部屋に現れた男はひどく年老いていた。
母を育てた人である。数えてみれば気づくはずであった。
「そのまま、そのまま」
杖をつきながら、片手をあげた。曲がった腰、白い頭髪、シワとシミだらけの顔。なにより、しょぼくれた目と両端のだらしなく下がった口が、心の齢をも映していた。
上げかけた腰を、元にもどす。
「パーヴ国王カルヴ陛下です」
リュウカは族長に紹介した。
「あの老いぼれがか? 隠居すべき年だろう」
草原ならば、統べる力なくして長は務まらない。体力も精気も衰えれば、一線を退くものだ。
「このたびは、王太子殿下のご成婚、おめでとうございます」
リュウカはソファに腰をおろしたまま言った。
室内の調度類はソファだけ、王族の応接間にしては狭く質素である。
「明朝でようやく長かった儀式も終わる。もっとも夢中なのは母上でな、儀式の間中、口を出していた」
「では、王太后陛下もご息災で」
「予よりも元気なくらいだ」
九十を越えているだろうに。レアードか? 他人の精気を吸う不死の女。
「王后陛下もご息災で?」
「いや、あれは」
向かいのソファに体を埋め、カルヴは両手で顔を覆った。
「母上は尼僧院に」
付き添ってきたエドアルが代わりに答えた。
「昨年、おばあさまへの謀反のカドで」
「濡れ衣か?」
王妃は王太后の遠縁で、料理好きのおとなしい女性だったはずだ。大それたことをする人には思われない。
「一昨年、ガーダ公が行方知れずになったことを、姉上はご存じですか?」
モーヴ伯父上が?
胸中が波打った。
「捜索は?」
「三月《みつき》。見つからず、葬儀を。そして、公の兵はみな解雇されました」
リリーは? マムやサミーは?
「それらの中から不満分子を集め、ハータ公が謀反を企てたのです。母上はその旗印となり、しかし、ことは早期に露見し、尼僧院に」
「あれは、エドアルに王位を継がせたかったのだ。女の浅知恵よ」
カルヴが首を振った。
女の浅知恵か。草原の女に聞こえれば、袋だたきに合うところだ。
「知らぬこととは言え、私も処罰を免れるところでした。しかし、隣国から申し入れがあったのです。婿に手を下すなと。婚約がある以上、リュウインを無視することはできず、私はおとがめなしということになりました」
エドアルは、ソファを叩いた。
「私は、あの赤イタチめに助けられたのです」
「では、昨夜からの襲撃は、王太后陛下の差し金と、おふたりはお考えか?」
リュウカは本題に入った。
「城内で襲われたとなれば、たぶん」
エドアルがうつむく。
「城内の警備を強めてはいかがか? 信頼に足る護衛をつけ、いや、むしろ王太后陛下には遠くでご隠居を……」
「できるなら、とうにやっておるわ」
カルヴがため息をついた。
「母上は近年、ますます盛んでな。予など傀儡よ。寵はすべてセージュにある。予には妃も王子も守る力すらないのだ。せめて、あと二十若かったら」
ふたりの妃とふたりの息子は世を追われ、ひとりの息子は寵を浴び、残るひとりは命も危ない。
老いた国王には同情を禁じ得ない。
「私も姉上のようであれば」
エドアルもため息をついた。
「私には剣の腕もなく、異国の血も流れていない。守るすべも、逃れるアテもないのです」
廊下に、足音が聞こえた。
新たな襲撃か?
リュウカは柄に手をかけた。今度は帯剣を許されている。
人数は、ひとり。荒く、無防備である。
扉が勢いよく開かれた。
「草原の王はどこか!」
毛皮のガウンに乱れた夜着、くしゃくしゃの髪。小柄な背格好がエドアルにそっくりである。
「リュウカ!」
男が駆け寄った。
反射的に、リュウカはさやを抜いた。男の喉元につきつける。
男は両手を大きく広げた。
「リュウカ! リュウカだな? 今までどこにいた? どうしてもっと早く頼ってこない!」
カルヴが口をはさんだ。
「セージュ、初夜だろう。務めにもどれ。姫を待たせてはならぬ」
叱るというよりは、注意するといった弱々しさだった。
「あんな女、今すぐ追い返す! リュウカ、今までどうしていた。その男は誰だ?」
族長を指す。
「草原の長だ。ずっとそちらに身を寄せていた」
「身を? 亭主か! リュウカ! こんな蛮族に!」
「父だ。異人である私を扶養してくれた」
正確に言えば、扶養してくれたのは母だ。父はただの肩書きに過ぎない。
「父か!」
表情は一変し、セージュは族長の手を握った。
「今まで、リュウカをかくまってくれていたのだな。送り届けてくれて礼を言う。リュウカは我が国にとっても大事な姫なのだ。ほうびをとらせるぞ。なんなりと申せ」
リュウカは説明を省いた。
「こちらは王太子。礼をしたいと」
「では、交易だ」
族長が言った。
「ファイアウォーに人を遣わせと言え。こちらに荷を運ぶのは骨が折れるとか理由をつけてな。焦らして、最終的には、ガーダといったかな、あの辺りで取り引きできるよう話をつけろ」
話すだけムダだ。しかし、説明も面倒だ。直に断られれば納得するだろう。
リュウカは言った。
「長は交易を希望している。場所はファイアウォーでどうかと」
「そんなものでいいのか? いいぞ」
予期せずして、セージュが快諾した。
「草原はまずかろう。母上が許すまい」
カルヴがとがめる。
「ババアなんかに文句言わせるかよ。決めるのはオレだ」
セージュは得意げにリュウカを見た。
「チンディト公に話をつけておく。細かい話はそっちでつけろ。要求はすべて飲ませる」
リュウカは通訳をためらった。話がうまくいきすぎる。
セージュがせかす。
「早く言えよ。信じてないのか? もう昔のオレじゃないんだぞ。オレのひと声で国中が動くんだからな。なあ、オヤジ」
得意そうにふり返ると、カルヴは力なくうなずいた。
族長が訊ねた。
「どうした、コクヨウ。問題でも起きたか?」
「いえ。王太子は要求をすべて飲むと」
「そうか!」
族長は顔を輝かせた。
「話のわかる男だ! おまえも、しっかり護衛を務めなくてはな!」
エドアルの護衛代と取ったらしい。
後日、チンディト公とファイアウォーで落ち合い、細かな打ち合わせをすることを約した。
リュウカが付き添えない今、新たな通訳をファイアウォーで探す必要があったからだ。
「務めを早く果たしてもどるのだぞ。今年こそ、婿を取り、おまえには跡を継いでもらわねばならぬ。今年はムカイビも腕を上げた。おまえもコウギョクも必ず気に入るぞ」
そう言い残し、族長は道案内に衛兵をふたりつけられ、ほくほく顔で宿へ引きあげた。
セージュが約束を反故にすればいい、とリュウカは思った。
今まで、なにもかもうまく行きすぎたのだ。族長はすっかり増長してしまった。
自分の尽力がアダになった。交易のうま味だけを覚えさせてしまったのだ。
これを機に、現実に立ち返ってくれたら、と思う。
「リュウカ、もう安心だぞ。オレが守ってやるからな」
当然のように、セージュはリュウカの隣に腰をおろした。
「一生オレが面倒みる。イリーンの女なんか追い返して……」
肩に手が伸びてくる。
この男もか。
手刀で首の後ろを打った。
セージュが頽《くずお》れた。
家庭を望まないわけではない。だが、何かがおかしい。モーヴ伯父がリリーを欲したのとは、何かが決定的に違う。
どこかどうとはわからない。
言い寄る男がことごとく、まるであの男のように思えるのだ。自分の首に手をかけ、見開いた目を奇妙にギラつかせたあの男。母を守ると、口先だけだったあの男。
「エドアル、すぐに支度を。日の出前に出立する。友に声をかけよ、理由はなんでもよい、視察でも狩りでも。荷は後で届けさせよ」
「とつぜん、姉上、どこへ?」
「伯父上には一筆したためていただきたい。王子を使者に仕立て、貴国の王女を届けにあがると。それから護衛を数名。モーヴ伯父上の部下であればなおけっこう」
近ごろの兵は形ばかりの剣だと、モーヴはよく愚痴た。しかし、配下の者ならば、実戦向きの訓練を受けたはずだ。
「まさか、姉上、リュウインに行かれるつもりでは……」
「あの赤イタチは、そなたを守ってくれるのだろう? なかなかの策士だ、こちらの間者も容易には受けつけまいよ」
「しかし、姉上のお命が……」
「私があちらへ参るのと、そなたがここに残るのと、どちらに分がある?」
エドアルはうなだれた。
「そなたには借りがある。死なれては返せぬよ」
リュウカは笑った。
「それにしても、あの子はどうしたのです? 子爵とは」
カルヴに訊ねる。
「エドアルが森で預かった、あの男か?」
「ええ、城の水が合うとは思えませんが」
「あいつはいったいなんなんです?」
エドアルが頭をあげた。
「王を王とも思わぬ傍若無人ぶり。下々の者とは平気でつるみますし、女と見れば片っ端から口説くのですよ。もう、ほとほとあきれました」
「そなたが連れて参ったからには、むろん、それなりの素性の者であろう」
カルヴが身を乗りだす。
「ウルサの姫のゆかりとか?」
ウルサの姫?
なんのことか、リュウカにはわからなかった。
「本人はなんと?」
「言わぬ。ムダに饒舌でありながら、肝心なこととなると、とんと口を割らぬ」
「本人が語らぬことを、どうして他人の私に語れましょうや」
すなおに頭を垂れながら、リュウカは内心ニヤと笑った。
渡り廊下で人の輪を見つけた。
侍女が五人、侍者が一人、中心に金の髪の若者。成人したか否かの年ごろである。低い声は快く通り、その言葉に一同は沸いた。
「ヒース」
呼ぶと、手を振った。
輪は散り、若い子爵はリュウカの元に駆け寄った。
「どう? 話はついた?」
「今すぐにエドアルのそばについてもらいたい」
「用心棒? いいよ。それで?」
「じきに王子の棟から出て、友人をまわるはずだ。その間だけ頼む。朝には外出するが、そちらは私がつく。おまえはここに残って休んでいなさい」
「それから?」
「その先は、また考える」
「了解」
ヒースはにこにこと笑った。
「なあ、オレ強くなっただろ?」
「おごりは……」
「命とり。一回聞きゃ充分だぜ。でも、やっぱあんたにゃかなわねーや。さっき見て思った。吸いつくように斬るよな。オレもまだまだ精進しなきゃな」
剣を振る真似をする。
「でも、もう置いてきぼりはナシだぜ。ずっと一緒だからな」
青い目がウィンクした。
胸が痛んだ。
「おまえの周りはいつもにぎやかだな。近ごろは、女とみれば片端から口説いているとか」
「エドアルのヤツだな?」
ヒースは笑った。
「やっかみだよ。オレがリズと仲いいからさ。あいつさ、かしこまって『エリザ姫』って呼ぶんだぜ。そのたんびにリズに怒られてやんの。なんで加減ってもんがわかんないのかね。そりゃ、あんたも同じか。人づきあい下手だもんなあ。ホント、オレがいないとダメなんだからな、リュートせんせ」
ふいに、金髪の若者に、小さな男の子の姿が重なった。歌が好きで生意気な弟子。
「それにしても、まさか草原の地に逃げこむとはなあ。やることデカいぜ、うちの先生は」
陽気に笑う。心やさしく愛らしい弟子。
リュウカはぎゅうと抱きしめた。
指の間からこぼれるやわらかな金髪。心地よいぬくもり。
「ヒース。おまえは変わらないな」
離すと、弟子の顔は真っ赤だった。
「あのさ、リュウカ」
「ん?」
「また、胸デカくなった?」
殴った。