「リリーはよくおまえを受け入れたものだ。伯父上の隠し子だと言われたのだろう? どう納得したのだ」
「ウソだって最初から知ってたよ」
「エリザ姫は、おまえがあのときの子だとは知らぬようだが」
「あンとき、髪染めてたじゃんか。背も伸びたし」
最初の湯浴みのとき、湯女が騒いだものだ。
『あれー、髪の色が抜ける!』
悪かったな。こっちが地色だ。
ごたいそうな服を着せられると、王さまが口をあんぐりと開けた。
『ウルサの姫のゆかりか?』
とうちゃんも同じことを訊いた。
『虹の清水辺りの出身か?』
うなずいておくべきだったか?
けど、素性が知れたら。スリのヘデロなんか、置いておくわけがない。
リュウカに会いたかった。このつながりを断ち切ってはならないと思った。
リュウカを守りたかった。ここにいれば、ひとりでいるより力がつくと思った。
「クス・イリムって知ってる? 背中にでっかい刀傷のある剣豪でさ」
「母の友人だ」
リュウカは火の気のない暖炉を睨んだ。
「会ったのか? 元気にしていたか?」
「うん。オレの剣の師匠」
「道理で。おまえの剣は草原に近いと。母は祖母から習い覚えた草原の剣を、イリム子爵と極めようとしたのだ。だが」
杯をあおった。
「だが?」
「母との仲を疑われ、斬られた」
「誰だよ、そんなバカは。あそこの夫婦見てりゃわかんだろ。師匠は救いようのない朴念仁で、おまけに奥方にぞっこんだよ」
「斬ったのは母だ。私を助けるために」
「どういうこと?」
リュウカはまた暖炉を睨んだ。
「この離宮は、百年ほど前、ウルサの姫のために建てられたものだ。柱も壁もウルサから取り寄せられた。ベッドも、暖炉もそうだ。今はないが、当時は池もあり、そのほとりに湯屋が建てられたそうだ」
「ウルサ式の?」
リュウカはうなずいた。
「じゃ、今はなんでないの?」
「王弟が火をつけたとか。ウルサの姫は王弟妃だったが、その実は国王の寵姫だったという。嫉妬に狂った王弟が火を放ったというが、真実はどうか。以来、ここは代々寵姫の館でな」
リュウカは暖炉に歩み寄った。
「人目を忍ぶため、仕掛けに凝ったらしい」
暖炉の横のレンガにナイフの刃先を差しこんだ。
黒い穴が空いた。おとながひとり、這って入れるほどの穴だ。
くぐり戸にレンガが薄く貼りつけてあるのだった。
閉じると、境目がわからなくなった。
「すげぇ」
ヒースは近寄り、目を凝らし、触れて確かめた。かすかなナイフのキズ以外、形跡はない。叩くと、音がうつろに響いた。
「厩につながっている。ここから逃れたのだ、あの夜」
リュウカはまだ壁を睨んでいた。
「母上と私は、ここから。あの夜の追っ手はちがった。明るみになることを恐れず、どこにでも待ち伏せていた。なにより、母上の命までも狙った」
そして、リュウカのかあちゃんは死んだ。
「母上は毎夜、そこのテーブルで本を読んでいた。かすかに酒の香りがした」
リュウカはテーブルにもどり、杯をあおった。
「強ぇじゃん」
ヒースは瓶を振った。空だった。
「弱いって言ったクセに」
「まだまだだ。母上なら何本空けることか」
「比べる対象間違ってるって」
「おまえはパーヴへ帰りなさい」
リュウカは暖炉を睨んだ。
「私といても……」
「ロクなことがない?」
ヒースは並んですわった。
「おまえと私はちがう。生まれた国も、持って生まれた定めも。私に寄るな。母の轍を踏む」
「また剣を教えてくれよ」
「師に習え」
「守るって約束した」
「簡単に言ってくれる」
リュウカはため息をついた。
「母上ですら、かなわなかったのだぞ。おまえなど、まだまだだ」
「もっと強くなるさ。それでも間に合わなかったら……」
腹に力をこめる。
「死ぬときは一緒だ。もう、あんたをひとりにはしないよ」
リュウカは薄く笑った。
「同じだ」
え?
「あの夜と同じ。母上と私は逃げた。母は立派な人だった。やさしく強く、賢くて正しい人だった。篤く慕われ、みな夢中になって集ってきたものだ。華があり、魅力があった。みな、母を頼りにし、敬い、愛した。勇ましく聡く、敵とも渡りあい、みなを守った。そうだ。母は最期まで私を守ってくださった。だが、私はそうではない。私には、何の力もない」
ヒースをふり返った。
「パーヴへ帰りなさい。グレイ侯の元にいれば、思う存分歌えるだろう。剣の腕も磨けるだろう。そうして、一生幸せに暮らしなさい」
「あんたと幸せに暮らすさ。二年待った。もうじゅうぶんだろ」
「おとなの言うことはきくものだ。わかったな、ヒース」
ヒースは空に向けて、大きくため息をついた。
子ども扱いかよ。
「あのさ、わかってる?」
「なにが」
「口説いてんだよ、オレ」
リュウカは微笑んだ。
「やさしい子だ。そうして力づけてくれなくてもよいのだよ」
アッシャ!
小さく呪いの言葉を吐いた。
「なにか、気にさわったか?」
「いいや! なんにも!」
立ちあがった。
「お休み!」
「お休み」
部屋から出て、後ろ手に扉を閉める。
待てよ。
酒瓶を片づけとかないと、かあちゃんに怒鳴られそうだな。
『ちい姫さまを酔わせて! なに考えてるんです!』
頭の中の声に肩をすくめて、ヒースはもう一度扉を開けた。
「リュウカ、瓶を……」
明かりに目元がきらめいた。
濡れていた。
睨んでいたんじゃない。
とっさに閃いた。
涙をこらえていたんだ!
「えーっと、リュウカ」
「すまぬ。目が腫れる」
リュウカは目元をぬぐったが、意味をなさなかった。あとからあとから涙が吹きだした。
ヒースはベッドに腰をおろし、迷わず頭を抱いた。
「泣いとけよ。明日はテキトーにごまかしとくからさ」
北の街の浴場で身を丸くしていたリュウカの姿がよみがえった。なすすべなく、ただ眺めていただけの自分。
「ここはあんたんちだし、オレだって昔のオレじゃないんだぜ。少しはあんたの力になれる。泣いてやれよ。涙は供養になるんだってよ。オレの知ってる尼さんはそう言ってるぜ」
胸ぐらを強くつかまれた。
嗚咽が漏れた。
涙は果てしなかった。
せわしい足音で目が覚めた。
部屋はぼんやり明るい。
朝か。
何かが胸元で動いた。
黒い……髪。きれいだ。
頭が動き、黒い眼と目が合った。
「わ、ヤベ」
ヒースは起きあがりかけ、失敗した。右腕はリュウカの頭の下だった。
扉が開いた。
「このバカ息子!」
リリーはひと目見るなり、箒をふりあげた。
「ちい姫さまになにを!」
「誤解だ! 誤解! なにもしてねぇって!」
ヒースはリュウカを抱き起こし、手を引き抜くと、ベッドの周りを逃げまどった。
リュウカが泣き疲れて眠ったのは覚えている。
ベッドに寝かせて、そのまま自分も寝入ってしまったらしい。
泣き顔はかわいそうでもあり……。
でも、かわいかったな。
リュウカが着衣を整え、ベッドをおりた。
窓を開ける。
冷たい朝の風が入りこんだ。
風景に見入るそのまぶたは腫れている。
冷やしてやらなくちゃ。
「かあちゃん、氷……」
「許しませんよ! ちい姫さまに乱暴を働いて!」
「ンなことできるか! どっちが強いんだよ!」
「どうせ酔わせて好きにしようとしたんでしょ! お酒の匂いがぷんぷんします!」
降りてきた箒を片手で受け止める。
「リュウカぁ、なんとか言ってくれよう」
情けない声を出した。
リュウカが身をひるがえし、ベッドに腰をおろした。
頬が赤い。
箒を払って、ヒースは近寄り、額を当てる。
「少し熱があるな。かあちゃん、氷」
「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」
「氷!」
肩を抱くようにして、リュウカをベッドに横たえた。
「疲れが出たんだろ。今日はゆっくり寝てな」
「すまぬ」
リュウカは目を閉じた。
「離れなさい」
襟首を引かれ、ヒースはよろめいた。
「この方は、おまえなんかが直接口をきいていい方じゃありません。どなただと心得てるの」
「かあちゃんの恩人の娘だろ。でも、オレにとっちゃ、ただのかわいい女の子だよ。なあ、リュウカ?」
「この方は、女王となられる方です!」
リリーが眉をつりあげた。
「この国を正しく治め、ゆくゆくは国母となられるんです。おまえなんかが近づいちゃいけません! 身のほどを知りなさい!」
「かあちゃんまで身分がどうとか言うのかい?」
「私が言ってるのは、人間の質です! 今度こそ、ふさわしいお相手を見つけてさしあげるんですから!」
今度こそ?
「前にもあったの?」
「お姫さまのご不幸は、あのマヌケ面に始まったんですからね。ちい姫さまにだけは、頼りがいのある立派な殿方とご一緒になっていただかなくては」
「かあちゃん、そりゃあちがうよ」
「何がちがうんです!」
「リュウカはこんな国でくすぶってる女じゃねぇよ。草原にもどって、所帯を持って、子だくさんで幸せに暮らすんだ。子どもたちは強くてシャイな母ちゃんが大好きで、父ちゃんは毎晩リュウカの冒険を歌にして聞かせるんだ。昔々、驪の姫がおりました。ヒース野原に囲まれた、小さな離宮で生まれました……」
「どさくさに紛れて、売りこむんじゃありません!」
バレたか。
「それより、氷だよ」
「わかってます!」
リリーはヒースを部屋から追いだした。