剣技場から出て歩いた。
エドアルは問うた。
「命を狙われ、理想も実現できないのなら、私は何のために生きているのでしょう。姉上は何のために生きていらっしゃるのですか?」
リュウカは苦笑した。ヒースを見る。
「おまえは答えられるのか? 訊ねたのは、そもそもおまえだろう」
「愚問! オレはリュウカを守るために生きてんだよ! じゃ、また後でな」
ヒースは早々に岐路で別れた。
「いつもなら、しつこくつきまとうのに」
エドアルは言った。
ヒースがリュウカを守るために生きると言うのなら、エドアルはリズを守るために生きるのだろうか?
違う気がした。
リズは守りたい。
だが、それだけの人生ではあるまい。
「あの子は今、コウモリに夢中なのだ」
「コウモリ?」
「気はやさしいがプライドが高い馬だからな。馴らせるかどうか」
あの草原の馬だ!
ピンときた。
リュウカが乗っていないほうの馬。兄セージュに献上されたのに、勝手に連れてきてしまった葦毛の馬。
自分をふり落とした、あの憎らしい馬。
「あの馬は私にくださるとおっしゃったではありませんか!」
「乗りこなせたらな。主は、コウモリ自身が決めるだろう」
リュウカの目が緩んだ。
エドアルは焦れた。
「あいつはなんなんです? 姉上はあいつをどうするつもりなんですか!」
「あの子のことは、あの子が決める。そなたがそなたのことを決めるように。私もまたそうなのだろう」
リュウカは小さく息を吐いた。
「あの子がときどき羨ましくなる。なぜあのように自分自身でいられるのか」
エドアルは茫然とリュウカを見つめた。
比べるのも愚かしい。差は歴然ではないか。
「あいつはウソつきです。姉上にぜんぜん歯が立たないくせに、姉上を守るなんて。わがままで思いあがったバカです!」
リュウカは少し笑った。
「あの子はなんにでもなれたのだ。薬屋にも歌い手にも役者にも、そのほかのなんにでも。だが、貴族とは。もっとも性分に合わぬだろうに。私はあの子の一生を狂わせているだけのような気がするよ」
「そんなことありません! あいつが勝手にやってるんです! 姉上は賢くあられるから、あんなヤツだろうが、人々がどんどん慕ってくるのです。イチイチ気になさっていてはキリがありません」
リュウカは力なく笑った。
「私はそんな人間ではないよ」
朝食の席に、リュウカは現れなかった。
リズは一言も口をきかず、皿の中身を口の中に押しこみ、ジュースで胃に流しこんだ。
エドアルは、ムリに話しかけなかった。自分が何を為すべきか、それがはっきりするまでは、何を話したらいいのかわからなかった。
宰相に、この国の歴史や法律を学びたいので教師を探せと言いつけて、席を立った。
リュウカに、また、あの賤しい食事をさせてはならない。
中庭に急いでヒースの姿を探した。
見あたらなかった。
リュウカが王族の棟から出てきた。埃よけのマントを羽織っていた。もう、キットヒルの館へ出かけるのだ。
「姉上! デュール・グレイは?」
「厩か馬場だろう」
「お食事は?」
「あの子のことだから、適当に何か食べただろう」
エドアルはムッとした。
「あいつのことではありません! 姉上のことです!」
「リズのことを頼む。くれぐれも用心してな」
早口に言って、リュウカは立ち去った。
忙しい人だ、とエドアルは思った。
大勢の人々に求められ、それに答える。なんと甲斐のある人生か。
それに比べて私は。
エドアルは首をふった。
まずは、この国のことを知ろう。足場を固めて、あとはそれからだ。
それから?
その先に何があるというのか?
ため息が出た。
先は見えない。
暗闇に取り残されているかのようだった。
キットヒルの館までの道中、リズはエドアルに目もくれなかった。馬車には同乗せず、馬に乗った。
「こんなにゆっくりじゃ、日が暮れちゃうわ! 駆けていきましょうよ!」
隊長に文句を言った。
「お退がりください。殿下に万一のことがあっては、私どもの立場がございません」
「何にもないわよ! どっかの国賓を守って、後からノロノロついてくれば? あたしはそんなにひ弱じゃないんだから!」
「姉君のご命令です。ご不満でしたら、直に姉君にお話しくださいませ」
じゃじゃ馬め。
エドアルは馬車の窓から眺めながら思った。
しかし、リズは生き生きして見えた。自分がしたいことをわかっているような気がした。
リズはリュウカに会いたい。ウルサ語を習いたい。馬に乗るのが好き。剣を習いたい。農民どもと畑を耕すのが好き。野を駆けるのが好き。食べるのが好き。笑うのが好き。喋るのが好き。
自分は、どうなんだろう? 本当にリズと結婚したいのだろうか? この国に移り住んでもよいのか? 兄から逃げまわって、あの宰相の庇護など受けて、そして、どんな一生が待っているというのだろう?
父上! 私はどうしたらいいのですか? 教えてください!
帰ったら、父カルヴ王に手紙を書こうと思った。
父を思うと、心が落ち着いた。今までだって、どうしたらよいか道を指し示してくれた。きっと、今度も明確な道を示してくれるだろう。父の言う通りにしていればだいじょうぶ。間違いない。
キットヒルの館に着くと、ちょうどお茶の時間だった。支度は調っており、リリーが客間で待っていた。
「お姉さまは?」
「ストレス発散してますよ。ちょっとおイヤなことがありましてね」
席を立ち、リリーは窓を開けた。
「リズさまがお着きになりましたよ!」
大声で呼んだ。
貴婦人らしからぬ声だ、とエドアルは思った。
「ちい姫さま、もういい加減になさいませ。ちい姫さま!」
刃を打ち鳴らす音が聞こえた。
「リュウカぁ、その辺でカンベンしてやれば」
ヒースの声がのんびり響く。
エドアルは窓に歩み寄った。
中庭で、男が数人のびていた。まだ二人がリュウカと剣を交えていた。
刺客だ!
エドアルは目まいを覚えた。
「だっ、誰か……」
助けを呼ぼうとしたが、声がかすれた。
「お姉さま! 助太刀します!」
リズが窓から飛びだした。あっという間にリュウカに駆け寄る。
危ない!
エドアルもあわてて窓から飛び降りた。バランスを失い、頭から落ちそうになる。手をついて、続いて膝をついた。
無様だ。
「退がっていなさい」
リュウカが低い声で口走り、ひと薙ぎした。二人が仰向けに倒れた。
「悪者め! 覚悟しなさい!」
リズが細剣を振った。
どこに持っていたのだろう?
ムチャクチャに大ぶりし、剣にふり回されている。
「おやめ」
リュウカが手をあげて遮った。
「ただの稽古だよ。お茶にしよう。ウルサ語を学ぶのだったな」
リュウカの剣は刃先の丸い練習用のものだった。ただし、長くぶ厚い。
「お姉さま、剣の稽古もつけてちょうだい」
リズは剣を右肩に構えた。
肘を脇にぴったりつけ、いかにも女らしい構え方だった。
「今なら、ついででしょ」
「そなたはウルサ語を学びに来たのだろう」
「剣も大事なの! いざ!」
リズはよろめくように剣を振った。
リュウカは軽く受け流した。
リズの体が弾けとんだ。尻もちをつく。剣が手を離れ、転がった。
「痛いっ!」
リズは右腕を押さえた。
「腰が浮いている。構え方から学ばねばなるまいよ。さあ、お茶にしよう」
リュウカは中庭に続くドアから客間に入った。
ドレスの裾が土で汚れていた。
エドアルは後に続いて中に入った。
「姉上、あれらは、何か無礼を働いたのですね? お自ら手を下さなくとも、誰かにやらせればよろしいでしょうに」
リュウカは答えない。黙って席につく。
「休憩中の衛兵が稽古をつけて欲しいと申しでたんですよ」
リリーが茶を注ぎながら答えた。
エドアルは怒った。
「それじゃ、姉上がお休みになる時間がないじゃありませんか! 誰もお止めしなかったのですか!」
「王さまが来たんだよ」
ヒースが中に入ってきた。
「黙れ!」
リュウカが鋭く制した。
ヒースは気にも留めない。
「リュウカを出せって言ってさ」
「黙れと言うに!」
「子どもを人質にとって首締めたんだよ」
リュウカはカップを取りあげると、茶を浴びせた。
ヒースは身軽に交わし、笑った。
「だから、オレをそばに置いときゃよかったんだよ。つまんない使いに出しちまうから」
「王が子どもを? 何かの間違いではありませんか?」
エドアルはリュウカに訊ねた。
「お父さまのやりそうなことね」
リズはこともなげに茶をすすった。
エドアルにはさらなるショックだった。国王ともあろう者が子どもに危害を加え、そのことに誰も驚かないのか?
「その子どもに何か無礼があったのでは?」
「ブルネットが無礼にあたるならね!」
リリーがリュウカのカップに茶を注いだ。
「急所が外れていたのと、手当てが早かったのが幸いしましたけど! あのマヌケ面は、何度同じことをくり返せば気が済むんでしょう!」
くり返せば?
「以前にもあったのか?」
ふいに、脳裏に朝のリュウカがよみがえった。
首に手をやり、こう言わなかったか?
『昔のことだがな』
ぞっとした。
あれは、リュウイン国王のことか?
「アレの立ち入りを禁ずる手はないものか」
リュウカは言った。
リズが答えた。
「お父さまは、お好きになさるわ。興奮すると、お母さまやお祖父さまにだって止められないもの」
リリーが席につく。
「仕方ないですから、そこのバカ息子を使ってくださいな。何かのお役には立つでしょう」
リュウカは眉根を寄せた。
「これで二度めだぞ。今度こそ無事に済むまい」
「あら、前にも手をあげましたの? 存じませんでしたわ」
え?
エドアルの手に汗がにじんだ。
まさか、王に手をあげた?
「平気だって」
当のヒースはけろりとしている。
「隣国の王弟の息子に手を出したら、国際問題になるだろ。リズのじーちゃんがうやむやにしてくれるって」
リュウカがけげんそうな顔をした。
ヒースが手を頭の後ろで組み、とぼけたように答える。
「そういうことになってんじゃん。オレのとうちゃんは王さまの弟なんだろ?」
リュウカは眉根を寄せた。
「王弟の子が王に手を上げるほうは国際問題とやらにならぬのか?」
「オレがリズのじーちゃんなら、こう言うね! 『王には悪霊が取り憑いていたのだ! 悪霊を退治してくれてありがとう!』」
「おまえは……」
リュウカは目を覆った。
「とにかく、何かあったら逃げるのだぞ」
ヒースはすなおにうなずいた。
「ああ、いいよ」
リュウカはホッと肩をおろした。テーブルからカップをとる。
しかし、ヒースの返事には続きがあった。
「あんたと一緒にね」
カップが揺れて紅茶がこぼれた。受け皿にもどすと、ガチャリと大きな音がした。
「おまえはっ!」
怒鳴ったのはリリーだった。
「からかうんじゃありません! ちい姫さまは、どこにも行きません! お姫さまに代わって、この国を立派に治めるんです!」
その通りだ。
エドアルは思った。
由緒正しい血筋なのだ。女王にならないわけがない。
そうなれば。
ヒースを見た。
おまえなどとは釣り合わない。ゼッタイに!
姉上は、ウルサから婿をとるだろう。国政上、それがもっとも好ましい。
同じ黄色の髪でも、おまえではないんだからな!
『リュウカを守るために』
そんな生き甲斐、壊れる運命なんだ。おまえなんか、ただの一兵卒にしかなれないさ。
胸がスッとした。
「授業を始めよう」
リュウカは言った。
「まず、文字を覚えようか」
リズを見る目からは、険しさが消えていた。
やわらかいまなざし。いつものリュウカだった。
リズはすぐには帰らなかった。
リュウカが謁見に戻ってからも、文字と挨拶文の書き取りを続けていた。
リリーは茶器を洗いに行っていた。
部屋にはふたりきりだった。
ヒマだな、とエドアルは思った。
リリーが戻ってきたら、紙とペンをもらおう。帰ってからと思っていたが、ここで書いてしまおう。父への手紙を。
ぼんやりと窓の外を眺めていた。
陽に照らされた中庭は、高木がひとつと低木の植えこみがあるだけで、広々としている。
外でお茶にすれば、気持ちよかっただろうに。
戸口で物音がした。
リリーが戻ってきたのだろうかと、エドアルは首をめぐらせた。
予想は当たっていた。
リリーだった。青ざめていた。
「エドアルさま、リズさま」
声が震えていた。
「急いでお支度なさいませ。お城にお戻りを」
「どうしたの? リリー。気分が悪いの?」
リズはリリーに駆け寄った。
「ちい姫さまもご一緒に戻られます。確かなことは城でお訊ねなさいませ」
「なにかあったの?」
リリーが両手で顔を覆った。
「どうか、お姫さま、どうか!」
リリーはうめいた。
「お守りください! お姫さま!」
これほど取り乱したリリーを見るのは初めてだった。
「ねえ、どうしたのったら!」
リズがリリーを揺さぶった。
リリーは手をおろし、リズの腕にすがった。涙目で見上げる。
「王さまが……」
「お父さま?」
リズが聞き返す。リリーはかすかに首をふった。
「カルヴさまが……」
父上が?
エドアルは立ちあがった。
イヤな予感がした。
「ご危篤と……」
危篤!
老いた穏やかな顔、静かな微笑み、苦労が刻んだ数多の皺。
ウソだ!
つい数日前にはお元気だった!
あんなにお元気だったのに!
何かの間違いだ!
目の前が真っ暗になった。