〜 リュウイン篇 〜

 

【第84回】

2005.2.2

 

 部屋に現れた男はひどく年老いていた。

 母を育てた人である。数えてみれば気づくはずであった。

「そのまま、そのまま」

 杖をつきながら、片手をあげた。曲がった腰、白い頭髪、シワとシミだらけの顔。なにより、しょぼくれた目と両端のだらしなく下がった口が、心の齢をも映していた。

 上げかけた腰を、元にもどす。

「パーヴ国王カルヴ陛下です」

 リュウカは族長に紹介した。

「あの老いぼれがか? 隠居すべき年だろう」

 草原ならば、統べる力なくして長は務まらない。体力も精気も衰えれば、一線を退くものだ。

「このたびは、王太子殿下のご成婚、おめでとうございます」

 リュウカはソファに腰をおろしたまま言った。

 室内の調度類はソファだけ、王族の応接間にしては狭く質素である。

「明朝でようやく長かった儀式も終わる。もっとも夢中なのは母上でな、儀式の間中、口を出していた」

「では、王太后陛下もご息災で」

「予よりも元気なくらいだ」

 九十を越えているだろうに。レアードか? 他人の精気を吸う不死の女。

「王后陛下もご息災で?」

「いや、あれは」

 向かいのソファに体を埋め、カルヴは両手で顔を覆った。

「母上は尼僧院に」

 付き添ってきたエドアルが代わりに答えた。

「昨年、おばあさまへの謀反のカドで」

「濡れ衣か?」

 王妃は王太后の遠縁で、料理好きのおとなしい女性だったはずだ。大それたことをする人には思われない。

「一昨年、ガーダ公が行方知れずになったことを、姉上はご存じですか?」

 モーヴ伯父上が?

 胸中が波打った。

「捜索は?」

「三月《みつき》。見つからず、葬儀を。そして、公の兵はみな解雇されました」

 リリーは? マムやサミーは?

「それらの中から不満分子を集め、ハータ公が謀反を企てたのです。母上はその旗印となり、しかし、ことは早期に露見し、尼僧院に」

「あれは、エドアルに王位を継がせたかったのだ。女の浅知恵よ」

 カルヴが首を振った。

 女の浅知恵か。草原の女に聞こえれば、袋だたきに合うところだ。

「知らぬこととは言え、私も処罰を免れるところでした。しかし、隣国から申し入れがあったのです。婿に手を下すなと。婚約がある以上、リュウインを無視することはできず、私はおとがめなしということになりました」

 エドアルは、ソファを叩いた。

「私は、あの赤イタチめに助けられたのです」

「では、昨夜からの襲撃は、王太后陛下の差し金と、おふたりはお考えか?」

 リュウカは本題に入った。

「城内で襲われたとなれば、たぶん」

 エドアルがうつむく。

「城内の警備を強めてはいかがか? 信頼に足る護衛をつけ、いや、むしろ王太后陛下には遠くでご隠居を……」

「できるなら、とうにやっておるわ」

 カルヴがため息をついた。

「母上は近年、ますます盛んでな。予など傀儡よ。寵はすべてセージュにある。予には妃も王子も守る力すらないのだ。せめて、あと二十若かったら」

 ふたりの妃とふたりの息子は世を追われ、ひとりの息子は寵を浴び、残るひとりは命も危ない。

 老いた国王には同情を禁じ得ない。

「私も姉上のようであれば」

 エドアルもため息をついた。

「私には剣の腕もなく、異国の血も流れていない。守るすべも、逃れるアテもないのです」

 廊下に、足音が聞こえた。

 新たな襲撃か?

 リュウカは柄に手をかけた。今度は帯剣を許されている。

 人数は、ひとり。荒く、無防備である。

 扉が勢いよく開かれた。

「草原の王はどこか!」

 毛皮のガウンに乱れた夜着、くしゃくしゃの髪。小柄な背格好がエドアルにそっくりである。

「リュウカ!」

 男が駆け寄った。

 反射的に、リュウカはさやを抜いた。男の喉元につきつける。

 男は両手を大きく広げた。

「リュウカ! リュウカだな? 今までどこにいた? どうしてもっと早く頼ってこない!」

 カルヴが口をはさんだ。

「セージュ、初夜だろう。務めにもどれ。姫を待たせてはならぬ」

 叱るというよりは、注意するといった弱々しさだった。

「あんな女、今すぐ追い返す! リュウカ、今までどうしていた。その男は誰だ?」

 族長を指す。

「草原の長だ。ずっとそちらに身を寄せていた」

「身を? 亭主か! リュウカ! こんな蛮族に!」

「父だ。異人である私を扶養してくれた」

 正確に言えば、扶養してくれたのは母だ。父はただの肩書きに過ぎない。

「父か!」

 表情は一変し、セージュは族長の手を握った。

「今まで、リュウカをかくまってくれていたのだな。送り届けてくれて礼を言う。リュウカは我が国にとっても大事な姫なのだ。ほうびをとらせるぞ。なんなりと申せ」

 リュウカは説明を省いた。

「こちらは王太子。礼をしたいと」

「では、交易だ」

 族長が言った。

「ファイアウォーに人を遣わせと言え。こちらに荷を運ぶのは骨が折れるとか理由をつけてな。焦らして、最終的には、ガーダといったかな、あの辺りで取り引きできるよう話をつけろ」

 話すだけムダだ。しかし、説明も面倒だ。直に断られれば納得するだろう。

 リュウカは言った。

「長は交易を希望している。場所はファイアウォーでどうかと」

「そんなものでいいのか? いいぞ」

 予期せずして、セージュが快諾した。

「草原はまずかろう。母上が許すまい」

 カルヴがとがめる。

「ババアなんかに文句言わせるかよ。決めるのはオレだ」

 セージュは得意げにリュウカを見た。

「チンディト公に話をつけておく。細かい話はそっちでつけろ。要求はすべて飲ませる」

 リュウカは通訳をためらった。話がうまくいきすぎる。

 セージュがせかす。

「早く言えよ。信じてないのか? もう昔のオレじゃないんだぞ。オレのひと声で国中が動くんだからな。なあ、オヤジ」

 得意そうにふり返ると、カルヴは力なくうなずいた。

 族長が訊ねた。

「どうした、コクヨウ。問題でも起きたか?」

「いえ。王太子は要求をすべて飲むと」

「そうか!」

 族長は顔を輝かせた。

「話のわかる男だ! おまえも、しっかり護衛を務めなくてはな!」

 エドアルの護衛代と取ったらしい。

 後日、チンディト公とファイアウォーで落ち合い、細かな打ち合わせをすることを約した。

 リュウカが付き添えない今、新たな通訳をファイアウォーで探す必要があったからだ。

「務めを早く果たしてもどるのだぞ。今年こそ、婿を取り、おまえには跡を継いでもらわねばならぬ。今年はムカイビも腕を上げた。おまえもコウギョクも必ず気に入るぞ」

 そう言い残し、族長は道案内に衛兵をふたりつけられ、ほくほく顔で宿へ引きあげた。

 セージュが約束を反故にすればいい、とリュウカは思った。

 今まで、なにもかもうまく行きすぎたのだ。族長はすっかり増長してしまった。

 自分の尽力がアダになった。交易のうま味だけを覚えさせてしまったのだ。

 これを機に、現実に立ち返ってくれたら、と思う。

「リュウカ、もう安心だぞ。オレが守ってやるからな」

 当然のように、セージュはリュウカの隣に腰をおろした。

「一生オレが面倒みる。イリーンの女なんか追い返して……」

 肩に手が伸びてくる。

 この男もか。

 手刀で首の後ろを打った。

 セージュが頽《くずお》れた。

 家庭を望まないわけではない。だが、何かがおかしい。モーヴ伯父がリリーを欲したのとは、何かが決定的に違う。

 どこかどうとはわからない。

 言い寄る男がことごとく、まるであの男のように思えるのだ。自分の首に手をかけ、見開いた目を奇妙にギラつかせたあの男。母を守ると、口先だけだったあの男。

「エドアル、すぐに支度を。日の出前に出立する。友に声をかけよ、理由はなんでもよい、視察でも狩りでも。荷は後で届けさせよ」

「とつぜん、姉上、どこへ?」

「伯父上には一筆したためていただきたい。王子を使者に仕立て、貴国の王女を届けにあがると。それから護衛を数名。モーヴ伯父上の部下であればなおけっこう」

 近ごろの兵は形ばかりの剣だと、モーヴはよく愚痴た。しかし、配下の者ならば、実戦向きの訓練を受けたはずだ。

「まさか、姉上、リュウインに行かれるつもりでは……」

「あの赤イタチは、そなたを守ってくれるのだろう? なかなかの策士だ、こちらの間者も容易には受けつけまいよ」

「しかし、姉上のお命が……」

「私があちらへ参るのと、そなたがここに残るのと、どちらに分がある?」

 エドアルはうなだれた。

「そなたには借りがある。死なれては返せぬよ」

 リュウカは笑った。

「それにしても、あの子はどうしたのです? 子爵とは」

 カルヴに訊ねる。

「エドアルが森で預かった、あの男か?」

「ええ、城の水が合うとは思えませんが」

「あいつはいったいなんなんです?」

 エドアルが頭をあげた。

「王を王とも思わぬ傍若無人ぶり。下々の者とは平気でつるみますし、女と見れば片っ端から口説くのですよ。もう、ほとほとあきれました」

「そなたが連れて参ったからには、むろん、それなりの素性の者であろう」

 カルヴが身を乗りだす。

「ウルサの姫のゆかりとか?」

 ウルサの姫?

 なんのことか、リュウカにはわからなかった。

「本人はなんと?」

「言わぬ。ムダに饒舌でありながら、肝心なこととなると、とんと口を割らぬ」

「本人が語らぬことを、どうして他人の私に語れましょうや」

 すなおに頭を垂れながら、リュウカは内心ニヤと笑った。

 渡り廊下で人の輪を見つけた。

 侍女が五人、侍者が一人、中心に金の髪の若者。成人したか否かの年ごろである。低い声は快く通り、その言葉に一同は沸いた。

「ヒース」

 呼ぶと、手を振った。

 輪は散り、若い子爵はリュウカの元に駆け寄った。

「どう? 話はついた?」

「今すぐにエドアルのそばについてもらいたい」

「用心棒? いいよ。それで?」

「じきに王子の棟から出て、友人をまわるはずだ。その間だけ頼む。朝には外出するが、そちらは私がつく。おまえはここに残って休んでいなさい」

「それから?」

「その先は、また考える」

「了解」

 ヒースはにこにこと笑った。

「なあ、オレ強くなっただろ?」

「おごりは……」

「命とり。一回聞きゃ充分だぜ。でも、やっぱあんたにゃかなわねーや。さっき見て思った。吸いつくように斬るよな。オレもまだまだ精進しなきゃな」

 剣を振る真似をする。

「でも、もう置いてきぼりはナシだぜ。ずっと一緒だからな」

 青い目がウィンクした。

 胸が痛んだ。

「おまえの周りはいつもにぎやかだな。近ごろは、女とみれば片端から口説いているとか」

「エドアルのヤツだな?」

 ヒースは笑った。

「やっかみだよ。オレがリズと仲いいからさ。あいつさ、かしこまって『エリザ姫』って呼ぶんだぜ。そのたんびにリズに怒られてやんの。なんで加減ってもんがわかんないのかね。そりゃ、あんたも同じか。人づきあい下手だもんなあ。ホント、オレがいないとダメなんだからな、リュートせんせ」

 ふいに、金髪の若者に、小さな男の子の姿が重なった。歌が好きで生意気な弟子。

「それにしても、まさか草原の地に逃げこむとはなあ。やることデカいぜ、うちの先生は」

 陽気に笑う。心やさしく愛らしい弟子。

 リュウカはぎゅうと抱きしめた。

 指の間からこぼれるやわらかな金髪。心地よいぬくもり。

「ヒース。おまえは変わらないな」

 離すと、弟子の顔は真っ赤だった。

「あのさ、リュウカ」

「ん?」

「また、胸デカくなった?」

 殴った。

 

   

 

 

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