手応えがあった。しかし、柄《つか》はぬめり、剣は手から滑り落ちた。
国王との間に、小男が入りこんでいた。
火のし用の鉄板を掲げている。
これで刃をしのいだのだ。
「それまで。どうか、それまで」
「宰相……」
「前《さき》の王妃さまなら、もう少し低いお声で『きさま』とおっしゃられるところでしょう。姫は少々お声が高い」
長い上衣を脱ぎ、背伸びをしてリュウカの体にかけた。
「野育ちというのは、のびのびとしてよろしいですな」
国王を引き起こす。
「何事もなく、安堵いたしました」
「何事もないだと! これは……情夫の娘は、予を殺そうとしたのだぞ!」
「何事もなく!」
宰相はきっぱりと言った。
「エドアル王子殿下をお預かりしている間は、何事もなきように。よいですな」
「だが、これは情夫の娘だぞ!」
「陛下がお悪い!」
宰相は国王を睨めつけた。
「一国の王女に対して無礼ですぞ! お退がりなさい」
国王はうなだれ、ぶつぶつとつぶやいた。
「予の娘ではないのに……」
宰相は国王を部屋から引きずりだした。
ふたりが去ると、侍女たちがおそるおそるもどり、着替えの支度を始めた。
「お夜食をお運びいたします。お好みがございましたら……」
「要らぬ」
侍女が泣きそうな顔をした。
リュウカはそっとため息をついた。
「わかった。持っておいで」
大勢の侍女たちが、少しずつ、冷めた料理を運んできた。
手をつける気にならなかった。
リュウカは窓辺にもたれた。夜の中庭は暗く、母の声を思いだした。
『窓辺は危ない。近づくな』
宰相の言う通りだ。母の声はもっと低かった。
『きさま』 その通りだ。母ならそう言う。
母にはかなわない。
宰相は開口一番母の消息を訊ね、あの男でさえ、いまだ母の名を呼ぶ。
自分は王女なんかではない。『前《さき》の王妃』の娘なのだ。ここにもどってくるべきは、自分ではなく、母だったのだ。
あのとき死んだのが自分だったら、どんなによかったか。
竪琴の音が響いた。
リュウカはビクリと顔をあげ、中庭に目をこらした。
よく通る低音。伸びのある心地よい声。
歌声は、普段の声とは異なるが。
「ヒース!」
窓から身をのりだした。
歌声はやまない。
小夜曲《セレナーデ》。短い恋歌。
一曲終わって、リュウカは苦笑しながら気のない拍手をした。
「こんなところに忍びこんで。つかまるぞ」
「衛兵なら、みんな伸《の》してきた」
窓の下に金色の髪が現れた。窓枠に手をかけ、よじ上る。
「味方を倒してどうする。エドアルの身が危なくなるぞ」
「あのぐらいでやられちゃ、猫の仔だって防げねぇよ」
室内にたたずむ侍女たちが騒ぎだした。
「待て」
外へ知らせに行こうとする侍女を、リュウカは呼びとめた。
「不審なものではない。友人だ」
ヒースが悪びれずに笑った。
「無粋だなあ。夜這いに決まってんだろ」
「どうして事を大きくする!」
ニヤと笑う。
「何度もベッドを共にした仲だろ」
流れの薬屋だったころ。
「なるほど」
「え? 納得すんの?」
「おまえは帰りなさい。エドアルの警護はもう要らぬ」
「別に、あいつのために来たわけじゃねーよ。こっちにかあちゃんがいてさ」
かあちゃん? グレイ侯爵夫人か?
「お早く! こちらへ!」
ほかの侍女が人を呼んできたらしい。
「逃げなさい、早く」
窓から追いだそうとするが、ヒースは床にすわりこみ、竪琴をかき鳴らした。
ついたての向こうから、頬キズの男が顔を出した。
「よお。ジャマしてるぜ」
ヒースは竪琴でふさがった手の代わりに、足を上げた。
「リズのじーちゃん」
宰相はため息をついた。
「グレイ子爵。ここにおわすは第一王女……」
「黒龍の娘だろ。見りゃわかるよ。そっくりだ。いや、こっちのほうがずっと好みだな」
「ウィックロウにお帰りください。この方は我が国の王女。めったなことがあってはなりませぬ」
「そうだよな、めったなことがあっちゃマズいよな」
ヒースはリュウカの顔を見つめた。
「リュウカ、ウィックロウへ来いよ。エドアルのヤツも呼んでやろう。あいつ、すぐ妬くからな。まったく、リズとオレの仲を勘ぐるなんて、どうかしてるぜ。リズのじーちゃん、パーヴからきた護衛とかいうヤツらも叩き起こしてくれよ。あいつらも連れてかなきゃ恨まれる」
「もう夜遅うございます。明日になさいませ」
「じゃあ、オレ、明日までここにいるぜ」
「聞き分けのない方だ。繰り返して申しあげるが、ここは我が国の王女の居室。一晩ご一緒というわけにはまいりませぬ」
「へいへい。リュウカ、行くぞ」
腕をつかんだ。
「早くメンツ集めてくれよ。でないと、ふたりっきりで逃避行になっちまうぜ」
「まったく、お父上によく似ていらっしゃる」
宰相は大きくため息をついて退がった。