丘陵に囲まれた盆地とも谷ともつかぬ場所がヒプノイズの街だった。
ヒプノイズ子爵の館へ続く山道を登るほどに、街がよく見渡せた。
ヒルブルークより小さな街である。家より蔵が多い。
丘陵は一面ぶどう畑だった。まだ青い房が目についた。
「昔、この地を治めていたのはタランという名の城主で……」
馬車に並んで馬を進めながらデュール・ヒルブルークが語る。リズは窓から顔を出し、昔語りを聞く。
同じデュールでも、ヒルブルークの語り口は真剣で、平板になりがちである。
色男のタランは王妃のハートを射止め、病を治したために王に重用された。王は何度もヒプノイズに足を運んだ。タランには子がなかったが、王の訪問と同時に子宝に恵まれ、栄えた。一説によると、今のヒプノイズの子孫は王の落胤だとか。
「そのタランにあやかって、今でもヒプノイズ家の惣領はタランという名なのです」
もしあの子なら、王が王妃にすげないようすも、口説かれて王妃のメランコリーが治るようすも、見てきたかのようにいきいきと物語るに違いない。蒼白く透けるような王妃の頬がみるみるうちに淡いロゼワインの色に染まり、次第にみずみずしい桃色に、やがて熟れた林檎のように赤く輝いて、濡れたようなバラ色の唇がタランとつぶやき、小さくため息をもらしたとか、そんなふうに。
リュウカは内心苦笑した。
デュール・ヒルブルークは詩人ではない。比べてはかわいそうだろう。
リズは必死であくびをかみ殺した。
マジメでいい人なのだ。退屈を紛らわせようと、一生懸命伝説でもと話してくれている。
でも、とリズは思った。マジメって、おもしろみがなくて、眠いのよ。
ヒプノイズの館は丘陵の上にあった。大きな鉄の門をくぐり、林の中を抜け、小鳥の声と花々とを愛でた後に立派な屋敷が現れた。
馬車を横づけにし、ヒルブルークが階段に敷物を広げた。
エドアルが先に降り、リズの手をとった。
「ヒプノイズはどこだ」
エドアルは扉を見渡した。
街や門まで出迎えに来て当然なのに、玄関にすら現れないとは。王族を軽んじるのか?
リズの手をとったまま、階段を上がった。
衛兵に命じて扉を開けさせた。
玄関ホールの中には、十数人が待ちかまえていた。
中央に、椅子に座ってふんぞり返っている小柄で痩せた男がひとり。年のころは二十歳前後。切れ長の目が印象深い、なかなかの顔立ちである。
こいつが当主のタラン・ヒプノイズに違いない。
エドアルはリズから手を離し、ずかずかと歩み寄った。
「出迎えもないとは何事か! 我々を愚弄するか! たかが一領主が王族を軽んじて無事でいられると思っているのか!」
ふり返った。
デュール・ヒルブルークがリリーの手をとってやってくるのが見えた。
「ヒルブルーク! この無礼者を斬れ! 我ら王族を軽んじればどうなるか、見せてやる!」
デュール・ヒルブルークは動揺のあまり、手をムダにふり回した。
「殿下、お鎮まりください」
「おまえの忠義を見せてみろ! 王族に忠誠を誓ったのではなかったか!」
「静かになさい! 王子ともあろう者がみっともない」
リリーが制した。
「王さまも、あの人も、そんなことじゃ怒りませんでしたよ。今のあなたはお兄さんそっくりです」
「兄上だと!」
心に琴線というものがあるなら、ぶち抜くほどにかき鳴らされた。
「私は兄上みたいに手をあげたりしない! 暴力なんか……」
「他人にやらせるなんて、もっと悪いと思いますけどね。どのみち、ここじゃあなたは居候。お決めになるのはちい姫さまです」
一理あり。
エドアルはリュウカの姿を探した。
扉から入ってくるところだった。
「姉上! この無礼者を斬り捨ててください!」
出迎えもない無礼、ひざまずきもせず着座する無礼を早口にまくしたてた。
リュウカは手を上げて制した。
「ヒプノイズ子爵どの、しばらく世話をかける。面倒ついでに、庭に早生の葡萄があるが、少し分けていただけないか。あまりに美味しそうなので」
「ただちに」
椅子にふんぞり返った男が答えた。
リュウカは首を傾げた。
「私は子爵どのに申しておるのだが?」
と、椅子の横に立つ男を見た。
「いかにも」
その男は恭しく礼をした。
「なぜ見破られました?」
見破るも何も、宰相から聞かされた不器量な三十男は彼ひとりだった。
これでだますつもりだったのかと、リュウカはあきれた。
「余興はよいから、休ませてもらえないか。みな、長旅で疲れている」
「殿下をお迎えすることは、当家の一大事でございます。つきましては、殿下のご器量を見定めさせていただくべく、あと二題、おつきあい願います」
もったいぶった手振り身振りに、疲れが倍増する気がした。
エドアルの顔は怒りで真っ赤に染まっている。爆発しかかっているのを、もう一度手で制した。
「ヒルブルーク、前へ!」
タラン・ヒプノイズに呼ばれ、デュール・ヒルブルークは前に進みでた。
「殿下には、この者と手合わせ願います。剣はお手持ちのものをお使いください。ヒルブルーク、おまえもだ。手抜きしてはならんぞ」
デュール・ヒルブルークは、えっと叫びかねない勢いでヒプノイズを見た。
「王女殿下に剣は向けられません」
デュール・ヒルブルークは言った。
「我がヒルブルーク家は、絶対の忠誠を誓っているのです」
「ならばこそだ。本物の王女殿下はかなり腕のたつ御方と聞いておる。本物かどうか、おまえが試せ」
茶番だとリュウカは思ったが、とりあえずさっさとすませたかった。
「よい、剣を抜け」
「そういうわけには参りません! 私は絶対の忠誠を……」
同じデュールでも、これがあの子なら。察して、いかにもな具合に負けてみせてくれるのだが。
マジメというのは美徳だが、時としてうっとうしい。
リュウカは剣を抜き、剣先でデュール・ヒルブルークの柄を引っかけた。細剣は宙に舞い、タラン・ヒプノイズの前に落ちた。
「そなたが相手をすればよい」
「私は乱暴は好まないのです。とりわけ女性には」
リュウカはそののど元に剣先を突きつけた。
タランは後ずさりした。
「で、殿下の剣は、本物のようですな、よろしいでしょう。最後の見極めをいたしましょう。女たち、前へ!」
奥から白装束の女達が十数人進みでた。
「殿下には、清らかな乙女であるか、この場で調べさせていただきます」
「無礼者!」
リリーが叫んだ。
「姉上を疑うか!」
エドアルも叫んだ。
リュウカは辟易した。
「わかった。私は清らかな乙女ではない。そういうことでよい」
デュール・ヒルブルークは雷に打たれたように硬直し、タラン・ヒプノイズも不意を突かれたように言葉を失った。
「ちい姫さま、何をおっしゃってるんですか! 純潔を疑われておいでですのよ!」
リュウカは無表情に答えた。
「では、恋人がいる女には価値も魅力もないというのか? 私は頼る相手を間違えたようだ。よそへ行こう」
「まったくです!」
エドアルは同意した。女性にとってこれ以上の侮辱はない。いわんや王女である。リュウカが怒るのは当然だと思った。
リリーも同意したが、少し複雑だった。自分の過去を後ろめたく感じたからだ。
どうして一度肌を合わせてしまうと、心持ちが変わってしまうのかしら。何よりもお姫さま第一だったのに。
リズは少し顔を赤らめた。
でも、と思った。
アルと結婚した後、私の価値が下がったなんて言われるのは、まっぴらだわ。
タランはあわてて両手をふった。
「合格です、殿下、合格です。まさにその答えが欲しかったのです。人前で肌をさらす恥じらいの心、それこそが高貴な育ちの証です」
へらず口の多いヤツだと、リュウカは思った。
「お部屋にご案内させましょう。今宵はごゆるりとお休みください。宴を用意してございます」
「面倒ついでに、部屋は私とリズとリリーを一緒に、エドアルを隣に、連れの護衛ふたりをその隣にしてもらいたい。何かあっては困るので」
リュウカが申しでると、タラン・ヒプノイズは笑った。
「当屋敷では、何もありません。どうぞご安心なさって……」
「きけぬと申すか?」
ひやりと冷たい声が通った。
「すぐに支度させます」
タラン・ヒプノイズはあわてて言った。
「お姉さま」
待つ間、リズがそばに来てささやいた。
「さっき言ってた恋人って、デュールのこと?」
「め、めっそうもございません」
デュール・ヒルブルークが顔を赤くした。
「あなたじゃないわよ」
リズが冷たい目で言った。
「ねえ、お姉さま、デュールとは、どこまで行ったの?」
「冗談じゃありませんよ! あんな子、相手にするわけないじゃありませんか、ねえ、ちい姫さま」
リリーが横から口を出す。
あの子がいたら、三年間一緒に暮らした仲だとか、同じベッドに寝た仲だとか言いそうだ。
だが、あの子はいない。
自分が追い払ったのだ。
「ただのたとえ話だよ」
答えると、エドアルが安堵のため息をついた。
「姉上の純潔を、私は信じておりました」
ここにも、信奉者がいたかとリュウカは内心ため息をついた。
王族の婚礼では、初夜の翌朝に破瓜の証のシーツを衆目にさらす儀式がある。そのシミが今後の吉兆を占うというのだ。
シミは、たいがい瑞獣や瑞鳥の繊細で華麗な美しい絵になっている。
なんのことはない、シーツに絵を描き、披露しているだけである。
先ごろのパーヴの婚礼でも、そんな儀式があったはずだ。
ふと、イリーンの姫を思って、顔がくもった。
嫁いで間もないというのに、義父は死に、夫は隣国の姫にちょっかいを出しているのだ。どんなにか心細いだろう。
ほどなく部屋に案内され、入浴し、晩餐の席に着いた。
エドアルはデュール・ヒルブルークを連れて歩いた。
着替えを手伝わせ、食堂まで付き添わせた。衛兵たちでは王子の供にはふさわしくない。
食堂では壁際に控えているよう命じたが、リュウカが口をはさんだ。
「ともに卓を囲んだらよい。ここまでの間、ずっとそうだったろう?」
姉上は甘いとエドアルは思った。
タランは三十を過ぎた肥えた男だった。目つきが悪く、大きな口から並びの悪い歯が見えた。
テーブルには弟が二人と従弟がついていた。こちらもはいずれも二十歳前後の美男子だった。最初タランのふりをしたのは従弟のシケである。
「私の母は病気がちで、私がふたつのときに死んだのですよ」
タランはワインを仰ぎながら、上機嫌に語った。
「弟たちは、父の後妻の子なのです。父は二年前に死に、後妻は尼になって霊を弔っています。叔母はシケを生みましたが、父親の名を言わんのです。今は尼僧院に放りこんでありますが、恥知らずのけしからん女です」
尻軽女、淫売と、タランは非難を積み重ねていく。
シケがかわいそうだわ、とリズは思った。
お母さまをこんなにひどく言われるなんて。
「よいワインだ」
リュウカが口を出した。
「ふくよかな香りだが、鼻からすっと抜ける。味はまろやかだが、残らない。料理によく合う」
一番若いフュトがうれしそうにうなずいた。
「私が選んだのです。お気に召していただけたようで光栄です」
「さよう、問題は、ワインなのです」
タランが物知り顔で話題をさらった。
「王女殿下には、我らのワインを充分に堪能していただきたい。よいですか、本物のワインとは、このようなものなのです」
だが、王都の貴族はわかっていない。なぜ、あのような下品なイチゴワインなど愛飲するのか。
退屈な人だわ、とリズは思った。
リリーも同様で、向かいのデュール・ヒルブルークに話しかけた。
「こちらにはよくお出でになりますの?」
「ええ、狩りのお伴に」
「まあ、ぜひ雄姿を拝見したいですわ」
タランの眉が跳ねあがり、ワインを一口飲むとニヤリと笑った。
「ヒルブルーク、麗しい身の上話でもお聞かせしたらどうだ」
デュール・ヒルブルークの顔がくもった。
「このヒルブルークの母親というのが、どこの誰とも知れない女で、婚礼も行っていないんですよ。よほど表には出せないご身分だったんでしょうなあ」
タランが笑うと、二人の弟と一人の従弟も合わせて笑った。
これが、今、私のいる世界だ、とリュウカは思った。
「ひどいこと言うのね」
リズが言った。
「ヒルブルークのお母さまは、もしかしたら、高貴な貴婦人かも知れないじゃないの」
タランは笑った。
「聞いたか? おまえの母親は、王妃さまかも知れないぞ」
リリーがもの凄い形相で睨みつけた。
「どちらの王妃さまですの?」
タランは黙った。
今のと言えばリズを卑しめ、前のと言えばリュウカをおとしめ、隣国のと言えばエドアルを侮辱することになるのだった。
「失礼」
タランは咳払いをした。
「ときに、王女殿下。当家のワインはお口に合いますかな」
リュウカは軽くうなずいた。話題を変えてくれるなら、またグチや自慢をくり返されるほうがマシだった。
「では、ぜひ国王陛下にお薦めしてください」
フュトが手をあげると、給仕たちが新しいワインを供した。
「わがヒプノイズのワインは国一番の品質を誇っております。代々国王陛下に献上し、夜宴にてご愛飲いただいておりました。しかし!」
今の国王になってから、イチゴワインの供出を義務づけられ、ぶどう畑の一部を潰してイチゴを育てたものの気に入られず、イチゴもぶどうも含めてワインはまったく買い上げられなくなってしまった。
貴族が自宅用に買ってはくれるが、しょせんは安物で量も知れる。極上品から安物までそろって蔵に残り、財政は傾く一方である。
国王陛下ともあろう御方が、この美酒をお気に召さないわけはない。どうかお薦めして、また昔のようにごひいきにしてもらうよう頼む。
エドアルが大きくうなずいた。
「姉上、確かにその通りです。あのイチゴワインには我慢がなりません。姉上も、あれほどお怒りになられたではありませんか!」
「なんと! 王女殿下も、それほどお怒りになられたのですか?」
タランが仰々しく驚いてみせた。
エドアルは、リュウカが城でイチゴワインにまみれながら樽をひっくり返して回った話をした。
「あれは王族たる者の飲むものではない。姉上も、とても許せなかったのだ!」
こぶしをふり回し、力をこめて語るエドアルを、リュウカは見る気にもなれなかった。
あれは、イチゴワインに対して怒ったのではない。
「姉上、ぜひ説得なさってください。この間は悪酔いされていたのです。今度はきっとお耳を貸してくださいます」
エドアルに話しかけられ、リュウカはハッとした。
「この間とは?」
タランが訊ねた。
エドアルは自分が見たものを語った。
夜宴に衆目の面前で国王が前の王妃の名を呼び、イチゴワインを浴びせたこと。
その毒々しい色がよみがえるようで、リュウカはくらくらした。
「私は国王に嫌われているのだ。説得する力などない」
やんわりと拒んでみせたが、エドアルは食いさがった。
「姉上を前の王妃さまと間違えたことこそ、酔っていらした証拠ではありませんか! 改めてお願いしたら、今度こそ耳を貸してくださいます」
「その通りですぞ、王女殿下。父親というものは誰でも娘がいちばんかわいいのです。この世に娘を嫌う父親などいるわけがありません。王女殿下のお願いとあらば、国王陛下はきっとお聞き届けくださいます」
と、タランも力強く言った。
そんなわけないじゃないの、とリズは思った。
お父さまは、娘はアイリーン姉さまひとりだと思ってる。私のことだって、娘だと認めてない。
「お父さまは普通じゃないわ。どこかおかしいのよ」
リズが言ったとたん、場は静まり返った。
エドアルも、タランや弟や従弟も、デュール・ヒルブルークも、一斉に注目していた。
視線が痛い。
隣にいたデュール・ヒルブルークが諭すように言った。
「国王陛下をそのようにおっしゃってはいけませんよ」
ああ、そうだった!
リズは過去の記憶を思い起こした。侍女たちも、フォッコの友だちも、みな、リズが根拠のない悪口を言ったと非難した。
エドアルでさえ、夜宴での狂乱ぶりを見ながら、悪酔いだとかばいたてる。
どうしよう。このまま本当のことを言っても信じてもらえないし、今さらなかったことにもできない。
見れば、デュール・ヒルブルークが、小さな目でひたとリズを見つめ、次の言葉を待っている。
デュール……?
そうだ、デュールなら、なんて切り抜けるだろう。
青い眼がいたずらっぽく笑い、よく通るきれいな声が陽気にささやきかけるような気がした。
「前の王妃さまが亡くなってから、お父さまは悲しみのあまり、お心が少し弱くなってしまわれたの。お姉さまを見ると、その悲しみがよみがえってしまわれるのだわ。だから、今、説得するのは難しいと思うわ。お心が癒えるまで、もう少し待っていただけないかしら」
なるほど、とデュール・ヒルブルークはうなずき、エドアルやタランたちも大きく同意した。
「では、傷ついてしまわれた国王陛下を、我々臣下がお支えしなければ」
「お慰めする方法があればよいのですが」
彼らは、王への献身を各々口にした。
食事が終わり、部屋で三人だけになると、リュウカが言った。
「あれだけの言いわけを、よく思いついたものだ」
リリーがあきれたように言った。
「あたしはまた、あの子が乗り移ったのかと思いましたよ」
リズはぺろりと舌を出した。
「そうよ。デュールだったら、ああ言うと思ったの」
「へらず口はあの子のお得意ですからね」
リリーはこともなげに言ったが、どこか誇らしげだった。
あの子は戻ってこないかも知れない、とリュウカは思った。
夫を亡くし、子まで無くしたら、リリーはどんなに悲しむだろう。その原因を作ったのは、自分なのだ。
追い払った自分が願うのはおこがましいかも知れない。
それでも願わずにいられない。
あの子がどこにいても、どうかヒースの加護がありますように。