Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 04 祈り、光降る夜


  彼女も光。闇夜を照らす淡い月。
  地球の側で回り続ける、夜にだけ出逢える優しい光。
「愚直な者たちの祭典」


 その日、京都地区を埋め尽くしていたのは、完全武装の兵士達だけではない。世界各地域から大勢の人間が詰め寄せていたのである。
 発端は、一月ほど前から広まり始めた、ある一つの噂話だった。
 月政府軍は月面から地球を攻撃する兵器を完成させた。5月10日、その兵器によって首都・日本地区が攻撃される。
 が、京都にある咲夜家という術者の一族の娘が、その祈りの力で兵器による攻撃を防ぐ。京都、もしくは京都に近いところに居れば、その兵器から逃れられる。そういう噂だ。
 その話は静かに、だが確実に広まっていった。具体的な日時、名称を伴っていたことがその信憑性を増したのだろう。こうして、京都地区とその周辺の地区には、平時の人口の20〜30倍もの人間が集まって来ていたのである。
 その噂によって初めて、咲夜家という名前が表舞台で知られるようになった。
 噂からいくつもの事実が明らかになっていく。政治、経済、報道、過去の歴史、あらゆる所に見え隠れする咲夜の名。地球全域を陰から支えてきた一族。
 畏怖、嫌悪、感心、人々の反応は様々であった。だが、咲夜家は今、月による攻撃から地球全土とその住民を守るためにその力を費やしている。雑誌やテレビなどのメディアにも、静香を始めとする咲夜家の人間が姿を見せ始めた。
 そうして作られていく、真摯で誠実な、それでいて王者としての威厳を兼ね備えた咲夜家のイメージ。
 大多数の人間は、その全てが咲夜家による情報工作だとは気づかなかったのである。


 西暦2021年5月10日、月曜日。19時12分。

 風間たちは完全に足止めを喰らっていた。
 風間たちを包囲していたのは傭兵部隊ではなく、地球政府軍の正規兵だった。気配を巧みに殺し、時には挑発するかのように姿を見せる。それに反応して動こうものなら、他の兵士がそれを察知して攻撃を仕掛ける。
 岩陰に潜んだまま、そこから一同は動けずにいる。戦況は膠着していた。
「まずいな……」
 春日が呟く。敵の目的が時間稼ぎだと判っていて、それに乗らざるを得ないこの状況は非常にまずい。時間が失われていくこともそうだが、敵の指揮官の計算通りに動かざるを得ない事の方が大きい。この先の策を相手が持っていないとは思えない。
「政府軍まで動員しているなんて……」
 それは無いと確信していただけに、志帆の動揺は大きい。
 咲夜家と政府軍が協力関係にあることは判っていた。現に、志帆の依頼で政府軍を動かした事だってある。だが、そこに信頼関係があるわけではない。祈りシステム発動の護衛ともなると、咲夜家の手勢だけでやるだろうと思っていたのだ。
 不安そうに皆の顔を見回す漣の髪を、樹華が優しく撫でた。
「大丈夫だよ」
「……うん」
 なんとかしなければならない。
 皆がそう思っていたとき、銃声が響いた。岩陰から身を乗り出して、音のした方に目をやる。
 そこに、江藤理沙が立っていた。
「そこに居るんでしょ? お祖父様」
「理沙か……」
 もうずっと顔を見ていないが、それでも判る。幼い頃の面影が残っている。
「見事な指揮じゃな」
「おじさまの教えの賜物よ」
 しゃべりながら、互いに顔がよく見える位置まで近づく。
「自分の両親を殺した男を『おじさま』か……」
 春日の長男で、彼女からすれば伯父にあたる男、春日明。かつて春日からその技と知識の全てを受け継ぎ、やがて挫折とともに狂気に身を委ねた。
「明から何を教わった?」
「全てを」
 短く答え、理沙は笑みを浮かべる。勝ち誇ったような、それでいてどこか挑発的な笑みだ。
「……あいつはどうした?」
「私が殺したわ。父さんと母さんの復讐の手始めにね」
「手始めじゃと?」
「そう。両親を殺したのはおじさまだけど、おじさまを狂わせたのはこの戦争のせいよ。そしてこの戦争が咲夜家と橘家の出来レースだと言うのなら、私はそれをぶち壊す」
 理沙が刀を抜いた。
「誰にも邪魔はさせないし、他の誰にもやらせはしない。あたしが世界に君臨するために」
「ならば、儂がそれを止めてやろう……。百合もそれを願っているじゃろう」
 春日も身構える。
 そして沈黙。
 刀は抜いたものの特に構えるでもない理沙と、腰を落とし気味に構えを取る春日。互いに対峙したまま、一歩も動かない。
 やがて意を決したかのように春日が跳んだ。老人とは思えないスピードで、理沙との間合いを一気に詰める。が、春日が技を繰り出すよりも速く、理沙の刀が春日の胴体を両断した。その瞬間、樹華が漣の目をふさぐ。
 鮮血と共に春日の腰から上が宙に舞った。
「……こぉ……じぃっ!」
 それが春日の最期の言葉となった。上半身が地面に落ちるより先に、理沙が返す刀で首を斬り飛ばす。
「春日さんっ!」
 飛び出そうとした風間の肩を樹華が掴んだ。
「君まで殺される……」
「邪魔者はすっこんでなさい」
 風間たちが潜む岩に向け、理沙はそう言い放つと、部隊を率いて去っていった。
 完全に気配が消えたのを確認し、樹華は風間の肩を掴んでいた手を離した。と同時に風間がその場に膝を落とす。
「………俺は何も出来んのかっ!!」
「弔ってやろう……」
 拳を握りしめ、樹華が言った。それしか今はできなかった。


 西暦2021年5月10日、月曜日。19時57分。

「何とか間に合ったようだね……」
 咲夜本家へ向かう山道の麓で、晃司は安心したように溜息をついた。
「あぁ、なんとかな。それにしても、あの軍隊の数はなんだったんだ?」
 大阪地区から奈良地区へ向かうときにも、地球政府軍が交通規制を行っていて時間を喰ったが、奈良地区から京都地区へ向かうときはそれ以上に規制が厳しく、車を途中で乗り捨てざるを得なかった。
「小十郎、あの軍は咲夜家が動かしているものだと思うか?」
「……どちらとも言えないっすね。システムの発動は咲夜・橘の両家の合意のものっすから、軍を動かす理由は無いはずなんすよ。けど、それ以外に理由は思いつかないし……」
「拓也に小十郎君、考えている時間はないよ。風間先生達はもう突入しているはずだ」
 晃司の言うとおりだ。残された時間は残り少ない。
「そっすね。まずは咲夜本家へ向かいましょうよ。ちょうど山のこっち側に有るし」
「ああ、詩織もそこに居るかもしれないしな」
 見上げる山には何の変哲もなく、ここが戦場になると判ってはいても現実感が無い。
「護衛の傭兵部隊が居るはずなんすけど……」
「たぶん、山の高いところに陣取っているんだろうな」
 山の麓を固めるより、その方が兵力を密集できるからだ。
「どうでもええけど、早いトコ行かんでええの?」
「私も音々さんに賛成……」
 音々と義体が口々に言う。確かにこんな所で時間を無駄にするわけにはいかない。
「そうだな。小十郎、道案内を頼む」
「ういっす!」
 小十郎が先頭になって、五人は山道を登っていく。人の気配はまったく感じられない。
 しばらく歩くと、長い石段の下に出た。
「この石段の上に咲夜本家が有るっす」
 小十郎が指さす先には、確かに大きな建物が見える。神社か寺のような雰囲気がしなくもない。石段の脇には灯籠に灯がともっており、それが無ければ薄暗くて視界が確保出来ないだろう。
「……居るぞ。とりあえず灯籠の陰、下手すりゃそこらの森の中にもな……」
 拓也が呟く。
「なんで判るんすか?」
「灯籠の影の形がおかしい」
 拓也の言うとおり、灯籠の影の形が妙に膨らんでいる。
「固まりすぎると危険だ。音々ちゃんは拓也と、義体さんは小十郎君と。僕は森の中からサポートする。四人が門を突破したら、そこからは一緒に動くんだ。僕も後から行く」
 晃司の言葉に拓也は頷く。
「判った。音々、ちびるなよ?」
「やかましい!!」
 音々が拓也を殴ろうとしたが、拓也はあっさりとそれを避けた。
「俺と音々で先陣を切る。1分したら小十郎達も来い。行くぞ音々!」
「よっしゃ!」
 拓也と音々が石段を駆け上がる。それと同時に、灯籠の陰に隠れていた雇兵達が次々と姿を見せる。ざっと見ただけでも、50人は下らないだろう。晃司も森の中へと消えていった。
 小十郎から奪った桜花咲夜を握りしめ、拓也は敵部隊へと突っ込んでいく。まずは一番近いところに居る、刀を構えた女雇兵へと狙いを定める。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 中段から、その雇兵の首を狙って刀をやや振り上げ気味に繰り出す。相手は刀でその一撃を受け止めたのだが、桜花咲夜はその刀ごと彼女の首を斬り捨てた。鮮血が噴出するその死体を、拓也は石段脇の森の中へと蹴飛ばす。
「まず一人ぃっ!」
「スプラッタ…」
 拓也の戦い方をそう評しながら、音々は敵兵の利き腕を掴み、折った。次にもう片方の腕も掴み、肩を抜く。
(やっぱりうちに人殺しはできへん……)
 晃司にはそれが判っていたのだ。だから晃司は拓也にこだわった。今となってはそれが判る。これは戦争だ。こういう資質を持つ人間でないとならない時もいずれ来るだろう。
 襲いかかって来た別の雇兵に、一番効果的なタイミングでカウンターを喰らわせ、そのまま後頭部を地面に叩きつける。このパターンだと、ほぼ確実に脳震盪を起こさせることが出来る。
 思えば、春日は人殺しの仕方を教えてはくれなかった。常に護身、もしくは相手の戦力を奪うことに徹していたように思う。だから晃司には銃の使い方を仕込んでも、音々には触らせようともしなかったのだろう。
 また別の雇兵が振り下ろしてきた刀を避け、その刃を足で踏み折る。逃げようとする相手の腕を掴み、背負い投げの要領で石段に叩きつけ、腕を折る。
 すぐに次の雇兵が背後から迫って来る。振り返りざまに回し蹴り……などと考えていたら、拓也がその雇兵を一刀両断した。
 小十郎達も下から駆け上がってくる。もう一分が経過したようだ。晃司も先頭に突入したらしく、森の中から銃声が聞こえてくる。
「音々、全滅は狙わなくていい。邪魔な奴だけ始末して、まずは上まで駆け上がるんだ。 残りは小十郎達に任せておけばいい!」
「よっしゃ、判った!」
 森の中からもぞろぞろと雇兵が現れる。やはり晃司一人ではさばききれないようだ。
「まずは道を開く……」
 呟き、拓也は桜花咲夜に込める霊力を強めた。刀全体が白く発光を始める。
「空無斬!」
 石段の角度と平行に、拓也が桜花咲夜を振った。刀の軌跡に沿って、込められた霊力が光の刃を作り、石段の上の方まで滑るように飛んでいく。その刃によって、軌跡上に居た雇兵達のほとんどの上半身と下半身とが分離した。
 そうして開いた道を、拓也と音々が駈け登っていく。
 拓也達に手を出さない方が無難と判断したのか、残った雇兵達は小十郎と義体へとその標的を変えた。
「師匠〜、ちょっとは引きつけてやろうとか思わないんすか!?」
 小十郎のそんな叫びは、既にはるか上の方を走っている拓也までは届かない。
「じゃぁ、下がってて」
 一瞬だけ立ち往生してしまった小十郎に、義体はそう言い捨てると的の集団との距離を一気に詰めるべく走り出した。霊力を込めた左右の拳が、ぼんやりと光り出す。
(……この違和感はなんだろう?)
 何だかよく判らないが、小十郎はそんな義体の姿に奇妙な引っかかりを感じていた。
 疑問は以前から抱いていた。この義体に宿っているのは、桜花が21年と少し前……1999年に産んだ瑠璃奈という名の女性だということは、志帆から聞いて知っている。が、その瑠璃奈は産まれてすぐに眠りにつき、そのままずっと目を覚ましていないと聞いた。ならば、彼女の人格はどこで形成されたのだろう?
 赤子は周りの言葉を聞き、それを真似ることで言葉を覚えるという。彼女はどうやって言葉を覚えたのだろう?
 そして今感じている違和感は、彼女の戦いぶりだ。どこでこんな戦い方を覚えたというのだ? 動きそのものは咲夜家で教育される体術に近いが、小十郎がこれまで見た中でも1・2を争う技のキレだ。現にこうして眺めている間にも、一撃一殺で敵をなぎ倒していく。
 その動き、術の使い方、どれをとっても一級品だ。彼女が目覚めてからまだ数ヶ月だとは思えない。
 駈け、跳び、術を放つ。その戦い方は「華麗」の一言以外で表しようがない。まるで新体操でもするかのように、義体は次々と死体の山を築いていく。
「おっと、遅れちゃいられない!」
 義体の後を追って石段を駈け登る。考えるのは後からでも充分だ。
 小十郎が石段を登りきるのと、晃司が森の中から姿を現したのはほぼ同時だった。
「無事だったようだな、晃司」
「まぁね。こんなところでやられる訳にはいかないよ」
 拓也が拳を差し出し、晃司がそれを軽く小突く。
「小十郎、詩織が居そうな所に心当たりはないか?」
 石段を登りきって判ったが、この館は異常なまでにだだっ広い。門から見える庭だけでも、ちょっとしたグラウンドくらいの広さが有るように見える。当てずっぽうに探していては間に合わないかもしれない。
「……庭を突っ切った先に本堂が有って、そこをまっすぐ抜けたら詩織さんと美咲さんの部屋がある建物が有るんすよ。たぶんそこじゃないすかね?」
「すでにシステムの元へ居る可能性も否定できないよ」
 晃司が言う。
「手分けしよう。俺はそいつと音々を連れて、その建物へ行く。晃司は小十郎と一緒に、システムの所へ直行してくれ」
「判った。システムの前で会おう」

 美咲の動きを封じている術者達の様子は、今日に限って少し妙だった。既に交替の時間は二時間ほど過ぎているはずなのだが、今日は未だに来ない。
 術者の顔にも疲労の色が見て取れる。
 祈りシステムの方に術者を割いているせいだろう。システムの発動に必要な霊力の源として、また発動を補助するためのサポート要員として、咲夜家の術者のほとんどが動員されるはずだ。
 何か計画を練っているわけではない。とにかくここから逃げ出し、詩織の許へ行き――
 そしてどうするというのだ? 詩織はきっと運命を受け入れているだろう。逃げようと言ってそれに応じるとは思えない。無理矢理にでも連れて逃げるか? おそらくは詩織に抵抗されるだろう。それは判っている。
 最後に一目だけでも逢いたいのかもしれない。そうすれば、その後で自分がどうなろうとかまわない。詩織のいない世界に、何の意味があるだろうか。
(あいつは詩織をさらっていったくせに……)
 詩織の心を掴みきれなかったんだ。あんな奴はあてに出来ない。あいつがここに来るとは思えない。あたしがなんとかしなくちゃいけない。
 そうだ。生まれてきた時が一緒ならば、死ぬときも一緒だ。あたしは詩織から離れて生きてはいけない。結果はどうなるにせよ、詩織の側に居たいだけなんだ。
 心を決め、美咲はゆっくりと立ち上がった。見張りの術者達の間に動揺が走るのが感じとれる。
 まずは美咲の術を抑え込んでいる、この結界を破ることからだ。時間はもう、あまり残されてはいない。

 何かが激しく爆発したような音が、中庭脇の廊下を走っていた晃司達の耳に入ってきた。音のした方を見ると、庭を挟んで向かいにある小屋の半分以上が、爆発でもしたように吹き飛んでしまっている。ダイナマイトでも仕掛けられたのだろうか。
(……そんな訳はないか)
「あの建物は何なんだい?」
 小十郎に尋ねてみるが、
「えーと……」
 首を傾げる所を見ると知らない、もしくは覚えていないらしい。全ての建物について知っている訳ではないのだろう。
 放っておくべきか様子を見に行くべきかしばし考え、すぐに後者を選択した。時間に余裕があるわけではないが、何が起きたのかが気になる。もしかしたらあそこに詩織がいるかもしれない。
「行こう。小十郎君」
「うっす!」
 中庭を走って横切っていると、小屋の残骸の中から這い出してくる人影があった。二人とも、その人影に見覚えがあった。
「美咲ちゃん!」
「あ、あんた……」
 美咲も二人に気付き、驚きを露にしていた。
「なんで晃司さんがここに居るのよ!? それに確かアンタ、志帆の弟の小十郎でしょ? なんで晃司さんと一緒に居るわけ?」
「僕らはシステムの発動を止めに来たんだ。詩織ちゃんの居場所が知りたい」
 美咲は答えない。
「……詩織ちゃんに危害を加えようとは思っていないよ。そんなことをしたら美咲ちゃんや拓也に何をされるか判ったもんじゃないからね」
 システムが詩織の存在を前提に調整されているなら、詩織を殺せばシステムの発動をとりあえずは止めることができる。美咲が誤解しているのではないかと思い、晃司はそう付け足した。
「……詩織の居場所は、あたしにも判らないのよ。ずっとここに閉じこめられていたから」
 美咲は首を振った。
「見当はつかないかい?」
「詩織には逃げる意志がないと思うから、たぶん自分の部屋だと思うんだけど……」
「それなら今拓也が向かっている。あっちはあいつに任せよう」
 おそらくは大量に配置されているであろう護衛と、そして詩織自身を、拓也がうまくやってくれればいいのだが……。
「じゃああたし達はどうするのよ?」
「システムへ向かおう。もし違う場所に詩織ちゃんが居たとしても、そのうちシステムの元へ来るはずだろ? 拓也との待ち合わせもそこだからね」
 詩織のことを他人任せにするのは気が引けたが、確かにシステム付近で待ちかまえる方が得策だろう。
「判ったわ」
「どこか隠れられそうな場所はあるかい?」
「……システム中核施設の入り口は一つだけで、護衛部隊はその近くに集結してるはずよ。逆に言えば、そこに至る山道そのものにはあまり数を割いていないと思うから、森の中に居れば見つかることはないと思う」
「道は一本道なのかい?」
「この館から向かう分にはね」
「それじゃ、僕らは先にそっちへ向かおう。ところで顔が汚れてるよ」
 小屋の残骸から這い出してくる際に汚れてしまったのだろう。泥だか埃だか煤だかが、美咲の顔だけでなく手足や服などいろんな所にこびりついている。慌てて服で顔を拭ったが、逆に汚れの範囲を広げることになった。思わず吹き出した晃司を美咲が睨み付ける。
「どっかに洗面所か何か無いかな? それくらいの余裕はあるだろうしね」

 小十郎に聞いた建物は、小屋と言うよりはちょっとした豪邸といってもいいくらいの大きさだった。その周囲は完全武装した傭兵達で溢れかえっている。
 さらに、入り口を固めるように、十数体の義体が立っている。今、拓也と一緒にいる義体と、外見の区別は付かない。
「なんだよ、あれ……」
「自動制御タイプ。単なるアンドロイド」
 冷静な、と言うよりは冷徹に、義体は短く言い捨てた。
「じゃあビビる必要はあらへんやん」
「戦闘用に特化されたプログラムを組んでるはずだから、侮れない。人間とは全く別次元の動きをする」
「……手こずりそうだな」
 拓也は溜息をついた。
「私が引き受ける」
「お前ならあいつらと同じ動きが出来るとしても、数の差はどうするんだ?」
「心配してくれるの?」
 そう言って義体は笑った。拓也が初めて見る、彼女の笑顔だった。
「貴方はいつも私のことを、『お前』とか『そいつ』って言うのね」
「……お前が名乗らないからだろ。ちゃんと名乗れば名前で呼んでやるよ」
 拓也はちょっと憮然とした表情を浮かべ、拓也はそう言った。
「貴方は私の名前を知ってる」
 そう義体は言うと、拓也の頬に軽く口づけた。
「……え?」
「きっとまた逢えるわ。詩織さんをお願いね」
 そして、次の瞬間には駆け出していた。その姿を確認した敵側の義体集団が、動きを揃えて一斉に飛び出してくる。
「どないするのん?!」
「……正面突破だ。あいつを信じる」
 音々の質問に対し、苦い表情で拓也は答えた。義体は死ぬつもりではないだろうか。そんな気がしていたのだ。
「判った。んじゃお先!」
 言うが早く音々が飛び出した。義体は義体に任せていた傭兵達も、各々の武器を構えて迎撃態勢に入った。
 やや遅れて拓也も潜んでいた物陰から飛び出し、音々の後に続く。
 数は約30人といったところか。こいつらを越えれば詩織に逢える。そう思うと、刀を握る手にも力が入る。どうしてこんな気持ちになるのかは判らない。が、どんな犠牲を払ってでも彼女に逢いたいという気持ちだけは強く自覚できる。
 俺はあいつを守ると誓ったんだ。だから傷つけてしまったことで、詩織が自分のことを恨んでいるとしても、それでも自分にできる限りのことをしたい。
 目の前では音々がすでに戦闘に突入している。己の五体をフルに使い、襲ってくる者達を撃退するその動きは華麗の一言に尽きる。
「雑魚には用はあらへんねや!」
 振り下ろされた刀を避けると同時に、足に霊力を込めて地を蹴った。その勢いで相手の鼻に膝蹴りを喰らわせる。速い。
(……あのとき、よく勝てたもんだ)
 拓也は初めて音々と逢った時の事を思い出していた。あの時は拓也の方が上手だったが……今にして思えば紙一重で勝てたようなものだったのかもしれない。
「ほら、とっとと行くで!!」
「あぁ!」
 そんな調子で建物へと向かう二人の前に、巫女のような装束に身を包んだ女性の集団が立ちふさがった。軽く見積もっても三十人ほどは居るだろう。
「……咲夜家の術者か?」
 そんな拓也の呟きを肯定するかの様に、彼女らが一斉に同じ構えを取る。揃って突き出された手に淡い光が宿ったかと思うと、それらは結界となって建物を半球状に包み込むように拡がっていく。外部からの侵入者を拒む術なのだろう。
「こういう術を破るのは苦手やねんけど……」
「だったら俺に任せろ!」
 拓也は桜花咲夜に霊力を込め、その結界へ斬りかかった。


 それより少し前、春日の埋葬を手早く終えた風間達も咲夜本家の敷地内へと進入していた。
 拓也達とは違い、正門ではなく通用門からの進入となったが、やはりそこも多くの雇兵が固めていた。
 樹華と由香が先陣を切って敵兵の中へ突撃し、乱戦へと持ち込む。志帆は漣の護衛兼、風間の制止役だ。
 春日の死のせいで、風間は明らかに我を失っていた。精霊術の使い手ではあるが、実践などほとんど経験したことがないくせに、樹華や由香に続いて突撃しようとしたがる。
「行かせろ! 俺にあいつらを殺させろ!!」
「駄目です!! 相手はプロ、あなたはただの素人じゃないですか!!」
「やかましい!! なんの覚悟もなしに、咲夜家にケンカが売れるか!!」
 そう叫ぶ風間の目は、明らかに正常ではない。
「春日おじいちゃんだったら、きっと止めるよ」
 漣がぽつりとそう言った。それまで志帆の制止を振り切ろうとしていた風間の動きがピタリと止まる。
「……せやな。漣の言う通りや……」
 憑き物が落ちたかの様に穏やかな顔で、風間は小さく呟いた。
「オヤジみたいに思っとったんや……」
 戦争で父親を亡くした風間にとって、春日は良き師であり、友人であり、戦友であり、、父親のような存在だった。十年以上、寝食を共にした家族でもある。
 そして、風間の仲間内では最初の戦死者となった。
「……もう大丈夫や。スマンな、取り乱して」
 どんなに酷い状況でも、冷静さを失ってはいけない。笑いながら物事を考えろ。
 初めて逢った日の夜、酒を酌み交わしながら春日はそう言って笑った。実の息子に娘を殺され、孫を誘拐されてからそう日が経っていないにも関わらず、だ。
「増援が来る気配が無いトコからして、先にここに攻め込んで来た連中が居るはずや。たぶん、晃司や樹華の息子どもやろ。まずはそいつらと合流する事やな」
「居場所は判るんですか?」
「敵の多いトコを叩けばええやろ。何にせよ、そこに何かがある」
 ちょうどその頃、通用門付近を固めていた傭兵部隊約二小隊を、樹華と由香の二人で全滅させたところだった。



 西暦2021年5月10日、月曜日。20時34分。

「詩織様、ここは我々が死守します! 奥の間へ!!」
 促されるままに、詩織は歩みを進める。逆らおうとはしない、従おうともしない。ただ、流れに任せるだけ。
「敵は十人程度だと言うのに、なぜこんなに苦戦するのですか!?」
「奴らが抱えている術者が強過ぎるんです!! 『祈り』まで時間を稼げれば……」
 来るはずがない……
 伝令が走ってくる。
「敵の二人が防衛線を突破!! まっすぐこちらへ向かって………」
 それ以上の言葉は要らなかった。術の発動による爆音、断末魔の絶叫、兵士達のかけ声。それらが徐々に近づいてくる。
 来るはずがない。
「鬼か、でなければ悪魔か……」
 兵の一人が呟く。
 来るはずがない。来て欲しくない。
 ……でも。
 詩織の目の前の障子の一枚が、どこからか吹き飛んできた兵士によって破られた。それを追うように若い男が飛び出してきた。
(……信じてた)
 そこに、拓也が居た。
 二人の間に、護衛の兵士が割って入る。
「詩織様!! 早く奥の間へ!!」
「詩織……」
 拓也が彼女の名を呼んだ。
「二人きりで話したい事がある。行こう」
「拓也さん……」
 護衛の兵士が次々と殺到して来て、二人を取り囲んでいる。
「詩織様!!」
 さっきと同じ兵士が、更に大きな声で叫ぶ。が、詩織はその場から動こうとしない。
 業を煮やした兵士が、懐から拳銃を取り出した。この距離なら拓也の防御術も無効化できる。詩織に気を取られていた拓也の反応が遅れる。そして――
 詩織がその兵士の後頭部を掴んだ。その直後、兵士の全身から力が失われ、地面に倒れる。兵士はぴくりとも動かない。
「……殺しました」
 その様子に、二人を取り囲んでいた兵士の輪が、少しだけ遠ざかる。
「私、いっぱい人を殺してるんです。橘家と戦うための訓練だって、戦争で捕まえてきた月政府軍の捕虜の人たちをたくさん、たくさん………」
 足下に倒れる兵士の死体を見つめながら、詩織は震えていた。
「身を守る手段として一番効率がいいのは、己の敵を殺すことだって……。自分の力をもっとも効率よく発揮するには、ためらわないことだって……。だから、物心ついた頃から、たくさんの人を……私は……殺しました……」
 過去の事を思い出す。

 まどろみの中、意識が明瞭になりはじめる。目が覚めたという意識と、まだ眠っていると感じる心が混じりあい、けだるいという感情に置き換えられる。が、その感情はすぐに「起きなきゃいけない」という義務感へと昇華し、詩織の身体を突き動かす。
 もうすぐ夜明けが来る。それまでに修行場へ行かねばならない。詩織はさっさと着替えを済ませて布団を押し入れにしまうと、足早に部屋を後にした。
 もはや夢のことなど忘れていた。

 玄関のところで、美咲と鉢合せになった。美咲と詩織は双子の姉妹で、一応は詩織のほうが姉ということになっている。
「オハヨッ!」
「おはよう美咲ちゃん、今朝は早いのね」
 いつもは美咲の方が五分ほど遅れて修行場へと到着する。今朝のようにに二人同時にということは珍しいことだ。
「違うよ。詩織が遅いんだってば」
「え?」
 慌てて詩織は玄関脇の置き時計に目をやる。確かにいつも見る時間よりも、若干針が進んでいる。その間に美咲は玄関の扉を開き、
「んじゃ、あたしは先に行くからね」
 言うが早く、修行場となっている神社へ向けて走り出した。
「あ、待って!」
 詩織も急いで靴を履き、その後を追って走り出す。先に走っていた美咲は、詩織が家を出てきたのを後ろ目で確認すると、走るスピードをさらに上げた。詩織も負けじとそれを追う。

 修行場に着いた二人を、母が待っていた。
「おはよう。それでは朝の修行を始めます」
 そう言った母の背後には、両手両足に電子ロックの枷をされた月政府軍の捕虜が十名ほど倒れている。倒れてはいるが意識は明瞭らしく、現れた詩織達を皆が一斉に睨み付けた。
「今から彼らの枷を外します。五分で片づけなさい」
『はい』
 詩織と美咲の声が重なる。
 母は頷き、手に持ったリモコンのスイッチを押した。
「私たち三人を殺せれば、あなた達は自由の身ですよ……」
 そうして、いつもの修行が始まる。

 いつからか詩織は、そんな生活をあたりまえだと感じるようになっていた。

 ある日、自分が祈りシステムにかけられる事が決まった。
 その事実は、静香と桜花から詩織に告げられたが、美咲には知らされなかった。それは親心だったのか、それとも詩織に何かがあったときの為の「候補」であることには違いがなかったからか……今となっては判らない。
 死は怖くなかった。ただ、その為の理由が欲しかった。
 だから静香に申し出た。システム発動までの数ヶ月の間、自由に旅がしてみたい、と。その間に、誰でもいいから、人を好きになりたかった。
 そうすれば、その人のために死ねると思った。

 泣きながら、詩織はそんな事を独白した。
「葉雪さんが言った通りなんです。誰でも良かったんです……ただ、理由が欲しかっただけで……」
「……言いたいことはそれだけか?」
 少し怒ったように拓也が尋ねる。
「どこにでも居る普通の女の子だと思って欲しかった。普通の女の子は人殺しなんてしたことないから、そんな訓練なんて受けてないから、自分をそんな普通の女の子として見せたかった。だから、今までの私は全部お芝居だったんです」
「うるせぇ! ぐだぐだ言わず、好きなら好きって言え!!」
 拓也の怒鳴り声に、詩織がハッと顔を上げた。
「それでも俺はお前の事が好きなんだよ」
「拓也……さん……?」
 微かに微笑み、拓也が手を差し伸べた。その掌に詩織の指が触れる。その瞬間、拓也は詩織の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「全部芝居だって言うけどさ。そうやって俺のために自分を飾ろうとするトコもひっくるめて、俺はお前が好きなんだよ」
 詩織の耳元でそう囁き、照れ隠しのように強く身体を抱きしめた。詩織の腕もそれに応えるように拓也の背へと回される。
「……拓也!! 熱いのはええけど、場所をわきまえぇ!」
 いつの間にか二人の側まで来ていた音々が大声で叫んだ。
「あぁ、後はずらかるだけだ!!」
 詩織の身体を放そうとした拓也を、今度は詩織が抱き寄せた。
「……拓也さん。私がここから居なくなったら、祈りシステムは発動しません。そうすれば、月から放たれた裁きシステムの力は相殺されずに、この大地に降り注ぎます。そうすれば深刻な被害が出ることになります。……大勢の人が死ぬと思います」
 そこで拓也の身体を突き放す。
「それでも………私をここから連れていけますか?」
「当たり前だろ。お前が居ない世界に俺は何の価値も感じねーよ」
 間髪入れずに答え、拓也は再び詩織を抱き寄せた。その言葉に迷いはない。
「さぁ、ずらかるぞ!」
 拓也が刀に霊力を集中させる。刀身全体が発光し、時々火花のように光が飛び散る。
「……に、逃げろ!!」
 誰かが叫んだ。それを皮切りに、拓也達を包囲していた兵士達が一斉に逃げ出す。残っているのは咲夜家直属の兵士や術士だけだ。
 と、そこで光が消える。
「じゃあな、あばよ!!」
 詩織の手を引き、拓也はその場から逃げ出した。何が起こったのかを理解できず、他の者は呆然としている。
「ナイスはったり!!」
 拓也の意図に気づいた音々が、感心したように声を上げた。その直後、
「そいつだけでも引っ捕らえろ!!」
 残された兵士・術士の矛先が一斉に音々に向けられる。
「ちょ、ちょっとなんやの!?」
 完全に包囲されてしまっている。逃げる余裕はなさそうだった。

 右腕は既にちぎれ落ち、視界も不明瞭になっている。霊子結晶機関の稼働効率もダウンしてきている。
 満身創痍の自分の身体を、義体は冷静に分析していた。残る敵は三体。
 拓也と詩織が脱出したのは確認した。これでいい。目的は達した。もうシステムが発動することはないだろう。
(間に合って良かった……)
 思い残すことはない、と言いたい所だが、せめて目の前にいる自分の模造品だけは破壊しておきたかった。
 そう考えたところで、自分も詩織の模造品に宿っているのだと気づき、自虐的に笑みを浮かべる。
 敵の一体が跳んできた。空中を滑るようにして一気に距離を詰める。人間にはおよそ不可能な動きだ。
 義体は上体をそらしてそれをよけるが、その勢いで背中から地面に倒れ込んでしまった。そこに別の敵が飛び込んでくる。右の手刀に霊力を込め、義体の心臓部を狙う。人間で言う心臓……そこには義体の動力源である霊子結晶とそれを制御する機関部がある。
 それを紙一重で避ける。彼女の計算通りだった。敵の手刀は深々と地面に突き刺さり、それを抜き出すまでのほんの僅かの間、敵の足が止まる。それで充分だった。霊力を集中させた手刀で、敵の心臓部を貫く。
「……残り二体」
「お前、何者だ?」
 義体が呟くのと、別の誰かが呟いたのはほぼ同時だった。
 声のした方に、一人の少女が立っている。白髪で、背は低い。義体はそれが誰かを知っていた。
「桜花……」
「瑠璃奈、お前は何者なのだ?」
 義体の瞳を見据え、桜花は再度尋ねた。義体は何も答えない。
「お前が発する霊力、それは妾(わらわ)に連なる力だけではない。橘花の、そして樹華の霊力さえも混じっておる。そんな事が妾の子に起こる訳がない。一体お前は何者なのだ?」
 それでも義体は何も答えない。その代わりに桜花を見下すかのように微笑んだ。
 そして、義体は笑みを浮かべたまま、左右から跳んできた敵義体の手刀によってその身体を貫かれた。

 西暦2021年5月10日、月曜日。22時10分。

 咲夜家敷地の外れにある高床式の蔵。ここには、咲夜家発祥以来の様々な資料や書類が保管されている。つまり普段は、まったく使われることのない場所でもある。
 扉は固く閉じられており、入り口に掛けられた頑丈な鍵は、詩織が産まれて以来開かれたことがないらしい。
 が、この蔵の床板の一枚が外れるようになっていて、床下から蔵の中へと侵入できる事は詩織しか知らない秘密だった。
 つい先ほどまでは。
 小さい頃から詩織だけの秘密の場所だったこの蔵は、つい先ほどから詩織と拓也の二人だけの秘密の場所へとその通称を変えた。詩織を見つけた後、拓也はすぐに屋敷から逃げ出そうとしたのだが「逃げたと思わせておいて敷地内に隠れておき、一段落してから外へ出よう」と詩織が提案し、この場所へと拓也を連れてきたのだ。
 月明かりさえほとんど差さないような闇の中で、二人は身体を寄せ合っていた。その体温と息づかい、肌が触れ合う感触、伝わってくる鼓動……そこは互いの存在だけがリアルな空間と化していた。
「変だな……話したい事は色々と有ったのにな」
 詩織の髪を撫でながら拓也が呟いた。
「何が起きても、俺達二人ならきっと生きていける。俺が絶対にお前を守る」
「うん……」
「どこか遠くへ行こう……。もう人の血を見たくないんだ。でさ、落ち着いたら子供をたくさん作って、穏やかに暮らすんだ……」
 髪を撫でるのとは反対の手で詩織の手を握った。その手に詩織の両手が包み込むように触れる。
「……今、女の子だった場合のいい名前が浮かんだよ。レイナ。数字の零に、那由他の那。それで零那」
「なゆた?」
 聞き慣れない響きに、詩織が尋ね返す。
「数の単位だよ。便宜上定められてる、数の『単位』は有限だってのは知ってるか?」
「うん。一番大きいのが無量大数って事くらいなら……」
「億、兆、京……那由他は無量大数の一つ下の単位。刹那の那に、理由の由、その他の他。それで那由他。響きが凄く好きでさ。無量大数ってなんだか変な響きだけど、那由他ってなんか綺麗な感じがしないか?」
 言ってる内容が気恥ずかしいのか、ちょっと照れくさそうに拓也が言う。
「不思議な響きだと思う……」
「零から始まって、那由他まで……。どこまでも歩いて行くんだ。一つ一つ経験を積んで、新しい何かを覚えていく……なんかいいだろ?」
「男の子だったらどうするの?」
「……なんとなく、最初の子供は女の子のような……予感がするんだ」
 根拠はないが、何故かそんな気がする。
「普段は……れい、れいーって呼ぶんだ。で……俺とお前は……パパと………ママ」
「ママ、かぁ……」
 夢見るようにうっとりと、詩織のその言葉を口にしてみる。
 そして、自分の子供を胸に抱き、「ママ」や「お母さん」と呼ばれる自分の姿を想像してみる。それはいつも心のどこかで望んでいた光景だった。
「……変だな……疲れて……る…………のか……な……」
 拓也は妙な感覚に陥っていた。意識は明瞭で五感も普段通りに冴えているのに、身体だけが妙にだるく、自由が利かない。強いて言うならば眠気に似ている。もう目を開けていることさえ出来ない。
「ごめんなさい拓也さん。術を掛けさせて頂きました」
(何を謝っているんだ?)
「やっぱり私は、皆を見殺しにすることができません」
 詩織は拓也の手を離して立ち上がった。衣擦れの音がする。服を着ているようだ。
「ありがとう拓也さん。あなたに逢えて良かった。あなたを愛して、あなたに愛されて、私は幸せでした」
(どうして過去形なんだ?!)
「あなたに嫌われていれば楽に死ねると思った。だけどやっぱり心残りだったんです。……最後にもう一度逢うことが出来たから、もう思い残す事はありません」
(……最後?)
「もう逢えなくなるけど、私は死ぬわけじゃないから。私の想いは、いつも拓也さんの側に居ます。離ればなれになるわけじゃない。声が聴こえなくても、姿が見えなくても、触れることができなくても」
 何かが頬に触れた。そして唇に暖かい感触。忘れようのないキスの温度。
「私の想いは、いつも拓也さんの側に居ます……」
 唇に向かって囁くようにもう一度繰り返す。
 やがて、詩織の足音が拓也から遠ざかっていった。一歩一歩、ゆっくりとではあるが一瞬たりとも立ち止まらずに。

To be continued.
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