薄闇の中、人馬がたむろっていた。
細剣が光り、怒号が轟いた。
「迎えに来たぜ、王子さま」
よく通る声が響き、人馬の中に滑りこんだ。
「グレイ! 遅い!」
金毛《パロミノ》の陰から、いまひとりの男の声が叫んだ。
「さっさと片づけろ!」
「へいへい。そのまま動くなよ。ケガでもしたら、リズに怒鳴られるからな」
「呼び捨てにするな! 私の許婚だぞ!」
グレイと呼ばれた金の髪の若者は、すでに剣を抜いていた。刀身が太い。
草原の剣に似ている。コクヨウは思ったが、それは形だけではなかった。
ひと振りすると、相手の細剣が根本から折れた。ふた振りすると、落馬した。
剣すじも、パーヴよりは草原のものに似ていた。
勝負は見えていた。
賊はたちまち逃げに入った。
グレイは逃さなかった。
「殺すな! 生け捕りにしろ! 頭領の名を聞きだせ!」
救われたほうが命じる。
「ムダだと思うぜ」
グレイは馬を降り、息のある者を起こした。
案の定、行きずりに前金を渡されたのだと、ありがちな答えが返ってきた。
「卑怯なヤツだ! 正々堂々、正面から向かって来い!」
金毛《パロミノ》の陰から現れた男は、肩掛けをしていた。その縁取りがチラチラ光る。
金糸か?
ベールの下でコクヨウは苦笑した。
エドアル王子に間違いない。声にも聞き覚えがある。
「まったくだ。正面から来ても充分叩けるのによ」
「王子をバカにするか!」
「だって、バカだろ?」
「私のどこがバカだと言うのだ!」
パーヴの王子を相手に軽口を叩けるのはどこの誰だろう?
ウルサの王子辺りか?
「護衛も連れずにそのご立派な身なりで出歩きゃ、どうぞ襲ってくださいってなもんだろ」
「伴は連れてきた!」
「へえ。どこに?」
「逃げたのだ」
グレイは笑いだした。低いが音楽的な声が通りに響く。
「おまえが悪いのだ! 勝手に草原の国のお方を連れだすから! とるものもとりあえず、急ぎ追ってきたのだぞ!」
コクヨウは馬を返した。
「どこへ行く!」
後に続くグレイにエドアルが問うた。
「あんたの忠実なしもべのとこに行くんだよ。いけ好かねーヤローだが、ほっといてくたばられちゃ寝覚めが悪ィや」
「ヴァンストンか? あいつは真っ先に逃げだしたのだ! あの弱虫め! 主君を命にかけて守るのが臣下の役目ではないか! 王子の命とたかが子爵の命と、どちらが重いのか!」
コクヨウの手が汗ばんだ。
草原の民ならば、ここで動揺したりはしない。今、自分は草原の民の、しかも通訳なのだ。なんのための黒装束か。
『我慢するときは、何か別の楽しかったときのことを思いだすんです』
かっぷくのいい侍女の言葉が思いだされる。
そうだ。ウィックロウのことを……。
しかし、追われて母は……。
では、師のことを。
しかし、追われて逃げる間に師は不遇のまま……。
矢継ぎ早に考えて、コクヨウは苦笑した。
では、小さな歌い手のことを。高く澄んだ美声の弟子を。今ごろは舞台で名をはせているだろうか? それとも薬屋に?
エドアル王子には、借りがある。あの子を救ってもらった。
「どっちの命が重い、だって?」
葛藤をくり返しているコクヨウのそばで、陽気な笑い声が響いた。
「そりゃ、自分の命に決まってんだろ。あんたが死んだって、オレは平気だぜ」
「無礼者! たかが子爵の分際で王子に……」
「それが命の恩人に対する態度かね。さっさと乗れよ。置いてくぜ」
金毛《パロミノ》はおびえて使い物にならなかった。
グレイはエドアルを引きあげ、鞍の後ろに乗せた。
このふたり、よい組み合わせかも知れない。コクヨウは思った。身分を越えて鼻をくじく者が、おごりがちな王子には要る。
族長の元へもどると、ヴァンストンとかいう男がうずくまり、震えていた。
「ようすは?」
草原の言葉で訊ねる。
「おびえて逃げるのだ。手がつけられん。背中を斬られているようだが、かすりキズだろう」
なるほど、深手なら、背中を丸めてはいられない。
「手当を」
コクヨウが声をかけると、震え声が応えた。
「よ、寄るな、蛮人!」
グレイが割って入った。
「悪いけどさ、ちょっくら、こいつら送ってくるわ。黄牛《あめうし》亭で待っててくんない?」
「黄牛《あめうし》亭?」
「知らない? この先を人の足で百歩ぐらい行った先に仕立屋があって、そこを左に曲がって大通りに出たら、たぶん見つかるからさ」
「無礼だぞ!」
エドアルが怒鳴った。
「どうせおまえの言うのは卑しい飯屋か何かだろう。そんなところに大切な客人を招けるか!」
「黒龍のお姫さまが懇意にしてたって話だぜ。卑しいとはご挨拶だな」
「草原の国のお方、ぜひ城におもどりください。改めておもてなしいたします。今宵はゆるりと草原の国のお話でもお聞かせください」
コクヨウは族長に申し出を伝えた。
「王子か!」
族長の顔が輝いた。
「よい拾いものをした。ここは機嫌をとっておこう。あとあと交易に有利になるかも知れん」
コクヨウはため息をついた。
「相手国を増やしては、生産が間にあいますまい」
のんびりとした暮らしを捨て、革なめしや機織りにあくせくすることに不安があった。
暮らしを切り売りして得られる代価を、族長は過大評価しているのではないか?
「働けばよいことだ。みなも喜ぶ。よし、今宵は王子を口説こうぞ! コクヨウ、頼むぞ」
族長の意向は絶対である。
諾と告げると、エドアル王子は喜んだ。
「私の叔母上も、そちらの血を引いておられたのですよ。黒龍の姫と呼ばれましてね。剣をとらせれば国一番の使い手で、馬を走らせれば追いつくものなく、思慮深く美しい方でした。隣国に嫁がれ、若くして亡くなられましたが。まことに惜しい方を亡くしました。隣国のエリザ姫も、叔母上を慕っておりましてね。城には絵も残っております。ぜひご覧ください」
言われなくとも、わかっている。
コクヨウは深々とため息をもらした。
城へ向かう道中、エドアルはのべつまくなしに、族長に話しかけた。
「叔母上は幼いころ父に預けられておりましてね、昼間だけ実母のところに通ったのです。この実母という方が、草原より輿入れされた萌黄の方で……」
「何と言っておるのだ?」
族長が訊ねた。
「昔、草原ゆかりの者が、この国にいたとか」
「おもしろい。訳せ」
コクヨウは天を仰いだ。
口にしなかった過去を、敢えて明るみに出せというのか。
「あのさ」
グレイが馬を寄せてきた。鞍上には、今や彼ひとりだった。
エドアル王子はヴァンストンの馬に乗り換えたのだ。そちらのほうが上等な馬だったから。
「いつまでこの国にいるの?」
パーヴの王子の得意話を訳すよりは、生意気な金髪の子爵を相手にするほうが気楽だった。通訳にあるまじきことだが、コクヨウは誘惑に喜んで甘んじた。
「三日もすれば発つ」
「じゃあ、オレも郷《くに》に連れてってよ」
あきれた!
「思いつきや憧れでものを申すでない」
「今度こそ、一緒に行くぜ」
声を落としてささやいた。
「リュートせんせ」
肌があわだった。
「おまえ……」
「あんたがどんなかっこしてたって、オレにはちゃあんとわかる。二年待った。もう充分だろ?」
声か。
昔から耳がよかった。声で見分けたのだろう。
いや、それにしても……。
「子爵と……」
「いろいろあってさ。今はグレイ侯爵の養子になってる。爵位ももらった」
「では、おまえは王のものだな。ついてくることなど……」
爵位授与には、王への忠誠がつきまとう。
「形だけさ。気持ちはいつもあんたのものだよ」
青い眼がウィンクした。
「口がうまくなったな」
「口だけじゃねーぜ。後で、セレナーデでも奏でてやるよ」
小さな背も、幼くあどけない顔も、甲高い声も、年月はすべて奪い、目の前には見知らぬ男がいる。
だが、あの小さな男の子だという。歌が好きで芝居がうまくおしゃべりな、虹の清水で拾った……。
いたずら心が湧いた。
「セージュには会ったか?」
ヒース=グレイは、にやりと笑った。
「退治されなくて済んだぜ。あんたが名前を変えてくれたから」
怪物ヘデロの名を恥じてイヤがった男の子。
リュウカはくすくす笑った。後から後から笑いがこみあげた。
こんなに愉快なのは、どれぐらいぶりだろう。
人目がなければ抱きしめてしまいたかった。小さな男の子、愛らしい弟子!
「コクヨウ!」
族長が焦れた響きで呼んだ。
「何を話しておる」
「他愛もない話で」
すまして答えた。
「では、王子の話をさっさと訳さぬか。ずっと話し続けておるぞ」
「そちらも他愛のない話」
もう、どうでもよかった。
「どこにでもある自慢話です。勝手にしゃべらせておけばよろしい」
「だが、我らのゆかりの……」
「中身のない話です。適当にあしらっておきますから、族長はつまらぬことに頭を使われませんよう」
リュウカがふり返ると、ヒースが訊ねた。
「葦毛、どうしたの?」
「うん、草原に入ったときに少しもめてな。守ってやれなかった」
思いだすにつけ、胸が痛む。母の臨終に立ち会った唯一の連れだったのに。
「これは影という。葦毛に劣らず気性が荒い。あまり近寄るな」
「ふうん。驪《くろうま》か」
ヒースはしげしげと影を眺めた。
「その黒装束じゃ、どっからどこまでが人で馬かわかんねぇや。あんたのかあちゃんが黒い龍だってんなら、さしずめあんたは驪《くろうま》の龍だな」
笑った。
「ところでさ、あれ、なんだと思う?」
路地の角に、黒い影が見えた。
物騒だな、とリュウカは思った。殺気を発している。
「オレ、強くなっただろ」
「おごりは命とりだ」
「へいへい。じゃ、謙虚な気持ちで」
ヒースは大きく息を吸った。
「そこにいるのは誰だ! 名乗れ!」
低い声は、薄闇によく響いた。
「エドアル王子、覚悟!」
闇が動いた。
「族長、王子を狙う賊です」
早口に伝え、リュウカは剣を抜いた。
物盗りではない。
エドアルを狙う?
パーヴでは、何が起きているのか?
草原の者が関知することではない。
しかし。
物思いに耽りながら、剣はよく閃いた。
「殺すな! 生かして頭領の名を訊け!」
族長の後ろで、エドアルが叫んだ。
気になった。
「あのさ、さっきも同じこと言ったよな」
ヒースが、リュウカと同じ問いを口にした。
「狙われる心当たりでもあんのか?」
「黙れ、蛮族。おまえの関わるところじゃない。黙って殿下の御ために働けばいいのだ」
ヴァンストンが反り返って言う。
「じゃ、好きにしな」
ヒースは剣をおさめた。
「オレも好きにするよ。これからはせいぜい近衛にでも守ってもらうんだな」
「黒衣の戦士どの!」
思い詰めたように、エドアルはリュウカに呼びかけた。
「かなりの腕と見こんで申す。護衛として雇われてはくれないか」
「ダメダメ!」
間髪を入れずに、ヒースが答えた。
「この人はオレと一緒に草原へ行くんだよ。な?」
青い眼が人なつっこくウィンクする。
「このままでは、私は殺されてしまう」
エドアルの声が震えた。
「昨夜は城内でからまれた。飲んだくれのたわごとと思ったが、学友が大ケガをした。今朝は頭上から燭台が落ちてきた。階段には油が流され滑った。事故だと思った。だが、今夜は城内で暴徒に囲まれた。祝い客にまぎれていたのだ。そして、城から出ればこのありさまだ。近衛たちは婚礼にかりだされ、私には身を守る手だてがない。そなたたちを雇う以外には!」
リュウカは草原の言葉に訳した。
「我らになぜ頼る? 見も知らぬ我らに」
族長が首をかしげた。
「叔母上のことを話したろう! 従姉のことも! 草原の国の方は、他人ではないのだ!」
エドアルの言い分に、族長は納得がいかなかった。
草原の地の、どこかの一族の女が嫁いだからと言って、自分たちの一族に、なんの関わりがあろうか?
「金ならいくらでも出す! だから、雇われてくれないか。高値で買いあげたっていい!」
族長は答える。
我らは誇り高い民族である。人を売ることはしない。
「だが、交易で便宜をはかってくれるのなら考えないでもない。どうだ、コクヨウ、誰か見つくろって、ここに置いていくか?」
まんざらでもなさそうである。
「実は、族長、この王子には借りがある」
リュウカは草原の言葉で言った。
「私と、大事な愛弟子の命を救ってもらった」
「それはそれ、これはこれだ。一族の利益とおまえの都合を一緒にしてはいかん。交易を軽んずるな」
「ならばこそ。交易に便をはからせながら、借りを返したい」
「ふん、異国の者どもが、すなおに言うことをきくものか。我らを蛮人めと蔑む連中だぞ。ここは充分に引き延ばし、駆け引きしよう」
「駆け引きなどいらぬ。今、約束させよう」
「異国の者は平気で約束を反故にする」
「何をもめている! 早く返事をきかせろ! 一国の王子の頼みだぞ!」
エドアルが焦れた。
「王子の命が危険にさらされているというのに! なんとも思わないのか!」
「思わねぇよ。王子なんかクソの役にも立ちゃしねぇ」
ヒースが笑った。陽気な響きがこだまする。
「オレにとっちゃ、こっちの驪《くろうま》のねーちゃんと草原で暮らすほうがずっと大事だ」
草原に連れていくわけにはいかない。異質で厳しい世界だ。
だが、残るなら……。
「ヒース」
リュウカは言った。
「エドアルには借りがある。おまえと私を救ってもらった」
ヒースはぎくりとした。
「殿下を呼び捨てとは! なおれ!」
ヴァンストンが叫び、ヒースがさえぎった。
「だったら、もう借りは返した。今夜だけで二回は助けてやったぜ」
「まだだ。充分ではない」
リュウカはベールを剥いだ。
「借りを返そう。エドアル」
「あ、姉上?」
エドアルの声が裏返った。
「ったく。頑固なとこは変わんねーぜ」
ヒースがあきれ声を出した。