの子羊ちゃんたちがたむろしてる穴場があんだよ」
「…蓬莱寺、そういう所を案内して欲しい訳じゃないんだけど…」
「いいっていいって。知ってて損のない情報だろ?」
本当は予定通り、行きつけのラーメン屋の王華に行くつもりだったのだが、あえてそう言ってみる。緋勇の反応を見てみたかったのだ。
自信たっぷりに言う京一に、緋勇は仕方ないなという風にくすりと笑った。
「わかった。お願いするよ」
「おっ、付き合い良いじゃねーか。んじゃ早くいこーぜッ」
頷いた緋勇に気を良くした京一が、薄い鞄を手にした時だった。
「緋勇・く・んッー!一緒に帰りましょッ!」
天敵の声を耳にして、京一は飛び上がりそうになる。
「げッ、アン子ッ!!お前なァ…いつもいきなり出るなッ!心臓にわりィだろーがッ!」
しかし、アン子はそんな京一の反応など全く気にしていなかった。
「昨日は余計な邪魔が入っちゃったからね〜今日こそ、取材…じゃなくて、親交を深めない?」
「おいッ、アン子ッ!人を無視すんなッ!」
「あらッ、京一、いたの?」
「いたの?じゃねェッ!!はじめからいるだろーがッ」
「京一、あんたカルシウム足りないんじゃない?大の男が細かい事ウジウジ言わないの」
突如現れて、人のことを完全に無視して置いて―――しかも、確信犯っぽい―――これである。京一は脱力を隠せなかった。
「お前なァ…」
「ねえ、緋勇君。昨日の事なんだけど…」
アン子が口にした言葉に、京一は驚く。
(げっ…コイツ、昨日の一件知ってんのか?ったく、毎回どこから嗅ぎつけてくるんだか…)
しかし、京一の疑問は、アン子の次の言葉であっさり氷解した。
「昨日、あの後あいつらと…緋勇君―――何があったの?」
(なんだ…緋勇が連れ出されるトコを見たのか…)
何となく安堵する京一とは裏腹に、アン子の真剣な眼差しに曝された緋勇は、曖昧に笑って首を振った。
「別に…何もないよ。大丈夫、ちゃんと話はついたから」
「ふーん、一体、どんな話のつけかたしたのかしら…」
アン子の探るような眼差しにも、緋勇は曖昧な微笑みを崩さない。諦めたようにアン子は息を吐いた。
「まッ、緋勇君が言わなくても、あいつらの姿見ればだいたい想像つくけどね」
確かに、彼らの歩くのも辛そうな様子を見れば、何があったのかは一目瞭然だろう。
「でも…緋勇君って、見かけによらず凄いのね。あいつらだって結構ケンカ慣れしてるはずでしょ。それを一人で倒しちゃうなんて」
「あの〜俺もいたんですけど」
さっきから全くアン子の視界に入ってない京一が、一応の自己主張を試みる。しかしやはり、アン子の視界には京一は入っていないようだった。なにやら考え込んでいる。
その目が、異様な輝きを放ち始めたのに気づいて、京一は嫌な予感に捕らわれた。
「………よしッ、決めたわ。緋勇龍麻、強さの秘密ッ!!次の見出しはコレよッ!」
案の定、アン子はぽんと手を打ってそう言い出した。ここであっさり頷くとろくな事にならないことを、京一はよ〜く知っている。
「―――というワケで、チョット、今から取材させてね」
「なにが、というワケで、だッ!俺達は忙しいんだよ。興味本位の野次馬に付き合ってるヒマはねェよ」
「あら、別に京一に付き合ってくれとは言ってないわ」
「お生憎サマ、俺達、これからラーメン食いに行くのッ」
「あんたねェ―――ラーメンとあたしの取材と、どっちが大事だと思ってんのッ!」
「ラーメンッ!」
間髪入れずに断言した京一に、流石のアン子もうっと詰まる。
「ったく、断言しないでよね。緋勇君も、このアホに付き合うことないのよ?」
話を振られて、緋勇は幾分悲しげな顔になって首を振る。
「いや…付き合ってくれっていうのは俺が頼んだんだ。だから、今日はちょっと。ごめんな、遠野さん」
いきなり謝られて、アン子の方が逆に慌てる。
「やだ、別に緋勇君を責めてるワケじゃないのよ?…緋勇君って、やさしいのね。こんなアホを庇うなんて。でも、無理しなくていいのよ?嫌なら嫌って言わないと。ラーメンなんかより、あたしと喫茶店でお茶でもどう?」
「アン子、諦めろよ。俺達はお前と違って美食家だからな」
「雑食なだけでしょッ」
口を突っ込む京一を一喝すると、アン子はちらりと緋勇に視線を投げた。相変わらず、少し眉を寄せている顔を見て、深く溜息を吐く。
「…もういいわ。二人で勝手にラーメン屋でデートでもしてなさい」
「へへッ、そうさせて貰うぜっ。残念だったな、アン子」
アン子の撃退に成功した京一は機嫌良く笑ったが、アン子の方はそれではおさまらない。
「あーあッ。どっかにおもしろい記事転がってないかしら…生徒会の副会長の汚職はこの間取り上げたしなァ。学校に、怪盗からの予告状とかテロリストとか来ないかしら…」
その、あまりにも現実離れした希望に、京一は呆れて声を上げた。
「あのなァ…ここは中近東じゃねェんだから」
「あッ、あんた、辻斬りでもやってみない?そこらへんの不良狙ってさ」
「お前、俺を犯罪者にするつもりかッ」
「ふんッ、意気地がないわね」
「そういう問題じゃねェだろ…」
「仕方ないわね…。違う方面を当たるか」
「ホント、ごめんな」
すまなそうに言う緋勇に、アン子は笑って手を振った。
「いいのよ、実は追っかけてるネタはまだあんの。新聞記者たる者、ネタ切れは禁物だからね」
「はん、お前のこった。どーせその辺のくだんねぇ色物ネタじゃねーの?」
「うっさいわね!あんたには関係ないでしょッ」
睨み合う二人に挟まれた緋勇は災難である。困ったように双方を見比べていたが、取りなすようにアン子に尋ねた。
「その…どんなネタを追いかけてるのか、聞いてもいいかな?」
京一とのやりとりに気を取られて、緋勇の存在を忘れそうになっていた事に気づいたアン子が、慌てて緋勇に向き直った。
「そ、そーね。今一番新鮮なのは旧校舎ネタかしら。怪奇現象、とかね。そーゆーネタは読者受けすんのよね」
「旧校舎ぁ?お前も物好きだな〜。あーんな今にも崩れちまいそうなボロに興味持つなんてよ」
「遠野さん、旧校舎って、そんなに色々噂があるの?」
緋勇の口振りは、ちょっと興味を持ったといった風な何気ないものだった。しかし、その中に何かを感じて、京一は咄嗟に緋勇の表情を窺う。案の定、穏やかな表情の中で、目だけが真剣な光を帯びていた。
(そういや、昨日も…)
緋勇は、旧校舎をずいぶんと熱心に眺めていた。
しかし、アン子はその緋勇の様子に気が付かなかったようだった。
「その辺は乞うご期待、よ!その内記事にするから楽しみにしててね。っと、こうしちゃいられないわッ」
杏子は思い立ったらの行動は早い。
「緋勇君、今度はこのアホのいない時にゆっくり話しましょッ。じゃあねッ」
手を振って出ていく後ろ姿に、京一はからかい半分に声を掛けた。
「アン子、まっすぐ帰れよッ。腹いせに下級生なんて襲うんじゃねェぞ―――ッ、どわッ」
間髪入れずに飛んできた黒板消しが、派手な音と埃を撒き散らして机に当たって落ちる。辛うじて避けたものの、舞い上がった埃の被害は免れようが無く、京一の制服に白い洗礼を残した。
「ったく、あの乱暴者がーーッ。思いっきり投げやかって…真っ白になっちまったじゃねーかッ」
緋勇が笑って、派手に粉の飛んだ上着に手を伸ばした。
「あ、悪ィ……おい、何笑ってんだよ」
上着を払いながらも、緋勇が堪え切れぬという風に笑っているのを感じ、京一は眉を寄せた。
「別に、何も」
そういう声も、やはり笑いを含んでいる。
「…じゃ、なんで笑ってんだよ?」
「気のせいだよ」
楽しげな緋勇の言葉に同調するように、知った声が背後から降ってくる。
「まったく、お前は見てて飽きん男だよ」
すぐ後ろに、醍醐が笑みを浮かべて立っているのを見て、京一の眉間の皺が更に深くなる。
「醍醐…なんだ、お前ッ。いつからそこに…」
「そうだなァ…げッ、アン子―――のあたりからか」
「お前な―――それじゃ助け船くらいだせよッ」
「はははッ。悪い悪い。見てたらあんまり面白かったんでな」
緋勇は既に笑いを隠していないし、醍醐は完全に面白がっているのを見て取って、京一は更に膨れた。
「チッ、どいつもこいつも…お前部活じゃねェのかよ。それともついに格闘技オタクの部長が部員の首でも折って、レスリング部は廃部にでもなったか?」
「ははは、残念ながら、まだだ」
「ふんッ」
「そうだ、京一。ちょっと、緋勇を借りていいか?」
名前を出された緋勇が、驚いたように目を見開いた。
「え?俺?」
「あァ、緋勇。ちょっとな」
そういう醍醐の顔には、さっきとは違う種類の笑みが浮かんでいる。その様子に京一はぴんとくるものがあった。
「はは〜ん…なるほどな」
「何がだ?」
惚けた表情で問い返す醍醐に、京一は息を吐いた。
「昨日の事だろ。ったく、とぼけるなよ。どーせお前はウソのつけねェヤツなんだからよ」
「何のことだ?」
「お前が、そうやってニヤニヤしているときは、プロレスを観てるときか、ウソついてるときしかねェだろッ。お前、昨日の一件、最初から見てやがっただろう。大方、俺と佐久間がやり合うのを見るつもりだったんだろうが…」
自ら格闘技オタクを自認して憚らない醍醐が、大方勝敗の見えている勝負を、試合代わりに鑑賞しようとしていたことは想像に難くなかった。或いは佐久間への戒めもあったのかもしれないが、そこへ予想外の要素が加わり、すっかり興味を惹かれたのだろう。
「こいつ―――緋勇の技に興味を持った…そんなトコじゃねェのか、醍醐」
京一の指摘に、醍醐は苦笑して肩を竦めた。
「……まったく、お前には驚かされるよ。それだけ頭がキレながら、学校の成績は最悪だっていうんだからな」
「お前なァ、ホめるかけなすか、どっちかにしろッ!それに、最悪ってのはナンだ、最悪ってなァ…せめて、思わしくないとか、芳しくないとか、言えッ!」
「ははッ、俺は良い友達を持ったよ」
最悪とまで言われて、良い友達呼ばわりされても嬉しくはない。それだけ、理解されているのも事実だが、到底素直には喜べない。
「ふんッ、やかましいッ」
むくれる京一を余所に、醍醐は緋勇に向き直った。
「まァ、そこまで判ってるなら話が早い。緋勇、そういう事なんだ。すまんがちょっと俺に付き合ってくれないか?」
緋勇は、小さく首を傾げて頷いた。
「そりゃ、付き合うのは構わないけど…」
「そうか…話の判る男で助かるよ。じゃ、ついてきてくれ」
醍醐は、傍目から見てもはっきりと判るほど喜々として歩き出した。恐らく、レスリング部の部室あたりで、緋勇に勝負を挑むつもりなのだろう。
(こりゃ、面白れーモンが見られるかもな…)
醍醐のことを言えない。京一はそう気づいて苦笑いを浮かべた。純粋に、武を嗜む者としての血が騒ぐ。
そんな京一の思惑を知らない緋勇が、歩きながらそっと話しかけてきた。
「なぁ、蓬莱寺。付き合うって、まさか…」
「お前の予想は当たってると思うぜ?言っただろ?タイショーは格闘技オタクなんだよ。強そうな相手や、珍しい技を使う相手には目がねェの」
「………」
何とも言えない表情で、緋勇が息を吐いた。その、複雑そうな顔に、京一は少し心配になって尋ねた。
「もしかして、迷惑か?」
「いや…その、気持ちはわからなくはないんだけど…」
「じゃ、なんだよ?」
「俺、まだここに通いはじめて二日目だよなぁ」
「それがどーかしたか?」
「なんか、毎日帰り道でこういうことやってる気がする…」
独り言のように呟く緋勇の表情は浮かない。
確かに、転校早々毎日こうも汗くさい事をやっていれば、嘆きたくもなるだろう。その気持ちは京一にも良くわかる。しかし、醍醐の気持ちもわかる京一としては、なんとか取りなすしかない。
「ま、タイショーは純粋に勝負を求めてんだ。アイツは強ェし、後をひくようなヤツじゃねェことは保証すっから、遠慮なくやってくれ。どっちにせよ、骨は拾ってやっからよ」
京一の、あまり慰めになってない言葉に、緋勇はもう一つ、深く息を吐いたのだった。
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