白に近い塗り壁を暖炉の火が赤く染めていた。暖炉の薪は赤々と燃え、鍋がかけられていた。長テーブルを入れたらいっぱいの部屋。
王族の食堂とは比べものにならないほど粗末で狭苦しい。
グラスにはワインやオレンジジュースがつがれていた。
侍女が三人、皿やフォークを並べ、焼き目のついたパンを運び、忙しく立ち働いている。
そのうちの一人は前王弟の愛人である。
たまらない気分で、エドアルは席についた。
王族の食堂に入る限り、甘いイチゴワインが供されるのは王命だと言う。しかし、下々の食堂ではその限りではない。
それが宰相ランベルの折衷案だった。
もう少しマシな部屋はなかったのかと、エドアルは思う。それもこれも、デュール・グレイの交渉がヘタだからだ。使えないヤツだと思う。
エドアルが席に着くと、リズが入ってきた。
「今日はなあに?」
上機嫌でストーブのそばの席を陣取る。
「牛のワイン煮込みですよ」
サミーが鍋から皿にスープを注ぎ、マムが皿を置いていく。
「これは?」
マムが答えた。
「香味野菜のスープです」
「デザートはなあに?」
「そんなに訊いては、後からの楽しみがなくなっちまいますよ」
リュウカが入ってきた。
「遅れて済まぬ」
「遅くないですよ。今から始めるところです」
マムが席に着いた。
リュウカはふくらみの小さなドレスに着替えていた。ショールを肩からかけ、髪はおろし、ゆるく編んでいた。
部屋着姿でも美しいと、エドアルは思った。続いて金髪の生意気な男を思いだした。
「あいつ、今日はお茶の時間にも来なかったし、帰りも遅れてきましたね。早くしないから、あんな面倒に巻きこまれたんです」
リュウカは首を傾げ、それから使者のことを思いだした。
「あの使者、グニーラ伯と言ったかな、知っているのか?」
「知りませんよ。どうせ使いっ走りでしょう」
エドアルはイライラした。今はあいつの話をしているのに。
「姉上はあいつに甘すぎます。少しはきちんとするように言ってくださらなくては」
「マム、ワインはいいよ。水をくれないか」
リュウカはワインの入ったグラスを押しだした。
「ちい姫さま、少しのお酒は体にいいんですよ」
「まだ仕事がある」
「お姫さまはいつも何倍も強いお酒を召しあがりながらお仕事をされていましたよ。ちい姫さまも、これぐらいどうってことありませんよ」
リュウカはそれ以上何も言わなかった。
「姉上、ちゃんと私の話を聞いてください」
エドアルは言った。
「今日はあいつのせいで死ぬところだったんですよ。私も姉上も刺されるところだったじゃありませんか」
マムとサミーの身がこわばった。
リュウカは気づいて、やわらかな声音で説明した。
「心配いらないよ。私たちに危害を加えようとしたのではない。パーヴの使者が自分の命を脅しに使ったのだ」
リリーも応援した。
「もちろん、脅しには負けなかったわよ。うちの子が蹴飛ばしてやったんだから」
マムが笑った。
「そりゃあ、いい気味だね」
「姉上! 私の話を聞いているんですか?」
エドアルが声を荒あげた。
「あいつは姉上と私を守らなくちゃいけないのに、平然と遅れてきたんですよ! もし、あの使者が殺し屋だったら、どうなさったんですか!」
リュウカは少し考えてから答えた。
「ラノック伯と衛兵に注意しておこう。そなたの言う通り、警戒が足りなかったな」
「私が言ってるのは、あいつのことですよ! 勝手に職場放棄したってことじゃありませんか! 処罰すべきです!」
リリーの顔が不安そうに曇った。
エドアルはそれを見逃さなかった。
「私の言ってることは正論だな? アッシュガース伯爵夫人」
リリーはツバを飲みこみ、気丈に顎をあげた。
「ええ、ごもっともですわね。しかしながら、殿下、ひとつだけご訂正いただきます」
エドアルはムッとした。
「どこに文句があるんだ」
「私は伯爵夫人ではございません。王さまはもう亡くなったんですから。もちろんセージュさまには忠誠を誓っておりませんので、もう爵位はありません。ここにいるのは、ちい姫さまの侍女であの子の母親のリリーです。ただ今私の申しあげたことは正論ですわね?」
エドアルは詰まった。
そのすきにリリーはリュウカに向き直った。
「ちい姫さま、たしかにあの子にはいいかげんなところがございます。如何ようにでも罰してくださいませ」
「お待ち」
マムが割りこんだ。
「あたしは難しいことはわかんないけど、リリーやあたしらに爵位がないってんなら、あの子だって同じことだろ? じゃあ、エドアルさまをお守りする義務はないってことかい?」
リリーはしらばくれた。
「むしろ、危ない目に合わせたほうが、セージュさまには喜ばれるんじゃない?」
エドアルは青くなった。
「バカなことを!」
怒鳴ってみるが、侍女たちの白い眼はやまない。
助けを求めるように、リュウカを見る。
リュウカは小さく息を吐いた。
「温かいうちにスープをいただこう」
息を詰めて見守っていたリズが笑顔でスプーンをとった。
「よかったぁ! 私、おなかペコペコだったの! ねえ、アル、リリー、マム、サミー、早く食べましょう? ねえ、マム、オレンジジュースのおかわりちょうだい」
その明るさの半分でも自分にあればと、リュウカは思った。
ひと匙、口を湿らせた。手間暇をかけて煮込んだのだろう。カラメルのような香りや香味野菜のスパイシーな香り、野菜と焦げたような甘み、かすかな渋みと辛み。味も香りもよくわかる。
だが、いつものように喉に詰まった。
作り手の気持ちを思えば、旺盛に飲み、食べるべきである。母のように。
リュウカはスプーンを置いた。
テーブルの下ですばやくスカートをまくりあげ、剣の柄に手をやった。
廊下から近づく気配。床のきしみはかすかだが長い。リズムは不規則で、装具の金属音はない。衣擦れの音と疲れてはいるが整った息づかい。
衛兵ではなく、力仕事に従事する使用人ではない。それ以外の年配の男……。
足音が戸口で止まった。
その男は、開いたドアを二つノックした。
一同の視線を浴びて、その赤い胴衣の男はにっこりと優雅に足をひいて挨拶した。
リュウカは奥歯をかんだ。
「みなさま、ごきげんうるわしゅう」
と、宰相ランベル公は言った。
「あなたさえいなければね」
間髪入れずにリリーが言った。
ランベル公は再びにっこり笑った。左頬の古傷がもりあがった。
「お部屋はお気に召しましたか?」
腕を伸ばし、ぐるりと室内を指し示した。
「壁紙もタイルもないまっさらな塗り壁、飾りのない柱、木でもタイルでもなくまっさらに塗っただけの床、窓がなく、厨房から近い部屋とのお話でしたが、ご要望にお応えできましたか?」
身を隠して待ち伏せすることができず、隠し部屋が作れず、外から射殺すこともできず、毒を入れる隙を最低限に抑えられる部屋。
王族の食堂を出るからには、用心を怠ってはいけない。すでに、一度ウィックロウの離宮で狙われているのだから。
リュウカはわかりきったことを頭の中でなぞる。
右手が剣の柄を強く握りしめ、腕が震えていた。
考えろ、とリュウカは自分にいいきかせた。
動くな。考えろ。
「用件を聞こうか」
リュウカは低く押し殺した声で言った。
ランベル公は軽く会釈した。
「さすがは殿下。お話が早い。では、単刀直入に申しあげますが、殿下には明日よりご旅行にお出かけいただきます。場所はヒプノイズ。葡萄のワインの旨いところです。趣旨としては、殿下のご婚姻のお相手候補を訪問すると……」
「姉上の結婚相手だって?」
エドアルが立ちあがった。
「姉上は、そんな、どこの馬の骨ともわからぬ男となど結婚しないぞ!」
ランベル公は落ち着いていた。笑みさえ浮かべ余裕だった。
「ヒプノイズ家は代々続く名門ですし、リュウインの中でも十指に入る財産家です。ヒプノイズの現領主はタラン・ヒプノイズ子爵、三十二歳、もちろん独身です。学識教養人望はそろっておりますが、見目はそこそこ。弟たちは奥方似の美男ぞろいですのに、残念ですな」
「姉上はウルサから婿を迎えるのだ! 下々の者を婿になどさせないぞ!」
エドアルは怒鳴った。
「ウルサの王族には問題がございます、殿下」
ランベル公は恭しく言った。
「ウルサの現国王には子がありません。ご兄弟もなく、いちばん近い男子はお従弟さまですが、亡命中です。次に近いのは、又従兄弟ということになりますが、いずれもまだお小さく」
「いくつなんだ?」
「いちばん大きなお子さまで十二か十三におなりだとか」
子どもじゃないか、とエドアルは思った。
「じゃあ、どうするんだ?」
「こちらにお連れしまして、仮初めのご婚礼をなさるがよろしいかと」
「それならよかろう」
仮初めのご婚礼ってなんだろうとエドアルは思ったが、うそぶいた。
「しかしながら、お連れするまでお時間がかかります。その間、王女殿下にはヒプノイズにお出でいただきます。そうすれば万事滞りなく運ぶでしょう。いかがでしょう、王女殿下」
ウルサの事情はリュウカも知っていた。草原の民イワツバメの元でウルサとの交易に携わっていたのだから。
セージュの催促から逃れ、時間稼ぎをし、目をそらせるためにも、ヒプノイズ行きは名案である。
しかし、宰相にはなんのもくろみもないのか?
「考えてみる」
リュウカは低い声で答えた。
「ご即決いただけますと、誠にありがたいのですが」
「なぜだ」
ランベル公はおおげさに辺りを見回してみせた。
「あの御方がいらっしゃいませんな。その間にお決めになられたほうがよろしいかと」
ヒースか。宰相はアレが苦手なのか?
「できぬ」
「では、いつまでなら」
明日? 三日後?
夕方の騒動を思いだした。きっと、あの使者は明日の朝も押しかけてくるに違いない。また新たな手を使って。それに、セージュも四度めだ。焦れてどんな手に出てくるか。
早いほうがいい。事態は思ったより深刻だ。
「わかった。宰相の良いように」
「かしこまりました。では、明日の朝お発ちください。もう用意は整えてございます」
さすがである。手際がよい。
宰相は一礼して、すばやく立ち去った。
「ああ、怖かった」
リズの声が張りつめた空気を割った。
「おじいさまって、苦手。なんだか自分が石ころにでもなったような気分になるわ」
リズはスープを飲んだ。
「すっかり冷めちゃったわ。ねえ、お姉さま、仮初めのご婚礼って、なあに?」
リュウカはぼんやりとリズのようすを見ていたが、我に返った。
「成人しなければ結婚できないからね、先に式だけを済ませてしまおうと言うのだ」
「そんなことって、できるの?」
「両国の合意があればね」
リュウカは剣から手を離し、テーブルの上に載せた。
「でも、ヘンなの」
「なにがおかしいんですか?」
エドアルが訊ねた。
「だって、お姉さまはウルサの王子さまに会ったこともないんでしょう? 向こうだってそうでしょう?」
「それのどこがおかしいんです?」
「好きでもないのに結婚するの?」
エドアルは笑った。
「王族は国のために結婚するのですよ。好き嫌いを言っちゃいけません。それに、ウルサの王子などしょせんは敵国の人間ですからね、心なんか許せませんよ」
リズはムッとした。
「じゃあ、あなたはどうなの?」
エドアルは返答に詰まった。
「私のこと、好きじゃないの?」
エドアルはうなりながら、なんとか言葉を絞りだした。
「ウルサは田舎ですからね。熊みたいに図体ばかりでかくて頭のトロいヤツが来ますよ。王の血をひいているとはいえ、かなり外れているわけだし。だから、私たちが姉上を支えて頑張らなくては。ねえ、姉上、頑張りましょう」
宰相は何をたくらんでいるのだろう?
リュウカは手を伸ばした。指先がグラスに辺り、小さな音を立てた。見れば赤い液体が揺れていた。
水を、と言いかけてやめた。さっきも同じことをしたばかりだ。
「悪いが、書斎へ行く」
マムが留めた。
「ちい姫さま! ちゃんと召しあがりませんと! それに、明日の朝お出かけになるんですから、今夜は早くお休みになりませんと!」
「出発前にまとめておかなければいけないからね」
リュウカは席を立った。
「まったく。お姫さまだって、これほどじゃありませんでしたよ。ちい姫さまはマジメすぎます」
聞き流して、食堂を出た。
暗い書斎の一角だけに灯りが入っていた。大きな書斎机の周り。その壁際の柱一本一本に備えられた燭台は灯され、また机の上の大きなランプが二つ、光と影を交雑させていた。机上から照らされる灯りに浮かびあがるのは、白い細面。黒髪は闇に溶けるようである。
「待った?」
訪問客の声とともに、白い面が上を向いた。黒い瞳が訪問者のランプを映して赤く光った。
「もうすぐ終わる。少し待っておいで」
細面は再びうつむいた。机上に広げた書類にペンを走らせる。ペン先が紙に引っかかる音がいやに大きく響く。
「ここ、寒いね。今日は誰も来なかったの?」
訪問者はランプを掲げて机の前を通り過ぎ、奥の暖炉にたどりついた。
火かき棒でそうっと灰をかいたが、熾きは残ってなかった。
冷えた風が煙突から吹きこんでいた。
「長くかかるか?」
リュウカが書きながら訊ねた。
「いや」
「では、熾さなくてもよい」
リュウカはペンを置いた。
「話はなんだ」
「うさんくさいぜ」
ヒースは戻り、机の上にランプを置いた。
光を増して、リュウカの肩にマントがかけられているのが見えた。厚手の織物で、縁に毛皮がついている。
「あのおっさん、兵隊帰りで短気だけど、新参者じゃないみたいだぜ」
「話したのか?」
いつのまに? 考えてリュウカは思い当たった。茶の時間と帰宅前だ。それで遅れたのだ。
ヒースはうなずいた。
「そっちの方面の出身の兵隊さんがいたんで、代わりに話してもらったんだ。ほら、同じ地方の出同士でしゃべると、訛りが出るだろ? 似た訛りだから、地元の育ちだろうって」
記録には新参のならず者を追放したとある。だが。
リュウカの表情を読んだのか、ヒースはうなずいて続けた。
「もちろん、あのおっさんが新参者を子飼いにして、暴れさせてたって可能性もあるよ。それで領主に追放されたって。でも、なんか引っかかんだよね」
リュウカはため息をつきかけて、留まった。
「母上が誤ったと?」
ヒースは考えこむように軽くうなった。
リュウカは堪えられずにため息をついた。
「もし、あの母上が誤ったのなら、私が責められても仕方あるまい。母の稼ぎで食わせてもらっていたようなものだからな」
ヒースは軽く驚いたようにリュウカの顔を見た。
「オレが言いたいのはそんなことじゃなくて。たとえば、調査の記録って、ぜんぜん残ってないじゃん。だから、どんな調査をしたのかなって。ねえ、今はどんなふうに調査してる?」
「母上のときと同じだ。ラノック伯に指示を出す。ただ、母上は私と違って、もっと事細かく指示されていたはずだ。私よりずっと確実に」
「あんたは、あのスミレ爺ちゃんに丸投げってわけ?」
「スミレ?」
ラノック伯とスミレが結びつかない。
ヒースが笑った。
「知らない? あんたのかあちゃんに初めて会ったとき、スミレを摘んで捧げたんだってさ。うちのかあちゃんが言ってたよ」
そんな話は知らない、とリュウカはため息をついた。
「おまえは、いろいろな話を聞くのだな」
「とりあえず、どういう調査をしたのか調べてみようぜ」
どうやって?
自分がキットヒルの館に戻ってきたとき、なんの手だてもなかった。ただ、ラノック伯が母のやり方をすべて心得ており、自分はそれに載ったに過ぎない。
私には、なんの力も手だてもない。
闇が深まったような気がして、マントの前をきつく合わせた。
ヒースはぶるりと震えた。
「寒っ。やっぱ火がねぇと冷えるな」
「もう戻って寝なさい。私も戻る」
リュウカは立ちあがった。
マントをするりと脱ぎ、ヒースの体にかけようとした。
ヒースは腕をあげて遮った。
「平気だよ。あんたこそ冷えるぞ。それに、またメシ食わなかったんだって?」
「おまえは食べたのか?」
「食った。かあちゃんに説教食らいながら。ひどいんだぜ、かあちゃんたら、おまえはガツガツ食いすぎだ、ちい姫さまと足して半分で割ったらちょうどいいのに、だってさ」
ヒースは机から降り、マントをつかんでリュウカの肩にかけた。
「冷やすなよ。風邪でもひかれたら、またかあちゃんにたたき出される」
リュウカはため息をついた。
「おまえにはなんでもわかるのだな」
「まさか。誰かさんはいつもオレに隠しごとをするし。おかげで苦労するよ」
ウィンクした。
東の空が赤く染まるころ、まだ暗い道を馬と馬車の行列が城門を出た。馬にまたがるのは、細かな刺繍が美しい赤い長衣の兵隊たち。近衛兵である。馬車は赤い地に金の飾りをつけた箱馬車である。その飾りは、龍と王とを浮き彫りに、昔話を語っていた。
街道を仰々しい馬車の行列が通り過ぎるのを待って、グニーラ伯は従者たちとともに路地から現れた。
マントを羽織り、旅支度を整えていた。
逃げようとしてもムダだ。とグニーラ伯は思った。
ほどなくして、城門から一組の人馬が駆けつけた。城に勤める小間使いの男だった。
「確かに、王女殿下が乗りこまれました」
と、男は言った。
「行き先は?」
グニーラ伯の従者のひとりが訊ねた。
「マヨル山脈の麓です。そちらからウルサに使者を送るのだそうです」
従者がグニーラ伯を見た。
「いかがなさいますか?」
「先回りしよう」
グニーラ伯は答えた。
ウルサへの使者を途中で殺してしまおう。そして、まんまと逃げおおせたと安心している王女の前に出て、驚かせるのだ。王都から離れた田舎で、国王も宰相もなく、たった一人の女の身になれば、王女もしおらしくなるだろう。
馬の腹を蹴った。一団はたちまち駆けだした。
小間使いの男が取り残された。困惑の表情を浮かべていた。
「お約束のごほうびは……」
聞き手はなく、声はむなしく朝の風に消えていった。
そのころ、裏手の城門から、出入りの粉屋が幌つきの小さな荷馬車で出ていった。
二頭のラバはゆっくりと歩み続け、昼前には水車小屋に着いた。
幌の中からたくましい体つきの男が三人、次々と現れた。商人らしいこざっぱりとした麻のチュニックが、鍛えられた体に不似合いだった。
さらに幌の中から少年が顔を出した。一人が手をとり、降りるのを助けた。
「こんな窮屈な思いはもうたくさんだ。どうして、こそこそと出て来なくちゃいけないんだ」
少年はグチグチとこぼした。織りの厚い短衣の襟には刺繍が入り、袖には飾りボタンがつけられていた。
「私はおもしろかったわ」
続いて幌から少女が顔を出した。差し伸べられた手を無視して飛び降りた。短衣の裾をひっぱり、服を整える。少年と似たような服装だった。
「帽子をお忘れですよ」
さらに、男の手を借りて、女が出てきた。織りの厚いドレスを薄いエプロンドレスで覆い、大きなボンネット帽をかぶり、日よけのベールを顔に垂らしている。裕福な商人の女房という出で立ちが、妙になじんでいる。
リリーである。
一緒にいる少年少女はむろんエドアルとリズである。
リズは前につばのついた帽子を受け取り、かぶった。髪は後ろでひとつに束ねて垂らしている。
男装しているとはいえ、あまり女の子らしくない、とリリーは思った。棒のように細く、背筋の伸びた姿勢も、直線的な動き方も、男の子のようだった。帽子の下から覗く大きな鼻は最悪だった。
ほどなくして、リュウカが現れた。乗り馬のカゲの後を、同様に立派な黒馬が駆けてきた。コウモリである。鞍は空であった。ヒースの姿は影形もない。
「いい気味だ」
あんなヤツに、この名馬を渡すもんかとエドアルは思った。たとえ誰かに受け渡すことになるとしても、あいつにだけは渡すもんか。
「御用はお済みですか」
リリーが訊ねると、埃よけのマントを羽織ったリュウカがうなずいた。フードを深くかぶっているが、その中に見える顔の下半分は、埃よけのスカーフで覆われていた。切れ長の目がいつもより際だって見えた。
「こんなときまで仕事をなさることはないんですよ」
エドアルは言った。
「ラノックだって、姉上の仕事のやり方はそろそろ覚えていていいはずです。任せておけば、それなりにできるでしょう」
リュウカは留守中の指示書をラノックに渡しに行っていたのである。
「私はいいですよ? でも、もし、誰かがエリザ姫を襲ってきたら、どうするつもりだったんですか。私たち三人きりで、何ができるんですか」
衛兵たちも同行していたが、エドアルにとっては勘定に入らないらしい。
「ならば、そなたも変装すればよかったのだ」
「してますよ!」
エドアルは汚らしそうに上着の裾をつまんでみせた。
「こんな格好でつかまったら品格を疑われますよ。もう少しまともな服はなかったんですか」
「ボンネットをかぶれば、顔を隠せたろうに」
「ゼッタイイヤです!」
小柄なエドアルなら女装はムリではないだろうとリリーも思う。つまらない意地で命を落としたらどうするのだろう。それほど大事な自分だけでなく、リズもリリーも巻き添えである。
人の上に立つ器ではない。リュウカの従弟でなかったら助ける価値もない。
あの人だったら、体が大きいから女装はムリだけれど、商人だろうと馭者だろうと、むしろおもしろがって演じるだろうに。
「お姉さま、私が男の子に化けたからだいじょうぶよ」
リズがつとめて明るく言った。
「自分で言うのもなんだけど、上手に化けたでしょ? これなら誰も姫だと思わないわ。お姉さまだって、黒髪さえ見えなければだいじょうぶ」
リズはともかく、自分が髪を隠したところで、異人風の容貌はごまかせない。パーヴのように異人が多い国ならともかく、この国では目立つだろうと、リュウカは思った。
だが、反論してリズの気持ちをむげにすることもない。
リュウカはうなずき、衛兵に出発を促した。