〜 リュウイン篇 〜

 

【第83回】

2005.1.26

 

 薄闇の中、人馬がたむろっていた。

 細剣が光り、怒号が轟いた。

「迎えに来たぜ、王子さま」

 よく通る声が響き、人馬の中に滑りこんだ。

「グレイ! 遅い!」

 金毛《パロミノ》の陰から、いまひとりの男の声が叫んだ。

「さっさと片づけろ!」

「へいへい。そのまま動くなよ。ケガでもしたら、リズに怒鳴られるからな」

「呼び捨てにするな! 私の許婚だぞ!」

 グレイと呼ばれた金の髪の若者は、すでに剣を抜いていた。刀身が太い。

 草原の剣に似ている。コクヨウは思ったが、それは形だけではなかった。

 ひと振りすると、相手の細剣が根本から折れた。ふた振りすると、落馬した。

 剣すじも、パーヴよりは草原のものに似ていた。

 勝負は見えていた。

 賊はたちまち逃げに入った。

 グレイは逃さなかった。

「殺すな! 生け捕りにしろ! 頭領の名を聞きだせ!」

 救われたほうが命じる。

「ムダだと思うぜ」

 グレイは馬を降り、息のある者を起こした。

 案の定、行きずりに前金を渡されたのだと、ありがちな答えが返ってきた。

「卑怯なヤツだ! 正々堂々、正面から向かって来い!」

 金毛《パロミノ》の陰から現れた男は、肩掛けをしていた。その縁取りがチラチラ光る。

 金糸か?

 ベールの下でコクヨウは苦笑した。

 エドアル王子に間違いない。声にも聞き覚えがある。

「まったくだ。正面から来ても充分叩けるのによ」

「王子をバカにするか!」

「だって、バカだろ?」

「私のどこがバカだと言うのだ!」

 パーヴの王子を相手に軽口を叩けるのはどこの誰だろう?

 ウルサの王子辺りか?

「護衛も連れずにそのご立派な身なりで出歩きゃ、どうぞ襲ってくださいってなもんだろ」

「伴は連れてきた!」

「へえ。どこに?」

「逃げたのだ」

 グレイは笑いだした。低いが音楽的な声が通りに響く。

「おまえが悪いのだ! 勝手に草原の国のお方を連れだすから! とるものもとりあえず、急ぎ追ってきたのだぞ!」

 コクヨウは馬を返した。

「どこへ行く!」

 後に続くグレイにエドアルが問うた。

「あんたの忠実なしもべのとこに行くんだよ。いけ好かねーヤローだが、ほっといてくたばられちゃ寝覚めが悪ィや」

「ヴァンストンか? あいつは真っ先に逃げだしたのだ! あの弱虫め! 主君を命にかけて守るのが臣下の役目ではないか! 王子の命とたかが子爵の命と、どちらが重いのか!」

 コクヨウの手が汗ばんだ。

 草原の民ならば、ここで動揺したりはしない。今、自分は草原の民の、しかも通訳なのだ。なんのための黒装束か。

『我慢するときは、何か別の楽しかったときのことを思いだすんです』

 かっぷくのいい侍女の言葉が思いだされる。

 そうだ。ウィックロウのことを……。

 しかし、追われて母は……。

 では、師のことを。

 しかし、追われて逃げる間に師は不遇のまま……。

 矢継ぎ早に考えて、コクヨウは苦笑した。

 では、小さな歌い手のことを。高く澄んだ美声の弟子を。今ごろは舞台で名をはせているだろうか? それとも薬屋に?

 エドアル王子には、借りがある。あの子を救ってもらった。

「どっちの命が重い、だって?」

 葛藤をくり返しているコクヨウのそばで、陽気な笑い声が響いた。

「そりゃ、自分の命に決まってんだろ。あんたが死んだって、オレは平気だぜ」

「無礼者! たかが子爵の分際で王子に……」

「それが命の恩人に対する態度かね。さっさと乗れよ。置いてくぜ」

 金毛《パロミノ》はおびえて使い物にならなかった。

 グレイはエドアルを引きあげ、鞍の後ろに乗せた。

 このふたり、よい組み合わせかも知れない。コクヨウは思った。身分を越えて鼻をくじく者が、おごりがちな王子には要る。

 族長の元へもどると、ヴァンストンとかいう男がうずくまり、震えていた。

「ようすは?」

 草原の言葉で訊ねる。

「おびえて逃げるのだ。手がつけられん。背中を斬られているようだが、かすりキズだろう」

 なるほど、深手なら、背中を丸めてはいられない。

「手当を」

 コクヨウが声をかけると、震え声が応えた。

「よ、寄るな、蛮人!」

 グレイが割って入った。

「悪いけどさ、ちょっくら、こいつら送ってくるわ。黄牛《あめうし》亭で待っててくんない?」

「黄牛《あめうし》亭?」

「知らない? この先を人の足で百歩ぐらい行った先に仕立屋があって、そこを左に曲がって大通りに出たら、たぶん見つかるからさ」

「無礼だぞ!」

 エドアルが怒鳴った。

「どうせおまえの言うのは卑しい飯屋か何かだろう。そんなところに大切な客人を招けるか!」

「黒龍のお姫さまが懇意にしてたって話だぜ。卑しいとはご挨拶だな」

「草原の国のお方、ぜひ城におもどりください。改めておもてなしいたします。今宵はゆるりと草原の国のお話でもお聞かせください」

 コクヨウは族長に申し出を伝えた。

「王子か!」

 族長の顔が輝いた。

「よい拾いものをした。ここは機嫌をとっておこう。あとあと交易に有利になるかも知れん」

 コクヨウはため息をついた。

「相手国を増やしては、生産が間にあいますまい」

 のんびりとした暮らしを捨て、革なめしや機織りにあくせくすることに不安があった。

 暮らしを切り売りして得られる代価を、族長は過大評価しているのではないか?

「働けばよいことだ。みなも喜ぶ。よし、今宵は王子を口説こうぞ! コクヨウ、頼むぞ」

 族長の意向は絶対である。

 諾と告げると、エドアル王子は喜んだ。

「私の叔母上も、そちらの血を引いておられたのですよ。黒龍の姫と呼ばれましてね。剣をとらせれば国一番の使い手で、馬を走らせれば追いつくものなく、思慮深く美しい方でした。隣国に嫁がれ、若くして亡くなられましたが。まことに惜しい方を亡くしました。隣国のエリザ姫も、叔母上を慕っておりましてね。城には絵も残っております。ぜひご覧ください」

 言われなくとも、わかっている。

 コクヨウは深々とため息をもらした。

 城へ向かう道中、エドアルはのべつまくなしに、族長に話しかけた。

「叔母上は幼いころ父に預けられておりましてね、昼間だけ実母のところに通ったのです。この実母という方が、草原より輿入れされた萌黄の方で……」

「何と言っておるのだ?」

 族長が訊ねた。

「昔、草原ゆかりの者が、この国にいたとか」

「おもしろい。訳せ」

 コクヨウは天を仰いだ。

 口にしなかった過去を、敢えて明るみに出せというのか。

「あのさ」

 グレイが馬を寄せてきた。鞍上には、今や彼ひとりだった。

 エドアル王子はヴァンストンの馬に乗り換えたのだ。そちらのほうが上等な馬だったから。

「いつまでこの国にいるの?」

 パーヴの王子の得意話を訳すよりは、生意気な金髪の子爵を相手にするほうが気楽だった。通訳にあるまじきことだが、コクヨウは誘惑に喜んで甘んじた。

「三日もすれば発つ」

「じゃあ、オレも郷《くに》に連れてってよ」

 あきれた!

「思いつきや憧れでものを申すでない」

「今度こそ、一緒に行くぜ」

 声を落としてささやいた。

「リュートせんせ」

 肌があわだった。

「おまえ……」

「あんたがどんなかっこしてたって、オレにはちゃあんとわかる。二年待った。もう充分だろ?」

 声か。

 昔から耳がよかった。声で見分けたのだろう。

 いや、それにしても……。

「子爵と……」

「いろいろあってさ。今はグレイ侯爵の養子になってる。爵位ももらった」

「では、おまえは王のものだな。ついてくることなど……」

 爵位授与には、王への忠誠がつきまとう。

「形だけさ。気持ちはいつもあんたのものだよ」

 青い眼がウィンクした。

「口がうまくなったな」

「口だけじゃねーぜ。後で、セレナーデでも奏でてやるよ」

 小さな背も、幼くあどけない顔も、甲高い声も、年月はすべて奪い、目の前には見知らぬ男がいる。

 だが、あの小さな男の子だという。歌が好きで芝居がうまくおしゃべりな、虹の清水で拾った……。

 いたずら心が湧いた。

「セージュには会ったか?」

 ヒース=グレイは、にやりと笑った。

「退治されなくて済んだぜ。あんたが名前を変えてくれたから」

 怪物ヘデロの名を恥じてイヤがった男の子。

 リュウカはくすくす笑った。後から後から笑いがこみあげた。

 こんなに愉快なのは、どれぐらいぶりだろう。

 人目がなければ抱きしめてしまいたかった。小さな男の子、愛らしい弟子!

「コクヨウ!」

 族長が焦れた響きで呼んだ。

「何を話しておる」

「他愛もない話で」

 すまして答えた。

「では、王子の話をさっさと訳さぬか。ずっと話し続けておるぞ」

「そちらも他愛のない話」

 もう、どうでもよかった。

「どこにでもある自慢話です。勝手にしゃべらせておけばよろしい」

「だが、我らのゆかりの……」

「中身のない話です。適当にあしらっておきますから、族長はつまらぬことに頭を使われませんよう」

 リュウカがふり返ると、ヒースが訊ねた。

「葦毛、どうしたの?」

「うん、草原に入ったときに少しもめてな。守ってやれなかった」

 思いだすにつけ、胸が痛む。母の臨終に立ち会った唯一の連れだったのに。

「これは影という。葦毛に劣らず気性が荒い。あまり近寄るな」

「ふうん。驪《くろうま》か」

 ヒースはしげしげと影を眺めた。

「その黒装束じゃ、どっからどこまでが人で馬かわかんねぇや。あんたのかあちゃんが黒い龍だってんなら、さしずめあんたは驪《くろうま》の龍だな」

 笑った。

「ところでさ、あれ、なんだと思う?」

 路地の角に、黒い影が見えた。

 物騒だな、とリュウカは思った。殺気を発している。

「オレ、強くなっただろ」

「おごりは命とりだ」

「へいへい。じゃ、謙虚な気持ちで」

 ヒースは大きく息を吸った。

「そこにいるのは誰だ! 名乗れ!」

 低い声は、薄闇によく響いた。

「エドアル王子、覚悟!」

 闇が動いた。

「族長、王子を狙う賊です」

 早口に伝え、リュウカは剣を抜いた。

 物盗りではない。

 エドアルを狙う?

 パーヴでは、何が起きているのか?

 草原の者が関知することではない。

 しかし。

 物思いに耽りながら、剣はよく閃いた。

「殺すな! 生かして頭領の名を訊け!」

 族長の後ろで、エドアルが叫んだ。

 気になった。

「あのさ、さっきも同じこと言ったよな」

 ヒースが、リュウカと同じ問いを口にした。

「狙われる心当たりでもあんのか?」

「黙れ、蛮族。おまえの関わるところじゃない。黙って殿下の御ために働けばいいのだ」

 ヴァンストンが反り返って言う。

「じゃ、好きにしな」

 ヒースは剣をおさめた。

「オレも好きにするよ。これからはせいぜい近衛にでも守ってもらうんだな」

「黒衣の戦士どの!」

 思い詰めたように、エドアルはリュウカに呼びかけた。

「かなりの腕と見こんで申す。護衛として雇われてはくれないか」

「ダメダメ!」

 間髪を入れずに、ヒースが答えた。

「この人はオレと一緒に草原へ行くんだよ。な?」

 青い眼が人なつっこくウィンクする。

「このままでは、私は殺されてしまう」

 エドアルの声が震えた。

「昨夜は城内でからまれた。飲んだくれのたわごとと思ったが、学友が大ケガをした。今朝は頭上から燭台が落ちてきた。階段には油が流され滑った。事故だと思った。だが、今夜は城内で暴徒に囲まれた。祝い客にまぎれていたのだ。そして、城から出ればこのありさまだ。近衛たちは婚礼にかりだされ、私には身を守る手だてがない。そなたたちを雇う以外には!」

 リュウカは草原の言葉に訳した。

「我らになぜ頼る? 見も知らぬ我らに」

 族長が首をかしげた。

「叔母上のことを話したろう! 従姉のことも! 草原の国の方は、他人ではないのだ!」

 エドアルの言い分に、族長は納得がいかなかった。

 草原の地の、どこかの一族の女が嫁いだからと言って、自分たちの一族に、なんの関わりがあろうか?

「金ならいくらでも出す! だから、雇われてくれないか。高値で買いあげたっていい!」

 族長は答える。

 我らは誇り高い民族である。人を売ることはしない。

「だが、交易で便宜をはかってくれるのなら考えないでもない。どうだ、コクヨウ、誰か見つくろって、ここに置いていくか?」

 まんざらでもなさそうである。

「実は、族長、この王子には借りがある」

 リュウカは草原の言葉で言った。

「私と、大事な愛弟子の命を救ってもらった」

「それはそれ、これはこれだ。一族の利益とおまえの都合を一緒にしてはいかん。交易を軽んずるな」

「ならばこそ。交易に便をはからせながら、借りを返したい」

「ふん、異国の者どもが、すなおに言うことをきくものか。我らを蛮人めと蔑む連中だぞ。ここは充分に引き延ばし、駆け引きしよう」

「駆け引きなどいらぬ。今、約束させよう」

「異国の者は平気で約束を反故にする」

「何をもめている! 早く返事をきかせろ! 一国の王子の頼みだぞ!」

 エドアルが焦れた。

「王子の命が危険にさらされているというのに! なんとも思わないのか!」

「思わねぇよ。王子なんかクソの役にも立ちゃしねぇ」

 ヒースが笑った。陽気な響きがこだまする。

「オレにとっちゃ、こっちの驪《くろうま》のねーちゃんと草原で暮らすほうがずっと大事だ」

 草原に連れていくわけにはいかない。異質で厳しい世界だ。

 だが、残るなら……。

「ヒース」

 リュウカは言った。

「エドアルには借りがある。おまえと私を救ってもらった」

 ヒースはぎくりとした。

「殿下を呼び捨てとは! なおれ!」

 ヴァンストンが叫び、ヒースがさえぎった。

「だったら、もう借りは返した。今夜だけで二回は助けてやったぜ」

「まだだ。充分ではない」

 リュウカはベールを剥いだ。

「借りを返そう。エドアル」

「あ、姉上?」

 エドアルの声が裏返った。

「ったく。頑固なとこは変わんねーぜ」

 ヒースがあきれ声を出した。

 

   

 

 

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