欠け始めた月が、行く手を照らした。
草木が暗く影を落とす間を、白く道が浮かびあがる。
あのときは、下弦過ぎの月が昇っていた。右へ分かれれば国境の街エスクデール。母が後ろを駆けていた。
ふり返れば、今もそこに母がいるような気がする。
「こんな夜中に、なんで……」
ぶつぶつと、後ろからつぶやきが聞こえた。
「それだけ早くリズに会えんだぜ。喜べよ」
陽気な声が隣で響く。
「こんな夜中に。レディを訪問する時間じゃない。紳士のすることじゃない」
眠そうに、気合いの入らない愚痴である。
「いいじゃん。夜這いと思えば」
「失礼な! 私がかようなあさましいマネをするか!」
「へいへい」
「失礼ながら、賢明とは言いかねますな」
護衛のひとりが言った。
「夜更けに、このような連れと出歩くのは」
前後を数十の兵に囲まれていた。
「いいんじゃねーの? まだ斬る気ないみたいだし」
ヒースはのんびりと景色を見渡し、竪琴をつまびいた。
「つまらん歌はやめろ」
エドアルが不機嫌に言った。
「英雄、冥府よりご帰還の歌でも歌ってやろうか?」
「やめろ!」
「リズのお気に入りだぜ」
「私の許婚を呼びすてにするな!」
にぎやかなことだ。
ヒースは竪琴を奏で始めたが、たちまちにやみ、エドアルとの鬼ごっこに興じた。
「げっ。あいつ、マジになってやがる」
剣をふりまわすエドアルから逃れて、ヒースはリュウカの後ろにまわった。
「冗談の通じねぇヤツだ。なんとかしてくれよ」
「おまえが悪い。謝りなさい」
「許す前に斬りそうだぜ、あいつ」
黙って斬られてなどいないだろうに。エドアル相手に手こずる腕か。
「グレイ! 覚悟!」
エドアルが剣をふりあげた。
「エドアル。むやみに抜き身をふり回すものではない」
リュウカはうんざりしながら止めた。
「姉上はズルい! いつもそいつばかりひいきに……」
リュウカは鞘でヒースを打った。
「いってぇー」
「おまえが悪い」
「なんでオレが……」
「誰かが嫌がる歌など選ぶな。ほかにはないのか」
「あるよ」
ヒースは竪琴をかき鳴らした。
恋歌だった。
リュウカの周りをまわりながら歌う。
「アテつけか?」
「マジだよ、マジ」
「姉上に失礼であろう! この市井《しせい》の子が!」
エドアルが再び怒りだした。
「祭りの歌をやれ」
頭に手をあてて、リュウカは言った。
「どこの?」
「どこでもいい。陽気なものを」
「ご命令とあらば」
大げさに頭を垂れてみせ、竪琴を鳴らした。
懐かしいウィックロウの離宮は、記憶そのままだった。
「扉を開け、客を招いた。
待ちわびた客、急いて迎えよ。
逸して悔いることなきよう、
急いて迎えよ、支度もそのままに」
英雄セージュの歌の一節を、ヒースは奏でた。
「やめろ!」
エドアルは怒鳴った。
「あんな英雄、縁起でもない!」
「昔話だろ。どっかの王太子とは関係ねーよ。な、リュウカ? 伝承っておもしろいもんだよな?」
扉が開いた。燭台を掲げて女が出てきた。
「今、何時だと思っているんです! こんな大人数で! うるさくて、リズさまはもうすっかりお目覚めですよ!」
「お久しゅうございます、奥方さま」
護衛のふたりがひざまずいた。
女が後ずさりした。
「まさか、この軍勢は……」
「ふたりだけだよ。残りはリズのじーちゃんがつけてよこした。夜道は危ないからってさ。なあ、リュウカ?」
女が燭台を高く掲げた。
「ちい姫さま!」
燭台をヒースに押しつけ、リュウカを抱きしめた。
「ちい姫さま、よくご無事で! ええ、信じてましたとも! 必ずお元気でおもどりになるって! 私にはわかっておりましたとも!」
「リュウカが窒息しかけてるぜ。バカ力緩めろよ。なあ、リュウカ」
ヒースが茶々を入れると、女は体を離した。
「お顔をよく見せてくださいまし。すっかりおきれいにおなりで。少しおやつれになりました? こんなところで立ち話もなんですから、お早く中へ。お疲れでしょう。お食事は済まされました? 湯浴みの支度を今させますわ。マムおばちゃんとサミーおばちゃんも今呼びますわ」
おばちゃん、ちい姫さまが、と叫びながらリリーは中へ駆けこんだ。
後に続くと、玄関ホールが燭台の明かりに浮かびあがった。
母の肖像があるはずだが、暗くて見えない。
代わりに、柱には無数の刀キズがあった。壁や天井には新しそうな壁紙が貼られていた。
飾られた彫刻は、目の辺りがズタズタだった。確か、ここには宝石がはめられていたはずだ。
あの夜の名残だ、とリュウカは気づいた。
外套を羽織るヒマすらなかった。母とふたり葦毛に乗って……。
その夜の生き残りは、自分ひとり。
「おっと」
よろめいたリュウカをヒースが抱きとめた。
「イヤだった?」
ささやいた。
「あっちにいるよりはいいと思ったんだけど」
「なぜ、そう思う」
「顔色悪かった。よっぽどイヤなことでもあったんだろ。でも、こっちにはかあちゃんがいるし」
「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」
リリーがもどってきて叱りつけた。
「この方をどなただと心得てるんです! この方はね……」
「ちい姫さまだろ。わかってるよ。なあ、リュウカ」
「呼びすてにするんじゃありません! このバカ息子!」
リュウカは目を丸くした。