〜 リュウイン篇 〜

 

【第98回】

2007.01.27

 

 やがて、リュウカはひとつの扉の中に入った。

 また、轟音が響いた。

 何か重たいものが落ちて転がるような音である。

 入ったきり、出てこない。

 轟音だけが、繰り返される。

 エドアルはおそるおそる覗いてみた。

 甘い粘りつくような匂い。樽がぎっしりと並んでいる。

 リュウカは剣を握っていた。その刃には、ぬめるような光。いかにもずっしりと重そうで、もしエドアルなら振り回すことはおろか、逆に振り回されそうな気がした。

 刃が振り上げられ、振り下ろされた。

 樽がまっぷたつ!

 と思ったが、期待を外れ、太いロープの封を切り落としたに留まった。

 樽の栓を抜き、まくりあげたドレスの下から足が伸び、樽を蹴り倒した。

 重く低い音が響いた。いつまでも響いた。イヤに耳につく響きだった。

 中から、赤黒く粘りけのある液体が流れだした。それはあたかも、心臓の脈打ちに合わせて噴きだす血の海だった。甘い匂いが強さを増した。

 エドアルはくらくらした。吐き気がこみあげ、その場にすわりこんだ。

 リュウカはひとつ、またひとつと樽の封を開け、転がしていく。

 魔物だ。

 魔物に取り憑かれたんだ。

 誰か、これは夢だと言ってくれ! 悪い夢だと!

 しかし、強く甘ったるい匂いが、イヤというほど現実を突きつけた。

 ならば、せめて! せめて誰か、止めてくれ!

「リュウカ、それぐらいにしとけよ」

 弦に似た声が、からかうように響いた。

 薄暗がりに、白っぽい髪。背の高い異国の風貌。

 救いの神のように見えた。

「うへえ。こりゃあ、後始末がたいへんだぜ。あんたもつきあえよ。自分の粗相なんだからな」

 恐れを知らない不敵な笑み。神にしては悪意に満ちていると思った。

「おまえ、どうして」

 リュウカが首をかしげた。鬼気迫る勢いは消えている。すべては夢幻であったかのように。

「リズに聞いたぜ。いくら嫌いだからって、ここまでやらなくてもいいだろ。リズのじーちゃんには、オレから頼んどくからさ」

「宰相ではない。国王の命令なのだ」

 リュウカの目に、一瞬殺気のようなものが走った。

 狂気が再燃するように思えて、エドアルは体をこわばらせた。

「あんなおっさん、まともな話ができるもんか」

 ヒースはカラカラと笑った。

 よくもまあ、軽く笑い飛ばせるものだ、とエドアルは思った。

 背筋が冷たい。震えが走る。

 状況を察しろ。このうつけ。

「なんのかんの言って、実質的な権力者はリズのじーちゃんだろ。オレから言っとくからさ、その物騒なもん、しまってくんない? なあ、リュウカ」

 リュウカは剣を振り上げた。

 斬られる!

 ヒースの胴が上下まっぷたつに分かれるさまを想像して、エドアルはこわばった。

 目をつぶりたかったが、もはやまぶたさえも自由にならなかった。

 リュウカは剣をひとふりして、鞘に収めた。

「おまえが言って、どうにかなるものではなかろう」

 信じられない。

 あの狂気はどこへ失せたのか?

「ここがよくわかったな」

「あんたのすることなんか、お見通しだよ。つきあい長いんだぜ?」

 たぶん、ワインの痕を追ってきたのだろう。エドアルと同じように。

「さっさと樽を起こせよ。どうせ、足りなくなりゃ買うだけだろ? あんたのやってることは、無意味だよ。わかってる?」

「そうだな、すまぬ」

 リュウカはおとなしく樽を引き起こした。

「あんたみたいな凶暴な女、野放しにしとくなんて、危なすぎるぜ」

「そうだな」

 エドアルも、同感だと思った。

「だからさ、こんなとこ来ないで、オレんとこ来いよ」

 ヒースも樽を引き起こした。

 服が暗い色に染まった。

「それでどうなる? 無意味だ」

 リュウカは淡々と樽を引き起こす。

「大ありだよ! 話だって聞いてやれるし、暴れたって、泣いたっていいんだぜ?」

「たいした自信だな」

「長いつきあいだからね」

 ヒースは扉の裏をまさぐって、モップとバケツを出した。

 

   

 

 

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