〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(前編)
18章 婚姻 ……その6

 

 剣技場から出て歩いた。

 エドアルは問うた。

「命を狙われ、理想も実現できないのなら、私は何のために生きているのでしょう。姉上は何のために生きていらっしゃるのですか?」

 リュウカは苦笑した。ヒースを見る。

「おまえは答えられるのか? 訊ねたのは、そもそもおまえだろう」

「愚問! オレはリュウカを守るために生きてんだよ! じゃ、また後でな」

 ヒースは早々に岐路で別れた。

「いつもなら、しつこくつきまとうのに」

 エドアルは言った。

 ヒースがリュウカを守るために生きると言うのなら、エドアルはリズを守るために生きるのだろうか?

 違う気がした。

 リズは守りたい。

 だが、それだけの人生ではあるまい。

「あの子は今、コウモリに夢中なのだ」

「コウモリ?」

「気はやさしいがプライドが高い馬だからな。馴らせるかどうか」

 あの草原の馬だ!

 ピンときた。

 リュウカが乗っていないほうの馬。兄セージュに献上されたのに、勝手に連れてきてしまった葦毛の馬。

 自分をふり落とした、あの憎らしい馬。

「あの馬は私にくださるとおっしゃったではありませんか!」

「乗りこなせたらな。主は、コウモリ自身が決めるだろう」

 リュウカの目が緩んだ。

 エドアルは焦れた。

「あいつはなんなんです? 姉上はあいつをどうするつもりなんですか!」

「あの子のことは、あの子が決める。そなたがそなたのことを決めるように。私もまたそうなのだろう」

 リュウカは小さく息を吐いた。

「あの子がときどき羨ましくなる。なぜあのように自分自身でいられるのか」

 エドアルは茫然とリュウカを見つめた。

 比べるのも愚かしい。差は歴然ではないか。

「あいつはウソつきです。姉上にぜんぜん歯が立たないくせに、姉上を守るなんて。わがままで思いあがったバカです!」

 リュウカは少し笑った。

「あの子はなんにでもなれたのだ。薬屋にも歌い手にも役者にも、そのほかのなんにでも。だが、貴族とは。もっとも性分に合わぬだろうに。私はあの子の一生を狂わせているだけのような気がするよ」

「そんなことありません! あいつが勝手にやってるんです! 姉上は賢くあられるから、あんなヤツだろうが、人々がどんどん慕ってくるのです。イチイチ気になさっていてはキリがありません」

 リュウカは力なく笑った。

「私はそんな人間ではないよ」

 朝食の席に、リュウカは現れなかった。

 リズは一言も口をきかず、皿の中身を口の中に押しこみ、ジュースで胃に流しこんだ。

 エドアルは、ムリに話しかけなかった。自分が何を為すべきか、それがはっきりするまでは、何を話したらいいのかわからなかった。

 宰相に、この国の歴史や法律を学びたいので教師を探せと言いつけて、席を立った。

 リュウカに、また、あの賤しい食事をさせてはならない。

 中庭に急いでヒースの姿を探した。

 見あたらなかった。

 リュウカが王族の棟から出てきた。埃よけのマントを羽織っていた。もう、キットヒルの館へ出かけるのだ。

「姉上! デュール・グレイは?」

「厩か馬場だろう」

「お食事は?」

「あの子のことだから、適当に何か食べただろう」

 エドアルはムッとした。

「あいつのことではありません! 姉上のことです!」

「リズのことを頼む。くれぐれも用心してな」

 早口に言って、リュウカは立ち去った。

 忙しい人だ、とエドアルは思った。

 大勢の人々に求められ、それに答える。なんと甲斐のある人生か。

 それに比べて私は。

 エドアルは首をふった。

 まずは、この国のことを知ろう。足場を固めて、あとはそれからだ。

 それから?

 その先に何があるというのか?

 ため息が出た。

 先は見えない。

 暗闇に取り残されているかのようだった。

 キットヒルの館までの道中、リズはエドアルに目もくれなかった。馬車には同乗せず、馬に乗った。

「こんなにゆっくりじゃ、日が暮れちゃうわ! 駆けていきましょうよ!」

 隊長に文句を言った。

「お退がりください。殿下に万一のことがあっては、私どもの立場がございません」

「何にもないわよ! どっかの国賓を守って、後からノロノロついてくれば? あたしはそんなにひ弱じゃないんだから!」

「姉君のご命令です。ご不満でしたら、直に姉君にお話しくださいませ」

 じゃじゃ馬め。

 エドアルは馬車の窓から眺めながら思った。

 しかし、リズは生き生きして見えた。自分がしたいことをわかっているような気がした。

 リズはリュウカに会いたい。ウルサ語を習いたい。馬に乗るのが好き。剣を習いたい。農民どもと畑を耕すのが好き。野を駆けるのが好き。食べるのが好き。笑うのが好き。喋るのが好き。

 自分は、どうなんだろう? 本当にリズと結婚したいのだろうか? この国に移り住んでもよいのか? 兄から逃げまわって、あの宰相の庇護など受けて、そして、どんな一生が待っているというのだろう?

 父上! 私はどうしたらいいのですか? 教えてください!

 帰ったら、父カルヴ王に手紙を書こうと思った。

 父を思うと、心が落ち着いた。今までだって、どうしたらよいか道を指し示してくれた。きっと、今度も明確な道を示してくれるだろう。父の言う通りにしていればだいじょうぶ。間違いない。

 キットヒルの館に着くと、ちょうどお茶の時間だった。支度は調っており、リリーが客間で待っていた。

「お姉さまは?」

「ストレス発散してますよ。ちょっとおイヤなことがありましてね」

 席を立ち、リリーは窓を開けた。

「リズさまがお着きになりましたよ!」

 大声で呼んだ。

 貴婦人らしからぬ声だ、とエドアルは思った。

「ちい姫さま、もういい加減になさいませ。ちい姫さま!」

 刃を打ち鳴らす音が聞こえた。

「リュウカぁ、その辺でカンベンしてやれば」

 ヒースの声がのんびり響く。

 エドアルは窓に歩み寄った。

 中庭で、男が数人のびていた。まだ二人がリュウカと剣を交えていた。

 刺客だ!

 エドアルは目まいを覚えた。

「だっ、誰か……」

 助けを呼ぼうとしたが、声がかすれた。

「お姉さま! 助太刀します!」

 リズが窓から飛びだした。あっという間にリュウカに駆け寄る。

 危ない!

 エドアルもあわてて窓から飛び降りた。バランスを失い、頭から落ちそうになる。手をついて、続いて膝をついた。

 無様だ。

「退がっていなさい」

 リュウカが低い声で口走り、ひと薙ぎした。二人が仰向けに倒れた。

「悪者め! 覚悟しなさい!」

 リズが細剣を振った。

 どこに持っていたのだろう?

 ムチャクチャに大ぶりし、剣にふり回されている。

「おやめ」

 リュウカが手をあげて遮った。

「ただの稽古だよ。お茶にしよう。ウルサ語を学ぶのだったな」

 リュウカの剣は刃先の丸い練習用のものだった。ただし、長くぶ厚い。

「お姉さま、剣の稽古もつけてちょうだい」

 リズは剣を右肩に構えた。

 肘を脇にぴったりつけ、いかにも女らしい構え方だった。

「今なら、ついででしょ」

「そなたはウルサ語を学びに来たのだろう」

「剣も大事なの! いざ!」

 リズはよろめくように剣を振った。

 リュウカは軽く受け流した。

 リズの体が弾けとんだ。尻もちをつく。剣が手を離れ、転がった。

「痛いっ!」

 リズは右腕を押さえた。

「腰が浮いている。構え方から学ばねばなるまいよ。さあ、お茶にしよう」

 リュウカは中庭に続くドアから客間に入った。

 ドレスの裾が土で汚れていた。

 エドアルは後に続いて中に入った。

「姉上、あれらは、何か無礼を働いたのですね? お自ら手を下さなくとも、誰かにやらせればよろしいでしょうに」

 リュウカは答えない。黙って席につく。

「休憩中の衛兵が稽古をつけて欲しいと申しでたんですよ」

 リリーが茶を注ぎながら答えた。

 エドアルは怒った。

「それじゃ、姉上がお休みになる時間がないじゃありませんか! 誰もお止めしなかったのですか!」

「王さまが来たんだよ」

 ヒースが中に入ってきた。

「黙れ!」

 リュウカが鋭く制した。

 ヒースは気にも留めない。

「リュウカを出せって言ってさ」

「黙れと言うに!」

「子どもを人質にとって首締めたんだよ」

 リュウカはカップを取りあげると、茶を浴びせた。

 ヒースは身軽に交わし、笑った。

「だから、オレをそばに置いときゃよかったんだよ。つまんない使いに出しちまうから」

「王が子どもを? 何かの間違いではありませんか?」

 エドアルはリュウカに訊ねた。

「お父さまのやりそうなことね」

 リズはこともなげに茶をすすった。

 エドアルにはさらなるショックだった。国王ともあろう者が子どもに危害を加え、そのことに誰も驚かないのか?

「その子どもに何か無礼があったのでは?」

「ブルネットが無礼にあたるならね!」

 リリーがリュウカのカップに茶を注いだ。

「急所が外れていたのと、手当てが早かったのが幸いしましたけど! あのマヌケ面は、何度同じことをくり返せば気が済むんでしょう!」

 くり返せば?

「以前にもあったのか?」

 ふいに、脳裏に朝のリュウカがよみがえった。

 首に手をやり、こう言わなかったか?

『昔のことだがな』

 ぞっとした。

 あれは、リュウイン国王のことか?

「アレの立ち入りを禁ずる手はないものか」

 リュウカは言った。

 リズが答えた。

「お父さまは、お好きになさるわ。興奮すると、お母さまやお祖父さまにだって止められないもの」

 リリーが席につく。

「仕方ないですから、そこのバカ息子を使ってくださいな。何かのお役には立つでしょう」

 リュウカは眉根を寄せた。

「これで二度めだぞ。今度こそ無事に済むまい」

「あら、前にも手をあげましたの? 存じませんでしたわ」

 え?

 エドアルの手に汗がにじんだ。

 まさか、王に手をあげた?

「平気だって」

 当のヒースはけろりとしている。

「隣国の王弟の息子に手を出したら、国際問題になるだろ。リズのじーちゃんがうやむやにしてくれるって」

 リュウカがけげんそうな顔をした。

 ヒースが手を頭の後ろで組み、とぼけたように答える。

「そういうことになってんじゃん。オレのとうちゃんは王さまの弟なんだろ?」

 リュウカは眉根を寄せた。

「王弟の子が王に手を上げるほうは国際問題とやらにならぬのか?」

「オレがリズのじーちゃんなら、こう言うね! 『王には悪霊が取り憑いていたのだ! 悪霊を退治してくれてありがとう!』」

「おまえは……」

 リュウカは目を覆った。

「とにかく、何かあったら逃げるのだぞ」

 ヒースはすなおにうなずいた。

「ああ、いいよ」

 リュウカはホッと肩をおろした。テーブルからカップをとる。

 しかし、ヒースの返事には続きがあった。

「あんたと一緒にね」

 カップが揺れて紅茶がこぼれた。受け皿にもどすと、ガチャリと大きな音がした。

「おまえはっ!」

 怒鳴ったのはリリーだった。

「からかうんじゃありません! ちい姫さまは、どこにも行きません! お姫さまに代わって、この国を立派に治めるんです!」

 その通りだ。

 エドアルは思った。

 由緒正しい血筋なのだ。女王にならないわけがない。

 そうなれば。

 ヒースを見た。

 おまえなどとは釣り合わない。ゼッタイに!

 姉上は、ウルサから婿をとるだろう。国政上、それがもっとも好ましい。

 同じ黄色の髪でも、おまえではないんだからな!

『リュウカを守るために』

 そんな生き甲斐、壊れる運命なんだ。おまえなんか、ただの一兵卒にしかなれないさ。

 胸がスッとした。

「授業を始めよう」

 リュウカは言った。

「まず、文字を覚えようか」

 リズを見る目からは、険しさが消えていた。

 やわらかいまなざし。いつものリュウカだった。

 リズはすぐには帰らなかった。

 リュウカが謁見に戻ってからも、文字と挨拶文の書き取りを続けていた。

 リリーは茶器を洗いに行っていた。

 部屋にはふたりきりだった。

 ヒマだな、とエドアルは思った。

 リリーが戻ってきたら、紙とペンをもらおう。帰ってからと思っていたが、ここで書いてしまおう。父への手紙を。

 ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 陽に照らされた中庭は、高木がひとつと低木の植えこみがあるだけで、広々としている。

 外でお茶にすれば、気持ちよかっただろうに。

 戸口で物音がした。

 リリーが戻ってきたのだろうかと、エドアルは首をめぐらせた。

 予想は当たっていた。

 リリーだった。青ざめていた。

「エドアルさま、リズさま」

 声が震えていた。

「急いでお支度なさいませ。お城にお戻りを」

「どうしたの? リリー。気分が悪いの?」

 リズはリリーに駆け寄った。

「ちい姫さまもご一緒に戻られます。確かなことは城でお訊ねなさいませ」

「なにかあったの?」

 リリーが両手で顔を覆った。

「どうか、お姫さま、どうか!」

 リリーはうめいた。

「お守りください! お姫さま!」

 これほど取り乱したリリーを見るのは初めてだった。

「ねえ、どうしたのったら!」

 リズがリリーを揺さぶった。

 リリーは手をおろし、リズの腕にすがった。涙目で見上げる。

「王さまが……」

「お父さま?」

 リズが聞き返す。リリーはかすかに首をふった。

「カルヴさまが……」

 父上が?

 エドアルは立ちあがった。

 イヤな予感がした。

「ご危篤と……」

 危篤!

 老いた穏やかな顔、静かな微笑み、苦労が刻んだ数多の皺。

 ウソだ!

 つい数日前にはお元気だった!

 あんなにお元気だったのに!

 何かの間違いだ!

 目の前が真っ暗になった。

 

 

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