急ぎの旅ではあったが、ヒルブルークの街まで一シクル半を要した。町人に扮しては、替え馬を用意するのは不自然であったし、となれば馬をしばしば休めなければならなかった。長旅を馬車なしでこなすのは、エドアルやリズにはムリだったから馬車での行程となり、さらに馬の足は遅れた。
ヒプノイズまで、あと三日は要るだろう。あのグニーラ伯という使者が、それまで気づかねばよいが、とリュウカは急いていた。
追いつかれれば面倒になる。
衛兵を連れているとはいえ、たった二人だ。大勢で来られては太刀打ちできまい。力づくでパーヴに引きずられかねない。
もう少し大人数で来るべきだったかな、と弱気になりながら、リュウカは苦笑した。
今ごろ迷っても遅い。
大勢であれば目立つ恐れもある。どちらにしろ、不安な旅であるのだ。
ヒルブルークの街の門をくぐり、宿屋街へと歩を進めた。
王都とは比べるべくもないが、人が多い。広い通りには店や宿屋が建ち並び、ところどころに露店も見られる。人だかりを迂回するように早足で歩くのは土地の者だろう。周囲を見回す落ち着きのないのは旅人だ。馬車の車輪の音や人の声、馬の蹄の音や犬の鳴き声、喧噪が辺り一帯を包む。
リュウカは懐かしさを感じた。
何年ぶりか。
ヒナタの叔母を頼って、勉学のためにやってきたのだ。王都行きを断って。
しかし、黒髪の触れが出て、早くも追われた。
黒髪の嬢ちゃん、あんた、今度は何をやったんで?
いわくつきの商人。その早耳に助けられた。
まだ、あの城壁の破れはあるだろうか?
思いを巡らしながらも、不意に圧迫感に襲われた。リュウカは素早く目を走らせた。
兵が人混みを押しのけてくる。十数人はいるだろう。
リュウカは馬を馬車に並べた。
「馬車を捨て、人混みに紛れて逃げなさい」
衛兵が手綱を引き、リリーが幌から顔を出した。
「ちい姫さま……」
「ヒプノイズで落ち合おう」
リュウカは馬を返し、追っ手の前に進みでた。
「お待ちくださいませ」
人混みをかき分けて、追ってきた兵が言った。
「失礼ながら、ヒプノイズへ行かれるご一行ではいらっしゃいませんか」
「いや。見ての通り、一人だが」
リュウカが馬上から答えると、後ろから身なりのよい上官らしき男が馬に乗って進みでた。
「ようこそおいでくださいました。これより先の道中は我々がお守りいたします」
背の高い男だった。つばの広い帽子をとると、きれいにカールした暗褐色の髪が揺れた。
おっとりとした地味な顔。
骨太でがっしりした体躯、年はまだ少年を脱したばかり。暗褐色の小さな目には若者にありがちな直情的な光を讃えていた。
なぜかしらリュウカの胸に不快感がこみあげた。
「申し遅れましたが、ヒルブルークと申します。ヒプノイズ子爵さまから、護衛を言いつかっております」
馬車を降り、人混みで息を潜めていたリリーは、ハッとした。
「ちい姫さま!」
叫んだ。人混みを泳ぎかけて衛兵に遮られた。
「その御方とご一緒いたしましょう!」
リュウカはふり向かなかった。
やり過ごせたらいいと願った。
しかし、リリーはなおも叫んだ。
「私たちをお連れください。ここにみなおります。ヒルブルークさま!」
若い指揮官はうなずき、リリーたちを捕らえた。
大きな箱馬車が迎えに来た。ツタ模様の入った木製で、重厚な造りだった。
「だから、こんな格好はイヤだったんだ」
エドアルがぶつぶつ言った。
「王子がこんな姿をしていたなんて、きっと後世にまで語りぐさだ」
「もう安心です」
リリーは窓から顔を出し、馬を並べて歩くリュウカに笑顔を向けた。
箱馬車はヒルブルークの街を出た。
馬車の前後を十数騎の騎兵が守った。まもなく日は暮れ、月明かりに光る白い道を一行は進んだ。
食事時に、歩みは止まった。
ワインの炭酸割り、暖かい野菜スープに始まる夕食は、焼き直したパン、牛肉のワイン煮と続き、デザートワインで終わった。
「こんな美味しいの、生まれて初めて!」
リズが何度もくり返した。
「お口に合いましたでしょうか」
ヒルブルークが控えめに言った。
「まあまあだな」
エドアルはもったいぶって言った。
「これで風呂とまともなベッドとまともな着替えがあれば、なんとか我慢できるんだが」
「賛成。お風呂に入りたいわ」
リズが大きくうなずく。
ヒルブルークは神妙な顔をした。
「申しわけございません。一刻も早くお連れするのが先決かと思いまして。至りませんで、申しわけございません」
「お祖父さまはお元気?」
リリーが訊ねた。
ヒルブルークは驚いたようにリリーを見た。
「祖父をご存じなのですか?」
リリーはたじろいだ。
「あ、あなたのお父さまから、ちょっとうかがったのよ」
「父をご存じでしたか!」
ヒルブルークの目が熱を帯びた。
リリーはますますたじろいだ。
「ちい姫さまの母君に仕えてらしたのよ。お城で。少しの間」
「そうですか!」
ヒルブルークは熱心にリュウカを見た。
「両親は私が生まれてすぐに亡くなったので、何も存じておりません。祖父が代わりに私を育ててくれましたが、その祖父も一昨年前に亡くなりました」
リリーはそっと息を吐いた。
ヒルブルークは気づかず、リュウカの顔を見つめ続けた。
「父は、どのような人だったのでしょうか」
息苦しい。
その目をどこかへ追いやってしまいたいと、リュウカは思った。
「私も初耳だ。リリー、話してさしあげなさい」
リュウカは立ちあがった。
「どちらへ」
ヒルブルークが腰を浮かしかけた。
「馬の世話に」
「それなら部下にさせましょう。王女殿下はごゆるりとお休みください」
「いや、むずかしい馬で、私以外には懐かないのだ」
「でしたら、お伴いたします」
ヒルブルークは剣を片手に立ちあがった。
カゲとコウモリは、馬車のそばにいた。
すでに飼い葉と水のおけが置かれ、二頭が代わる代わる頭を突っこんでいた。
信じられない。何が起きたのか。
降りてからやったのは水だけである。
気むずかしい馬だ。誰かが与えたとしても、桶には向かわず、むしろ草を探して歩き回るだろう。
しかし、目の前で現に馬は飼い葉を食んでいる。
リュウカは首をめぐらせた。
馬車の陰から町人姿の男が姿を現した。
「こちらにお出ででいらっしゃいましたか」
王都ロックルールからついてきた衛兵だった。
「さきほどおいとこさまがお着きになりました」
いとこ?
エドアルとセージュのほかに、会ったこともない前国王カルヴの息子がふたりいるが。エドアルたちの母親が輿入れする前の后の子で、長いこと僧院に幽閉されているはずだ。
首をひねる間に、陽気な声が響いた。
「リュウカ、あんたのせいでひどい目に遭ったんだぜ」
松明の灯りに、髪が白っぽく映えた。ひょろりと長い手足と、高い背。
「置き去りにされたせいで、ラノックのじーちゃんにはこき使われるし、リズのじーちゃんには説教くらうし。逃げだすのたいへんだったんだぜ。行き先も言わねーから、ここまで来るのに苦労したぜ」
ヒルブルークがとつぜんリュウカの前に躍りでた。
「追っ手か!」
一喝し、剣を抜いた。松明の灯りに細い刃が赤く光った。
「とり抑えろ! その白い髪の男は追っ手だ!」
右手で中段に構えながら、左手を大きく振る。
ヒースは大げさに肩をすくめてみせた。
ロックルールから同行してきた衛兵が驚き、手を上げて制した。
「この御方は、王女殿下のお従弟さまです。怪しい方ではございません」
ヒルブルークが真偽を確かめるかのようにリュウカをふり返った。
しかたなくリュウカはうなずいた。
「巻きこむまいと置いてきたのだが、ついてきてしまったようだ。この子は弟のようなもので……」
「子ども扱いすんなよ」
ヒースがムッとして遮った。
「お従弟さまとは失礼いたしました」
ヒルブルークは剣を収めた。
「お食事はもうお済みでしょうか」
ヒースは両手を軽くかかげた。りんごを左右に一つずつ。
「気をつかわなくていいよ。まだこいつらの世話があるんだ」
歩み寄り、コウモリの前に片方を突きだした。
コウモリはすんなりと口にした。
カゲに残るひとつをさしだすと、カゲは用心深そうに匂いをかぎ、コウモリを見、ヒースを見、リュウカを見、匂いをかぎ、コウモリを見た。
カゲがよくおとなしくしているものだとリュウカは思う。
草原の馬は気むずかしいものだが、カゲはとりわけ扱いにくい。名馬の仔で、幼いうちからムカイビにムリをさせられた。そのため気が荒く手がつけられなかった末、イワツバメに押しつけられた。
いい種が安く手に入ったと、イワツバメは自慢したが、懐かせるのはたいへんだった。与えた餌は食べず、人用の貯蔵庫を荒らし、人用の飲み水の入った甕に口をつっこんだ。
今でさえ、限られた者にしか懐かない。
そのカゲが口を開けた。りんごをかみくだく。
飲みこんで、ヒースの手を押した。
「なんだよ、まだ欲しいのか? もう終わり」
ヒースはいなしてふり向いた。
「リュウカ、ここで野営すんだろ」
ヒルブルークが答えた。
「いえ、少々休みましたら、先へ参ります」
「あんた、誰?」
ヒースが顔を近づけ、目をこらした。月光の下でははっきりしない。目立つのは、月下で白く光るヒースの金髪ぐらいである。
ヒルブルークは敬礼した。
「申し遅れました。ヒルブルークと申します。ヒプノイズまでの送迎を申しつかっております」
「信用できんのか?」
ヒースはリュウカを見た。
「リリーが保証している」
リュウカは答えて、ヒースの腕を引き、耳元でささやいた。
「どうしておまえが私の従弟なのだ」
ヒースはニカッと笑った。白い歯は月下でもくっきり光った。
「オレのとうちゃんは誰だった?」
ようやく合点がいった。
表向きは、モーヴ伯父の子である。
リュウカはあきれて苦笑した。
「おまえと親戚になるとは。今まで思ってもみなかった」
その頬にヒースがすばやくキスした。
リュウカは凍りついた。
「姉上から離れろ!」
エドアルの怒鳴り声がした。
続いて、リズがうれしそうに呼びかけた。
「デュール!」
ヒースはふり返った。んだ」
モーヴは常勝将軍と謳われたほどであるから、いくつか秘密の抜け道は聞いているのだろう。しかし……。
「パーヴへ入ってどうする? 昔のように旅でもして暮らすか?」
リュウカは自嘲的に笑った。たちまちセージュに捕まるだろう。
「いいや。パーヴに入ったら、ガーダにたどりついて、ファイアウォーに抜けて、草原へ帰るんだ」
「うまく行くはずはないし、帰るとしても私だけだ。草原はおまえの故郷ではないよ」
ヒースは夜空から顔をふり向けた。
目がひたとリュウカを見据える。