〜 リュウイン篇 〜

 

【第87回】

2005.2.23

 

 手応えがあった。しかし、柄《つか》はぬめり、剣は手から滑り落ちた。

 国王との間に、小男が入りこんでいた。

 火のし用の鉄板を掲げている。

 これで刃をしのいだのだ。

「それまで。どうか、それまで」

「宰相……」

「前《さき》の王妃さまなら、もう少し低いお声で『きさま』とおっしゃられるところでしょう。姫は少々お声が高い」

 長い上衣を脱ぎ、背伸びをしてリュウカの体にかけた。

「野育ちというのは、のびのびとしてよろしいですな」

 国王を引き起こす。

「何事もなく、安堵いたしました」

「何事もないだと! これは……情夫の娘は、予を殺そうとしたのだぞ!」

「何事もなく!」

 宰相はきっぱりと言った。

「エドアル王子殿下をお預かりしている間は、何事もなきように。よいですな」

「だが、これは情夫の娘だぞ!」

「陛下がお悪い!」

 宰相は国王を睨めつけた。

「一国の王女に対して無礼ですぞ! お退がりなさい」

 国王はうなだれ、ぶつぶつとつぶやいた。

「予の娘ではないのに……」

 宰相は国王を部屋から引きずりだした。

 ふたりが去ると、侍女たちがおそるおそるもどり、着替えの支度を始めた。

「お夜食をお運びいたします。お好みがございましたら……」

「要らぬ」

 侍女が泣きそうな顔をした。

 リュウカはそっとため息をついた。

「わかった。持っておいで」

 大勢の侍女たちが、少しずつ、冷めた料理を運んできた。

 手をつける気にならなかった。

 リュウカは窓辺にもたれた。夜の中庭は暗く、母の声を思いだした。

『窓辺は危ない。近づくな』

 宰相の言う通りだ。母の声はもっと低かった。

『きさま』 その通りだ。母ならそう言う。

 母にはかなわない。

 宰相は開口一番母の消息を訊ね、あの男でさえ、いまだ母の名を呼ぶ。

 自分は王女なんかではない。『前《さき》の王妃』の娘なのだ。ここにもどってくるべきは、自分ではなく、母だったのだ。

 あのとき死んだのが自分だったら、どんなによかったか。

 竪琴の音が響いた。

 リュウカはビクリと顔をあげ、中庭に目をこらした。

 よく通る低音。伸びのある心地よい声。

 歌声は、普段の声とは異なるが。

「ヒース!」

 窓から身をのりだした。

 歌声はやまない。

 小夜曲《セレナーデ》。短い恋歌。

 一曲終わって、リュウカは苦笑しながら気のない拍手をした。

「こんなところに忍びこんで。つかまるぞ」

「衛兵なら、みんな伸《の》してきた」

 窓の下に金色の髪が現れた。窓枠に手をかけ、よじ上る。

「味方を倒してどうする。エドアルの身が危なくなるぞ」

「あのぐらいでやられちゃ、猫の仔だって防げねぇよ」

 室内にたたずむ侍女たちが騒ぎだした。

「待て」

 外へ知らせに行こうとする侍女を、リュウカは呼びとめた。

「不審なものではない。友人だ」

 ヒースが悪びれずに笑った。

「無粋だなあ。夜這いに決まってんだろ」

「どうして事を大きくする!」

 ニヤと笑う。

「何度もベッドを共にした仲だろ」

 流れの薬屋だったころ。

「なるほど」

「え? 納得すんの?」

「おまえは帰りなさい。エドアルの警護はもう要らぬ」

「別に、あいつのために来たわけじゃねーよ。こっちにかあちゃんがいてさ」

 かあちゃん? グレイ侯爵夫人か?

「お早く! こちらへ!」

 ほかの侍女が人を呼んできたらしい。

「逃げなさい、早く」

 窓から追いだそうとするが、ヒースは床にすわりこみ、竪琴をかき鳴らした。

 ついたての向こうから、頬キズの男が顔を出した。

「よお。ジャマしてるぜ」

 ヒースは竪琴でふさがった手の代わりに、足を上げた。

「リズのじーちゃん」

 宰相はため息をついた。

「グレイ子爵。ここにおわすは第一王女……」

「黒龍の娘だろ。見りゃわかるよ。そっくりだ。いや、こっちのほうがずっと好みだな」

「ウィックロウにお帰りください。この方は我が国の王女。めったなことがあってはなりませぬ」

「そうだよな、めったなことがあっちゃマズいよな」

 ヒースはリュウカの顔を見つめた。

「リュウカ、ウィックロウへ来いよ。エドアルのヤツも呼んでやろう。あいつ、すぐ妬くからな。まったく、リズとオレの仲を勘ぐるなんて、どうかしてるぜ。リズのじーちゃん、パーヴからきた護衛とかいうヤツらも叩き起こしてくれよ。あいつらも連れてかなきゃ恨まれる」

「もう夜遅うございます。明日になさいませ」

「じゃあ、オレ、明日までここにいるぜ」

「聞き分けのない方だ。繰り返して申しあげるが、ここは我が国の王女の居室。一晩ご一緒というわけにはまいりませぬ」

「へいへい。リュウカ、行くぞ」

 腕をつかんだ。

「早くメンツ集めてくれよ。でないと、ふたりっきりで逃避行になっちまうぜ」

「まったく、お父上によく似ていらっしゃる」

 宰相は大きくため息をついて退がった。

 

   

 

 

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