馬を厩に入れ、水と飼い葉を与える。
「デュールさま、戸をお閉め忘れです」
「いや、いいんだ」
馬房は閉めなかった。
「しかし、このような名馬、逃げだして盗まれでもしたら……」
リュウカはつないでおくようにとは言わなかった。たぶん、葦毛と同じでいいのだろう。
「だいじょうぶ。あんたたちも休みなよ」
護衛たちは神妙な顔でヒースを見た。
「デュールさま。ご真意をお聞かせください」
真意?
「今度こちらへいらしたのは、もしやリュウインと手を組み……」
ヒースはあわてて両手をふった。
「エドアルをかくまうだけだって。王太后を倒すとか、エドアルを王さまにするとかはないって。物騒だなあ」
「我らにだけは、ご本心を」
あー、もう!
こういうヤツらが絶えないから、かあちゃんはパーヴから逃げだすハメになったし、エドアルだって狙われるんだ。
あのバアさんが気に入らないんなら、勝手にどうにかしちまえばいいんだ。人を担ぎだすな。
「あんたたちをご指名したのは、リュウカ王女殿下だぜ。長く留守にしてたから、状況もよくわかってないんだ。なにかあるわけないだろ」
「しかし、王女殿下にはデュールさまがご推薦くださったのでしょう」
「してねぇよ。リュウカが勝手に決めたんだ」
そして、勝手にお入れを置いていきやがった。
くそっ!
「とにかく、おとなしく寝てくれよ」
「では、今夜のところは。必要とあらばお呼びください。直ちに駆けつけます」
血の気の多いヤツらだ。
ヒースはうんざりしながら離宮に入った。
玄関には歴代の女主人の肖像。燭台をかかげると、黒髪の美女が浮かびあがった。
いつ見ても、気の強そうな女だぜ。
傲慢で厳格そうだ。リュウカの言う『やさしい母』には、とても見えない。
奥へ入ると、リズの声が聞こえた。
「デュールは、モーヴおじさまがよそに作った子どもなの。ひきとってグレイ侯爵に押しつけたんですって。信じられないわ。あのモーヴおじさまが、リリーのほかに女性を作って、子どもまで生ませてたなんて!」
皮肉な笑いが浮かぶ。
『それでよいな』
国王カルヴが念を押したものだ。
『くれぐれも他言するでないぞ』
モーヴはイヤそうな顔をした。
『ほかにもっと穏やかな言いわけはないのですか?』
『リュウカにゆかりの者だ、そなた以外の誰に預けられる?』
深くため息をついてから、あきらめ顔でモーヴはヒースを見たものだ。
『リュウカの弟子だって? だったら、うちの奥さんに気に入られることだな。リュウカの姉さんみたいなものだからな』
連れて帰ると、リリーは鬼のように怒った。手当たり次第に物を投げつけ、モーヴをボコボコにした。
『あたしは、ウソをつかれるのが大っ嫌いなんです!』
モーヴが平謝りに謝ると、家具の陰に隠れているヒースを手招きしたものだ。
『あなたが殿下の子じゃないことはわかってます。でも、いったん預かったからには責任持ちましょう』
そして、ヒースの金の髪をやさしく撫でたものだった。
ガーダで一年過ごした。
黒髪の奴隷がいると聞いていたが、あまり見かけなかった。
仲良くなった商人がわけを教えてくれた。
『草原の連中は気位が高くてな。死ぬまで戦うか、捕まってから敵の寝首をかこうとするかのどちらかだ。手間がかかってしょうがない』
死を恐れないのだから、始末に悪い。だからなかなか買い手がつかず、商売にならないのだと、商人は笑った。
『萌黄のお方さまは、お姫さまを人質にとられて仕方なく、前の国王陛下の言いなりになられたんです』
後で、リリーが語った。
『萌黄のお方さまは、それは賢い方で、薬や毒にお詳しかったんですよ。それが長くご寵愛を賜った理由でもあるのでしょうね。萌黄のお方さまが亡くなってすぐに前の国王陛下もお隠れになったのが、なによりの証拠。王太后さまは、本当に恐ろしい方です』
モーヴは、よく剣のけいこをつけてくれた。リュウカの言う通り、強かった。
が、王太后に話が及ぶと苦笑いした。
『あのバアさんには、子どものころ、さんざんいたぶられたからな、おかげで女嫌いになった。でも、リリーだけは別だぞ』
どうして別なのか問うと、モーヴは笑った。
『口は悪いが、やさしい女だ。着飾った女は裏で何を考えているかわからんが、リリーはちがう。肝もすわって、機転もきく。リュウカの命を救ったこともあるんだぞ』
それは、モーヴが行方不明になったとき、証明された。
三月《みつき》の捜索の後、モーヴは死亡と定められた。モーヴの財産は没収され、兵は禄を失った。
国の正規兵は他所へ異動となったが、モーヴの配下のほとんどは、故人を慕った私兵だった。
捜索を続けよう、ヒースとリリーを立てて留まろうとはやる兵たちを、リリーは抑えた。
『みな、家族があるでしょう。殿下は必ず帰ります。その日まで、静かに暮らしなさい』
身の回りの一切を売り払い、部下たちに与えた。モーヴの財産は王族に帰すが、モーヴより与えられた宝飾品の数々はリリー個人のものだった。
ヒースを王都レンフィディックのグレイ侯爵に預け、リリーはウィックロウへ移った。
その後、左遷されてガーダに赴任したハータ公は、残された兵から不満分子を集め、エドアルの母を煽ってクーデターを企んだ。
せっかく、かあちゃんが静かに暮らせって言ったのに。
厩での一件も、この延長である。
みんな血の気が多すぎる。
部屋にもどると、ヴァンストンの声が聞こえてきた。
「殿下! このような狭いお部屋におわすなど、なんとおいたわしや!」
城がムダに広いんだって。ひとりに寝室がみっつ、リビングがふたつ、ほかに浴室や侍女の部屋までついてんだから。
酒瓶を三本抱えると、手はいっぱいだった。燭台はいらない。勝手知ったる家の中だ。
ある寝室の前に行く。
入ったことはない。
『いつお帰りになってもよいように』
リリーたちは毎日掃除をしている。大事なお姫さまとやらの部屋だった。
燭台の光が暗い廊下にシルエットを作った。
リュウカだ。
「水と飼い葉、やっといたぜ」
「ああ、おまえか」
剣の柄から手を離し、リュウカは扉の前で立ち止まった。
「疲れたろう。ゆっくり休むといい」
扉は開かなかった。リュウカは扉をじっとにらんでいた。
「入んねぇの?」
「ああ。お休み」
扉が開いた。ゆっくりと、リュウカが足を踏み入れる。一歩一歩確かめるように。
殺風景な部屋だな、とヒースは思った。
天蓋つきのベッドがふたつ、テーブルがひとつ、ローチェストがひとつ、火の消えた暖炉がひとつ。
リュウカが左側のベッドに腰を下ろした。
じっと、右のベッドを眺める。
空っぽのベッド。
「町娘の部屋だって、もうちっと飾り気があるぜ」
ヒースは中に入り、足で扉を閉めた。
「おまえ……」
「一杯やろうぜ」
テーブルの上に酒瓶をのせる。
「遠慮しておこう。あまり強くないのだ」
「そりゃあ、よかった。あんたのこと話したら、酒屋のオヤジが樽ごと差し入れるってきかなくてさ。止めるのにひと苦労だったぜ。あんたのかあちゃん、酒豪だったんだってな」
「夜ごとひと瓶たしなまれたものだ。祝いでは、いったいどれだけ飲まれたのか」
栓を開ける。景気のいい音が響いた。
「一杯ならいいだろ?」
酒杯に注ぎ、手渡す。
リュウカは杯を傾けた。
「香りが」
「あんたのかあちゃんがよく飲んでたってさ」
リュウカは杯を干した。
「この香りだ。母は毎晩、このテーブルで本を読まれた。いつもほのかにこの香りがした」
「ふうん」
テーブルをさすり、ヒースはギョッとした。なんだ? このキズ。
離宮の柱という柱、壁という壁にはキズがある。刀傷だ。
しかし、これはどうだ? 斧か?
削り直したのだろう、小さなキズは見あたらない。しかし、落としきれなかったのだ、深すぎて。
テーブルを撫でまわし、天蓋の柱をこすり、暖炉をすかし見る。
キズだらけだ。
「ここには金目のものがあったのだろうな」
リュウカの声が皮肉を帯びた。
「廊下に並ぶ像からも、柱からも、金箔や石が欠けていた。みな、むしりとられたのだろうな。なかでもここのえぐられ方はどうだ。みな争って探したのだろう」
何を?
深いキズが多い。まるで、潜んだものを貫くような。
そうか。
「あんたらの首か」
「黒髪が高く売れるとは知らなかった」
リュウカは手酌であおった。
「城で、アレに会ったぞ」
「アレって?」
「母の名を呼んだ。闇に呼ばれたほうが、まだマシだ」
さらにあおる。
「こっちも飲むか?」
別の一本を開ける。小気味のいい音が響く。
「ちがうのか?」
「まずはご賞味あれ」
リュウカは杯を傾ける。
「香りが」
「やわらかいだろ。花の香りっていうんだ。苦みは強くない。ふくよかで、後口が軽いだろ」
「うん。こちらのほうが好みだな」
「だと思った! オレもこっちが好きなんだ」
「デュール」
むせった。
「あんたまで呼ぶかよ」
「今はそう名乗っているのだろう?」
「仕方ねーだろ。ほかに貴族っぽい名前知らなかったんだから」
「気に入らないのか?」
「あんたは使うな」
弟と思われちゃ、たまんねぇよ。
「勝手だな」
「あんたほどじゃ。だいたい、建国の祖の名前なんかつけるかよ、フツー」
ヒースクリフ。ピートリーク建国の祖。
「ああ、そういえばそうだったな」
リュウカは少し笑った。
「だが、そんなつもりでは。私はただ……。ここの夏の景色を見たことがあるか?」
「まだ。でも、あんたのお気に入りなんだろ? 濃い緑の葉と小さな白い花で野が埋まって」
「うん。そこにはマムがいて、リリーがいて……」
「サミーがいて、あんたのかあちゃんがいたんだろ。あんたはその景色が好きだった」
「そうだ」
うなずき、リュウカは酒をあおった。