〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(前編)
19章 影 ……その3

 

 急ぎの旅ではあったが、ヒルブルークの街まで一シクル半を要した。町人に扮しては、替え馬を用意するのは不自然であったし、となれば馬をしばしば休めなければならなかった。長旅を馬車なしでこなすのは、エドアルやリズにはムリだったから馬車での行程となり、さらに馬の足は遅れた。

 ヒプノイズまで、あと三日は要るだろう。あのグニーラ伯という使者が、それまで気づかねばよいが、とリュウカは急いていた。

 追いつかれれば面倒になる。

 衛兵を連れているとはいえ、たった二人だ。大勢で来られては太刀打ちできまい。力づくでパーヴに引きずられかねない。

 もう少し大人数で来るべきだったかな、と弱気になりながら、リュウカは苦笑した。

 今ごろ迷っても遅い。

 大勢であれば目立つ恐れもある。どちらにしろ、不安な旅であるのだ。

 ヒルブルークの街の門をくぐり、宿屋街へと歩を進めた。

 王都とは比べるべくもないが、人が多い。広い通りには店や宿屋が建ち並び、ところどころに露店も見られる。人だかりを迂回するように早足で歩くのは土地の者だろう。周囲を見回す落ち着きのないのは旅人だ。馬車の車輪の音や人の声、馬の蹄の音や犬の鳴き声、喧噪が辺り一帯を包む。

 リュウカは懐かしさを感じた。

 何年ぶりか。

 ヒナタの叔母を頼って、勉学のためにやってきたのだ。王都行きを断って。

 しかし、黒髪の触れが出て、早くも追われた。

 黒髪の嬢ちゃん、あんた、今度は何をやったんで?

 いわくつきの商人。その早耳に助けられた。

 まだ、あの城壁の破れはあるだろうか?

 思いを巡らしながらも、不意に圧迫感に襲われた。リュウカは素早く目を走らせた。

 兵が人混みを押しのけてくる。十数人はいるだろう。

 リュウカは馬を馬車に並べた。

「馬車を捨て、人混みに紛れて逃げなさい」

 衛兵が手綱を引き、リリーが幌から顔を出した。

「ちい姫さま……」

「ヒプノイズで落ち合おう」

 リュウカは馬を返し、追っ手の前に進みでた。

「お待ちくださいませ」

 人混みをかき分けて、追ってきた兵が言った。

「失礼ながら、ヒプノイズへ行かれるご一行ではいらっしゃいませんか」

「いや。見ての通り、一人だが」

 リュウカが馬上から答えると、後ろから身なりのよい上官らしき男が馬に乗って進みでた。

「ようこそおいでくださいました。これより先の道中は我々がお守りいたします」

 背の高い男だった。つばの広い帽子をとると、きれいにカールした暗褐色の髪が揺れた。

 おっとりとした地味な顔。

 骨太でがっしりした体躯、年はまだ少年を脱したばかり。暗褐色の小さな目には若者にありがちな直情的な光を讃えていた。

 なぜかしらリュウカの胸に不快感がこみあげた。

「申し遅れましたが、ヒルブルークと申します。ヒプノイズ子爵さまから、護衛を言いつかっております」

 馬車を降り、人混みで息を潜めていたリリーは、ハッとした。

「ちい姫さま!」

 叫んだ。人混みを泳ぎかけて衛兵に遮られた。

「その御方とご一緒いたしましょう!」

 リュウカはふり向かなかった。

 やり過ごせたらいいと願った。

 しかし、リリーはなおも叫んだ。

「私たちをお連れください。ここにみなおります。ヒルブルークさま!」

 若い指揮官はうなずき、リリーたちを捕らえた。

 大きな箱馬車が迎えに来た。ツタ模様の入った木製で、重厚な造りだった。

「だから、こんな格好はイヤだったんだ」

 エドアルがぶつぶつ言った。

「王子がこんな姿をしていたなんて、きっと後世にまで語りぐさだ」

「もう安心です」

 リリーは窓から顔を出し、馬を並べて歩くリュウカに笑顔を向けた。

 箱馬車はヒルブルークの街を出た。

 馬車の前後を十数騎の騎兵が守った。まもなく日は暮れ、月明かりに光る白い道を一行は進んだ。

 食事時に、歩みは止まった。

 ワインの炭酸割り、暖かい野菜スープに始まる夕食は、焼き直したパン、牛肉のワイン煮と続き、デザートワインで終わった。

「こんな美味しいの、生まれて初めて!」

 リズが何度もくり返した。

「お口に合いましたでしょうか」

 ヒルブルークが控えめに言った。

「まあまあだな」

 エドアルはもったいぶって言った。

「これで風呂とまともなベッドとまともな着替えがあれば、なんとか我慢できるんだが」

「賛成。お風呂に入りたいわ」

 リズが大きくうなずく。

 ヒルブルークは神妙な顔をした。

「申しわけございません。一刻も早くお連れするのが先決かと思いまして。至りませんで、申しわけございません」

「お祖父さまはお元気?」

 リリーが訊ねた。

 ヒルブルークは驚いたようにリリーを見た。

「祖父をご存じなのですか?」

 リリーはたじろいだ。

「あ、あなたのお父さまから、ちょっとうかがったのよ」

「父をご存じでしたか!」

 ヒルブルークの目が熱を帯びた。

 リリーはますますたじろいだ。

「ちい姫さまの母君に仕えてらしたのよ。お城で。少しの間」

「そうですか!」

 ヒルブルークは熱心にリュウカを見た。

「両親は私が生まれてすぐに亡くなったので、何も存じておりません。祖父が代わりに私を育ててくれましたが、その祖父も一昨年前に亡くなりました」

 リリーはそっと息を吐いた。

 ヒルブルークは気づかず、リュウカの顔を見つめ続けた。

「父は、どのような人だったのでしょうか」

 息苦しい。

 その目をどこかへ追いやってしまいたいと、リュウカは思った。

「私も初耳だ。リリー、話してさしあげなさい」

 リュウカは立ちあがった。

「どちらへ」

 ヒルブルークが腰を浮かしかけた。

「馬の世話に」

「それなら部下にさせましょう。王女殿下はごゆるりとお休みください」

「いや、むずかしい馬で、私以外には懐かないのだ」

「でしたら、お伴いたします」

 ヒルブルークは剣を片手に立ちあがった。

 カゲとコウモリは、馬車のそばにいた。

 すでに飼い葉と水のおけが置かれ、二頭が代わる代わる頭を突っこんでいた。

 信じられない。何が起きたのか。

 降りてからやったのは水だけである。

 気むずかしい馬だ。誰かが与えたとしても、桶には向かわず、むしろ草を探して歩き回るだろう。

 しかし、目の前で現に馬は飼い葉を食んでいる。

 リュウカは首をめぐらせた。

 馬車の陰から町人姿の男が姿を現した。

「こちらにお出ででいらっしゃいましたか」

 王都ロックルールからついてきた衛兵だった。

「さきほどおいとこさまがお着きになりました」

 いとこ?

 エドアルとセージュのほかに、会ったこともない前国王カルヴの息子がふたりいるが。エドアルたちの母親が輿入れする前の后の子で、長いこと僧院に幽閉されているはずだ。

 首をひねる間に、陽気な声が響いた。

「リュウカ、あんたのせいでひどい目に遭ったんだぜ」

 松明の灯りに、髪が白っぽく映えた。ひょろりと長い手足と、高い背。

「置き去りにされたせいで、ラノックのじーちゃんにはこき使われるし、リズのじーちゃんには説教くらうし。逃げだすのたいへんだったんだぜ。行き先も言わねーから、ここまで来るのに苦労したぜ」

 ヒルブルークがとつぜんリュウカの前に躍りでた。

「追っ手か!」

 一喝し、剣を抜いた。松明の灯りに細い刃が赤く光った。

「とり抑えろ! その白い髪の男は追っ手だ!」

 右手で中段に構えながら、左手を大きく振る。

 ヒースは大げさに肩をすくめてみせた。

 ロックルールから同行してきた衛兵が驚き、手を上げて制した。

「この御方は、王女殿下のお従弟さまです。怪しい方ではございません」

 ヒルブルークが真偽を確かめるかのようにリュウカをふり返った。

 しかたなくリュウカはうなずいた。

「巻きこむまいと置いてきたのだが、ついてきてしまったようだ。この子は弟のようなもので……」

「子ども扱いすんなよ」

 ヒースがムッとして遮った。

「お従弟さまとは失礼いたしました」

 ヒルブルークは剣を収めた。

「お食事はもうお済みでしょうか」

 ヒースは両手を軽くかかげた。りんごを左右に一つずつ。

「気をつかわなくていいよ。まだこいつらの世話があるんだ」

 歩み寄り、コウモリの前に片方を突きだした。

 コウモリはすんなりと口にした。

 カゲに残るひとつをさしだすと、カゲは用心深そうに匂いをかぎ、コウモリを見、ヒースを見、リュウカを見、匂いをかぎ、コウモリを見た。

 カゲがよくおとなしくしているものだとリュウカは思う。

 草原の馬は気むずかしいものだが、カゲはとりわけ扱いにくい。名馬の仔で、幼いうちからムカイビにムリをさせられた。そのため気が荒く手がつけられなかった末、イワツバメに押しつけられた。

 いい種が安く手に入ったと、イワツバメは自慢したが、懐かせるのはたいへんだった。与えた餌は食べず、人用の貯蔵庫を荒らし、人用の飲み水の入った甕に口をつっこんだ。

 今でさえ、限られた者にしか懐かない。

 そのカゲが口を開けた。りんごをかみくだく。

 飲みこんで、ヒースの手を押した。

「なんだよ、まだ欲しいのか? もう終わり」

 ヒースはいなしてふり向いた。

「リュウカ、ここで野営すんだろ」

 ヒルブルークが答えた。

「いえ、少々休みましたら、先へ参ります」

「あんた、誰?」

 ヒースが顔を近づけ、目をこらした。月光の下でははっきりしない。目立つのは、月下で白く光るヒースの金髪ぐらいである。

 ヒルブルークは敬礼した。

「申し遅れました。ヒルブルークと申します。ヒプノイズまでの送迎を申しつかっております」

「信用できんのか?」

 ヒースはリュウカを見た。

「リリーが保証している」

 リュウカは答えて、ヒースの腕を引き、耳元でささやいた。

「どうしておまえが私の従弟なのだ」

 ヒースはニカッと笑った。白い歯は月下でもくっきり光った。

「オレのとうちゃんは誰だった?」

 ようやく合点がいった。

 表向きは、モーヴ伯父の子である。

 リュウカはあきれて苦笑した。

「おまえと親戚になるとは。今まで思ってもみなかった」

 その頬にヒースがすばやくキスした。

 リュウカは凍りついた。

「姉上から離れろ!」

 エドアルの怒鳴り声がした。

 続いて、リズがうれしそうに呼びかけた。

「デュール!」

 ヒースはふり返った。んだ」

 モーヴは常勝将軍と謳われたほどであるから、いくつか秘密の抜け道は聞いているのだろう。しかし……。

「パーヴへ入ってどうする? 昔のように旅でもして暮らすか?」

 リュウカは自嘲的に笑った。たちまちセージュに捕まるだろう。

「いいや。パーヴに入ったら、ガーダにたどりついて、ファイアウォーに抜けて、草原へ帰るんだ」

「うまく行くはずはないし、帰るとしても私だけだ。草原はおまえの故郷ではないよ」

 ヒースは夜空から顔をふり向けた。

 目がひたとリュウカを見据える。

 

 

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