Moonshine <Pray and Wish.>
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Episode 2 はじまりの失楽園


  出会いが有れば別れがあるように、別れが有れば再会もある。
  良いか悪いかは、当人達しか知らない。
「嘘と妄想。その発覚への序章」

「いやー、風呂はいいねぇ」
 温泉に浸かりながら、晃司はしみじみとそう言った。
「親父くせぇなぁ……」
「いいじゃないか。いい物をいいって言うのは大切な事だよ」
 呟く拓也にそう答え、晃司は鼻歌を奏で始めた。しばらく前奏らしき部分が続き、そして歌に入る。演歌だ。
「………マジで親父くせぇ」
 呆れ返る拓也を無視し、晃司の歌は延々と六コーラス続いた。

「まったくなんなのよあの歌は!!あれじゃ風情が台無しじゃない!」
 浴衣姿で廊下を歩きながら、美咲は怒りをあらわにしていた。
「そんなに怒んなくたって……」
 その後ろを歩いていた詩織が、そうなだめる。
「駄目!せっかく温泉に来たんだから、もうちょっとこう、情緒ってのを大切にしなきゃ……!」
 などと言っているうちに、部屋の前まで着いた。拓也と晃司が寝る部屋の隣に、別の部屋を取っている。志帆は拓也達の部屋に居るはずだ。
 部屋に入り、明かりを点ける。当然のことだが誰もいない。布団が二つ並べられているのとテーブルセットが一式、テレビと電話、後は冷蔵庫と二人の荷物以外には何もない。
「でも、いいお湯だったよね」
 そう言って詩織は窓へと歩み寄り、外に広がる夜景を見下ろした。
「はじめてだよね。こうやって遠くに来るのって」
 見たことのない景色。船や街が灯す光。暗がりの中、かすかに波が見える海。
 どれもが新鮮な景色だった。
「……そうね」
 美咲も素直にそう答えた。
「ありがとう美咲ちゃん。私のわがままに付き合ってくれて」
 そう言って笑う詩織に、美咲は首を振った。
「別にお礼なんていいのよ。あたし達、いつも一緒だったじゃない」
「そうだね。ずっと一緒だったんだよね」
 小さい頃から、ずっと美咲と一緒だった。修行の日々も、それ以外も。
「二人だったから、今までやってこれたんじゃない」
「うん……」
 美咲の言葉に詩織はうなずいた。辛いことは二人で半分にし、嬉しいことは二人で倍にしてきた。
 だから、今まで頑張ってこれたんだ。
 今思い返してみて、しみじみとそう思う。
 そんなことを考えていると、不意に美咲が背後から詩織の両肩を抱いた。
「だってあたし、詩織のことが一番好きだもん」
 美咲の言葉に、何のためらいもなく詩織も頷いた。
「うん、私も美咲ちゃん好きだよ」
「あたしは詩織が望むのならなんだってするわ。だから咲夜家を出て遠くへ行きたいって言った詩織の願いにも賛成したわ」
 言葉が紡がれるに従い、美咲の腕の力が徐々に強まっていく。
「み、美咲ちゃん……?」
「だってあたしには詩織しかいないんだから。詩織が側に居ないなんて考えられないんだから……!」
「ちょっと……キャッ!」
 美咲に布団の上に押し倒され、ようやく詩織は事の異常さに気づいた。
「だってあたし達は元々一つだったんじゃない。お互いを求め合うのは当然よ」
 そう言いながら、美咲の手は浴衣の隙間から詩織の肌をなで回す。手は次第に胸の方へとすすみ、グラマーな美咲に比べれば小振りな、詩織の乳房を弱い力で弄ぶ。
「や、やめて……」
 逆らおうとするが、要所を押さえられているため身体に力が入らない。もとより、詩織は美咲より非力だ。
「どうして? 詩織もあたしの事好きって言ったじゃない。拒む理由なんてどこにあるの?」
 詩織の耳元で、そう囁く。
「あたし達、生まれたときからずっと一緒だったじゃない。あたしは詩織のことなら何でも知ってる。何でも知ってて、詩織のことが好きなのよ。あたし達はお互いが居ないと駄目なの。あたし達には、お互いが一番大事なんじゃない」
 手を休めることなく、美咲はそう囁き続けた。
 そうなのかもしれない。何を失っても、美咲さえ居ればそれでいいのかもしれない。今までだって、ずっとそうだったんだから。
 風呂上がりのせいか美咲の行為のせいか、身体が火照って頭が回らない。だけど、美咲の囁く言葉を聞いていると、それだけが正しく思えてくる。
 詩織の抵抗が徐々に弱まってきた。それを感じとった美咲の口元に微笑が浮かぶ。
「………そうよ。あんな奴に渡さないんだから」
「………晃司がメシにしようって言っ………」
 その瞬間、時が凍り付いた。いつの間にか開いていた扉と、いつの間にか立っていた拓也。
「いやその、着替えとかに出くわしたら面白いかなーとか、少しは思わなかった訳じゃないんだけど、あー……」
 立ちすくんだままそんな言葉を続ける拓也を、美咲が一睨みする。
「失礼しました」
 反射的にそう言うと拓也は後ずさりし、扉を閉じた。
 ぱたん、と間抜けな音が響く。
「い…………いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 美咲でさえも聞いたことの無いほどの大声で叫び、詩織は美咲の身体をはねのけた。浴衣の乱れも気にせず、拓也を追って廊下へ飛び出す。
 拓也は呆気にとられたまま、ゆっくりと廊下を歩いていた。
「た、拓也さん!違うんですさっきのは………」
「あ、いや。別にいいと思うよ。ほら、あんまり嫌そうでも無かったし」
 気まずさからか、拓也は詩織と目を合わせようとせずにそう言った。
「そんな……」
「うん、ほら、その。目のやり場に困るし、俺、晃司が待ってるから」
 最後まで拓也は詩織と目を合わせようとしないまま、その場を離れていった。
 だからこの時、拓也が詩織の涙を見ることは無かった。

 しばらく後、美咲は様子を見に廊下へ出た。
 詩織はその場にうずくまり、震えながら涙を流し続けていた。
「詩織………」
 美咲がさしのべた手は無言で払いのけられ、詩織は部屋へ飛び込んでいった。
「ごめん」
 ドア越しにそう話しかけ、美咲は部屋に背を向けた。

「ん? どうしたんだい?」
 居酒屋にしか見えない食堂で、晃司は先に食事を採っていた。スパゲティと天ぷら、そして天津飯。傍らに置かれたビンは日本酒。
「いや……ちょっと驚く現場に遭遇してね。それより、その脈絡の無いメニューは何だよ」
「メニューの中で、食べたかったベスト3を全部頼んだだけだよ。で、ひょっとして美咲ちゃんが詩織ちゃんを襲ってたとか?」
 晃司の言葉に、拓也の顔が露骨にひきつる。
「……まさか図星?」
「そのまさかだよ」
 溜息混じりに拓也もテーブルに着いた。
「うーん、姉貴から咲夜家の内部は乱れてるとは聞いてたけど……」
 さすがに晃司も驚いたらしく、食事の手が止まってしまっている。
 咲夜家は基本的に女系家族である。外部との接触もそう多くは無い。中枢に近づけば近づくほどその傾向は強まり、志帆のように外で活動するものはごく一部だ。当然異性との接触も少なく、結婚相手も咲夜家の縁者の中から見合いでというのが咲夜家では一般的である。近親婚によると思われる先天的な障害を持つ者も、世間一般よりは多いらしい。
 そんな環境が原因がどうかは判らないが、咲夜家には同性愛者が多い。単純に同性しか愛せない者や、同性でも愛せる者など様々である。
 理沙から聞いただけではあったが、そんなことを晃司は拓也に話した。
「そんなわけで、かなり乱れてるらしいよ」
「それはあんた達の見方でしょ」
 拓也が入ってきたのと同じ入口から美咲が姿を見せた。
「……お前らって、つくづくその登場の仕方が好きらしいな。気配殺して背後から、演出たっぷりに『話は全部聞かせて貰ったわ』みたいにさ」
 皮肉たっぷりに拓也が言う。
「どうせ気付いてたんでしょ? 二人とも」
「まあね。僕らもプロだから」
 日本酒のビンを手に取り、用意してあった空のグラスに注ぎながら晃司が応じた。そして、八分目まで注がれたグラスを美咲のほうに差し出す。
「どう?」
「……懲りたわよ」
 と答え、グラスを拓也の方へ押しつける。
「だいたいあの時、無理矢理飲ませたのはあんたじゃない」
 美咲が言ってるのは昨晩の居酒屋での件らしい。
「晃司、そうなのか?」
 拓也に問いつめられ、晃司は視線を遠くの方へ送った。
「イヤよイヤよも好きのうち、って言うよね?」
「却下」
 間髪入れずに、ぴしゃりと拓也は言い放つ。
「……最初の二秒は嫌がってたみたいだけど、後はぐいぐい飲んでたんだよぉ」
「免疫無いからすぐに酔っぱらっちゃったのよ!!」
 かなりムキになって美咲が怒鳴る。
 そこで会話が途切れた。誰も、それに次ぐ言葉を思いつくことが出来ない。
「あー………」
 意味もなく拓也が声を上げる。が、それに続く言葉がない。
「オチが付いちまったな」
 ようやくそれだけを口にし、気まずそうに頭を掻いた。
「で、詩織ちゃんは?」
 さらりと晃司が尋ねた。拓也と美咲の表情が瞬時に硬くなる。
 敢えてその話題は避けていたのに。
「あ、大体の所は拓也から聞いたし、僕の予想の範疇を超えてもいなかったから全然大丈夫」
 にこやかにそう補足する。
 美咲は拓也を睨み付け、
「……お喋り!」
 そう吐き捨て、乱暴にグラスを手に取り、一気に中身を飲み干した。
「詩織はあたしだけのものよ! 誰にも渡さないんだから!! あんたにも!母さんにも!桜花様にも!!」
 一気にまくしたて、美咲は拓也達に背を向けた。
「あ、美咲ちゃん。どうでもいいことかもしれないけど……」
 晃司が呼び止める。
「気付いたと思うけど、それ、ただの水だよ」
 ボソッと言った晃司の言葉に、美咲の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。
「おちょくってるわけ!?」
 美咲はそう怒鳴り散らし、怒りで肩を震わせながら食堂の外へと飛び出した。
 が、入口の所で入ってきた女性と鉢合わせになる。
「あっ!」
 前を見ていなかったのか、美咲は派手にこけた。ぶつかられた女性の方は無事らしい。拓也と同じ年頃の、軽装の女性だ。衝突したときの身のこなしからして、雇兵のようだ。
「大丈夫?」
 心配そうに女性が手を差し出す。美咲がその手を掴むと、女性は美咲の手を掴んだままで拓也達のテーブルへと引きずっていく。
「絵里……榊絵里か!?」
「拓也!?」
 声は同時に発せられた。拓也も、絵里と呼ばれた女性も、眼を丸くしてお互いの姿に魅入っている。
「……三年ぶりだな」
「そうね。もうそんなに経つのよね。そこ、いい?」
 拓也の向かいを差し、絵里は尋ねた。
「ああ。座ってくれ」
 拓也が頷くのを確認してから、絵里は席に着いた。手を掴まれたまま、美咲もその隣へと座る。
「あ、忘れてたわ」
 そう言って笑い、絵里は美咲の手を放した。
「どういう知り合いなんだい?」
 それまで成りゆきを眺めていた晃司が尋ねる。
「……晃司と逢う前に組んでたんだ。雇兵訓練所で、俺の方が三日だけ後輩だった」
「そのおかげでずいぶん威張らせてもらったわ」
 絵里が苦笑する。が、拓也の顔は先程とは打って変わり、沈みきっている。
「まだ隆一と組んでるのか?」
「うん。拓也が抜けてから、ずっとね。何人か入ったり抜けたりしたけど、今は二人だけよ」
「隆一って?」
 美咲が尋ねた。慣れない雰囲気に飲まれたせいで逆に落ちついたらしい。或いはただの好奇心かもしれない。
「隆一も訓練所時代からの付き合いよ。隆一と彼の妹さんの佳代ちゃんとあたし、そして拓也の四人は、訓練所時代からの仲間だったの」
「過去形だけどな」
 ぼそりと拓也が呟く。
「あたしは今も仲間のつもりよ、拓也」
 それまで明るい口調を保っていた絵里だったが、ここにきて初めて寂しげな顔を見せた。
「……それより、どうしてここに居るんだ? 月側に付いたのか?」
「そうよ、拓也が離れてすぐにね。もうすぐ、ちょっと大きいクライアントから仕事貰えそうなの。拓也は今も地球側?」
 尋ねながら、絵里は空いたグラスを手に取り、日本酒のビンに入った水をグラスに半分ほど注ぐ。それを一口飲み、怪訝そうに眉をひそめる。
「やだ、これ水じゃない」
 そんな絵里の様子に拓也は思わず失笑した。それを境に、拓也の表情が若干和らぐ。
「ああ。住み慣れた街を離れたくないんでね。大阪が月に占領されればその時は考えるさ」
「二人の話から察するに……」
 晃司が割り込んできた。
「単刀直入に聞くけど、佳代ちゃんって方は故人?」
 その質問に、二人は沈黙で答えた。そのまま、誰も口を開こうとしないしない。
 そんな沈黙を破るように銃声が響いた。いつの間にか入口の所に立っていた男が、拓也達の方へと拳銃を突きつけている。
「絵里、何をしている?」
「隆一……」
 男、隆一の構える拳銃の銃口は、まっすぐに拓也へと向けられている。
「絵里に当たるとまずいからな。今のは威嚇だ」
 隆一は拓也より若干年上のように見える。無表情に、と言うよりは無理矢理に感情を押し殺し、冷めた目つきで拓也を睨み付けている。
「隆一、やめ……」
 駆け寄った絵里を突き飛ばし、隆一は足早に拓也の方へ歩み寄った。拓也は隆一と目を合わせようとせず、ずっとうつむいている。
 そんな拓也の頬を、隆一は全力で殴り飛ばした。拓也はテーブルの上に打ちつけられるが、抵抗しようとはしない。その拓也の背を、今度は蹴り飛ばす。
「やめて!」
 後ろから押さえにかかった絵里を、隆一はまたも乱暴に振りほどいた。
 だがその一瞬の間に、今度は晃司が隆一に銃を突きつけていた。
「そこまでで辞めて貰おうか。僕としても、相棒が痛めつけられるのを黙ってみているわけにはいかない。だいいち、拓也にはこの子を守るっていう仕事の真っ最中なんだ」
 突きつけられた拳銃に脅える様子もなく、隆一は晃司を睨み付けた。
 優位に有るのは自分の方なのに、何故か寒気を覚える。そんな視線だ。
 晃司が隆一の視線にそんな印象を抱いている間に、拓也がゆっくりと立ち上がった。
「……やめろ、晃司。隆一には権利があるんだ」
 そう告げた拓也を、隆一は更に殴りつけた。二度、三度、殴り、蹴り、晃司も絵里も、その狂気じみた迫力の前に、一歩も動けなかった。
 ただ一人、美咲だけが晃司の銃を奪い取り、天井めがけて引き金を引いた。二度目の銃声が室内に響きわたる。
「や、やめなさいよ! それ以上やったら死ぬじゃない!」
 膝を震わせてそう叫ぶ美咲に、隆一は冷めた笑みを浮かべた。
「いいんだよ。だってこいつが佳代を殺したんだから」
 床に倒れている拓也の腹を、勢いよく踏みつける。もはや拓也の口からは、うめき声さえ漏れてこない。気を失っているらしい。
「こいつに人が守れる訳がない!!」
 そう叫び、後は堰を切ったように激しく拓也を蹴り続けた。
「いい加減に……」
 止めに入った晃司に、隆一は膝蹴りを喰らわす。蹴りは晃司のみぞおちに鋭く突き刺さった。が、晃司の方も左手で隆一の首を抱え込み、懐から取り出したナイフを首筋に突きつけている。
「……いい加減にしてくれないかな」
 ここに来てようやく隆一は拓也への責めを止めた。それを確認し、晃司は拓也をかばうように一歩後ずさる。
「次が有ったら殺すよ」
 隆一の目を真っ直ぐに睨み、晃司は言う。
「……無いことを願うさ。二度とそいつの顔を見たくない」
 そう吐き捨て、隆一はその場に背を向けた。絵里もその後を追って食堂を出ていく。
 それを見届け、晃司はその場に崩れ落ちる。さきほどの蹴りが効いているのか、呼吸が荒い。
「美咲ちゃん。拓也を美咲ちゃん達の部屋に運んでくれないか?」
 拓也は気を失ったまま起きる気配がない。口元からは、微量ではあるが血も流れているようだ。
「え、でも……詩織が……」
 先程の事があるので美咲は躊躇したが、
「事情は判らなくもないけど、この際いちいち言ってられないからね」
 極力クールにつとめつつ晃司は言い放った。美咲は頷き、拓也の身体を引きずるようにして外へ運んでいく。
「まったく、こいつは効くよ」
 蹴られた所を片手で押さえながら、晃司も一緒に拓也を引きずり始めた。

 ほんの数分が実に長く感じられる。
 食堂を出てからしばらくして、呼吸が整った晃司が拓也をおぶっているのだが、陰鬱な気分のせいか、やけに廊下が長く思える。
「晃司さん、拓也の昔のことって知らないの?」
 ぼそりと美咲が尋ねた。
「あまり知らないんだ。話したくないみたいだったし、別に興味も無かったから」
 考えてみれば、昨日、部屋の窓から飛び込んでくるまで、まったく知らない人間だったのだ。当然、それ以前の拓也の事なんて何も知らない。
「……そんなもんよね」
 ぼそりと呟き、気絶したままの拓也の顔を眺める。
(何よこんな奴)
 あたしの方が十九年も長いんだから。あんたの知らない詩織を、あたしはたくさんたくさん知ってるんだから。
「あたし、何をイライラしてたんだろ」
 そう呟いた美咲の顔を、晃司がしげしげと眺めていた。
「ん? 何か付いてる?」
「あ、いや。そんな顔で笑うんだなって思って」
「何よそれ」
 そう言いながらも、美咲の顔はずっと笑みを浮かべたままだった。
 気が付けば、晃司の沈んだ気分もかなり楽になっていた。
 だが、美咲達の部屋の前で、再び美咲の表情が翳った。
「僕が先に入るよ」
 美咲の心情を察し、晃司がそう言い出した。
「……うん、お願い」
 彼女が頷いた直後、晃司はノックも無しに扉を開け放った。
 室内では、詩織が放心したように立ち尽くしていた。その視線は窓の向こうに広がる夜景へと向けられている。
「悪いね。ちょっと拓也がやっかいなことになっててね」
 晃司の言葉に、それまで微動たりしなかった詩織の身体が、ゆっくりと入口の方へと向けられる。そして拓也の姿を確認すると同時に、急に生気が戻ったように駆け出す。
「拓也さん!? どうして……」
「詳しい話は美咲ちゃんから聞いてもらえるかな。とりあえず今晩はここで休ませてやって欲しいんだ。それじゃ」
 そう言い残すと、晃司は返事も聞かずに廊下に出て扉を閉めた。
「えっと、とりあえず拓也さんを布団に……」
「う、うん」
 詩織に言われ、美咲は拓也を布団へと横たわらせた。その間に詩織は氷水を張った洗面器と濡れタオルをいくらか用意している。
「どうして……」
 濡れタオルとは別に用意した、普通の乾いたタオルで、拓也の口元から流れる血を拭う。口の中を切っただけらしく、さほど多い出血ではない。
 殴られた頬を濡れタオルで冷やすだけの手当だが、何もしないよりはずっとマシだろう。しばらく冷やしては洗面器の氷水でタオルを冷やし直す。
 そんな中で、美咲は先程の出来事を詩織に話していた。
 晃司と二人で、拓也を部屋まで運んできたという辺りまで来たとき、拓也が口を開いた。
「あいつの妹……佳代を殺したのは俺なんだよ」

 拓也達は、訓練所でも割と名の通った四人組だった。
 訓練所最年少ながらも、訓練所始まって以来の霊術士と言われた拓也。
 白兵戦にも銃撃戦にも、過去に例を見ないほどの優れた成績を示した隆一。
 ナイフと魔術の連携による、手数で右に出る者はいないと言われた絵美。
 そして他の三人ほど才には恵まれなかったものの、水準以上の魔力と、なによりも愛らしい性格で皆の人気者だった佳代。
 まず拓也と佳代が意気投合し、その兄である隆一も含めて三人でつるんでいた所に、絵里が溶け込んできた。
 最年長の隆一がいつも場を仕切ろうとしたが、たいていは一つ下の佳代がうまくまとめていた。四年前、訓練所に入ったばかりだから、拓也が十七歳で隆一は二十二歳。絵里と佳代は同い年で二十歳だった。
 四人は訓練所を総合的には並程度、部分的にはトップの成績で修了。そのまま雇兵部隊としてチームを組んだ。隆一と絵里がフォワード担当で、拓也と佳代がバックアップ担当である。
 初任務は広島戦線の維持。後方の神戸基地から正規軍が到着するまでの二十四時間を、六チーム交替で防衛するだけの、さほど難しくはない任務だった。拓也達が担当するのは12:00〜16:00と視界も充分な時間帯で、危険性は少ないはずだった。
 そう思っていたのが間違いだったのだ。次のチームと交替する時間が迫っていたせいで、「初任務、成功だな」と気を緩めていたことも間違いだったのだろう。
 突如として攻勢に躍り出た月政府軍の前に、地球政府側の雇兵部隊はパニックに陥った。
「俺が後ろから援護するから、絵里が先頭を切って退路を確保してくれ。拓也は佳代を守ってやれよ」
 愛用のライフルに弾丸を装填しながら隆一は言った。
「あぁ、任せてくれよ」
「期待してるね。拓也くん」
 強気に答えた拓也に、佳代はそう言って笑った。
 それから数分後、佳代は流れ弾を頭部に受けて即死したのである。

「それがなんで拓也が殺したことになるのよ!?」
 拓也の話を聞き終えて、最初に口を開いたのは美咲だった。憤りをあらわに、大声をあげる。
「俺が守ってやれなかったから……せめてもう少し物陰に沿って移動してれば良かったんだ」
「そんなの、はっきり言って運が悪かっただけじゃない!!」
 美咲はそう言ったが、拓也は弱々しく首を振った。泣いているのか、それとも目に当てられたタオルの水が流れただけか、拓也の目元から一筋何かが流れた。
「……腹、減ったな」
 ぽつんとそう呟く。
「あ、それじゃ私、何か貰ってきます」
 詩織が即座に立ち上がった。
「んじゃ、あたしはもう寝るわ。こんな気分の時は寝るに限るの!」
 拓也の横たわっている布団から、自分の布団を引き離し、美咲は早々に布団に潜った。詩織が廊下へ出る音を聞き届け、
「襲ったら殺すわよ」
 と言い残し、それきり黙り込んでしまった。
 どっちをだろう? と拓也は思ったが、それを口にするのはやめた。

 部屋を出てすぐの所に、志帆と晃司が立っていた。志帆が憮然とした表情で何かを尋ね、晃司はいつもの笑みを浮かべながらそれに答えている。
「あ、詩織ちゃん。拓也は起きた?」
 詩織に気付いた晃司が話しかけてきた。
「はい。お腹が空いたそうなので、何か貰いに行こうと思って。晃司さん達はここで何を?」
「見ての通り、ナンパ」
「違います!!」
 しれっと言ってのけた晃司に、すかさず志帆が大声を上げた。そんな彼女に、晃司は立てた人差し指を口元に唇に当て、「静かに」とゼスチュアで示す。
「もう夜遅いんだから、静かにね」
 小さな声でそう言い、にっこりと笑う。
「冗談はさておき、部屋のガードだよ。昨晩の船でもそうだったんだけど、僕と拓也が交替でやってたんだよ。で、拓也がダウンしちゃったから、急遽代役を頼んだって訳さ」
「あ……そうだったんですか」
 昨晩はいろんな事が急に起きて疲れていたことや、乗船したのが遅かったこともあり、船室に入ってすぐに眠ってしまったから気付かなかった。
「あの……ありがとうございます」
 二人に向かい、詩織は深々と頭を下げる。
「いやいや、礼なんていいから。僕達はここを離れられないから、早く食堂に行っておいで」
「はい!それじゃ行ってきます」
 元気良く頷き、詩織は早足にその場を去った。
 それを確認してから、再び志帆は尋ねた。
「……それで、拓也さんって何者なの?」
「秘密。と言うか、僕も姉貴から聞いただけだから、本当の所がどうなのかは判らないんだ」
「それでもいいわ」
 まっすぐに晃司の眼を見据え、志帆はじわじわと詰め寄る。晃司も表情を引き締め、その視線を真っ向から受けとめる。
 ちゅ。
 接触はほんの一瞬。
「うーん、いい感じ」
「………!!」
 再び表情を緩めた晃司に志帆は声にならない悲鳴をあげ、一息の間をおいて平手打ちを喰らわせた。乾いた音が廊下に響き、志帆は肩を小刻みに震わせている。
「……怒った?」
 答える代わりに、志帆は一筋の涙を流した。
「ごめん」
 これまでになく真剣に、晃司は頭を下げた。
「こういう反則技はもうやめにするよ。でも、あいつが何者かを君に聞かせるわけにはいかない」
 そう言いながら晃司は、志帆の身体を無理矢理に抱き寄せた。あらがう志帆の耳元に、晃司は口を寄せる。
「だから聞かなかったことにして聞いて欲しい。いいね?」
 そう囁かれ、志帆の抵抗が止まった。しばらく考えた後、小さく頷く。
「もしかして、橘の人間? それも嫡流…」
「いや。姉貴の見込み通りなら、拓也は桜花の実子だ」
 志帆は一瞬、自分の耳を疑った。
「……嘘、そんな話は……」
「さあね。だが今から約二十年前、桜花は確実に一人の子を産んでいる筈なんだ。嘘だと思うなら、詩織ちゃん達の母親に聞いてみればいい。多分知ってるはずだから」
 晃司はそう言ったが、それが自分の立場を、ひいては命さえも危うくすることが、志帆には重々判っていた。
「でもまだ続きがある。別の説では、拓也は樹華がこの世界に産み落とした唯一の息子かもしれないんだ」
 樹華。桜花や橘花に匹敵する力を持つ、咲夜家にも橘家にも属さない精人。この世界の言い方を借りれば、桜花の妹にあたる存在だと聞いている。
 その目的も居場所も、一切が謎に包まれている筈だった。そのせいか、志帆はこちらの説にあまり現実味を感じなかった。
 仮に樹華の子という説が正しいにしても、彼女の目的が判らない。志帆が知る精人という存在の行動原理では、何の目的もなしに子を為すはずがないのだ。かつて桜花から聞いた話では、樹華は監視者の筈だ。桜花と橘花の戦いを監視するだけの存在に、勢力となりうる存在は要らない。力を継ぐ子は要らない筈なのだ。
 だから、志帆の中では拓也が桜花の実子という説の方が有力に思える。
(もし、あの青年が桜花様の実子だとしたら?)
 その言葉が脳裏をぐるぐると回り続ける。
「実際のところ、まだどちらにも決め手となる情報はないんだけどね。何にせよ、あいつの力は普通の人間のそれじゃない」
「……そうですね。それは認めます」
 半ば惚けながらも、ようやくその言葉だけを絞り出す。
「さっきも言ったけど、聞かなかったことにして欲しいんだ。拓也には追って僕から話すつもりだし、それよりも君の身も心配だからね。気付いてるんだろ? 桜花の、そして咲夜家の中に巣くっている狂気にさ」
 そこで晃司はいったん言葉を切る。
「わた……」
「いや、答えなくてもいい」
 乾いた唇で何か言いかけた志帆の肩を、晃司は軽く叩いた。
「自覚があるのなら救いようはあるし、でなきゃ僕の知った事じゃない。まっ、そんなわけで、僕は何も言わなかったし、君は何も聞かなかった。OK?」
「……ええ」
 沈んではいたが、しっかりと意志の篭もった口調で志帆は頷いた。

 食堂に着いた詩織の前に、一人の女性が居た。
 女性は、派手に散らかった食堂の中を一人で黙々と片づけていた。詩織に気付いた女性が、詩織の顔をまじまじと眺める。
「あら、貴女さっきの……あ、違うかな?」
「え? なんでしょうか?」
 どうも女性の口振りからして、詩織の事を知っているらしい。
 ふと、そこまで考えたところで思いついた。
「もしかして、榊絵里さんですか?」
「え、うん。そうだけど……」
 不意に名前を言われ、今度は女性----絵里が驚く番だった。
「さっきは姉が失礼したそうで。はじめまして、咲夜詩織です」
 名乗ると同時に、絵里に向かって一礼する。
「あ、さっきの女の子の妹さん? ふーん、美咲ちゃんって言うんだ。あ、でも、歳は離れてないみたいだけど?」
「私達、双子なんです。なんとなく、美咲ちゃんが姉さんってことになってるんですけど」
 そう説明して、詩織は笑う。
「ふふ。なんとなくあの子の人となりが判ったような気がするわ」
「ところで、これ……」
 呟いて、詩織は食堂の中を見渡す。テーブルがいくつか倒れ、料理や飲み物が床に散らばっている。
「ごめんね。拓也、大丈夫だった?」
「今、部屋で休んでます。割と大丈夫そうでしたよ」
 そう言って詩織は微笑んで見せた。大丈夫なわけがない。心身ともに、かなりのダメージを受けているのは確かだ。だが、それをここで言ったところで、絵里が余計に気を回すだけだ。
「そう。それだったらいいんだけど」
 安心したように絵里は一息付いた。
「ところで、こんな時間にどうしたの? 食堂はさっきの騒ぎで営業辞めちゃったわよ」
「ちょっと喉が渇いたんですけど……」
 拓也のことは伏せた。それよりも話のきっかけが欲しかった。
「お水でいい?」
「あ、はい」
 詩織が頷くと、「ちょっと待っててね」と言って絵里は厨房の奥へと入っていった。しばらくして、水の入ったグラスを二つ持ってきた。
「あたしも休憩にするわ。どう、ちょっと座っていかない?」
 倒れた椅子を二つ立て、絵里はその片方に座った。詩織もその隣に座る。
 水を一口のみ、のどを潤す。喉が渇いていたのは事実だ。
「……あの、ちょっと聞きたいんですけど、いいですか?」
「拓也のこと?」
 意を決して尋ねた詩織の心中を見透かしていたように、絵里が言った。
 詩織が無言でいると、
「いいわよ。あたしが知ってることなら話してあげる」
「……亡くなった佳代さんって、どんな人だったんですか?」
 その質問に、絵里は目を丸くした。そして次の瞬間には、寂しそうにグラスに視線を送る。
「そう、聞いたのね」
「拓也さんは、自分が佳代さんを殺したって……そう言ってました」
 しばらく絵里は、何も言わずに手に持ったグラスをもてあそんでいた。
「佳代さんは、誰にでも優しい人だったわ。日溜まりで子犬の散歩をしてるのが似合うような、そんな人。どうして佳代さんが雇兵になろうなんて思ったのかは判らないけど、全然似合ってないって、あたしと拓也でよく言ってたわ」
 懐かしむように絵里は言うと、寂しげにため息を付いた。
「その、佳代さんと拓也さんって……」
 そこで詩織は言葉を濁らせた。
「……うん、多分詩織ちゃんが考えている通りだったわ。隆一も二人のことを認めててね、いつも二人で一緒にいたわ」
 グラスを見つめながらそこまで話し、絵里は詩織の方に視線を送った。
 さっきまでの自分と同じようにグラスに視線を落とし、唇を一文字にして話を聞いている。
「拓也のこと、好きなの?」
 単刀直入に尋ねられ、詩織はハッと顔を上げた。が、すぐに再度グラスに視線を落とす。
「………判りません。昨日逢ったばかりですから」
 そんな詩織を見て、絵里は優しげな微笑を浮かべた。
「いいこと教えてあげる。拓也はね、凄く寂しがりやなの。肉親と一緒にいる時間が短かったからかもね。だから、その寂しさを埋めてくれる人なら、誰でも好きになるわ」
「誰でも、ですか?」
「そ。でね、一度『この女だったら、俺の寂しさを埋めてくれる』って思ったら、後はひたすら一途に愛してくれるわ。佳代さんのときがそうだったみたいにね」
 拓也の口調を真似つつ、絵里はそう詩織に語った。
「拓也が佳代さんのことをまだ引きずってるんなら……たぶん引きずってるんでしょうけど、その寂しさもひっくるめて埋めてあげればいいの。もっとも、詩織ちゃんが拓也のことを好きだったら、って話だけどね」
 笑いながら絵里は言った。だが、詩織は絵里の話を聞いてもずっとうつむいたままだった。
 この感情は何なのだろうか。人を好きになるっていうのは、こういう感情のことなのだろうか。だとしたら、なぜ?
 考えていても、答えは出そうにない。しばらくして顔を上げ、
「絵里さんは隆一さんと、その……」
 話題を変えようと詩織はそう尋ねた。照れたように肯定するんだろうという詩織の予想とは裏腹に、絵里の笑いは一気に冷めていく。
「……そんなんじゃないわ」
 そう言い、辛そうに溜息をつく。
「ね、詩織ちゃん。雇兵も正規兵も、戦闘に参加すれば死ぬ可能性は有るわよね。あたし達はそういう覚悟をした上で、戦場へ向かっているの。で、戦場から引き揚げて、いつ死ぬか判らない緊張感から解放されるでしょ。そんな時って、まずは安堵感と人を殺してきたっていう罪悪感、それから何故だか判らないけど、孤独感にさいなまされるの」
「孤独感、ですか?」
 いまいち実感が湧かないといった風に詩織が尋ねた。
「そ。でね、戦場で研ぎすさまれた……なんて言うのかな、野生の衝動って言うか本能みたいなものが、こうギラギラとしているワケよ。そんな時にセックスしたとして、それを恋愛感情に基づいてのことだと思う?」
「そ、それは……」
 詩織はうつむき、顔を赤らめながら答える。セックスという単語に過剰に反応したらしい詩織に、絵美はある種のなつかしさを感じた。
「さっきさ、あたし、拓也が『誰でもいい』って言ったけど、あれは間違いね。だって拓也の場合は寂しさを埋めてくれる人でないと駄目なんだもん。誰でもいいのはあたし。あたしの場合は、帰ってきたときに側にいる人なら、好き嫌い関係ないもん。いくら引け目があるって言っても、あんな……」
「引け目?」
 詩織に言われ、絵里はハッと表情をこわばらせた。そして気まずそうに口元を歪める。
「少し喋りすぎたみたいね。ここはあたしが片づけるから、早く寝なさい」
 詩織が何か言うよりも早く絵里は席を立ち、周りに散らばる食器の残骸を片づけ始めた。そんな彼女の背中を見ていると、詩織はその場から立ち去ることしか出来なかった。

 部屋の前には晃司だけが立っていた。
「あぁ、遅かったじゃないか」
 夜も遅い筈なのに、まったく眠そうな素振りを見せずに晃司は詩織を出迎えた。
「すいません。結局何も見つからなくて……あの、志帆さんは?」
「家に帰ったよ」
 悪びれた様子もなく、晃司はさらりとそう言った。あまりに唐突なことに、詩織は口をぽかんと開けたままで立ち尽くしている。
「色々と事情も有るのさ。さ、もう寝た方ががいいよ」
「は、はい……」
 まだちょっと狐に包まれたような気分で、静かに扉を開けて部屋に入る。
 美咲は部屋の隅で、布団に潜って眠っているようだ。
「ごめんなさい。何も見つからなくて……」
 美咲を起こさないように小声で言う。が、拓也は何の反応も示さない。
「あの……」
 今度は拓也の傍らに座って話しかける。が、そこで言葉は途切れた。
 拓也は再び眠っていた。腕時計を見ると、さっき部屋を出てから既に三十分ほどが過ぎている。
 頬を冷やしていた濡れタオルもすっかり生ぬるくなっていた。とりあえず、布団脇に置いておいた洗面器の水で再度冷やし、改めて拓也の頬にあてがう。
 拓也は微動たりせず、静かに寝息をたてている。そんな彼の姿を見ていると、なぜか心が安らいでいくのを感じる。
「ふふっ」
 そんな自分がなんだか嬉しくて、詩織は思わず笑ってしまった。
(まるでお母さんになったみたい)
 そう自覚すると同時に、いつかどこかでこうしていた、そしてこうされていた様な既視感に捕らわれる。
(でも……)
 でも、私はお母さんにはなれないんだ。

To be continued.
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