Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 3 崩壊する幼年期


 西暦2021年4月1日、木曜日。
 咲夜志保、部下の北嶋由香を伴い咲夜家を出奔。外部の人間による何らかの手引きがあった模様。これと前後して彼女の弟、小十郎の消息も不明となっている。志保の妹、真琴は咲夜家に残留した。
 だが、そんな事と世間の人々は今のところ全くの無関係であった。




  戦争が非日常になることには、ある問題点があるって知ってる?
  それはね、戦争を懸念すべき問題として認識しなくなること。
「まほろば2021」


 西暦2021年4月19日、月曜日。
 なんとか咲き残っている桜の花が、倭高専のキャンパスを華麗に染め上げていると言えなくもないかもしれない。未練がましいと言った方が近いか。
 国立倭工業高等専門学校。通称、倭高専。ここは本来ならば大学以降で学ぶことが多い魔導工学を、高等課程から学ぶことのできる数少ない教育機関である。その魔導工学科の卒業生は各業界から高い評価を受け、求人率は300%を毎年越えている。また、他の高専の例に漏れず、五年間の教育課程をこなした後は大学の三年次に編入する進路も用意されている。奈良地区の郊外に設立されたこの学校には、現在約1200人の学生が学んでいる。
 魔導工学は二系統に大別される。魔導水晶の研究と新たな術の開発を行う基礎魔導工学と、魔導技術と科学・工学などとの組み合わせを研究する応用魔導工学である。ちなみに、倭高専で教えているのは前者だ。

 その魔導工学科、阪上研究室にて。
「ねぇ、ネオン居るぅ?」
 ノックも無しに研究室の扉を開けたのは、弓崎香という学生だ。魔導工学科五年に在籍し、クラスでも一、二を争う成績の持ち主だ。ただし、下から。
「片桐ならまだ来てねぇよ」
 ゲーム機のコントローラを操作する手を休め、秋元幸広は答えた。この研究室の主、阪上助教授が週に一度しか顔を出さないため、部屋の中は学生のダベリ部屋と化している。
「っかしぃなぁ……。お昼食べたら研究室に行くって言ってたのに」
「研究室って、ここって言ってたのか?」
 どこからか取り出したゴルフクラブをいじりながら秋元は言った。ちなみにこのクラブは、坂上助教授の私物の4番アイアンである。
 それはともかく、秋元の言葉を聞いた直後、香は盲点に気付いた。
「あ、そっか!風間センセのトコかも。んじゃ、あっちに行ってみるね。もしネオンが来たらそう言っといて!」
「うーす」
 だるそうに答え、秋元は再びゲームに没頭し始めた。
 階段を駆け上がって三階へ。そして廊下の一番奥にある、風間研究室の扉を乱暴に開く。
「おーい!ネオン居……」
「やかましい!!」
 香の声は、更に大きな女性の声によって遮られた。勢い負けした香は、そのまま部屋の中の状況に魅入る。
 テーブルを四人の学生が囲んでいた。
「……これでどうだ?」
 学生の一人が、苦々しい声でそう尋ねる。
「カン!」
 先程、香を黙らせたのと同じ声が、鋭く言い放つ。そして数秒後……
「ツモ!リンシャン、チンイツ、イッツー、ドラ2、裏は………乗ったぁ!って訳で数え役満。はい、そんじゃとっとと払ってや」
 嬉しそうに言うその口調には、どこか独特のイントネーションがある。今では古式言語と呼ばれる言語の一つで、大阪弁と呼ばれるものだ。17世紀、伊達政宗とその嫡子である宗政によって世界が統一されて以来、各地域の言語の統一化が推し進められたため、今では伝える者が少数しか居ない言語である。
「ちっ、またネオンの勝ちかよぉ……」
「今日はイカサマしてねぇだろな?」
 テーブルに突っ伏した学生たちが、口々に嘆きの声を上げる。
「ちゃうちゃう。実力やって。ジ・ツ・リョ・ク!」
 金を奪いながらその学生、片桐音々はケラケラと笑ってみせた。
「んじゃ。うちお昼してくるから。バーイ!」
 入口で突っ立っていた香を引きずるようにして、音々は風間研究室を後にした。
 しばらくして。
「ぐはははは!甘い!!甘いわお前ら!!」
 それまで黙っていた中年の男が、そう叫び声を上げた。
「甘いって……何が甘いんです? 風間先生」
 名を呼ばれて風間龍成(たつなり)はニヤニヤと笑う。今年で45歳になるが、中年太りとは無縁、どちらかと言えば痩せぎすな体格だ。眼鏡と無精ひげ、そしてツルツルに剃った頭が妙にアンバランスである。
 風間は音々の手牌を指差す。
「どうして二万(リャンマン)が五枚も有るんや?」
 その言葉に、慌てて学生たちは音々の手牌と場に出ている牌、そして裏ドラ表示牌である二万を数え上げる。
「またやられた……」
 と、頭を抱える学生達に追い打ちをかけるかのごとく、風間の高らかな笑い声が響きわたる。
「ははははは! だから甘いっちゅうねん!! バレないイカサマはイカサマに有らず!!」

「バレなきゃ実力やん。イカサマなんか」
 そう言って音々はせしめ取った千円札を自分の財布にしまい込んだ。イカサマに気付いていた香は、不服そうにその様子を眺めている。これで実技系専門教科と語学、そして体育に関してはクラス、いや学年トップの成績の持ち主だと言うからタチが悪い。
 片桐音々。音々、と書いて「おとね」と読む。よく「ねね」と間違われるのが本人は気にいらないらしい。ニックネームのネオンというのは、この字を読み替えたものだ。
 背は女性にしては高い方だろう。スマートな体つきと、身体のラインを崩さない程度についた筋肉が陸上部員を彷彿させるが、所属は戦国史研究同好会。会員は彼女だけ。後ろでポニーテールにまとめられた髪と、自己主張の激しそうな瞳が印象的だ。
「それにしても、桜が綺麗やねーっ」
 どこから取り出したのか、ビン入りのカクテルを飲みながら音々は呟いた。
「ちょっとネオン! あんた未成年でしょ!?」
「今日から二十歳。それに、こんなのジュースやって」
 さらりと言ってのけ、音々はビンの中身を飲み干した。
「誕生日って、また嘘ばっか……」
「嘘ちゃうよ。うち、昨日が誕生日やもん」
 そう言って音々は学生証を香に突きつける。確かに、生年月日は2001年4月18日とある。
「でも、校内での喫煙は所定の場所でOKだけど、飲酒は駄目だって……」
 さらに食ってかかる香の声を聞き流し、音々は別のことを考えていた。
(そう。二十歳になったら聞かせて貰う約束だったんだ。うちの両親のこと)

 音々は両親の顔を知らない。片桐という名字が父方の名字であること以外、名前も知らない。父親は学者だったらしいが、母親については何も知らない。知らないことだらけだ。現在の音々が知っている両親に関する情報はこれで全てだ。
 音々は生まれてすぐに、当時結婚したばかりの風間に引き取られた。風間夫妻に実子が授からなかったから、というわけでもないが音々は今日まで大事に育てられてきた。
 やがて音々が八歳の時、風間の友人だという老人とその孫が同居することになる。さらに、音々が物心つく頃には既に一緒に住んでいた女性が一人。合計して約六人が風間家で生活していることになる。
 音々は、魔導工学の権威として世界的に知られる風間の右腕として、中学の頃から研究に携わってきた。音々が専門教科に抜きんでた成績を示しているのは当然といえるだろう。まだ歴史の浅い魔導工学である。教科書に書いてあることのいくつかは、音々自身が発見したことでさえある。
 風間から言われている言葉がある。
「霊力は授業以外で使うな」
 音々は生来、極めて強い霊力を持っていたが、中学に入るまでその力を使うことを禁じられていた。その替わりにいくらか叩き込まれた技術の一つが精霊術だ。風間は精霊術を編み出した張本人であり、自身も屈指の術者である。
 中学に入ってからは霊力の訓練も始めたが、人前でその力を強く発揮することは今でも禁じられている。学校の授業などで仕方ないときは、人並み程度に加減して霊力を使わなくてはならないのだ。その方がかえって精神的に消耗するのだが、普段は奔放主義の風間がそれだけは堅く言いつけていた。
 そして、その理由も二十歳になったら聞かせて貰う約束だった。

「……とねぇ、音々ぇ!聞いてるの?」
 若干怒った様子で香が叫んでいた。
「ん? あぁ、ゴメンゴメン。ちょっと考え事しててね。で、なんなん?」
「もぉ! 再来週の学園祭、どうするのよ!?」
 新入生歓迎式典を兼ねた学園祭が、ゴールデンウィーク直前に開かれるのだ。言われてみれば、香と二人でユニットを組んでライブをしようと言っていたような気がする。
「……どーでもいいやん。そんなの」
「良くないわよっ!!」
 周りの学生の目も気にせず、香は怒鳴った。
「音々がキーボード&コーラス担当で、あたしがヴォーカル&マラカス担当! 童謡とハードロックのソウルフルでワンダフルな融合に向けて、今こそあたし達が……」
「却下。なんでロックにマラカスなん?」
 呆れ返った音々の反応に、香は器用に薬指を立てると、
「ちっちっち………」
 と左右に振ってみせた。しかし、指先が震えているところを見ると、やはり薬指だけを立てるのはかなりの無理があるらしい。
「ロックに理屈は要らないのよ」
「ギターは? ギターなしのハードロックって、どんなんやるつもり?」
「……そ、それは……」
 香はしばらく口ごもり、
「そりゃやっぱ打ち込みで」
「それのどこがソウルフルやねん!!」
「あははははー! そ、それはそうとぉ……ネオン、こんな噂知ってる?」
 形勢不利を悟ったか、慌てて香は話題を逸らす。
「何? 聞いてみな判らへんやろ」
「なんでもさ、風間教授の口利きで、近いうちに転校生が来るらしいよ」
「え? 風間の?」
 音々は風間のことをいつも呼び捨てにしている。というより、風間がそう呼ばせている。一応、学校では「風間先生」と呼ぶことになっているが、よほど堅苦しい場でない限り、音々がそう呼んだことはない。
「そ。なんかやーね、裏口みたいでさ……」
「あの風間がそんなコトするとは思えんけどなぁ」
 と言って音々は首を傾げる。義父だから言うわけではないが、風間は名実共に魔導工学の権威として各方面で知られた男だ。そんな風間だから、色々とダーティーな話も持ちかけられることは多い。だが、音々の知る限りで風間がそういう話に耳を貸したことはない。清廉潔白とは程遠いが、少なくとも裏口入学などに荷担する類の人間ではないはずだ。
「たぶんさ。その人って才能有るんやないかな。それで風間が目を付けた、とか」
「ふーん、ネオンがそう言うんだったらそうかもね」
 香は、音々のコメントに素直に納得した様子だ。
「そういや香。あんた、なんでうちを捜してたわけ?」
「んっ、あぁ……えーと……なんだっけ?」
 とぼけているのではなく、完全に忘れているらしい。
「香が覚えてないなら別にいいわ。んじゃ、お昼付き合ってや」
「えーっ!? あたしもう食べたぁ……」
「アイスでも食べてたらいいやん。んじゃ、行こっ!!」
 ごねる香の手を無理矢理ひっつかむと、音々は学生食堂へ向けて全力で走りだした。

 昼休み後。言い換えれば五時限目授業中。
 風間は自分の研究室で書類の整理に追われていた。
「ぬぅ、やはり月の一度の整理じゃいかんなぁ……」
 ぶつぶつ呟きながらも手元の書類に目を通す。既に情報化社会は成熟化していたが、だからといって紙の書類がなくなる訳でもない。簡単に複製が作成できるデータファイルよりも紙に印鑑の方が信頼できるからだ。
 書類の山の八割ほどを片づけた所で机の上の電話が鳴った。ペンとハンコを置き、4コール目で受話器を取る。ちなみにペンとハンコは片手で同時に持っていた。当然ながら字は汚い。
「はい、風間ですが」
「お客様が二組お見えですが、どうしましょう?」
 電話は魔導工学科事務室の吉崎女史からだった。が、約束を入れた覚えはない。
「名前と特徴は?」
「一人目は中年の女性の方です。お名前は……」
「美人か?」
 吉崎女史の言葉を遮り、風間は率直に尋ねた。
「……娘さんが居たら、きっと風間さん好みでしょうね」
 回りくどい言い方をするのは彼女の性格の賜物である。
「よっしゃ通せ!」
「二人目はどうするんですか?」
「一人目よりも美人の女性なら先に。でなければ後で結構!!」
 断言する風間に呆れたのか、吉崎女史はそれ以上何も言わずに電話を切った。
 数分後、研究室の扉がノックされる。
「あー、どうぞ」
 一瞬の間をおいて扉が開き、渋めのスーツを着込んだ女性が姿を見せる。吉崎女史の言葉は間違っていない。年の頃は40前後。14,5年前はさぞかし男性に人気があったことだろう。しかし、この能面のような表情はいただけない。生まれてから今日まで、一度も笑みを浮かべたことがないのではないかとさえ思える。
「はじめまして風間教授」
「どうもはじめまして。えっと……」
 ここに至って、風間は吉崎女史から来客者の名前を聞いていなかったことに気付いた。
「タチバナ……橘美里、と申します」
 その名を聞いて、風間の表情が僅かに堅くなる。
「……何の用件ですかな? あのシステムの基礎理論は約束通り完成させた。今更、橘家の人間が私に用とも思えないのですが?」
 美里に対しソファに座るように促しながら風間は尋ねる。初対面の人間が相手だからか、いつもの大阪弁は出ない。
「システムは順調に構築中で、完成も間近です………が、今日の用件はそれではありません」
「ほう。また何か新しい物を作れと申しますかな? あれ一つではまだ物足りずに……」
 作業用の机から応接用のソファに自らも腰掛けつつ風間は言う。が、相変わらずの能面面のままで美里はこう言った。
「娘を返して頂きたい」
 会話が止まった。
「…………さて、何の事か」
「生みの親である私が、実の娘である音々を引き取りに来たのです。二十年前に誘拐されたきり行方不明となっていた娘を」
 美里の目は風間を正面から見据え、威圧している。
 だが、風間はそのプレッシャーをはねのけるようにニヤリと笑みを浮かべた。
「断る。あの子の育ての親は私だ」
「そうですか。判りました」
 意外なほどにあっさりと美里は言った。が、例の能面面は崩さない。
「ほう、諦めがいいのはこの場合ナイスな判断ですな」
「まさか! 力技に出るだけですわ」
 と言うと、美里は初めて表情を変えた。見る者の首筋に寒気が走りそうなほど、冷徹な笑みだ。
 美里が右手をかざす。と同時にその手が淡く輝き出す。
「むぅ……」
 この場をどうしのぐが思案してみる。逃げるのが無難と言えば無難なのだが、問題を先送りするのは性に合わない。
 とその時、部屋の扉を叩く音がした。
「おう、入れ!」
「な……!」
 迷わず風間は言う。状況の変化は大歓迎だった。
 扉が開き、若い学生が姿を見せた。髪はかなり短く、背は高い方ではない。制服を着ているところから判断すると、二年生以下だろう。三年以上なら私服通学が認められているためだ。背中に下げた茶色の細長い袋は、よく剣道部員が下げている木刀を入れるためのものだろう。そして、野性的だがどこか幼さを残した顔立ち。風間の知っている人間だ。
「風間さん、お久しぶりです! ところで、そちらのご婦人はどちらさんですか?!」
「よぉ、小十郎。久しぶり言うても、二十日ぶりくらいやろ?」
「私を無視して話を進められる状況か?」
 手を光らせたまま美里が言う。
「はぁ。まぁそりゃそうなんですけど、ほら男子三日逢わざれば刮目して見よって言うじゃないですか。と言うわけで刮目六回してくださいね」
 完全に美里を無視し、小十郎と呼ばれた学生は頬を掻く。
「ところで、この哀れな中年を助けてくれへんか?」
「またまたぁ、風間さん。マダムキラーばっかしてると奥さんに怒られますよ」
 にやにやと笑いながら小十郎は美里を指さした。
「こんな綺麗なご婦人を口説くなんて、風間さんも隅にロケットフィンガー!!」
 小十郎の叫び声と共に、彼の腕の肘から先が分離し、美里を指さしたままで一直線に飛んだ。ちょうど頭を小突かれたかたちになり、不意をつかれた美里がその場に転倒する。
「よっしゃ逃げろ!!」
「はいっ!!」
 美里の隙をつき、風間は扉から外へ逃げる。小十郎も、美里を小突いた腕……ワイヤーで小十郎と繋がっている義手を回収し、その後を追う。
「な……なんだって言うの!?」
 転倒したときに頭を打ったらしく、若干ふらつきながら美里は立ち上がった。が、その頃には、風間達の姿はどこかへ消え去っていた。

「それにしてもロケットフィンガーはないだろ。ロケットフィンガーは」
 図書館の脇にある男子トイレ。そこに風間と小十郎は逃げ込んできていた。
「そうですか? カッコイイと思うんですけど」
「……まぁいい。義手の調子はええようやな」
 満足げに風間が呟く。
 この学生の名は咲夜小十郎。咲夜志帆の弟である。
 一月ほど前のことだ。小十郎は姉の部下である由香に依頼し、彼の右腕を切断させた。犯人は外部からの侵入者の仕業であると偽装。その後、この義手を取り付けたのが風間である。風間と咲夜家の縁は深く、義体開発にも関わっていた事もあり、義手の取り付け手術の為に風間を招聘するのは何の問題も無かった。
 そして四月の初めに、義手の検査という名目で咲夜家入りした風間は、仲間と共謀して志帆と由香、そして小十郎を咲夜家から脱走させたのである。
 これらのほとんどは志帆と風間の間で結ばれた計画通りだった。
 ただ一つ、腕の切断を提案したのは小十郎自身の希望である。
「どうせやるなら、これくらいやりましょう」
 そう言って小十郎は、姉や風間達に向かって笑ったものだ。
 そして今、小十郎は咲夜家から逃れ、この地に居る。
「もうバッチリですよ!!」
「うむ。さすがは俺様やな」
 そう言って一人納得したかのようにうんうんと頷く。
「お、僕の必死の努力は……」
 小十郎がそんなことを呟くが風間は一切に耳を貸そうとしなかった。
「いやぁ、さすがは俺様。ところで姉ちゃんはどうした?」
 志帆達の脱走直後、風間だけはしばらく咲夜家に残っていた。仮に風間も一緒に逃走したとすると、手引きをしたのが風間だと言っているようなものだからだ。現時点でそれは避けたかったので、志帆達の事は仲間に任せ、風間は時間稼ぎも兼ねて被害者ぶっていたのである。
 その後、咲夜家からの追っ手をまくために、風間の仲間達と志帆は更に二手に分かれていた。ところが、追っ手をまいてからも志帆達からの連絡が一切なかったので、風間なりに心配はしていたのだ。
「ええ、姉様はやる事が有るって言って、途中から別行動です」
「そうか。まぁ、あの姉ちゃんなら大丈夫やろ」
 言いながら、実戦慣れした志帆の動きを思い出す。いくら名ばかりとは言え、咲夜近衛隊を率いる身だけの事はあった。ついでに、すらりと伸びた綺麗な足を思い出し、一人でニヤついてみる。
「で、これからどうするんですか? あまり便所に長居はしたくないかなぁ、とか思うんですけど」
「言うな。あの手のオバハンの性格から言って、ここが一番安全なんや。とりあえず放課後まで待とか。で、音々を迎えに行って、それからや……」

 五時限目から後の音々達の授業は、基礎魔導工学実験のみである。
 要は与えられた実験課題とプロセスを実践し、数週間以内にレポートにまとめ上げて提出するというものだ。1クラスを9グループに分けてこの授業は行われる。
「おい、ネオン。そろそろ起きてくれよ」
 音々と同じグループの一人、北川治が音々の肩を揺すった。
「なんやのぉ、まだ眠いゆうてるやん……」
「まだ言ってないてば。そろそろサポートが必要なんだから、頼むよぉ」
 しかし、音々はなかなか目を覚まそうとしない。いつものことだ。
 この手の班別授業となると、グループ内での役割というのがある程度定まってくる。音々達のグループでは、音々以外が下準備と器具での測定作業。そして音々が実験に必要な術を執り行うという役割である。術の制御が安定していればしているほど、得られる実験結果の誤差も小さくなるためである。
 それにかこつけて、下準備が整うまではひたすら爆睡するのが、音々のいつもの習慣になっていた。もっとも、音々が授業中マジメにノートを取ることは極めて少ない。グループの人間もその辺は慣れたもので、準備が終わりそうだと思ったぐらいから音々を起こしにかかるのだ。
「ネオン〜頼むよぉ」
 とやる気のない声で言いながらも、治は結果測定の準備を続けている。すべて計算済みだ。この調子でいくと、ちょうど準備が終わるくらいに音々が起きるだろう。
 そう、いつもの人が音々をたたき起こしてくれるだろう。
 その様子を、隣のテーブルで実験作業中の篠崎真琴(いつもの人)は苦々しげに睨み付けていた。
(また片桐さんったら……!!)
 真琴はクラス一の成績を誇る、いわゆる優等生だ。だがそれはあくまでもトータルした成績上のものである。真琴が専攻しているのは神霊術の方なのだが、術の実践においては音々の足下にも及ばないことは、彼女自身が嫌というほど知っている。
 常日頃から必死に努力を重ねた上で、真琴は今の成績に至っている。一方、音々と言えば全体的な成績は大したことはない。しかし実技を伴う専門教科において、音々の才能はずば抜けていた。授業の大半を寝て過ごす音々に、生まれ持っての才能という一点においてのみ劣るという事実が、真琴にとっては苦痛だった。神は決して平等ではない。
 だからこそ、こうやって才能を食い潰している(としか思えない)音々の態度が、真琴には忌むべき対象であったのだ。
「ネーオーンーっ」
 めんどくさそうな声で治が音々の肩を揺する。音々のやる気のなさが感染しているとしか、真琴には思えない。治にしてみれば、こうやって真琴を煽るのも計算の内だったりするのだが、彼女自身はそれに気付いていない。
「片桐さんっ!!いい加減にしたら?!」
 机に突っ伏していた音々を無理矢理に起こし、真琴が怒鳴る。
「お、そろそろ篠崎が怒る時間かよ。急がないと……」
「また今日も居残りはやだなぁ」
 そんな声がちらほらと聞こえてくるが、真琴はあっさりと無視した。と言うより、おそらくは聞こえていない。
 少し間をおき、音々は虚ろに目を開いた。
「………あぁ、篠崎ちゃん。あっろはぁ……おやすみ」
 そしてまた眠る。
「マジメに!!やる気は!!あるの!?」
 一言一言にやけに気合いを入れながら、真琴の声が実験室内に響きわたる。
「おーい、篠崎。少し静かにしろー」
 そんな教師の声は届くのか、真琴は耳を真っ赤にしてうつむく。
「んっ……ふわぁぁぁぁぁぁぁあ。やっと目ぇ醒めたわ」
 大きく伸びをし、ようやく音々が目を覚ました。
「お、もう準備できてるやん。偉い偉い。んじゃ、さっさと済ませて帰ろっか」
「片桐さんっ!!」
「ん? あぁ、篠崎ちゃん、おったん? 何か用?」
 にっこりと笑って音々は言う。寝てる間の記憶はないが、いつも香や治から話は聞いているので大体の見当はついている。
「また起こしてくれたんやろ? いつもありがとね」
 ちなみに、音々の見当は間違っている。
「さぁて、サクッと終わらせて帰ろか〜。オサムっち、準備はできてんの?」
「もうばっちり。後はどでかく一発かますだけ。じゃ、よろしくね」
「よっしゃ、まかしとき!」
 音々は早速、術に取りかかる。今日の実験内容は、木の棒に対してある特定の霊力もしくは魔力を込め、棒を取り囲む磁界の変化を測定するというものだ。木は霊力/魔力を蓄積させやすい性質がある上、その辺に落ちてる枯れ木で充分なため実験にかかる費用が安くて済む。
「霊力の出力、いつも通り極めて安定」
 治はあっさりと言うが、この安定状態を作り出すために、真琴だと三十分はかかる。音々を除けばクラス一の力を持つ真琴だからこそ、その時間で済むのであり、他の者だと調子が悪い日だと何時間かかっても失敗することもある。むしろ音々が異常なのだ。
「はい、測定完了。おしまい」
「は〜ぁ。終わり終わり。さぁて、帰ってお茶でも飲もか〜」
 と、音々は鞄を持って立ち上がった。当然ながら片づけは他のメンバーに押しつけるつもりだ。
「ちょっと貴女ねぇ!!」
「片桐音々さん、は…こちらに居るのかしら?」
 真琴が叫ぶのと、扉が開いて見慣れぬ女性が姿を見せたのはほぼ同時だった。実験室内の目が、一斉に扉の方へ向けられる。
 無理はない。女性の手には拳銃が握られていた。既に引き金に指が掛かっている。
「片桐音々さん、は……どの子かしら?」
 室内を見回しつつ、穏やかな口調で彼女は尋ねた。彼女の正体は、風間の部屋を訪れていた美里なのだが、この場の誰もそれを知っている筈はない。
 誰もが無言でいると、美里は拳銃の銃口を音々の方へ向けた。
「そこの貴女」
「えっ? えっ? あっ、私ですかぁ?」
 やけに怯えたように音々が尋ね返す。鞄を持って立ち上がっていたから、美里の目に付いたのだろう。自分の周りを見回すように首を振り、諦めたように自分を指さす。
「そう、貴女よ。片桐音々さんは、どの子かしら?」
「か、片桐さんだったら……」
 その口調に、いつものイントネーションはない。
「そ、そこに座っている子ですう」
 そう言って音々は真琴を指さした。
「へ?」
「ありがとう。素直な子って、大好きよ」
 美里はにっこりと微笑み、呆気にとられている真琴の方へと歩き出した。音々の前を通り過ぎ、真琴の前で立ち止まる。
「あまり私と似ていな…」
「先手必勝ぉぉぉぉぉっ!!!」
 何事か言いかけた美里の後頭部に、音々の肘鉄が炸裂した。後頭部と言うよりは延髄にクリーンヒットした。
「音々はうちよ。オバハン、なんか用?」
 その問いに美里は答えない。
「んー、脳しんとうでも起こしたんかなぁ? ま、ええわ。みんなー! なんかやばいから、今日はもう帰ってええよー。先生もな〜!」
「片桐さん! あなた、人の安全をなんだと思ってるの!?」
 ようやく我に返った真琴が、音々にくってかかる。
「篠崎ちゃん、聞こえんかった? やばいから早よ帰りって言うてるやんか」
「それとこれとは話が違うでしょ!!」
「文句やったら後から聞くから、今は帰れ言うとるやろ!!」
 それまで割とのんきだった音々の口調が、急に険しいものに変わった。その剣幕に、思わず真琴は一歩たじろぐ。
「……わっ、判ったわよ!」
 冷や汗を垂らしながら、真琴は部屋を飛び出していった。既に他の学生や教師は部屋を避難している。後に残ったのは美里と音々だけだ。
「まずはお友達を逃がすなんて、優しいのね。音々ちゃん」
 部屋に二人きりになるのを待っていたかのように、美里は立ち上がった。
「うわ、やめてーな。『おとねちゃん』なんて。かっちょわるー! まぁ、うちは優しくて強くてハイパーかわいい、みんなの人気者やからね」
「それだけ言えれば見事なものね。初めまして、私は橘美里。あなたのお母さんよ」
 微笑み、美里は握手を求めて手を差し出した。
「はぁ? オカン?」
 音々はすっとぼけた声をあげた。
「お、おかん? おかん、って何? 熱燗のこと?」
「オカン言うたらオカンや! あんた、人おちょくるのもいい加減にしぃや」
「おかん、ってお母さんって事ね。だって、それが真実なのよ」
「……まぁええわ。で、何かうちに用でも有るのん?」
 苦々しく溜息をつき、音々は言った。
 この人の言うことは真実だって気がする。けど、直感が警告を発している。
 この人は私の味方じゃない。
「連れ戻しに来たのよ。他に理由があって?」
「………」
 音々は何も言わない。ただ、無言で美里を睨み付けるだけだ。
「素直に帰らないなら、力づくでも連れ戻すわよ?」
「ああ、もう! ごちゃごちゃと考えるのは性に合わんわ!」
 ヤケになったように音々は叫び、そして身構える。
「やれるモンならやってみぃ? むかつく奴と喧嘩売ってくる奴は、はり倒す!!」
「……再教育が必要ね」
 呟き、美里は両手を前に突き出す。霊力が急速に収束し、真っ白に激しく輝き始める。
「橘照招来!」
 光の収束が更に強まり、一筋の槍となって音々に襲いかかる。
「ちぃっ……」
 とっさに霊力を集中させて、目の前に防御壁を展開する。だが美里の放った術は防御壁を貫通し、音々の耳元をかすっていった。背後の壁が轟音をあげて吹き飛び、校舎が大きく揺らぐ。防御壁で多少なりともコースがずれていなければ、直撃を喰らっていただろう。
「この程度の術が防げないなんて。やっぱり第二子だとこんなものかしらね……」
 残念そうに美里が呟く。
「やっぱり、華音(かのん)ほどの力は期待できないようね。残念だわ」
「……ごっちゃごちゃと、やかましいわ!!」
 言いながらも、音々は焦りを隠せなかった。力の桁が違いすぎる。真正面からぶつかっていては勝てない。
 使うしかない。精霊術を。
「あれがうちの実力やなんて思わんといてや……」
「余裕じゃない、音々ちゃん。いいわ、やってご覧なさい」
 再び美里が霊力を集中する。その光も、プレッシャーも、先程の一撃を遙かに凌駕している。
「四聖の力は五行へ連なり、八極は二極へ、太極は無へ!」
 凛とした音々の声が響く。
「陰の中に陽を導き、陽の内に陰を生じる。天から人へ人から地へ、万物の流転を我が左手に、生と死をこの右手に!」
「……それ、何かの冗談?」
 美里が失笑し、そして唖然とする。
 音々の言葉に導かれるようにして、彼女の両手に明らかに自然のものではない光が生じている。それは言葉を重ねるごとに強くなるが、何の力も感じることが出来ない。
 そう、何も感じられないのだ。魔力も霊力も。術者であれば、そういった力を感じる事は決して難しくない。それなのに、これほど顕在化している力を全く感じることが出来ないはずがない。有ってはならないのだ。
「こざかしいっ! 橘照招来!」
 再び光が収束し、最初の一撃以上の霊力を込めて美里は術を放った。
「紅の獣!」
 それと同時に音々の術も発動する。最初、音々の目の前に生じた小さな炎は、美里の術を浸食するように突き進み、炎の勢力を増していく。
「なっ、なんなの!? これは!?」
 炎は美里の術を全て無効化し、そして彼女自身へと襲いかかった。今度は美里があわてて防御術を展開する。さっきとは立場が逆だ。
「霊力も魔力も動いていない……かといって科学の力だけじゃこんな芸当はできない…………」
 髪の毛を少し焦がした美里が、足元をよろめかせながら呟く。防御術と言ってもまったくの無傷で居られる訳ではない。本来、肉体に来るべきダメージを霊力に転嫁させるだけだからだ。
「これが、木星の古代遺跡で発掘された力……古代風水宇宙陰陽術よっ!!」
 もちろん嘘。
「……古代風水…宇宙…陰陽術、ですって?」
 気が動転しているせい、という訳でもないのだろうが、美里はあっさりと音々の言葉を信じた。未知なる力をまざまざと見せつけられては、信じざるを得ないだろう。
「そう、古くはM78星雲から太陽系に伝えられた、必殺の術や」
「宇宙開発センターからは、何の報告も届いていないのに……」
 美里は歯噛みし、ひざを震わせた。
 ちなみに、先程の音々が唱えた言葉には何の意味もなく、単なるハッタリに過ぎない。神霊術にしても魔術にしても、そして精霊術にしても、いわゆる呪文と呼ばれる類の言葉は発する。しかし、それはあくまでも発動する術をイメージすることの補助に過ぎない。先程の音々の場合だと、最後の「紅の獣」という単語がそれにあたり、その前の長々とした言葉はただの演出でしかないのだ。
「これで判ったやろ? あんたの術はうちには通じへん」
 勝ち誇ったように音々が笑う。
 美里は動揺を隠せなかった。未知なるものへの恐怖は今も昔も変わらない。いや、科学という名の、全てを解き明かさんとする学問が発達している今日においては、その感情はより強まっていると言えよう。
「……ならば力尽くでもっ!!」
 恐れを振り切るように叫び、美里の身体が跳ね上がった。霊力によって高められた瞬発力で、二人の間合いは瞬時に縮まる。美里の両手に、霊力の光がグローブのように集まっていく。美里は格闘戦に持ち込むつもりらしい。
 が、それこそが音々の領分であった。
「ええねぇ。ええ動きしよる!」
 突き出された美里の拳を、音々は素手で掴んで止めた。そのまま相手の勢いを利用して、美里の身体を自分の方へと引き寄せる。
「言うても、二流やけどね」
 悪戯っぽくささやいた直後、美里の肩口に肘鉄を喰らわせ、鎖骨を折る。
「ぐぁぁっ!!」
「やぁね、お下品やわぁ」
 呟きながら美里の背後に回り、反対側へ身を翻す。美里がそれに反応する頃には、音々の両手は美里の肩と手首を掴んでいた。
「喧嘩を売る相手、間違えたみたいやね。オカン」
 肩を固定したまま、美里の腕を一回転させる。鈍い音とともに、美里の肩が抜けた。
「…っ!!」
 声にならない叫びをあげ、美里はその場に崩れ落ちた。痛みをこらえるにも、両腕に力が入らないので、頭から地面に突っ伏すだけだ。神霊術で癒やすにも、あまりの痛みで集中が出来ない。
 そんな美里の背中を踏みつけ、音々は尋ねた。
「橘って言うたなぁ……ってことは、あの橘家か?」
「………っは……く………」
 美里は何も答えない。答えようとする素振りも見せない。
「まだ余裕みたいやね。まぁええわ。ふーん……」
 風間に聞くつもりだったが、これで確定した。
 自分の出身は橘家で、上には華音と言う名の兄か姉が居る。橘家も咲夜家も女系一族だし、名前からしてもおそらくは姉だろう。
 つま先で美里の身体を仰向けに起こす。ついでに外した肩を踏みつけることも忘れない。
「………っ!」
 悶絶する美里の様態には構わず、音々は美里の胸の上に足を置いた。かかとをちょうど、胸の中央よりやや下、肋骨が途切れる辺りに添える。
「ここの骨を突き破って踏みつけるとね、多分死ねるで?」
 にっこりと微笑み、音々は言った。そして小さく息を吸い、
「はっ!!」
 と足に気合いを込める。込めるだけ。
「嘘ぷ〜!」
 添えていた足を話し、音々は楽しそうに笑い声をあげた。
「びびった? なぁ、オカン。びびった?」
 美里は何も答えなかった。痛みからかそれとも恐怖からか、彼女は完全に失神していた。
「すっご〜い!! 凄いよネオン!!」
 音々の勝利を待っていたかのように、香が飛び出してきた。
「あ、香! あんた、逃げてなかったの!?」
「いやぁ、なんか面白そうだったしぃ。それにしても凄いねー、ネオン! あのオバチャン、手も足も出なかったじゃない」
「まーね。余裕に決まってるじゃない!」

 なんて口では言うけど、余裕な訳がないじゃない。ギリギリだったんだから。
 最初の一撃にしても、紙一重でかわしたに過ぎないし、こっちからの反撃だって、初めて見た精霊術に驚いていたから隙も出来ただけ。まっとうに勝負して、勝てたかどうかなんて判らない。
 でも、うちはそんな事は口にしない。言えない。
「あーぁ。暴れたら疲れてきたわ。うち、昼寝するから、後は適当にやっといて」
「えっ? ネオン!? ちょっと授業どうするのよっ!?」
「どうせ中止やろ、校舎ボロボロやし。んじゃね〜」
 香にそう言い残し、うちは図書館へと向かった。昼寝にはあそこが最適だからだ。
 購買部でジュースを飲んで、図書館の入り口へ差し掛かったとき、
「お、ネオン! 生きとったか!!」
 上の方から風間の声が聞こえた。
 なんや思って見上げたら、風間と見知らぬ男子学生が便所の窓からこっちを見てる。
「あ、風間ぁ! ついにホモに目覚めたん?」
「誰がじゃ!! 急いで家に帰るぞ!!」
 そう言って風間は便所の奥へ(正しくは出口の方へ)消えた。それはいいとして、男子学生の方はと言えば、二階の便所の窓から下へ飛び降りてきた。あほか?
「………………っつぅっ!!」
 やっぱり足が痛いみたい。必死に叫び声をこらえてる。やっぱりあほや。
「はっ、はじめ、ましてっ! 咲夜小十郎って言います。あなたが音々さんですね!? よろしく!」
 そう言って小十郎は右手を差し出してきた。
「……手ぇ、洗ってないやんか」
「………」
 うちのツッコミに苦笑いを浮かべ、小十郎は右手を引っ込めた。
 それにしても、咲夜?
「で。咲夜って、あの咲夜か?」
「はい! たぶんその咲夜っす! 家出しましたけど」
 な、なんか暑苦しい奴。「なんとかっす!」って言う奴はこの学校にはやたらと多いけど、こいつのはなんか暑苦しい。
 見た目はさわやかなんだけどなぁ。
「あと、音々ちゃんってのはやめてな。ネオンでええわ。ちゃん付けは苦手やねん。うちの事をちゃん付けで呼んでええのは、この世でうちとあと二人だけや」
「判ったっす! ネオン様!」
 ………なんだかなぁ。
 なーんてやってると、風間が走ってきた。
「おーい、ネオン。とっとと帰るぞ。ところで、あのご婦人とは会ったのか?」
「あぁ、うちのオカンって言うあのオバハンね。一発かましといた」
 死にかけたなんて口にはしないけど。
「よし、上出来や。精霊術は使ったんか?」
「………ん、まぁね」
 精霊術の使用は、霊力の使用以上に禁じられてた。時が来るまで絶対に使うな、って言われてたけど……
「うむ、判った。とりあえずは家に戻るぞ」
 風間はそれ以上何も言わず、とっとと教員宿舎の方へと早足に歩いていった。
「あ、こら風間! ちゃんと詳しい話は聞かせてや!!」
「僕にも判るように頼みます!」

 風間とうちらの住む家は、教員宿舎に隣接して建っている。結構大きくて、七人マイナスα、今は一人居ないから六人マイナスαが住むにも充分な広さがある。
「ただいまー!」
「おかえり」
 扉を開けて呼びかけると、廊下の奥の台所から漣(さざなみ)ちゃんの声が聞こえてきた。ぱたぱたとスリッパの音をさせながら漣ちゃんが廊下を駆けてくる。
「ネオンちゃん、おかえりなさい。風間さんも一緒なんですね」
 漣ちゃんは料理をしていたらしい。剣道ルックにスリッパを履いているのがお茶目だ。
 なんて思ってたら滑ってこけた。
「……………」
「……大丈夫? 漣ちゃん」
「……うん。これくらい大丈夫」
 お面の奥で涙を滲ませ、漣ちゃんは静かに起きあがった。動作は優雅やけど、お面がマヌケっぽさを演出している。ついでに、とっても重そうだ。
「ネオン様、この人、何やってるんです?」
「見ての通り、料理。……ね、漣ちゃん、今日の晩御飯はなに?」
 どこからどう見ても料理だと思う。たぶん。これが判らないなんて、まだまだ若いなぁ。
「ハヤシライス。タマネギを刻むと目にしみるから、お面かぶってて。それでも、目にしみる……」
「うーん、そのお面じゃしみるよね……」
「それだったらすね!! ラップを顔に巻くといいっすよ!!」
 小十郎が人差し指を立てて言った。オーバーリアクションな奴なんだな……
「……それはいいアイデアですね。早速やります」
 漣ちゃんはぱたぱたと台所の方へ走っていった。
 しばらくして、何か重いものが倒れる音がした。まさか……
「あ、そだ! 巻くときに、口と鼻を巻いちゃ駄目っすよ!!」
 今頃になって小十郎が言った。
「……たぶん、口も鼻もぐるぐる巻きに巻いてるな」
「うん、うちもそう思う……」
 やれやれ。仕方ないなぁ………
 うちと風間はとぼとぼと廊下を歩いて台所に行き、ラップを巻きまくってミイラ女と化した漣ちゃんを介抱した。
 ご丁寧に、ラップの上から再びお面をかぶっていたのはさすがに予想外だった。

 この子は神楽漣ちゃん。うちより一つ年上の21歳。背はうちよりも1センチだけ高く、体重は1キロ軽い。白い肌と白い髪、そして緑色の瞳がお人形みたいに可愛い。悔しいけど、うちじゃかなわないなぁ。うちの事を「ちゃん付け」で呼んでもいい一人。
 漣ちゃんは、産まれたときから20代前半くらいの肉体だった。と言っても20代の身体で桜さんの……あ、桜さんってのは漣ちゃんのお母さんのこと。桜さんのお腹から産まれたわけじゃない。漣ちゃんは肉体を持たずに産まれてきたの。そして桜さんの身体に間借りしているって訳。二重人格をイメージすると判りやすいと思う。ただ、勘違いしないで欲しいけど、桜さんと漣ちゃんはあくまでも別人だってこと。漣ちゃんも桜さんも、あくまでも一人の人間なんだ。ただ肉体がないぶん、さっきの「六人マイナスα」っていう風にうちは思ってる。昔の桜さんの写真を見せてもらったことがあるけど、その頃は普通の黒髪黒瞳だった。漣ちゃんを産んだ時を境に、今の色に変わったらしい。らしいって言うのは、この家に来る以前の記憶を、桜さんは失ってしまっているから。本当の事は誰にも判らない。風間は有る程度のことは知ってるのかもしれないけど教えてくれない。精人絡みって事くらい、うちだって薄々と感じているけどホントのトコは判らない。
 ちなみに昼間の桜さんは、漣ちゃんが自由に肉体を使えるようにと眠っている。夜はと言えば、昼間疲れた肉体を休ませてあげるためにじっとしている。そして朝の六時くらいから漣ちゃんが起きるまでの間だけ、桜さんが肉体を自由に使っている。それが二人の一日。いつもは、桜さんがうちらの朝御飯を作り終わるくらいに、漣ちゃんは目を覚ますのだ。二人の意識が同時に目覚めることはできないって、桜さんは言ってた。
 で、詳しくは知らないけど色々と事情が有って、桜さんと漣ちゃんの身元を風間が預かっているらしい。うちにしてみれば、まぁ、頼りないお姉ちゃんみたいなものね。
 なんて事を小十郎に説明しながら、うちは漣ちゃんの剣道着を脱がしていった。それにしても、春物のワンピースの上から剣道着なんて、暑かっただろうなぁ……
「あら、どうしたの?」
 声のした方を振り返ると、洋子(ひろこ)ママが立っていた。
 風間洋子さん。風間の奥さんで、うちの育ての母親。肩に届くかどうかって程度のショートカットと、少し垂れ気味の細い目がアンバランスだなー、ってうちは思う。本人はお気に入りらしいし、うち以外はみんな似合うって言う。、
 風間が無精子症で子供が作れないから、ってわけでもないだろうけど、うちのことをホントにたくさん可愛がってくれる優しいママ。さっきの「オカン」とは大違いやね。ただ無精子症って言っても、厳密にはまったく無いわけじゃないから子づくりが不可能じゃわけじゃらしい。
 ちなみに、風間の倭高専時代の後輩で、最初の教え子の一人でもあったって聞いたことがある。
 ところで漣ちゃん。生い立ちのせいか、戸籍ってものがない。だから学校にも行ったことがない。確かにこの身体で、小学校や中学校には通えないと思う。そんなわけで、学校の勉強ってのは、うちや洋子ママが教えてきた。物覚えはいい方なんだけど、世間を知らないせいかどこかがズレてる。だから剣道着で料理したりもするんだけど。
「前略、中略、後略。そういうわけ」
「ネオン。それじゃ説明になってないって、いつも言ってるでしょ? 小十郎君もそう思わない?」
 適当に説明したうちを、洋子ママが優しくたしなめた。いつものお約束、ってやつね。でも、なんで洋子ママが小十郎の事を知ってるんだろ?
「いや、実に合理的な解説方法だと思うっす!」
「お、話が判るやん。小十郎!」
 うむ、言うこと無し!!
 なんて思ってたら、普段は垂れてる洋子ママの目尻が、一般人程度まで上がってきた。やばい。
「前略、中略、ラップを顔に巻いて窒息した。これでいい?」
「あらまあ。大変ね」
 別段驚くでもなく慌てるでもなく、洋子ママは笑った。笑うなっちゅーの、って言いたかったけど、怖いから言わない。洋子ママ必殺の中国拳法は、炸裂したら五回は軽く死ねるから。
「おお音々、帰ってきたのか。おや、小十郎君も来ておったか」
 洋子ママの後を追って来たのか、春日爺さんが姿を見せた。
「あ、春日さん。ご無沙汰してたっす!」
「元気そうじゃの。腕の調子はどうじゃ?」
 話しぶりからすると、この二人も知り合いらしい。そういや先月の終わりくらいから今月の頭にかけて、風間と洋子ママと爺さんがどっかへ行ってたのと、何か関係があるのかな? たぶん有るんだろう。
「あぁ、もうバッチリっすよ!」
「ほほ、若いというのはいいもんじゃの」
 春日琢己67歳。うちに格闘術を仕込んだ師匠。昔は偉い軍人だったけど、息子さんを亡くしてから引退した。昔は鬼と言われたそうだけど、今は恰幅のいいお爺ちゃんにしか見えない。見えないだけで、厳しいところは厳しい。普段は優しいけどね。
 うちは赤ん坊の頃から、14歳になるまで、この家に住んでるみんなと一緒にユーラシア大陸に住んでいた。と言っても、一所に留まる訳じゃなくていろんなトコを流浪してた。その間に勉強と精霊術を風間に、格闘術を師匠と洋子ママに教わった。師匠の格闘術は空手と柔術と八極拳をごちゃまぜにしたようなよく判らないオリジナルのもので、洋子ママもなんとかって名前の拳法を少しかじっていたらしい。若い頃は風間とつるんでよく暴れていたらしいし、今でも怒ったときにその片鱗を覗かせてくれる。と言っても、洋子ママに教わったのは、ごく基礎的な事を少しだけ。ほとんどは春日師匠に教わった。
 朝から晩まで、色んな勉強をして、たくさん身体を動かして、色んな地区に行った。だからうちには、小さい頃からの友達ってのが居ない。居るのは家族と、奈良に戻ってきてから出来た友達だけ。香が一番つきあいが長いのかな。
「う、ん……」
 あ、漣ちゃんが目を覚ました。
「……ハヤシライス」
 目ぇ覚まして最初の一言がそれかい!!
「あぁ、ちょうどええ匂いやで。食べ頃とちゃう?」
 投げやり気味にうちは答えた。確かにいい匂いをしている。漣ちゃんのハヤシは絶品だけど、今日のは飛び抜けて出来がいい。
「ふた鍋目、早く持って行かなきゃ」
「ふた鍋目!?」
 ちょっと待ちや! ふた鍋目ってなんやそれ!?
 昼御飯には遅いし、夕御飯には早すぎる。それやのに、ふた鍋目って……
「まさか……」
 あたしの知る限り、そんなにハヤシライスを食べちゃう人って、たった一人しか知らないの。
「早くしないと、晃司君が待ってるし」
「きゃーん! やっぱり晃司お兄ちゃん、帰ってたんだぁ!!」

 その瞬間、あたしの意識は一気に居間までワープした。あたしの家では、居間が食堂なの。はやる気持ちを抑えきれず、ちょっと乱暴に(きゃん★)居間の扉を開くと、そこにあたしの初恋の人兼今でも好きな人兼……悔しいけど漣ちゃんの恋人、その名も江藤晃司お兄ちゃんがハヤシライスを食べていた。
「晃司お兄ちゃん!!」
「や、音々ちゃん。ただいま」
 晃司お兄ちゃんが倭高専を休学して以来、四年ぶりの再会だった。


To be continued.
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