Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 3 崩壊する幼年期


  巣立つ瞬間を決めるのは雛自身。
  その瞬間から、雛は鳥になる。
「そして彼女は去る」


 毎朝、日の出よりも十分ほど早い時間に、拓也は目を覚ます。
 隣で眠っている詩織を起こさないように気をつかいながら、布団を抜け出して衣服を身にまとう。シャツを着てズボンを履いたところで、拳銃の弾丸を確認。ほとんど使う事は無いが、リボルバー式とオートマチック式の拳銃を一挺ずつ。前者を腰のベルト、後者を防弾ベストのホルスターに装着。ベストには小型の手榴弾が2発と予備の弾丸が20発前後。他にはいくつかの小道具がポケットに収納されている。
 その上から愛用の黒いロングコートを纏う。このコートは防弾処理に加え、対術用コーティングも施されている。拓也自身は知らないのだが、これは風間の開発した技術の一つだ。
 最後にバンダナを巻き、刀を手に取る。心なしか気分も引き締まる気がして、眠気も取れる。
 一度だけ詩織の寝顔を振り返り、拓也は部屋を後にした。
 拓也達が潜伏しているのは、街から少し離れた所に建てられている一軒家で、半径300m以内には他の家屋はない。どこかの金持ちの別荘らしく、放置されていた着替えの類は少なく、あまり生活臭はしない。窓際に置かれているアップライトのピアノは、あまり使い込まれた感じではない。
 外では義体がじっと立っていた。
「よ、ご苦労さん」
「……」
 義体は何も答えず、ただ拓也に冷たい眼差しを向けるだけだ。どうも拓也のことを嫌っているらしい。いつものことだ。
「あとは俺が見張る。交代しよう」
 いつもならここで、義体は無言で家の中へ入っていくのだが、今日に限ってその場から動こうとしなかった。
「どうかしたのか? 体の具合でも悪いのか?」
 故障と言う言い方をすると、詩織も義体も怒り出す。義体はあくまで身体の代替品であり、その中には人の魂が宿っている。故障なんて言い方はロボットみたいだ、と言うのだ。
「…………」
 やはり義体は何も答えない。
 拓也もそれ以上何も言わず、昇ってくる朝日に目を細めていた。
 早朝独特の澄み切った空気。肌寒さと日差しの暖かさが同居する奇妙な感覚。山が緑に溢れているのだと主張するかのように、木々が闇を払い、色彩を取り戻し始める。
「貴方は詩織さんをどう思っているの?」
 山の風景を見つめつつ、義体が尋ねた。
 拓也は何も答えない。
「貴方にとって、詩織さんはどういう存在なの?」
 拓也は何も答えない。
 義体もそれ以上言葉を発することなく、時間がゆっくりと流れていく。やがて山の端から太陽が完全に昇りきった頃、義体は無言で家の中へと入っていった。そしてこれから昼過ぎまで眠り続けるのだ。彼女はロボットではない。食事はほとんど必要ないが、睡眠は普通の人間並みに必要なのだ。
 彼女の質問は、かつて一度だけ自問し、そして考えることを避けるようにしていた事だった。
 これは取引なのだ。俺は詩織の身柄を守り、そして詩織は葉雪との時間と、詩織自身の体を提供する。だから毎晩葉雪としての彼女を求める事も、葉雪としての彼女と愛を語ることも、詩織が最初に拓也に抱かれたときに処女であった事も、全ては取引の一環なのだ。
 嘘だ!
 罪悪感は常に脳裏にあった。俺は彼女の人生に黒い染みを作ってしまったのだ。そして今も、染みは拡大していっている。この黒いコートのように。
 彼女にしてみればどんなに辛いことだろうか。俺がしている事は強姦に近い。いや、そのものだ。
 それでも彼女はいつも微笑んでいる。その辛さを悟られないように微笑んでいる。穏やかな会話、柔らかい仕草、純粋な瞳、全てが変わらない。
 それが判っていて、やはり毎晩彼女を求める。
 そして彼女を葉雪と呼び、その体を汚す。
 詩織の顔をした葉雪は、詩織の体で拓也を受け入れ、詩織の声で囁く。そんな彼女に拓也は愛を囁き、未来を語る。
 だが、それは本当に葉雪なのだろうか? 昼間、とりとめのない会話で笑い、料理を作り、ピアノを弾き、そして歌う。その詩織と、夜の葉雪とが、時折だぶって見える事がある。
 俺は葉雪を愛しているのだろうか。それともあれは、ただの一時的な激情だったのだろうか。今にして思えば、確かにあの頃の自分は何かに取り憑かれていたような気もする。
 本当に愛しているのは詩織なのかもしれない。そうでなくても、今の自分の心は揺らぎ始めているのは確かだ。
 だが、俺にそんな資格はない。彼女にしている仕打ちは最低だ。今更、それを償うことなどできない。これまでたくさんの人間を殺してきた。この手は、この目は、血を知りすぎている。そう、元から彼女のような普通の女性を抱く資格などないのだ。同じように血を知っている同類どうし、身を寄せ合っているのがお似合いなのだ。
 詩織が自分に好意を抱いていることは薄々感じている。だが、それを受け入れることは出来ない。これ以上彼女を汚すことは出来ない。
 それでも、やはり俺は彼女の体を求めるのだろう……
 心のどこかで、葉雪の死を認めなくないのだ。

 考えが堂々巡りになる。
 気がつけば陽は完全に昇っていた。


 風間の自宅は、月政府軍の兵士によって完全に包囲されていた。
「我々の要求は風間龍成教授とその奥方の身柄のみである! 指示に従わない場合、手段は選ばない!」
 指揮官らしき兵士がメガホンで叫んでいる。
 風間はその様子を、二階にある自室の窓からブラインド越しに見下ろしていた。
「要求はしてるけど、指示はしてないじゃないですか」
 風間と同じように見下ろしていた洋子が冷ややかに言い放つ。
「バカモンばかりやが、あの調子やとすぐには乗り込んでは来んやろ」
 妻の言葉に頷きながら、風間は机の上のノートパソコンの電源を入れた。起動画面に続き、今では三世代前のものとなったOSが立ち上がる。
「晃司君と志帆さん、あと由香さんはどうしてる?」
「さっき、雇兵ギルドへ弾薬とかを補充にしに行くって出かけたました。そろそろ戻ってくる時間ですけど……」
「そうか……」
 しばらく風間は考え込む。となると、実戦経験のある人間は春日老しか居ないという事になる。洋子の使う何か怪しげな拳法も戦力になると言えば充分になるし、桜・漣の持つ力も強力だ。だが彼女らを戦闘に参加させることは避けたい。
「洋子は漣と桜を連れて地下から逃げろ。春日さんには玄関で待っててもらってくれ」
「先輩はどうするの?」
 二人きりの時は、洋子は風間の事を先輩と呼んでいる。学生時代の名残だ。
「逃げるための下準備をしながら、お前らが逃げる時間を稼ぐ」
 ノートパソコンのディスプレイから目を離さず風間は言った。
「……ホントは、趣味を実践したいんでしょ?」
「それも理由の一部やな」
 九割でも一部は一部。内心でそう呟く。
「そう言えば『九割でも一部は一部』ってのが先輩の常套句でしたよね」
「判ってるなら皆まで言うな! 先に行ってろ」
「はいはい。早く来てくださいね」
 風間の肩をぽんぽんと叩き、洋子は部屋から出ていった。
 風間家の地下は倭高専の魔導工学科と直結している……と言うより、風間が繋げたようなものだ。
 西暦2000年に近畿地方を襲った大地震により、倭高専の建物のほとんどが崩壊してしまっている。風間は裁きプロジェクト参加中の研究成果で多くの特許を取得しており、プロジェクトの凍結により奈良へ帰還した頃にはかなりの資金を所有していた。その資金の一部で倭高専は再建された。だが、風間は全くの善意で寄付したわけではなく、敷地の地下には、公式の設計図には記されていない風間の個人的な研究所が広がっている。
 しばらくして、風間の『趣味の実践』の準備も整った。
「まずは、ひとぉつ……」
 不気味な笑みを浮かべて、妙にゆっくりと独り言を言いながら、風間はキーを押した。

「学校敷地内の占拠は九割方終了しました! 引き続き任務を継ぞ……く………」
 通信機を握りしめ、兵士は絶句した。
 彼の任務は一小隊をもって体育館の占拠を行うことだった。バスケットボールをしていた一クラスをロープで縛って一ヶ所にまとめ、入り口を閉鎖し、任務は完了した。
 そして報告を始めた直後、突如地震が起こった。なんだ? と思うよりも早く、今度は大きな影が彼の頭上を覆い尽くす。
 そして見上げた彼が見たものは、プールからそびえ立つ巨大な人型の物体だった。

「やはりプールが割れてロボットが出撃するのは男の浪漫だな。そして不必要な地響きも!!」
 プールの底が割れる機構と、地響きを起こす機構は全くの別物である。後者は地響きを起こすためだけに設置された。

「きょ、巨大なロボ……」
「こ、こっちでも視認した……」
 通信機の向こうで、呆然とした声が聞こえる。そのまま何も言えず、二人とも黙りこくる。
 プールから出現したロボットは、1960年代の白黒アニメを彷彿とさせるデザインだった。やがて、ガシン!ガシン!と音を立て、ロボットはぎこちなく歩き始める。
 ちなみに、音を立てるのは専用の装置が搭載されている。
「………う、うわぁぁぁぁぁぁ!!」
「撤収!! 総員撤収せよ!!」
 言うより早く、ほとんどの兵士が体育館から逃げ出していた。
 まっすぐに七歩ほど歩き、グラウンドまで出たロボットが両手を前に突き出した。

 ノートパソコンから伸びるコネクタを腕時計に差し込み、風間はそれに向かって叫んだ。
「ロケットパーンチ!!」

 風間が叫んだ直後、激しい爆音をあげて(今度は本物)ロボットの両手が本体から射出された。両手は高専の入り口に密集していた戦車部隊へと勢いよく飛んでいく。
 鉄板を殴るような音が響き、続いて爆発音が周囲に響きわたった。戦車が爆発した音だ。
 本体と両手を繋いでいたワイヤーが巻き戻され、両手はロボットの本体へと戻る。
 その様子はロボットの頭部に取り付けられたカメラから、リアルタイムで風間のパソコンへと送信されている。
「ロケットパーンチ!!」
 再び風間が叫ぶ。両手が飛び、またも戦車を破壊した。
 混乱の中、一台の勇敢な戦車がロボットへ向けて砲撃を開始する。ロボットと腕を繋ぐワイヤーの付け根に、砲弾は見事に命中した。激しい爆発が起こり、ロボットの両腕は吹き飛んでしまった。
「くそ! なかなかやるな!!」
 やけに嬉しそうに風間が叫ぶ。が、両腕を射出したあとの付け根に着弾したら、大げさに爆発するように仕込んでおいたのは他でもない風間自身だ。それが彼の美学である。
「こうなったら最後の手段だ!!」
 涙を流しながら(笑い涙&うれし涙)風間は「DANGER」と書かれたボタンをクリックした。

『自爆装置が作動しました』
 その音声は校内放送でアナウンスされた。
 突如ロボットが走り出し、戦車部隊へと突撃する。
「ごめんよ!! そしてありがとう!!」
 風間の演技臭い叫び声と同時に、ロボットは爆発した。

「だ、第三機動小隊、壊滅……」
 付近の道路を閉鎖していた兵士の一人が、通信機へ向かってそう報告した。
「何だと?! 何が起こったのだ?!」
「きょ、巨大ロボットが……」
「馬鹿者!! 貴様、薬物中毒か!?」
 通信機の向こうで、彼の上官は怒鳴りつけた。

 風間の奴、むちゃやりよるなぁ……
 などと、音々はロボットの爆発を横目に見て思った。
 精霊術は周囲の「場の属性」の影響を大きく受ける。それは、より強い術を発動するためには、周囲の状況が普通でない状態へと極端に変化している必要があると言うことでもある。例えば、何らかの術が発動した状態だ。そしてそれは、より強力な術で有るほど、精霊術の威力も増す。
 結局の所、精霊術は相手の術に対するカウンターとして用いた時にこそ威力を発揮するのだ。それを逆に考えれば、カウンターを出すことを相手に読まれてはいけない。
 音々はその隙をうかがっていた。
 左右に握った拳に霊力を集中する。この集中された霊力を自分の意識で操作し、さらに自分の筋力を上乗せするのだ。これにより、華音が張っている防御術を貫通し、更に打撃自体のスピード・威力を増加させる事が出来る。霊力や魔力を近接戦闘に応用する際の基礎中の基礎だ。
「ちょこまかと……」
 自分の周りを断続的に動き続ける音々に向かい、うっとうしそうに華音は呟いた。
 充分に目で追えるスピードだが、狙いが読めない。時折殴りかかって来るものの、単発的なものだ。
「タァァァァァァァッ!!」
 かけ声と共に音々が何度目かの攻撃を試みた。華音の右斜め前60度の位置から、2メートルほどの間合いを一気に跳ぶ。
 音々の右拳に込められた霊力が輝きを増し、華音の防御術を打ち消していく。
 が、華音の方でもそれに反応して動作に移っている。音々のパンチを右掌底で上に弾き飛ばし、空いた脇を狙って左パンチを放つ。
 その一連の動作自体が音々の計算通りだった。華音の左手首を掴み、自分の方へ引き寄せる。パンチの勢いも有って、あっさりと華音の身体はバランスを崩し、音々の方へ引き寄せられてしまった。
 その首筋を狙って、音々の右肘が撃ち込まれる! 最初のパンチが上に払われたのも、この姿勢へ移行するためのプロセスだったのだ。だが、霊力の集中の少ない肘での打撃だ。防御術を貫通しきってはいないから、ダメージは少ないだろう。現に華音は衝撃で地面に突っ伏したものの、叫び声一つあげていない。
「ほらほら、どないしたん? かっこ悪ぅ〜!!」
 馬鹿にしたように音々は笑った。
 さっきからずっとこの調子だ。接近戦では音々の方に分がある。今だって何か術を使えば、自分にダメージを与えることは出来ただろう。
 何故それをしないのだ?! と、華音は屈辱を感じていた。
 こんな出来損ないに。
 こんな出来損ないの女に!!
「今のでホントなら3回は死んでたやんなー。これで残り71回くらい殺す計算やね!」
「馬鹿にするにも程がある!!」
「だって馬鹿やねんもん……」
 心底馬鹿にしていると言わんがばかりに音々は溜息をついた。

「いっやぁ、満足満足!」
 鼻歌まじりで階段を降りた風間を、春日が呆れた表情で待っていた。
「春日老! 見てくれましたか。俺の自慢の逸品を!!」
「あぁ、見せてもらったよ。まったく……」
 嘆息し、春日はあごひげを撫でた。
「春日老も若い頃を思い出して、懐かしかったんとちゃいます?」
 自慢げに風間は胸を張る。
「お前と一緒にするな。表の連中も、ビックリしてどこかへ行ってしまったよ」
「浪漫を解せない奴らやなぁ……」
「さて、どうするかね。洋子ちゃん達は先に逃げたようだが?」
「晃司達が帰ってくるのを待ちます」
 晃司・志帆・由香の三人が、朝から弾薬の買い出しに行ったまま、まだ帰ってきていない。
「じゃが、音々はどうする? 橘家の人間……おそらくは華音が来てると思うが」
「大丈夫やと思います。小十郎君も付いてますし」
 と風間が言った直後、その小十郎が玄関から飛び込んできた。
「ちわっす! ネオン様からこっちで指示を仰ぐように言われまして……あれ? どうしたんですか風間さんに春日さん。二人して目を丸くして……」
「……だ、大丈夫やと思います。ネオン一人でも……」

 その頃、晃司達は買い出しを終えて、最寄りの駅まで電車で帰ってきたところだった。
 駅前の道路を真っ直ぐに歩けば倭高専へたどり着く。だが、その道路は無数の戦車と兵士で埋め尽くされていた。
「……地球政府軍がどうしてこんな所に?」
 戦車を誘導している兵士の一人を捕まえ、晃司が尋ねた。
「その格好からして雇兵だな。しかも女連れかい。もう嗅ぎ付けて来やがったのか」
 口は悪いが愛想はよさそうだ。
「まぁね。で、何があったんだい?」
「月政府軍の奇襲だよ。奴ら、輸送機から強襲降下作戦をしかけてきやがった。この先の街道を挟んで、両軍がにらみ合っている」
 誘導灯を動かす腕は休めず、兵士は答えた。
「月政府軍の降下目標は?」
「風が強かったせいか落下地点はバラバラだったが、集結地点は倭高専みたいだな。目的は判らんが」
「……ふーん、邪魔したね」
 兵士に手を振り、晃司は裏道の方へと向かった。その後を志帆と由香がついて歩く。
「予想はしてたけど、もう来るとはね……」
「晃司君、どうするつもり?」
 由香が深刻な表情で尋ねる。
「もちろん戻るさ。強行突破してでもね。ただ、僕たちが戻る頃にはもうカタがついていると思うけど」
「どういうことですか?」
「月政府軍の降下作戦とは言っても、実際のところは橘家の音々ちゃん奪回作戦さ。この時間なら、授業中だったところを襲撃したはずだ。そして、あの子の性格からして、襲撃があったからといって素直に避難するとは思えない。となると音々ちゃんが指揮官を倒すか、逆に倒されて連れて行かれるか、二つに一つさ。戦闘そのものは一時間もかからずに終結する。その後はどっちにしても全軍が撤退するだろうし、もしかしたら橘家の人間を逃がすために、部隊そのものは投降する事も考えられるね」
 志帆の問いに対し、晃司はあっさりとそう明言した、筋は通っているように思える。
「……じゃあ、私たちはどうするんですか?」
「最善は尽くそう。さっきも言ったけど、強行突破してでも早く戻るに越したことはない」
「それなら最初からそう言いなさいよ。長々と喋ってる暇があるならね」
「最初に聞いたのは由香さんでしょ?」
 そう言われるとその通りだ。反論のしようがない。
「……ホントに理沙そっくりね」
「そう言われるのは心外だけどね」
 峰誼の里での虐殺を、晃司は一日たりとて忘れたことはない。
 呆然としたまま何処かへと去ったシェラ。彼女を止められなかったこと、慰められなかったことが、今はただ悔やまれるばかりだ。
 この二人には、里で起きたことをまだ話していない。だから、由香の中では理沙はまだかつての友人なのだろう。
「さぁ、早く戻ろう。事態が予測の範疇を越えていないって保証はないんだから」
 そう。まさか風間が実物大スケールのラジコン巨大ロボットで戦車部隊を撃破したなど、晃司はまるっきり予想していなかった。

 音々の「殺す回数」も、残り32回にまで減っていた。
 格闘戦では、圧倒的に音々の方に分がある。華音の攻撃をいなすたびにからかい、それに華音が激昂して我を忘れて突っ込んでくる。そんな事を延々と繰り返していた。
「さ、さすがに野蛮さでは貴女に分があるようですわね……」
 肩で息をしながら華音が言った。
「さ、さすがにお馬鹿さではアンタに分があるようやね〜」
 背伸びをしながら音々が答える。
「くっ……!」
 わき上がる怒りを、華音は必死で抑え込んだ。
 最終的に勝てばそれでいいのだ。最後に自分が立っていればそれでいい。
「でもね、これならどうかしら?」
 歯を食いしばりながら必死の形相で笑みを浮かべ、華音は霊力の集中を始めた。華音を中心に陽炎のように景色が歪み、緩やかに風が舞い始める。
「最初からこうしてやれば良かったのだ。私という存在を産み出した残りカスに過ぎない貴女なぞ、ただの出来損ないの欠陥品に過ぎぬ。そう、我ら精人の末裔たる者にとって肉体の強さなど二の次。全ては高貴な血統と、その内に眠る霊力にのみ全ての価値がある!! 貴様など!! 貴様など、ただのスペアに過ぎない!!」
 叫び声の強さに比例するように、華音の霊力が高まっていく。
「あっ、そう」
 ラジオ体操の「手足の運動」をしながら、音々は華音に向かってそう答えた。
「そのぉぉっ!! 舐めた態度にぃっ! 天誅を下してやるぅぅぅ………橘花断雷陣っ!!」
 華音が叫ぶと同時に、轟音を伴って地面が割れ、そこからまばゆい光が吹き出してきた。地面から雷が吹き出しているように見える。
「……それを待ってたんよ」
 華音の術が届くまでのほんの一瞬で、音々は精霊術のイメージを脳裏に構成する。周囲の力を取り込んで発動する精霊術に、霊力の集中のような時間は必要ないのだ。
「流水の碧っ!!」
 声とともに両手を左右に突き出し、音々の術が発動した。
 地面からあふれ出る雷光が、音々の周囲を取り囲むようにして集中していく。それは土星の輪のように、音々から一定の距離を保ちながら、次第に輝きを増していく。やがて全ての雷光を吸収し、華音の術が終了した。
「はっ!!」
 音々はかけ声を発し、左右に伸ばしていた手を目の前でパン!と張り合わせた。
 それを合図に、音々の周りを取り囲んでいた光が、一斉に放射状に解き放たれる。光は校舎を破壊し、残っていた戦車を破壊し、周辺の家屋を破壊し、多くの兵士を巻き込んで、やがて消えた。
「……な……」
 何が起こったのだ。と、華音は声を出そうとしたが、彼女の唇と顎は震えるばかりで思うように動いてはくれなかった。膝の力が抜け、その場に尻餅をついて座り込む。
「これで128回分は殺したね。余った96回分は利子やから」
 けらけらと笑い、音々は華音に背を向けた。
 が、その直後、すぐに華音の方に向き直る。呆然としたままの華音にすたすたと近づき、程良い高さに有った華音の額に蹴りを喰らわせた。後頭部を地面に強打してなお、華音は呆然としたまま動こうとしない。
「これはオマケ。とっとと家に帰ってオカンのオッパイでも吸っとれ!!」
 そして、今度こそ本当に音々は華音に背を向け、その場から歩き去った。

 その後はとにかく大変だった。
 タイミングを見計らっていたかのように駆けつけてきた風間達に連れられ、晃司達や洋子達と合流して逃げるように高専から離れた。
 入れ違いになるようにして進行してきた地球政府軍が、倭高専を占拠。
 晃司の用意してきた逃亡用の車に乗り込んだ直後、音々は疲れたと言って眠り、そのまま十時間近く目を覚まさなかった。


 地球政府首都、京都地区。
「詩織様、儀式の日まではこちらの部屋でお休みください」
 案内された所は奥にユニットバスらしき設備の他には、ベッドとテーブルがあるだけの部屋だった。窓さえもないが、広さだけは無意味にある。二十畳ほどだろうか。
「何かご用が有りましたら、表に誰か控えておりますゆえ、扉越しにお願いいたします」
 そして扉は閉められ、外から鍵が掛けられた。内側からは開くことが出来ないようになっている。
 もう逃がさないという意志表示だろう。それでいい。
 眠くはなかったがとりあえずベッドに横になり、天井を見上げた。咲夜の本家に戻ってきたのは久しぶりだ。儀式の訓練のために大阪地区へ行ったのが一年ほど前だから、それ以来ということになる。
 そうして物想いにふけっていると、不意に外で話し声が聞こえた。
「……しかし……」
「……良い。下がって……」
 見張りの男に、女性が話しかけているようだ。
 しばらくして、遠ざかる足音が二つ。少し間をおき、扉が二回ノックされた。
「こちらへいらっしゃい」
 この声は忘れようがない。母の声だ。
 緊張しながら扉の方へと歩んでいく。
「私をだませると思っているのですか?」
 扉の向こうから静香の声がした。
「……何の事ですか? 母様」
「そう言い通すのなら、それもいいでしょう。美咲」
 美咲は何も答えなかった。
 詩織が拓也と共に姿を消した後、美咲は一人で咲夜家へと戻った。時間がかかったのは徒歩中心に戻ってきたためである。
 そして、自らを詩織だと偽ったのである。システムの犠牲になるつもりで。
「思うようになさい……」
 それだけ言い残し、静香はその場から去っていった。しばらくして、二人分の足音がこちらへと戻ってくる。
「何を話されたのですか? 詩織様」
「大したことではありません……」
 手短に答え、美咲は再びベッドへと寝ころんだ。無闇に喋ると正体がばれる可能性がある。
 疲れていたせいか、睡魔は一瞬にして訪れた。

 三日が過ぎた。
 音々達は奈良地区の山中にある、春日の別荘へと逃げ込んでいた。風間は護衛として志帆と由香を伴い、昼間はほとんど出かけてしまっている。暇だからと言って音々も出かけたがったが、風間にかたくなに拒否されたため、小十郎をからかって時間を潰していた。
「テレビも新聞もラジオもないなんて、どういうことなんですか!? 師匠!」
「バカモン、別荘に新聞を頼むやつがどこに居るか。テレビも同様。ここは自然に帰るための別荘じゃよ」
 と言って春日は、晃司相手に将棋を指して過ごしていた。
「自然に帰る割には、ちっとも外に出ないやないですか!」
「バカモン。儂が出かけたら、お前がどこかへ逃げるじゃろうが」
 読まれている。
「それにしたってラジオくらい有ったってええやないですか。大地震とか来たらどうするんですか!」
「うむ。それじゃ来年までには買っておくことにしようかの」
「ネオン様も、将棋やったらいいんじゃないすか?」
 晃司と春日の勝負を眺めていた小十郎が言った。
「うちはオセロと五目ならべしか出来ひんの!!」
 ちょうどその時、漣が居間へ入ってきた。
「みなさん。ご飯が出来たの」
 ジャージの上からエプロン姿。そして目の回りにぐるぐるとラップを巻き付け、手には鍋を持っている。
「今日のメニューは何なん?」
「えっと、ハヤシうどん」
「げー、今日もまたハヤシっすかぁ……。しかもうどんって……」
 小十郎が露骨に嫌な顔をする。二日前はハヤシライス。昨日はハヤシスパゲティ。そして今日はハヤシうどん。
「やったね。僕の大好きなメニューじゃないか、ハヤシうどん!」
「うむ。漣のハヤシうどんは絶品じゃからな。この調子で、明日はハヤシラーメンかハヤシきしめんだったら完璧じゃな」
 手放しで喜ぶ晃司と春日。それを後目に、
「ネオン様、明日は僕がメシを作ってもいいすか?」
 小声で小十郎が尋ねる。だが、音々は力無く首を振った。
「無駄や。この別荘、ハヤシ以外の材料の備蓄があらへんのは確認済みやから」

 やがて風間達が帰ってきた。漣が鍋を持って出迎える。
「あ、風間さん。ご飯はどうするの?」
「出先で喰ってきたから今日はええわ」
「そうなんだ……」
 漣は残念そうに、ちょうどそこに出くわした小十郎と音々は恨めしそうに、それぞれの声がハーモニーする。
 しばらくして居間に全員が集った。
「咲夜詩織の帰還は、どうやら本当らしい。咲夜本家の動きが慌ただしくなっとるしな」
「そうですか……」
 何か思い詰めた表情で晃司はうなだれた。
 実は帰還したのは、詩織のフリをした美咲なのだが、その事実を知る者はここには居ない。
「橘家の動きも気になるところやが、月は遠い。とりあえずは地球にある、祈りシステムの方からなんとかせなアカン」
「そうじゃの。そろそろ儂らが動くときが来たということじゃろう。晃司が戻り、志帆さん達も協力してくれる。挑む価値はあるじゃろう」
「ところでさー。風間、学校の方はどないなったん?」
 脈絡もなく音々が尋ねた。
「あんなー。話の腰を折るなや、ネオン」
「そない言うても気になるやんか。派手にブッ壊したんはうちやし……」
 音々にしては珍しく、それなりに気にはしているらしい。
「気にするな、死傷者はほとんど出んかった。まぁ、それより本題や。志帆さんの妹、真琴さんからの情報では、祈りシステムの発動は5月10日。あと半月くらいしか有らへんって訳や」
「……勝てるんですか?」
 志帆が言った。
「例えば、桜花自身が出てきた場合、勝てる人間が居るんですか?」
「桜花を倒す事が目的ではない。システムを破壊すれば儂達の勝ちじゃからな」
「けど、システムを桜花自身が守っていたら?」
 今度は春日も何も答えなかった。
「桜が……桜が樹華やとすれば、勝ち目は有る」
 風間が代わりに答えた。が、その口調に自信は感じられない。
 桜の正体が樹華である保証など、どこにもないのだ。
「志帆さんは心配性やなぁ。うちの精霊術でいけば大丈夫やって。神霊術に対する有効性は、こないだうちが証明したやんか」
「それはその通りだけど……」
「……いや、精人に対しての有効性を証明したわけじゃない。だからそれは決め手にはなり得ないだろう」
 力無く晃司が言った。
「じゃあどうするって言うんや!? ここでグダグダ言ってて事態が好転するって言うんか!?」
 怒鳴りつける風間を、春日が視線で抑えた。
「……皆、疲れているようじゃ。明日の朝、もう一度ここで話し合おう」
 そして春日は、風間を伴って二階へと上がっていった。
「すみません。私が余計な事を言ったばかりに……」
「志帆さんの言うことはもっともだよ。ここのメンツで一番霊力が強いのは音々ちゃんだろうけど、それプラス桜花咲夜、そして精霊術を付け足したとしても、決め手不足だと思う」
 力の問題じゃない。真っ正面からは無理でもシステムの破壊だけならなんとかなるかもしれない程度の力が、音々には有る。だが、そういう事じゃないのだ。
 音々に、自らの手で人は殺せないだろう。今問われているのは、そんな覚悟のようなものだ。ギリギリのところでの決断力とでも言おうか。
「……拓也が居ればな」
 不意にそんな言葉が口をついて出た。
「そう言えば、拓也さんはどうしたのですか?」
 志帆が尋ねた。
「拓也は、詩織ちゃんを連れて舞台から去ったはずなんだ……」
 そして晃司は、九州で起きた出来事を全て話した。音々は一度聞いていた内容だったが、それでもやりきれないものがあった。
 晃司の話は、「僕が最初から全てを話していれば」という後悔に満ちている。
 本当にそうなのだろうか。話せない事情や、晃司の心情を考えれば、その拓也という奴のワガママにもとれる。誰だって、自分の知らないところで自分の事をあれこれ言われるのは嫌いだろうし、ましてや人生を決定づけられるのは気にくわないだろう。それは判るが、だからと言って全てを放棄してしまう必要は有ったのだろうか。
「そんな事が有ったんですか……」
 晃司の話を一通り聞き終え、志帆はうつむいて考え込んでしまった。
「理沙……」
 由香も、理沙の行動が信じられないらしく、同じように考え込んでしまっている。
「単にさー。嫌な奴なんやないの? その拓也って」
「そうかもしれないね」
 音々の言葉に、晃司は苦笑しながらそう答えた。
「けどね、誰だっていいところが有れば、悪いところも有る。拓也はその両方がすごく極端だったんだ。例えば、憎い奴は全身全霊をかけて憎み、愛する人は全身全霊をかけて愛する。その真っ直ぐさが、僕にはとても眩しく見えた」
 過去を懐かしむように、晃司は天井を見上げ、溜息をついた。
「そして、一度決めたらそれを貫く。そういった意志の強さに、僕は全幅の信頼をおいているんだ。あいつは、決めたことは必ずやり遂げるからね」
「じゃあ、なんでその……詩織さんって人は、咲夜家に戻ったわけ? 全身全霊をかけて愛するんやったら、何があっても守り抜くんと違うん?」
「それは……僕にも判らないよ」
 それっきり晃司は黙り込んでしまった。そんな晃司を見て、音々は拳を握りしめ、宣言した。
「決めた。やっぱりうちは、その拓也って奴が気に喰わん。今から九州島へ行って、一発しばいて来る!!」
「今からって……」
 何か晃司が言いかけたが、
「晃司兄ちゃんは黙ってて!! 小十郎!!」
「ういっす!!」
 それまでずっと話を聞くだけだった小十郎が、跳ね上がるようにして返事した。
「うちに付いといで!!」
「オイッス!!」
「こ、小十郎。あなた本気で言ってるの?」
 呆れたように志帆が尋ねる。
「いやー、志帆姉様。ネオン様に逆らうと、後がムチャクチャ怖いんで」
「判ってるやないの」
 満足げに音々は頷き、そのまま部屋を飛び出していった。その後を小十郎が追いかける。
「5月10日までには戻りますから〜!!」
 小十郎の声が、玄関の方から聞こえてくる。

 そして二人は去った。
 ところで、風間が一つごまかした事がある。
 倭高専の破壊による死者は一人居た。それ以外には軽傷者が数名出ただけだ。あれだけの規模の破壊で、この程度で済んだのは奇跡に近い。確かに「死傷者はほとんど出なかった」のだ。
 死亡した学生の名前は、弓崎香という。


 時は流れて、4月30日。
 一睡も出来ないまま夜が明けた。いつものように、夜明けよりも早く拓也が起き出すのを、寝たふりをしながら詩織は感じていた。
 ついにこの日が来てしまった。
 全ては、最初から約束していたことだったのだ。
 儀式が行われるのは5月10日。だから、4月いっぱいまでは、自分の好きに生きても良いと。最初から、咲夜家から追っ手が出される事など有り得なかったのだ。志帆が追ってきたのも彼女の独走に過ぎない。
 誰かを「愛してる」と言えるようになりたかった。その人の為に、システムの犠牲になってもいいと思えるようになりたかった。
 そして拓也と出会った。最初は好きになろうとしていて、気が付くと心の底から愛するようになっていた。ほんの些細な言葉がきっかけとなって。
 自分の過ちを知った。愛してると言えるようになんて、なるものじゃない。なってしまうものなのだと。それは自らが意識してなるものなんかじゃないのだ。
 この人を守るために、私は死ねる。
 そう心の底から思うと同時に、この人と離れたくないと心の底よりもさらに深い所で思う。
 でも、それも今日で終わりだ。
「……拓也さん」
「あ、ごめん。起こしちゃったか」
 身支度の途中だったのか、半裸のままで拓也は答えた。
「話さないといけない事があるんです」
「どうしたんだよ、急に……」
「葉雪さんは、とうの昔に消滅していたんです」
「え……」
 拓也の顔が凍り付いた。
「私、嘘をついてたんです。葉雪さんのふりして拓也さんを騙して…」
「な、なんだよそれ。ふざけるなよ。何言ってるんだよ、お前……」
「あなたが葉雪さんだと思って私に話す私のことを聞いて、私は喜んでたんです。『今日の詩織のメシがうまかった』『詩織の身体でこんな事して、あいつに悪い』とか、そんな話を聞いて、私は」
 そこで拓也の平手打ちが、詩織の頬を強く打った。
「お前、何様なんだよ……死者をなんだと思ってるんだ……」
 そして陵辱が始まった。


 いつから気を失っていたのだろう。
 身体の節々が痛い。
 すすり泣く声が聞こえる。
 泣かないでください。私が悪いんです。
 そう言いたいのに声が出ない。
 どうして涙が出るのだろう。

 ようやく身体を起こす。内股を何か暖かい液体がつたり落ちる。
 どうでもいいや。
「出てけよ……」
 はい。そうします。ごめんなさい。
「出ていってくれよ!!!」
 なんとか衣服を身にまとえた。
 ごめんなさい。傷つけてしまって。

 扉を開き、外へと歩み出す。
「詩織さん……」
 義体が心配そうに声をかける。
「……拓也さんをお願いします」

 そして彼女は去った。

To be continued.
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