Moonshine <Pray and Wish.>
← BackNext →
Episode 05 瓦礫に埋もれた楽園


  ただ純粋なだけ。
  ただ盲目なだけ。
「黒い魔人」


「こら! 遠くに行っちゃ駄目って言ってあったでしょ!!」
 昼食の時間に遅れて戻ってきた少年を、母親は開口一番そう怒鳴りつけた。
「でもぉ。ゆきお君が、山のてっぺんでオバケを見たって……」
「バカ! 言うことを聞かない子は、黒い魔人に喰い殺されちまうよ!!」


 晃司が目を覚ましたとき、既に太陽は真南に昇っていた。傍らでは、まだ漣がすぅすぅと寝息をたてている。起こさないように気をつけながらそっと立ち上がり、彼は部屋を後にした。
 表へ出ると、少し肌寒かった。オーバーリアクション気味に身体を震わせ、
「冬が近いもんな……」
 と、建物の前に座り込んで煙草を吸っていた香織に話しかける。
「と言うより、もう冬よ」
 香織はつまらなさそうに答えた。
「かもね」
 苦笑し、晃司もその隣に座り込んだ。

 自警団の者達と協力し、飯村達の死体を森に埋め終えた頃には既に陽が昇ろうとしていた。弔いたかったというわけではない。町に住む子供達に、死体を見せたくなかっただけだ。自警団の人間は快く協力してくれた。
 香織の診療所で行われていた取引について、薄々と住民達も気付いていたようだった。香織には申し訳ないと思いつつも、生きていくためには仕方がなかったのだと、自警団の班長格の男性は語った。
 飯村達の持ってきていた品物の仕入れ元が晃司であり、リベートとして香織の身体を要求するような取引が彼の望むところではなかったと知り、自警団の者の中には涙を流すものさえ居た。
「そうだと判っていたら、俺があいつらを殺してやったのに……!」
 そんな声の一つ一つが、晃司に重くのしかかっていた。

「美咲ちゃん……」
 呼びかけた晃司の口に、香織は吸っていた煙草を突っ込んだ。
「ゲホッ!? ちょ、いきなり何……」
 急なことに、思わずむせながら煙草を吐き捨てる晃司。地面に落ちた煙草を香織は拾い上げ、再び口にくわえる。
「その名前は捨てたの。今の私は綾瀬香織」
「……そっか。じゃ、香織ちゃん。今まで、何があったんだい?」
「色々あったわ」
 そこで香織は煙草を吸った。肺で転がすように味わい、そしてゆっくりと紫煙を吐き出す。
「って言いたいとこだけどね。実は大したことはなかったかな。たまたまこの街に流れついて、医者まがいの事をやったり、それに必要な物資を仕入れるために娼婦まがいの事をさせられたりして毎日過ごしてる。それだけ」
 後半はやや自虐的な口調で、香織は吐き捨てた。
「……医学の知識があったんだ?」
「まさか。外傷の治療は神霊術で出来るし、爺さん婆さんには栄養剤やら湿布を渡して喋り相手をするだけでほとんどは事足りるし、誰か風邪をひいたら風邪薬。ややこしい時は、症状と薬の効能に関する専門書とを照らし合わせて……ってその程度よ。ただ、メジャーな漢方薬や薬草なんかの効用については、咲夜家である程度教えられてたけどね」
 そこまで一気に喋り、香織は小さくため息をついた。
「もぐりの医者にしては上出来だよ」
「お褒めにあずかり、光栄ね。それより晃司さん、あなたの知っているこれまでの状況を教えてくれる?」
「あぁ、そうだね……」

 『光の夜』による意識の消失から晃司が目覚めたとき、傍らには漣の姿があった。
 すぐに仲間を探しに行ったのだが、まず見つけた風間は理沙の率いる部隊に捕まっており、救出にも失敗。妻の洋子を人質に取られた事もあり、半ば軟禁に近い状態になっている。このとき、志帆が理沙側についた事を知った。
 やがて咲夜狩りが始まった頃、二人は小十郎と再会した。小十郎は樹華と共に咲夜家の生き残りを集め、自治領軍からの逃亡生活を続けていた。咲夜検知フィールドからは樹華の力で逃れているらしい。
 小十郎は、自治領軍と戦うために晃司の力を借りたいと言った。
「条件付きだけど、戦闘は手伝うよ。ただし、行動は共にしない」
 それが晃司の答えだった。そして条件とは、自治領軍から強奪してきた、食料や医薬品などの物資を分けて貰う事だった。
「その物資をね。困っている人に届けたかったんだ……」
 そう言って晃司はうなだれた。それが、香織のような被害者を産むことになるとは思いもしなかったのだ。
「で、その他の人は?」
「拓也とシェラの行方は判らない。それと、音々ちゃんは月に向かったきり音沙汰がない」
「月!? なんでまた……」
 香織がすっとんきょうな声をあげた。音々にしてみれば、月はある意味で敵地のまっただ中とも言えるだろう。そんな所に行く理由が判らない。
「祈りシステムが発動する直前に、樹華さんが言ったらしいんだ。橘花に逢ってこいって」
「ふーん……」
「あと、拓也が持っていたはずの桜花咲夜も行方不明。後になって知ったんだけど……」
 風間の話によると、桜花咲夜は祈りシステムの発動を補助する役割もあったのだが、これは所定の位置にセットされてなければいけないというものではなく、システムの核となる詩織の近くに有りさえすれば良かったらしい。一度は志帆によって持ち出された桜花咲夜だったが、それが拓也の手に渡ってシステムの中央部にまで持ち込まれ、予定通りの役割を果たしたのだそうだ。
「もっとも、桜花咲夜無しでも、システムはちゃんと発動しただろうけどね。それくらいに、詩織ちゃんは完璧に役目をこなしたんだって……」
 と、そこまで話してから、晃司は「しまった」と思った。香織の、詩織への気持ちを考えると、この言い方は酷だったかもしれない。
 案の定、香織は暗い表情でうなだれていた。
「ごめ……」
「ちょっとね。見て欲しいものがあるの」
 そう言うと、晃司の返事を待たずに香織は屋内へ戻っていった。晃司も慌ててその後を追い、中へ入る。
「あ、香織ちゃんに晃司くん。おはよう」
 ちょうど起きたところだったらしい漣が、目をこすりながら二人の方へ近づいてきた。
「あぁ、おはよう漣。あ、香織ちゃん! 彼女も一緒にいい?」
 無言ですたすたと歩いていく香織の背中に尋ねる。
「漣も一緒においで」
「うん」
 香織を追いかけて二人は階段を登っていく。一階から二階、二階から三階へと。
 きちんと部屋割のされていた二階までとは違い、三階はフロア面積の大半を占める広間の片隅に、後からとって付けたような壁で仕切られた小部屋があるだけだった。広間には、大小さまざまのダンボールや機械が乱雑に置かれている。元々は倉庫か作業所と、それを管理する事務所としてでも使われていたのだろう。小部屋はガラス張りになっているのだが、厚いカーテンに閉ざされて中は見えなくなっている。
 香織は無言のまま、小部屋の扉へと歩いていく。晃司と漣もそれに続いた。
「この中に何があるんだい?」
 重い空気を振り払おうとでもするように、晃司が尋ねた。
「見れば判るわよ」
 香織はぶっきらぼうにそう答えると、ポケットから取り出した鍵で、扉のロックを外した。
 扉が開き、中の光景が目に入った瞬間、晃司と漣は絶句した。
 6畳ほどの部屋の中央には、セミダブルのベッドが一つだけ置かれていて、その上に横たえられて居たのは――
「詩織ちゃん?!」
 見覚えのある姿。だが、何か違和感がある。
「……いや、違う。こ、これは義体じゃないか!」
「違う! 彼女は詩織よ!!」
 香織が叫ぶ。これまでの感情を押し殺した口調とは違い、その声には有無を言わせぬ迫力があった。
「祈りシステムを発動させた後、詩織はこの身体に乗り移ったの! だって、これはそのためにあったのよ! だから詩織はここにいるの!」
 そんな香織の剣幕に、晃司は背筋が寒くなるのを感じていた。今の香織は我を失っているようにしか見えない。
「わ、判った。じゃあ、今この義体に宿った詩織ちゃんは、どういう状態にあるんだい?」
「……判らない。あたし、こういうのは苦手だから……」
「で、僕に見てみろって訳だね?」
 晃司の問いに、香織は無言で頷く。
「OK。と言っても、僕も工学系は少しかじった程度なんだけどね……」
 風間の研究の手伝いをしていた頃を思い出しながら、義体の衣服を脱がしていく。はっきり言って役に立っていたとは言い難いが、それでも貴重な経験をさせて貰っているのだという実感は当時からあった。
 状態かなりひどい。右腕が失われているのは一目見たときに気付いていたが、衣服を脱がせていくにつれ、全身のあちらこちらが激しく損傷して内部機構が露出しているのが見て取れた。中でも、左右の脇腹を何かが貫通したような跡が際だっている。人間なら即死だろう、だが……
「メンテナンス用の端子は……ここか」
 左手首を覆うカバーの一部が簡単に外れるようになっており、その下にはいくつかの端子が備え付けられている。
 義体の本来の目的は、祈りシステムによって精人化した詩織が、己の肉体の代替品として宿るための触媒である。その場合、肉体の死と詩織の消滅が同義であるとは限らないはずだ。
『言ってみれば、パイロットが乗り込むためのロボットみたいなもんやな』
 風間は、義体についてそう言ってのけたことがある。その言葉を借りるなら、ロボットが壊れていてもパイロットが死んでいるとは限らないはずだ。香織の拠り所も、おそらくはそういったところだろう。
「この形状だと……漣、車から僕のノートパソコンを持ってきてくれる? あと、LAN用のケーブルと」
「うん」
 小走りに漣が階段を駆け下りていく。
「晃司さん。あたし良く判らないんだけど、何かソフト類が必要なんじゃないの?」
「風間さんの設計思想から考えると、メンテナンス用のソフトウェアは義体内部に内蔵されていると思うんだ。でないと、そのソフトが手元に無い環境でメンテナンスが必要になったときに困るからね。ただ、操作用のインターフェースと、モニタリングする機器までは内蔵できない……となると、よくあるパソコンと簡単に接続できるようにしてあると思ってたんだ。この端子から見てもそうだと思う。問題は、OSがダウンしていないかどうかだね……」
「よく分からないから、任せる……」
 しばらくして漣が、ノートパソコンを小脇に抱えて戻ってきた。
「これでいい?」
「OK。んじゃ、見てみようか……」
 ノートパソコンと義体とを手際よく接続し、晃司はノートパソコンの電源を入れた。ハードディスクがカリカリと音をたて、しばらくしてOSが起動する。
「えーと、義体側のOSも生きてるみたいだ。うん、やっぱりメンテナンス用のソフトウェアが用意されてるみたいだね。とりあえずこっちのハードディスクに引っ張ってきて……っと」
「なんか晃司さん、楽しそうね……」
「晃司くん、こういうの好きだから」
 漣が苦笑する。
「うーーーん」
 うめきながら、晃司はノートパソコンの電源を切った。
「どうだったの? 詩織、治りそうなの?!」
「OSそのものは稼働していたんだけど、何らかのハードウェアレベルの要因で、思考回路から運動系の回路へと信号が伝わっていないみたいだ……」
 晃司の言葉に、香織はしばらく考え込み、
「それって、植物人間って事?」
「ま、そう考えてくれても差し障りはないと思う」
「じゃ早く治してよ!!」
 だが、晃司は力無く首を振った。
「……僕じゃ無理だ」
「そんな!!」
「だから、設計者に会いに行こう」


 初めにその報告を聞いたとき、志帆はため息混じりに報告書をシュレッダーにかけたものだった。
 だが、その目撃例の数は決して少なくなる事はなく、志帆の直属の部下の中にも目撃者が現れ始めていた。
 黒い魔人。
 いわく、自治領軍の一中隊をたった一人で壊滅させた。
 いわく、自治領軍の基地をたった一人で破壊した。
 いわく、自治領軍の一個師団をたった一人で皆殺しにした。
 最初は咲夜家に与する者かと思われたがそういう訳でもないらしい。自治領軍の兵士ほどではないが、咲夜家の残党の方でもいくらかの被害は受けているらしい。だが、その素性を知る者はなく、いつしか人々から『黒い魔人』と呼ばれ、恐れられるようになったのだという。一種の都市伝説と言ってもいいだろう。
 そしてつい先ほど。黒い魔人に遭遇しながらも、運良く殺されずに戻って来れた志帆の部下は、彼が目にした黒い魔人についてこう語った。
「強大な神霊術と、壮絶の一言に尽きる剣技を操る、漆黒のロングコートに身を包んだ男でした」
 その特徴を聞いた志帆の脳裏に、鳳拓也の姿がよぎった。直感で物事を判断するのは危険だが、確信があった。黒い魔人の正体は、彼女の知っている鳳拓也だと。
 しかし、その目的が判らない。咲夜詩織を失った事が理由なら、その矛先を自治領軍へと向けてもしょうがない。あれは咲夜家の所為だ。それに、他の仲間は一体どうしたというのだろうか。
 だが、これを聞いたら理沙はどう思うだろうか?
 かつて、理沙と拓也は師弟関係にあったと聞く。その弟子が、師である理沙に刃を向けている。これが、理沙を再燃させる契機になりはしないだろうか……


「だから、設計者に会いに行こう」
 晃司がそう言った直後、外でけたたましく鐘の音が鳴り響いた。
「じ、自治領軍が責めてきたぞーーー!!」
 男が叫ぶ声が聞こえる。
「……話は後だ! 外の様子を見に行こう!!」
「うっ、うん!」
 三人が外へ飛び出すと、街の子供や老人達が自警団の若者に引き連れられて、診療所の前に集まっていた。診療所のすぐ前にある広場が、緊急時の避難所になっているからだ。
「ヤス! 自治領軍は!?」
 香織に呼び止められ、ヤスと呼ばれた若者が振り返る。
「一個師団が総出で、この先10kmに布陣してます! あいつら、本気でこの三郷をつぶす気ですよ!」
「くそっ、あいつら業を煮やして物量作戦で来たって訳ね……」
 下唇をかみしめ、香織は拳を握りしめる。
「香織ちゃん、勝ち目はあるのかい?」
「あるわけ無いじゃない! 今まではせいぜい、2〜3小隊くらいが関の山だったからなんとかなったけど……いきなり一個師団なんてむちゃくちゃよ!」
「先生、もう俺達、降伏するしかないんすかね……」
 ヤスが呟く。
「悔しいけど、そうするしか無いかもね……」
「いやいや全く多勢に無勢っすからね、うんうん」
 聞き覚えのある声が、老人達の中から聞こえた。
「えっ……、この声」
「ういっす!」
 晃司の呟きに応えるようにひょこんと顔を出したのは、咲夜小十郎だった。
「どうしてここに!?」
 その問いに、漣が右手を挙げた。
「あ、私が夕べ、メールしておいたから。元・咲夜美咲さんがここにいるって」
「いやいやいやいや。見知った人に会えるとなればこのさ……」
 そこで口ごもり、
「……小十郎、たとえ山の中水の中。火の中は熱いからパスですけど。おっひさしぶりです、美咲さん」
 と、小十郎は右手を差し出した。咲夜という名前を出すのはためらわれたらしい。そんな小十郎の右頬を、香織は拳で殴りつけた。
「その名前であたしを呼ぶな!」
「す、すんません……」
 少し涙目で小十郎が謝る。
「夕べメールしておいたって……やけに早い到着じゃないか?」
「メール読んで、すぐにバイクを飛ばして来ましたからねぇ。ちょうど僕、京都の方に行ってたもんで、今朝早くにはここに着いてたんすよ」
「けど、アンタ一人増えたところで変わりないけどね」
 冷たく香織が言い放った。確かにそのとおりだ。数が違いすぎる。
「僕もそう思うんすけどね。みさ……香織さんに逢えるっつーから急いで来てみりゃ、軍は来てるわ殴られるわでギャフンって感じっすよー!!」
「役立たず……」
 口ではそう言いながらも、香織は小十郎のことが嫌いではなかった。ある意味では桜花を神と崇める狂信者の集まりだった咲夜家において、小十郎のアウトローぶりは気持ちのいいものだった。直接の知り合いではなかったが、気にはかかっている存在だったのだ。
 とりあえず四人は診療所の中へ入った。咲夜家関係者が二人も居る状況で、住民が集まっている前で込み入った話をするのは、これ以上は避けたかったからだ。
「小十郎君、こっちに向かってる自治領軍の事、何か分かるかい?」
 晃司がそう尋ねるが、小十郎は首を振った。
「いや、さっぱりですねぇ。道中、居るのは判ってたんですけど迂回しましたし」
「役立たず!」
 香織が小十郎の頭を小突く。
「痛いなぁ……。だいたい僕は熱血暴走型なんすから、頭脳労働は嫌いなんすよ。ややこしいことは晃司さんにお任せっすから」
「じゃ、晃司さん! 何か策はないの!?」
 晃司は無言で考え込む。そしてしばらくして、
「防衛ではなく、攻撃に転じるための戦力が、三郷にどれくらい有る?」
「……ぜんぜん無いわね。強いて言えば、晃司さんとあたしと小十郎。漣さんは戦力って感じじゃないし」
 香織も漣の出生は知っている。知ってはいるのだが、強い霊力を持っていることと戦力として期待できるかはまた別物だ。
「どっちにせよ、話にならないな」
「術戦闘に持ち込めない?」
 割り込んで来たのは漣だった。いや――
「漣ならともかく、私なら力になれると思うけど?」
「桜さん!」
 そこに立っていたのは、漣ではなく桜だった。同じ肉体を持っている二人なのに、顔つきはまるで違う。どこか遠くを見ているような漣と違い、桜の鋭い目つきは見る者に威圧感さえ与える。
「漣が呼ぶもんだから、久しぶりに起きてきたんだけど……」
「でも大丈夫なんすか? 桜さんが、橘家の当主になるはずの人だったってのは知ってるんすけど……」
 不安げに小十郎が尋ねる。
「単純に霊力だけで考えれば、私と香織さんだけじゃ厳しいかもね。けど、こっちには晃司君が居る」
「……僕ですか?」
 言わんとしている事を察し、晃司が渋い表情を見せた。
「もうそろそろ、安全圏に引っ込むのはやめなさい。漣も、あれで結構複雑な心境みたいよ」
「僕はあんまり、血なまぐさいのは嫌いなんですよ。でも、そうまで言われたら仕方ないですね……やりましょう」
 そこに至って、ようやく小十郎は気付いた。
「あ、ひょっとして精霊術っすか?」
「ご名答よ、小十郎君。あれは神霊術や魔術にとっては、天敵みたいなものだしね」
「あの力か……」
 香織も一度だけ目の当たりにしたことがある。自分の放った術を完全に無効化した、精霊術という力を。
「向こうにいるのは橘家の術者だろうから、私がある程度無効化させるわ。残りを晃司君が弾き返したり、香織ちゃんが術を放ったりして」
「そうですね。追い払う事くらいなら出来るでしょうね。でもその後は……」
 一度や二度、撃退したところで数が違いすぎる。それに、晃司達もいつまでもここに居る訳ではない。
「住民みんなで夜逃げするしかないわね。でも、このまま人間ごと制圧されちゃうよりはマシでしょう?」
「あの、ところで僕はどうしましょ?」
 ただ一人、何も役目を与えられていない小十郎が居心地悪そうに手を挙げた。
「何かあった時に備えて、私たちの側で待機」
「……へーい」
 小十郎が生返事をした直後、晃司がポンと手を叩いた。
「それと荷物持ちもよろしく」

 自治領軍が進軍を始めたとの報告が入ったのは、それから30分後の事だった。
「到着までの予想時間は約10分。早くなることはあっても遅くなることはないだろうね」
 晃司はため息混じりに通信機のスイッチを切り、斥候からの情報を一同に伝えた。その情報を伝えた斥候は、既にバイクで三郷へ向けて撤退している。
 四人は三郷から街道沿いに2kmほど離れた地点で待機していた。
 この街道は、自治領軍が三郷へ向かうには必ず通らねばならない道で、かつてはドライブのコースとしても人気があったという。だが、今はこの近辺に住んでいる人間は居ない。ここなら、どんなに戦闘が拡大しても被害は少なくて済むだろうと判断したからだ。また、ただでさえ往復一車線ずつの二車線しかない道幅が、山を切り開いた地形の都合でさらに狭くなる地点でもある。数で圧倒的に勝る自治領軍も、ここでは広範囲に部隊を展開することは困難であるというのも、この場所を戦場に選んだ理由である。
「香織さん、準備はいいわね?」
「ええ。覚悟は決めたわ」
 そう言う香織の表情から、諦めの感情は感じ取れない。
「いい顔ね」
 桜がにこりと微笑む。
「もう一度確認しておくわよ。私が合図をしたら、爆発系の術を立て続けに三発、目標めがけて発動。ただし、術の内容は微妙に異ならせ、インターバルは五秒以内。OK?」
「判ってるわ。こっちの術者の力量を印象づけるため、でしょ?」
「そのとおり。二度目の合図以降は臨機応変にね」
 言い換えれば、あとは出たとこ勝負というわけだ。はっきり言って、策でもなんでもない。
「とりあえず一時でもいいから撤退させればこっちの勝ちよ。力勝負に持ち込まれれば勝ち目はないわ。もし、そうなりそうなら……」
「……三郷は捨てて、しっぽを巻いて逃げるんでしょ?」
 苦々しく答える香織。
「そうだよ。死んじゃったら何にもならないからね」
 そこに晃司が苦笑混じりに割り込んだ。その横では、義体を背負った小十郎がうんうんと頷いている。晃司の言った『荷物持ち』とはこのことだ。
「無条件降伏すれば、住民の安全は保障されるだろうけど、僕らは違う。僕達三人は」
 そう言いつつ、晃司は桜と小十郎をそれぞれ指さし、
「……既にお尋ね者だし、香織ちゃんにしたって捕まれば身元は割れる。無事で済むわけがない」
 きっぱりとそう言い切る。確かにそのとおりだ。自治領軍にとって香織は、綾瀬香織という名のモグリの医者ではなく、咲夜美咲という咲夜家の中心人物の一人でしかない。
「どのみち、もう三郷には戻れないって事でしょ」
「そういうこと。それに義体を直さないといけないしね」
 晃司の言葉に、香織は小十郎の背負っている義体に目をやる。
 そうだ、詩織を救わねばならない……。
「来たわ!」
 桜が叫んだ。慌てて香織も身構え、桜の視線の先に目をやる。四人がいる地点へと緩やかに下ってくる長い坂道の頂上に、確かに人影が見える。
「まだよ……まだ引きつけて」
 桜の言葉に、香織は生唾を飲み込んだ。
 意識を研ぎ澄ませ、霊力を集中していく。十秒か、あるいは十分か、無限にも思える時間が流れていく。
「今よ!」
「爆雷弾!」
 香織が突き出した右掌に、ハンドボール大の光球が産まれ、視線の先へと放たれていく。その間にも次の術のための霊力を集中させ、
「炎爆波!!」
 続けざまに突き出した左拳から、深紅の光が産まれる。その直後、最初の術による爆発が、遠く離れた敵集団のど真ん中で起こった。
「桜式爆風陣ッ!!」
 そして三つ目の術を解き放つ。遠目にしか判らないが、自治領軍が進軍していたアスファルトから爆炎が巻き起こり、兵士達を飲み込んでいった。
 桜も同様に、立て続けに術を放っている。こちらは連続して五発。
 距離があるせいで詳しくは判らないが、自治領軍が激しく混乱しているのは確実だった。坂の向こうへと部隊が引き返していく。
「……やったの!?」
 肩で息をしながら、香織が叫ぶ。しかし、桜は厳しい表情で首を振った。
「まだよ。いったん坂の向こうで態勢を立て直し、次は術戦闘要員のみでこちらへ来るわね。これからが本番よ」
 桜の言葉通り、数分後には再び自治領軍は坂を越えて進軍してきた。
「射程ではこちらに利があるけど、この距離じゃ威嚇にしかならないわ。晃司君、出番よ」
「判ってますよ……」
 渋々といった調子で晃司が前に歩み出る。
「香織さん。晃司君が、敵の術を弾き返した直後に、香織さんも術を発動させるのよ。さっきも言ったけど私は相手の術を無効化させるから、攻撃は二人に任せるわ。その一撃が決まるかどうかで勝負が決まるわ」
「……つまり、結局は僕にかかってるって訳ですね」
 相手の術を逆手に取る場合にこそ最大限の力を発揮する、という精霊術の特性を活かすにはどうしても後手に回る必要がある。だが、その一撃を防ぐのに失敗すればその時点で終わりだ。
 自治領軍の術戦闘部隊が、早足でこちらへと向かってくる。呼吸の乱れは霊力の集中を妨げるため、彼らが決して走ることはない。せいぜいが今のように早足程度だ。
「いつ見ても、大人数で一斉に早足する光景ってマヌケっすよね……」
 小十郎が軽口を叩くが、皆がそれを無視した。
 やがて、なんとか互いの人数が数えられる程度の距離で、敵兵達の足が止まった。霊力が集中されていくのが判る。個々の力量では美咲や桜の敵ではないが、数十人が束になると決して侮れない。彼らから陽炎のように発せられていく光が、次第に収束して強い光になってゆく。
 そして彼らが一斉に掌を突き出すのと同時に、その光は矢のように四人の方へと放たれた。その直後、
「波層衰陣」
 桜の術が発動し、蒼く輝く無数の糸が産まれた。その糸は網の目のように広がり、敵兵達の放った光の矢を包み込んでゆく。
 桜の放った網に阻まれ、矢の輝きが失われていく。しかし、消滅したわけではなかった。網をかろうじて突破した光の矢は、晃司達の方へと一直線に突き進む。
「霧雨の緑っ!」
 そして晃司の精霊術が発動する。光の矢は晃司達の周辺で熔けるように霧散し、その直後、新たな光となって晃司の手に集中してゆく。
「雷光槍!」
 最後に、香織の術と晃司の光がほぼ同時に放たれた。二つの光が、それぞれ別の軌道を描いて、敵の術者達へと襲いかかる。激しい光と爆音の後、その場に立っている者は一人として居なかった。
「これで敵の術者部隊は全滅したはずよ」
「んじゃ、後はずらかるだけっすかね?」
 何の見せ場もなかった小十郎が、桜の言葉に目を輝かせた。だが、桜は表情を緩めずに首を振った。
「敵が撤退してくれればね」
「普通に考えるなら、術者が全滅してまで進軍するとは思えないから大丈夫だとは思うけど……」
 晃司がそう補足する。いくら数で勝ろうとも術者が居なければ、遠距離から術で狙い撃ちされればただのカモに過ぎない。こちらにもう少しちゃんとした術者の部隊が有れば、この機に追撃にかかることさえ、今ならば可能な状況だった。
「もう少し様子を見ましょう。そんなに慌てても……」
 その時、いきなり周囲が暗くなった。決して周りが見えない訳ではなく、太陽も空に輝いている。たとえて言うならば、サングラス越しに見る光景のようになってしまったのだ。
 思わず桜が言葉を失う。何らかの術が発動したものかもしれないが、ここにいる四人は何もしていない。
「……何が起こってるんだ?」
 怪訝そうに晃司が呟いた直後、坂の向こうで爆発音が響いた。慌てて四人が坂の方に目をやると、坂の向こうからこちらへ向かってくる集団が見えた。どう見ても統制がとれている様子ではない。まるで何かから逃げているようだ。
「行ってみましょう」
 桜の言葉に、他の三人が頷く。再び爆音が響いた。
 坂を登って頂上に近づくにつれ、周囲の闇はより一層濃くなっていった。まるで霧の中にいるかのように、自分のすぐ近くにいる者がかろうじて見える程度だ。
「みんな、離れない方がいい!」
「言われなくたって判ってるわよ、晃司さん」
 香織が答えるが、その言葉に余裕は感じられない。
 時々、自治領軍の兵士とすれ違ったが、話を聞こうと掴まえる前に見えなくなっていた。深追いして他のメンバーとはぐれる訳にはいかない。
 この状況に、晃司は心当たりがあった。
(確か彼女の一族が得意とするのが……)
 だが確信が持てない。それに、これが彼女の仕業であれば、自分たちと敵対する相手ではないはずだ。
 思案する晃司に、一人の男が真正面からぶつかってきた。
「おっと」
「ヒィィィッ!!」
 軽くよろけた程度の晃司とは対照的に、その男は腰を抜かしてその場に崩れ落ちた。
「みんな、ちょっと待ってくれないかな」
 晃司の声に、他の三人も立ち止まった。
「やっと掴まえたよ。聞かせてくれ、坂の向こうで何があった?」
「こ、殺さないでくれ!!」
 晃司の問いも耳に入らないのか、男は歯をがちがちと鳴らせて震えるばかりだった。
「ちょっとは人の話を聞いてくれ! 僕らは君を殺すつもりはない!!」
 晃司は、男の顔のすぐ前に自分の顔を近づけ、大声で叫んだ。その剣幕に、男の目が大きく見開かれる。
「僕らは君を殺すつもりはない。坂の向こうで何があった?」
「く、黒」
 だが男の口は、言葉の続きの代わりに、なま暖かい粘液を晃司の顔に浴びせた。
 それが男の血だと晃司が気付くよりもわずかに早く、聞き覚えのある声が男の背後から聞こえてきた。
「よう、晃司じゃないか。何やってんだよ、こんな所で」
 闇の中から浮かび上がって来たのは、拓也の顔だった。黒いコートや手袋は闇に紛れ、唯一肌が露出している顔だけが見える様は、まるで壁に掛けられた仮面のようだ。
「拓也!? こんな所で何をやってるんだ!?」
「何って……見りゃ判るだろ?」
 そう言って拓也はニヤリと笑った。
 それはどこか病的としか思えない、不気味な笑みだった。
「……いや判らないか。判らないよなぁ? くっくっく……」
 笑い声が消え、
「くくくく……」
 次の瞬間には晃司のすぐ背後から、その声は聞こえてきた。
「くくく……」
 そして晃司の頭上から、
「くくく……」
 すぐ耳元から、
「くくく……」
 足下から、
「くくく……」
 遙か遠くから、拓也の笑い声が無数に響く。それはあたかも、闇そのものが笑っているようだった。
「詩織が俺に頼むんだよ……早く戦争を終わらせてくれって」
「そんなバカな! 詩織ちゃんは……」
 もう死んだはずだ。
「俺があいつらを殺すとな、詩織が俺の事を誉めてくれるんだよ。殺せば殺すほど、詩織は暖かく俺を包んでくれるんだ。そして俺は詩織の胸の中で眠るんだよ。なぁ晃司、これって快感だぜ……」
 晃司達の目の前に広がっていた闇の一部が薄くなり、両手に刀を握った拓也の姿が浮かび上がった。
「もっと殺して。拓也さん」
 新たな声が、闇の中から響いてきた。
「ほら聞こえただろお前達。よかったな、詩織の声を聴くことが出来て」
 その声は晃司もよく知る声だった。だがその声の持ち主は……
「シェラ!!」
 晃司の叫び声に応えるように、褐色の肌を持つ女性が闇の中から姿を見せた。
「さあもっと、もっと、もっと……」
 拓也の背後に立ったシェラは、囁くように呟きながら、拓也の首筋に己の腕を絡めた。
「もっと、もっと……」
「ああ判ったよ詩織。その通りだよなぁ」
 そして二人の姿はかき消え、闇はその濃度をさらに増していった。
「拓也! シェラ!!」
 駆け出そうとした晃司の肩を桜が掴んだ。
「……動かない方がいいわ」
「桜さん!!」
「動かない方がいいよ、晃司君……」
 震えながら声を発したのは、桜ではなく漣だった。
「母様、気が動転してたからまた眠って貰ったの。最後に、ここを絶対に動かないほうがいいって……」
 確かにそうだ。何が起こるか判らない以上、下手に動くのは得策ではない。
「ところで晃司さん。今の女の人、知ってるんすか?」
 小十郎が尋ねる。
「あぁ、小十郎君は初対面だったよね。彼女の名前はシェラ・峰誼といって……」
 そうして晃司は、シェラの事を小十郎に話した。
「峰誼家の術者は、直接的な戦闘用の術よりも、精神面に関わる術を得意としているんだ。物質的な力は皆無に等しい分だけ、その影響範囲はきわめて広い。おそらくは僕らが見ているこの闇も、シェラが産みだしたものだと思う……」
「そんじゃ、さっき師匠の様子がおかしかったのも、そのシェラって女の人の仕業って事っすかね?」
「その可能性は高いだろうね……」

 やがて闇が晴れたとき、そこには既に拓也とシェラの姿はなく、自治領軍兵士の死体と、彼らの流した血で赤く染まった道路が広がっていた。
「こんな……こんな事って……」
 ぽつりとそう呟きながら、晃司はある噂を思い出していた。
 いわく、自治領軍の一中隊をたった一人で壊滅させた。
 いわく、自治領軍の基地をたった一人で破壊した。
 いわく、自治領軍の一個師団をたった一人で皆殺しにした。
 その腕に黒い魔女を抱き、血の海と死体の山を、笑いながら踏み越えていく。
 悪魔とも、英雄とも、化け物とも呼ばれ、人々の間で囁かれ続けている、名前そのものが都市伝説と化した存在。
 その名を、黒い魔人という。

To be continued.
← BackNext →

もどる 掲示板 てがみ感想はこちらまで