〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(前編)
19章 影 ……その1

 

 古い板張りのエントランスは吹き抜けになり、広い階段が二階へと伸びている。その手すりには人だかりがしていた。人をかきわけるように身を乗りだして、下を見下ろしている。玄関の外から中まで伸びた細長くのびた赤い絨毯の毛足は長く、黒髪の王女は一歩踏みだすごとに足が沈み、ドレスやマントの裾がとられた。壁紙に覆われない柱や、絨毯のない床板には、刀や斧の傷が見えた。

 マントの下で、剣が小さな音で規則正しく鳴っていた。王女は、滑るように絨毯の上を進んだ。

 床板の上で、白い絹織りの長衣を羽織った男がひざまづいていた。青いサッシュを肩がけにしている。パーヴの使者である。

 王女は立ち止まらなかった。歩みを緩めず通りすがる。

「エドアル殿下にご帰還命令が出ております」

 使者が王女の背中に声をかけた。

「リュウカ王女殿下にも弔問においでいただきたいと、我が国王直々の仰せでございます。こちらが正式の書状になります」

 恭しく巻物を掲げて頭を下げるが、王女は立ち止まらなかった。

「ラノック伯、使者をねぎらうように」

 先んじた衛兵が、謁見室の扉を開いた。王女は衛兵を従え、中へ入った。

 使者は顔をあげた。聞いてはいたが、本当に素っ気ない。すでに城には三度使者が訪ねている。いずれも冷たくあしらわれ、自分は四人めである。三度の使者たちは国王セージュの怒りを買い、地方に飛ばされてしまった。

 だが、これはチャンスでもある。成功すれば国王の覚えめでたく……。

「グニーラ伯爵さま、こんなとこで何やってんの」

 声をかけられてふりむいた。玄関で髪が陽光にきらめいている。まぶしい。笑う口元が白く光った。金髪。しかし、ウルサ人に知り合いはいないが。

「あいにくだけど、うちのお姫さまは手強いぜ。あきらめな」

 埃よけのマントを脱いで、ズカズカと中に入ってくる。身なりは異国風ではない。藍色の厚手のチュニックに、黒の細長ズボンと乗馬用ブーツ。町人風情の賤しい身なりだ。

「困ります、少しは身なりにご配慮ください」

 王女が消えた扉辺りから、小男が小走りしてきた。

「王女殿下の品位が疑われます」

「リュウカは気にしねぇよ」

「客人が気にします! おそばに侍るなら、もう少し品のある身なりを……」

「細かいこと気にしてっと、禿げるぜ、爺ちゃん」

 ウルサ人は長身ではあるが、よく見ると顔は幼い。たしかに小男をジジイと呼べる年頃ではある。

 小男は顔をしかめてから、使者に向き直った。

「では、使者殿、こちらへ。長旅でお疲れでしょう。ごゆるりとおくつろがれください」

 これが、ラノック伯か。リュウカ王女の側近の。

 立ちあがって後に続くと、小男の頭のてっぺんが薄くなっているのが見えた。茶色の長衣も揃いのキュロットも、あまり洒落者とは言えない。地味な男だ。この男を口説き落とせば、交渉もうまく行くに違いない。

 使者の頭の中は計算でいっぱいになった。ウルサ人のことなど、それきり忘れてしまった。

 さて、そのウルサ人は、王女のくぐった扉を開いて中に入った。

 謁見は始まっていた。

 悪びれもせず、王女の斜め後ろの席に座る。

 衛兵たちは王女の左右と、室内の壁際や窓際に、長い棒を持って立っていた。

 謁見者たちは向かいの壁際にすわり、順番を待っていた。八人。

 この人数では、今日は面倒な話が多いってことだな。

 拝謁者が一人、王女から一馬身ほどのところにすわり、滔々と訴状を読みあげる。時折、テーブルの上に広げた書類を示す。

 王女は背筋をピンと張り、相づちを打ちながら話を聞いていた。

 長い話だった。要するに、ヒプノイズの葡萄畑が富裕層に不当に奪い取られたり、重い納税を義務づけられたりという話らしいが、富裕層の言い訳が巧妙だとか、奪い取られた人々のほとんどが富裕層の仕返しが怖くて泣き寝入りしているため、証拠がそろわないのだとか、曖昧な部分が多かった。

 半ニクル以上も経って、ようやく話は終わった。

 王女はいくつか質問し、その件については念入りに調査し、後日沙汰すると締めくくった。

「今、裁定してくださらないのですか」

 拝謁者が言った。焦げ茶の長衣は前の合わせに刺繍を散りばめたもので、しっかりした木綿製だった。地主だろうとウルサ人の若者は思った。

 訴状だけでは判断できない。調査のために時間が要る。即答できなくて悪いが、少し待て。というようなことを王女が言うと、拝謁者がぼそりと言った。

「十年前は即答してくださったのに」

 つぶやきというには、大きすぎた。

 王女は眉一つ動かさなかった。

「次!」

 と、進行役のブラム伯が促した。

 入れ替わりに、ヒバ村のイワオという男が進みでた。

 テーブルに書類を置いたが、広げることもなく、王女の顔をひたと見つめ、大声で話し始めた。

 背は高く、胸は厚く、よく鍛えた体つきだった。堂々とした風情で、都言葉を流暢に話した。

 村のとりまとめ役だろうと、王女は思った。

 ヒナタに似ている。フジノキ村の材木屋。貧しい村、貧しい暮らし、労働の日々。

 指先に冷たい水を思いだした。冬の洗濯は凍りつくようだった。腹をすかせてユキの後を歩いた。

 イワオはヒバ村の惨状を訴えた。毎日の糧にも困り、次々と餓死者が出ている。原因は田畑を失ったからである。ある地主が領主と組み、お上に訴え出て、まんまと土地をせしめたのだ。村人たちは地主にこきつかわれるか、山に追い出された。村に残った者も、山に逃れた者も、飢えで苦しみ死んでいる。

 訴状通りの文言だったが、王女にはじゅうぶんだった。フジノキ村にて村長の一家がほしいままにする情景を思い浮かべてはぞっとした。

 王女は食糧をすぐに送ることを約束した。イワオの帰途に荷と人夫とを伴わせることとした。

「調べも改めよう。そのとき、どこへ訴えでたのかわかるか」

 問いに、イワオの目が熱を帯びた。

「あんただ! 十年前に、あんたがここで!」

 イワオは椅子を蹴り、テーブルを押し倒した。手に何かを握りしめ、言葉にならない声を発しながら王女に突進した。

 手にしているものが、王女にはわかった。鉈だった。よく使いこまれ、刃先は磨きあげられていた。イワオが両手で振りかぶると、窓から差しこむ陽を受けギラギラと光った。

 体は引きかけた。しかし、頭の中で誰かが言った。他人事として逃げてよいのか。母の責任は自分の責任ではないのか。いや、だが、本当に母が間違いを?

 硬直する王女の視界を、金色が染めた。

 ウルサ人の若者が前に飛びだしたのである。

 イワオの手首をつかみ、床に押し倒した。抗するその右手を床に倒れたテーブルにたたきつけ、刃物を奪って床を滑らせた。

「ぼやっとしてないで拾え! 手を貸せ!」

 若者の声で、衛兵たちがハッとした。

「殺せ!」

 イワオが叫んだ。

「おまえのせいで、ナエもフキも死んだんだ! おまえにとっちゃ、オレたちは虫けら同然なんだ!」

「あのな、このお姫さまをいくつだと思ってんだ?」

 イワオを衛兵たちに抑えさせて、若者が言った。

「あんたが言ってんのは、前の王妃さまだよ。こいつの母ちゃんのほうだ」

「おんなじだ! そうやって稼いだ母親からメシを食わせてもらっていたんだろう! 都合よく責任逃れするな!」

 衛兵が黙らせましょうかと目で合図した。若者は首を振った。

「あんたには、これから食糧と一緒にヒバ村へ帰ってもらう。調査は改めてするから、しばらく待ってろ」

「ダマされんぞ! 適当にだまらせようとしても、オレは、あいつらの恨みを晴らすまでは……」

「今、うちのお姫さまが約束したろう。前の王妃さまが何を言ったかは知らないが、このお姫さまは約束は果たすさ。それに、とりあえず食糧を持ってすぐ帰らなかったら、あんたを送り出してくれた連中が飢えちまうだろう。お仲間のためにも、まずは帰れ」

 イワオはツバを吐いた。

 若者がひょいとよけて、目で衛兵を促した。

 イワオは扉の外へ引きずられていった。

「呪ってやる! この恨み、死んでも忘れんぞ!」

 イワオは最後まで悪態をついた。

 ようやく静かになった室内には気まずい空気が漂っていた。

「騒がせたな。では、次へ移るとしよう」

 王女が何事もなかったかのように言った。

「ブラム伯?」

 促されて進行役は我に返った。

「では、クワザト村の……」

 促した王女は無表情だった。

 午前の謁見を済ませてから、リュウカは書斎に入った。

 部屋のほとんどは書棚で埋められており、そこにはぎっしり古い記録が並んでいた。かび臭い本の間を縫って、窓辺へたどりつく。

 窓際の机の上には、古い記録が広げられていた。九年前のヒバ村の記録である。

 椅子の背に手を置き、リュウカは鳥の声に誘われて窓を見上げた。ヒノキの枝と青い空。窓枠の格子がリュウカの顔に影を落とした。

 しばらくたたずんでから、椅子に腰をおろした。古い紙に古いインクの跡をたどる。訴状の内容は、イワオの言った通りだった。ヒバ村の地主が土地について申し立てをしている。長年開墾してきた土地を新参者にのっとられたというのだ。この新参者というのは、廃業に追いこまれた兵隊崩れで、盗賊団に等しく、土地を乗っ取っただけではなく、村の治安を悪化させていたらしい。この訴えは了承され、領主が兵を出して追い払い、事なきを得たこととなっている。

 訴状の提出から謁見まで二シクル。裁決は謁見時に下されている。

「昼メシ持ってきたぜ」

 ヒースが入ってきた。窓辺に寄ると、ウルサ人特有の金髪がきらきら輝いた。

 抱えた紙袋から、机の上に中身を並べた。透明な瓶に入った水、陶器のカップ、小さな笛型のパン、葉物とハムとバター。

 ヒースは瓶からカップに水を注ぎ、口をつけた。それからもう一つのカップに水を注いで、リュウカの目の前に突きだした。

 受け取って口をつけると、水の匂いのほかに、何かかすかに香った。口にふくんで、その正体がわかった。

「加水用の水だな」

 麦の蒸留酒は、樽で熟成直後はアルコール度が高い。瓶詰めにするとき、水を加えてアルコール度を調整する。そのときに用いる水である。

 母は麦の蒸留酒の伴として、この水を常備していた。大人にふるまい酒があるときには、子どもに供されるのがこれだった。大人が酔いを醒ますときに飲むのもこれだった。

 しかし、昔飲んだものは、もっと風味が強かったはず。それに、最近、似た香りを嗅いだ気がする。

「ナータラッハの水だよ」

 ヒースは腰からナイフを抜いて、パンを切った。

 けげんなリュウカの表情を見て、つけ加えた。

「ウィックロウで差し入れした酒だよ。あんた好みの」

 ああ、とリュウカは思いだした。ウィックロウの離宮で泣いたあの夜の酒だ。

 母の酒よりも風味の淡い、あの花の香り。たしかにこれだ。

「贅沢だな」

「あの酒屋さあ、毒入りジュースなんか運んじまって出入り禁止になったろ? あんたに取りなしてくれって持たされた」

「信用できるのか?」

「どうかな」

 リュウカは思いだした。瓶を開けて一口めは、ヒースが飲んだではないか。

「毒味をしたのだな。もし毒に当たったらどうする」

「オレも見る目がなかったってことだろ」

 ナイフでバターをとり、パンに塗った。そこへ葉物とハムとはさみこんで、リュウカに差しだした。

「だいじょうぶだって。さっき母ちゃんとオレが一個ずつ食ったから」

 リュウカは差しだされたパンを見つめた。

「危ないことはやめなさい。私につきあうことはない」

「オレもかあちゃんも、あんたに頑張ってもらわなきゃ困るんだ」

 リュウカはヒースの手からパンを取った。

「あのエセ英雄が王さまになっちまったろ。オレもかあちゃんも、あの国に送り返されたらヤバいんだよ。だから、あんたに踏ん張ってもらわないと」

「私などいなくとも、うまくやるだろう」

 リュウカはパンをかじった。バターのいい香りがした。シャキシャキとした葉物の歯ごたえが口中に響いた。

 ヒースは肩から提げた楽器袋を足下に置き、机の縁に腰かけて水を飲んだ。

 金色の髪が窓から差しこむ光を受けて輝いた。その向こうに青空が見えた。

「そっちは、うまく行ってんの?」

 ヒースが記録簿に顎をしゃくった。

「訴え通りの裁定がなされたと書いてある」

 リュウカは皮肉めいた笑みを浮かべた。

 ヒースは身を傾け、記録簿に顔を近づけた。

「兵隊崩れが村を乗っ取ったっていうの。じゃあ、あのおっちゃんはさしずめ兵隊崩れってわけ? 調査記録はどこ?」

「残っていない」

 リュウカはパンをかじった。ハムの焦げ臭い香りが鼻をついた。

「なあ、リュウカ」

 体を傾けたまま、ヒースがリュウカの目をのぞきこんだ。

「なんで動かなかった?」

 謁見の間で、イワオが鉈を振りあげたときのことだろう。

 リュウカは、ヒースの青い眼を見返した。

「おまえには、危ない目に遭わせてすまなかった。だが、私の前に出なくともよい。自分でなんとかできる」

「おとなしく殺されるつもりだったんだろ」

「まさか」

 笑った黒い眼を、青い眼は離さなかった。

「あんたのかあちゃんは、生き延びろって言ったんだろ?」

 黒い眼から笑みが消えた。

 そっとパンに目を落とした。

「忘れんなよ。あんたは生きて、草原に戻るんだ。そして、オレと所帯を持って幸せに暮らすんだ」

 リュウカは苦笑した。

「私と一緒にいるとロクなことがないぞ」

「だから、オレが幸運を運んでやるんだろ」

 ヒースは楽器袋から竪琴を取りだした。弦の調整をした後に弾き始めた。低い声がよく響いた。建国の祖ヒースクリフの歌だった。極寒の地で迫害を受けたヒースクリフと仲間たちが山を越え、約束の地にたどり着き、開墾し、麦を育て、酒を造り……。

 玄関先でマントを受け取り、羽織りながら馬へと向かった。

 陽は西に傾いているはずだが、厚い雲に阻まれて見えなかった。

 急がねばならなかった。陽がない分、夜の訪れは早い。

 衛兵たちはすでに馬にまたがっていた。間を縫って馬車の前までたどりつくと、先に行ったはずのリリーたちがまだ乗りこまず、立っていた。

 声をかけようとして、リュウカは留まった。馬車の入り口に、白い長衣に青いサッシュを肩がけにした男がひざまずいていた。朝見た使者だった。

 リュウカは辺りを見回して呼んだ。

「ラノック伯!」

 しかし、小男の姿は見あたらない。

「衛兵、使者殿をラノック伯のもとへお連れしなさい」

「ラノック伯にはご了承いただいております」

 白い長衣の使者が言った。

「王女殿下には、ぜひ我が国にお越しいただきます。エドアル殿下にもご帰国いただきます。我が国王陛下は、エドアル殿下にご帰国いただけないのは、貴国に囚われの身になっているためとお考えでいらっしゃいます。ならば、奪還のため国を挙げることもおありかと」

「今までにもくり返し申しあげたが、弔問にはすでにアイリーン王女が赴いた。重ねて参る必要はない。エドアル殿下にしても、まだ帰国して日の浅い私を助けていただいているのだ。今帰られては困る。そなたの国王には、そう伝えるのだな」

 リュウカは使者のほうへ歩み寄った。

 使者は腰から短剣を抜いた。

 エドアルが短く声をあげ、リズの手を引いて衛兵たちの中に駆けこんだ。

 リリーは使者を睨みつけ、衛兵たちの身はこわばった。

 使者は両手で短剣を握り、ゆっくりと自分の喉へ刃先を向けた。

「お聞き入れください。この命に替えましても」

 使者はリュウカに向かって言った。

「もし私が死体で帰りましたなら、我が国王はお怒りになり、必ずや貴国へ攻めこむことでしょう。そうなれば、今度こそ、ピートリークの統一はなされましょう。それでもよろしいのですか」

 ラノックがこの使者を止められなかった原因はこれか、とリュウカは思った。

 使者の目は真剣だった。

 その緊張に、悪気のない声が割りこんだ。

「ごめん、リュウカ。ちぃっと手間取っちゃって」

 衛兵の間を縫って現れたのはヒースだった。

 有様を見るなり笑った。

「グニーラ伯爵さま、ご自害でもすんの? だったら、そこどいてくんない? かあちゃんが馬車に乗れないじゃん」

 つかつかと使者に歩み寄る。

 使者の手で短剣が揺れた。

「来るな! さもなくば死ぬぞ!」

「死んでもいいけど、そこジャマなんだよね」

 近づいて、使者を蹴り飛ばした。

 馬車のドアを開ける。

「かあちゃん、さっさと乗って。暗くなっちまう。リズ! エドアル! どこ行ったんだ、早く乗れよ」

「あ、危ないじゃないか!」

 使者が起きあがって怒鳴った。

「どこかケガでもしたらどうするんだ!」

「だって、死ぬんだろ? だったら同じじゃん。それとも、オレが代わりに串刺しにしてやろうか?」

「デュール・グレイ!」

 衛兵の間から顔を出したエドアルが叱りつけた。

 使者がハッとした。

「おまえはガーダ公が賤しい女に産ませた生意気な異人野郎か!」

「あれ、覚えてたの?」

「おまえのことなら知っている。ウルサから送りこまれたスパイのクセに! まんまと我が国から逃れたつもりだろうが、異人の浅知恵だな、自分から見つかりにくるとは。こいつを捕らえろ! 我が国ばかりか、この国の内情までを探りにきたウルサのスパイだぞ!」

 使者が衛兵たちに怒鳴る。

 ヒースは後ろをふり返った。

「どうする? リュウカ。オレを縛り首にでもする? それとも、こいつを串刺しにする?」

 リュウカは苦笑した。

「で、できるものならしてみろ! 私が死んだら我が国王陛下はたちまち攻め入るぞ!」

 使者が必死に虚勢を張った。

「セージュがあんたなんかのために小指一本動かすもんか。むしろ、あんたの領地を取りあげて喜ぶんじゃねーの」

 ヒースはエドアルとリズを馬車の中に押しこんだ。

 ドアを閉めると同時に列の先頭に向かって叫んだ。

「出発! 大急ぎでな!」

 ヒースは馬車の後ろにいたコウモリに飛び乗った。

「退がっといたほうがいいぜ、グニーラ伯爵さま。顔に蹄の痕をつけたくなかったらな」

 馬列が動きだした。使者はあわてて逃げだした。

 リュウカはカゲに乗り、列に合わせて進んだ。

「知り合いか?」

 ヒースに訊ねた。黙っていてもコウモリはカゲに並ぶから、自然、ヒースとは顔を合わせることになる。

「あっちは覚えてねーみたい。噂で知ってるって感じだな」

 ヒースはチラと後ろをふり返ってみせる。

「おまえはどうなのだ」

「オレは覚えてるよ。あっちの宮廷で剣の稽古に出されたとき、上級にあいつがいたんだよ。師範たちに褒められて鼻高々で、その割にちょっとでも剣が当たると、やれ腕が折れただの、足が痛いだの、うるさくってさ」

「それだけか?」

「そんだけ。オレ、初心者扱いだったから、剣も交えなかったし。それっきり顔出してないし」

「どうして」

「言わなかったっけ? ああいう形だけの剣は合わねーんだよ。だから、とうちゃんに言って師匠を変えてもらったんだ」

 リュウカはあきれた。

「その程度の知り合いで、自殺が狂言だと、よく見抜いたな」

「まさか」

「では、なぜあんなことを」

 ヒースは空を見上げた。曇り空は暗さを増していた。

「あんたも、エドアルも、あんなエセ英雄のとこにやれないじゃん。迷ってることねーんだよ。どうせ、あのエセ英雄のことだから、使者は使い捨てなんだし」

 ようやくリュウカは合点がいった。ヒースは使者よりもセージュの考えを読んだのだ。

「あんたはやさしすぎるんだよ」

「私がか?」

「あんなクズでも、死んだらかわいそうだと思ったろ?」

 そうかも知れない。自分たちのために、巻き添えを食って死んで欲しくはなかった。

「おまえは違うのか?」

 ヒースは軽くうなってから、リュウカに笑いかけた。

「自業自得ってヤツ? 勝手に自分の命をダシに使ってんだから。それよりさ」

 リュウカのほうに体を傾ける。

「今夜、ふたりで話したいんだけど」

 リュウカは少し考えた。

「書斎は? みなが帰った後に」

「了解」

 

 

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