〜 リュウイン篇 〜

 

【第88回】

2005.3.2

 

 欠け始めた月が、行く手を照らした。

 草木が暗く影を落とす間を、白く道が浮かびあがる。

 あのときは、下弦過ぎの月が昇っていた。右へ分かれれば国境の街エスクデール。母が後ろを駆けていた。

 ふり返れば、今もそこに母がいるような気がする。

「こんな夜中に、なんで……」

 ぶつぶつと、後ろからつぶやきが聞こえた。

「それだけ早くリズに会えんだぜ。喜べよ」

 陽気な声が隣で響く。

「こんな夜中に。レディを訪問する時間じゃない。紳士のすることじゃない」

 眠そうに、気合いの入らない愚痴である。

「いいじゃん。夜這いと思えば」

「失礼な! 私がかようなあさましいマネをするか!」

「へいへい」

「失礼ながら、賢明とは言いかねますな」

 護衛のひとりが言った。

「夜更けに、このような連れと出歩くのは」

 前後を数十の兵に囲まれていた。

「いいんじゃねーの? まだ斬る気ないみたいだし」

 ヒースはのんびりと景色を見渡し、竪琴をつまびいた。

「つまらん歌はやめろ」

 エドアルが不機嫌に言った。

「英雄、冥府よりご帰還の歌でも歌ってやろうか?」

「やめろ!」

「リズのお気に入りだぜ」

「私の許婚を呼びすてにするな!」

 にぎやかなことだ。

 ヒースは竪琴を奏で始めたが、たちまちにやみ、エドアルとの鬼ごっこに興じた。

「げっ。あいつ、マジになってやがる」

 剣をふりまわすエドアルから逃れて、ヒースはリュウカの後ろにまわった。

「冗談の通じねぇヤツだ。なんとかしてくれよ」

「おまえが悪い。謝りなさい」

「許す前に斬りそうだぜ、あいつ」

 黙って斬られてなどいないだろうに。エドアル相手に手こずる腕か。

「グレイ! 覚悟!」

 エドアルが剣をふりあげた。

「エドアル。むやみに抜き身をふり回すものではない」

 リュウカはうんざりしながら止めた。

「姉上はズルい! いつもそいつばかりひいきに……」

 リュウカは鞘でヒースを打った。

「いってぇー」

「おまえが悪い」

「なんでオレが……」

「誰かが嫌がる歌など選ぶな。ほかにはないのか」

「あるよ」

 ヒースは竪琴をかき鳴らした。

 恋歌だった。

 リュウカの周りをまわりながら歌う。

「アテつけか?」

「マジだよ、マジ」

「姉上に失礼であろう! この市井《しせい》の子が!」

 エドアルが再び怒りだした。

「祭りの歌をやれ」

 頭に手をあてて、リュウカは言った。

「どこの?」

「どこでもいい。陽気なものを」

「ご命令とあらば」

 大げさに頭を垂れてみせ、竪琴を鳴らした。



 懐かしいウィックロウの離宮は、記憶そのままだった。

「扉を開け、客を招いた。

 待ちわびた客、急いて迎えよ。

 逸して悔いることなきよう、

 急いて迎えよ、支度もそのままに」

 英雄セージュの歌の一節を、ヒースは奏でた。

「やめろ!」

 エドアルは怒鳴った。

「あんな英雄、縁起でもない!」

「昔話だろ。どっかの王太子とは関係ねーよ。な、リュウカ? 伝承っておもしろいもんだよな?」

 扉が開いた。燭台を掲げて女が出てきた。

「今、何時だと思っているんです! こんな大人数で! うるさくて、リズさまはもうすっかりお目覚めですよ!」

「お久しゅうございます、奥方さま」

 護衛のふたりがひざまずいた。

 女が後ずさりした。

「まさか、この軍勢は……」

「ふたりだけだよ。残りはリズのじーちゃんがつけてよこした。夜道は危ないからってさ。なあ、リュウカ?」

 女が燭台を高く掲げた。

「ちい姫さま!」

 燭台をヒースに押しつけ、リュウカを抱きしめた。

「ちい姫さま、よくご無事で! ええ、信じてましたとも! 必ずお元気でおもどりになるって! 私にはわかっておりましたとも!」

「リュウカが窒息しかけてるぜ。バカ力緩めろよ。なあ、リュウカ」

 ヒースが茶々を入れると、女は体を離した。

「お顔をよく見せてくださいまし。すっかりおきれいにおなりで。少しおやつれになりました? こんなところで立ち話もなんですから、お早く中へ。お疲れでしょう。お食事は済まされました? 湯浴みの支度を今させますわ。マムおばちゃんとサミーおばちゃんも今呼びますわ」

 おばちゃん、ちい姫さまが、と叫びながらリリーは中へ駆けこんだ。

 後に続くと、玄関ホールが燭台の明かりに浮かびあがった。

 母の肖像があるはずだが、暗くて見えない。

 代わりに、柱には無数の刀キズがあった。壁や天井には新しそうな壁紙が貼られていた。

 飾られた彫刻は、目の辺りがズタズタだった。確か、ここには宝石がはめられていたはずだ。

 あの夜の名残だ、とリュウカは気づいた。

 外套を羽織るヒマすらなかった。母とふたり葦毛に乗って……。

 その夜の生き残りは、自分ひとり。

「おっと」

 よろめいたリュウカをヒースが抱きとめた。

「イヤだった?」

 ささやいた。

「あっちにいるよりはいいと思ったんだけど」

「なぜ、そう思う」

「顔色悪かった。よっぽどイヤなことでもあったんだろ。でも、こっちにはかあちゃんがいるし」

「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」

 リリーがもどってきて叱りつけた。

「この方をどなただと心得てるんです! この方はね……」

「ちい姫さまだろ。わかってるよ。なあ、リュウカ」

「呼びすてにするんじゃありません! このバカ息子!」

 リュウカは目を丸くした。

 

   

 

 

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