【第112回】

 

〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(中編)
20章 北方の姫君 1 ……その1

2008.05.21

 

 兄は幼いころから品行方正な優等生だった。学業優秀で、周囲の教師たちは絶賛し、これほどの神童は見たことがないとさえ言った。国王夫妻は兄を溺愛した。

 妹は、兄に嫁ぐ運命だった。きょうだい間の婚姻は、ウルサでは珍しくない。

 国王夫妻は妹に言った。

「そなたは何のとりえもない。毎日歌って踊ってばかりで、まるで伯母にそっくりだ。あんなふうにならないよう、慎みを持ちなさい。せめて、父の足を引っ張るようなことがあってはならないよ」

 王には姉がいた。親の決めた許婚である王ではなく、異国人の男のもとに足しげく通った。子までなしたため、渋々その婚姻は認められた。

 王家の汚点であった。

 だが、妹は、この伯母が好きだった。年の離れた従姉と、少し年下の従弟が遊び相手となったし、家族のみなが歌好きだった。笛や琴や太鼓を鳴らして遊んだ。

「この国は、女には自由に生きにくい国よ。だから、好きな男と結婚なさい。一緒に生きていこうと思える男と結婚なさい。女を踏みつけにするような男はダメよ」

 兄はまったくそのような男だった。

 あるとき、妹は、異国の仔羊を一頭もらった。真っ白な毛がカールして、もこもこにふくらんだ綿羊だった。ユキと名づけて餌をやり、藁を替えた。毛の中に手を入れると温かく、繊細な手触りは雲のようだった。

 もうじき最初の毛刈りというときになって、ユキがいなくなった。

 食事の後、兄が妹にささやいた。

「今食べたのは、ユキだぞ」

 妹は蒼白になった。怒鳴り、叫んだ。

 兄は妹の胸を押した。何度も押した。妹は尻もちをついた。兄はのしかかって胸をつかんで言った。

「躾けてやる」

 妹は得も言われぬ恐怖を覚えて、兄の手をひっかいた。

 そこへ国王夫妻が駆けつけた。

「ひっかかれたんです」

 兄が言った。急に、とびかかってきて。自分は何もしていないのに。

 ちがう、と妹は言った。事情を説明した。

 王は言った。

「羊は食べ物だ。その羊の一頭や二頭ごときで兄に手をあげたのか」

 王妃は言った。

「兄は女性の体に興味を持つ年頃なのだ。健康的な証拠なのに、いやらしく感じる妹はおかしい。伯母のようなふしだらな人々に会っているから、妄想などするのだ」

 王は命じた。

「兄にあやまり、謝罪の印に、そなたの大事にしているものを兄にさしだしなさい。伯母の家族と会うことも禁ずる」

 妹は謝らなかった。

 謝るまではと外に出された。

 もし、私が狼に襲われたら、あの人たちは何て言うんだろう。

 妹は寒さに身を縮めながら考えた。春の宵はまだまだ冷えた。

 きっと、さっさと謝らず、外にいた私が悪いというに違いない。

 もし、私が誰かに誘拐されたら、なんというのだろう?

 やっぱり、私が悪いというのだろう。もしかしたら、私が色気で誘惑したとまで言うかも知れない。

 おかしくなって笑った。

 笑っている間だけは、温かかった。

 今まで何度謝ってきただろう。

 兄から話しかけられ、応じていただけなのに、『妹が兄の勉強のジャマをしている、兄は誘惑に弱いのだから、妹がしっかりしなくてはダメだ』と叱られた。あのときも、謝った。

 兄はよく学友と口ゲンカをした。兄がそのことを母にこぼした。すると、『なぜ妹が間に入って止めなかったのか』と叱られた。あのときも、謝った。

 兄の絵の具を借りた。残り少ない緑を使い切ってしまった。兄は『最後は自分が使おうと思ったのに』と文句を言った。絵の具などいくらでも手に入るのに、母に叱られた。『どうして、そんなことも気がつかないの』 あのときも、ひたすら謝ったっけ。

 ひとつ思いだせば、次から次へと思いだされた。

 小さなことだが、これだけ積み重なれば、もうたくさんだ。

 それに、ユキはモノじゃない。

 くしゃみをした。体が震えた。

 ユキがここにいればなあ。

 ぬくもりが恋しかった。だが、あのふわふわの毛も、熱すぎるほどのぬくもりも、もうどこにもないのだ。

 涙は出なかった。

 もう何年も前に、涸れたのだ。

 

 

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