夜明けごろ、エドアルは目を醒ました。
寝直そう。
しかし、こめかみの脈動が頭に響き、息は乱れ、眠れなかった。
悪い夢を見たわけでもないのに。
仕方なく起きだして着替えた。
悪いのは夢ではなく、現実だった。
廊下はまだ暗く、補足灯りが残っていた。
朝の空気は冷たい。
エドアルは襟の前を合わせた。
中庭に出る。低木の針のような葉が、朝露をふくんでいた。
空は明るい。太陽はまだ見えない。薄いねずみ色の空がひとひら、青みの強い空に浮かんでいた。
ひとけのない城内は気持ちがよかった。
すべて、私のものだ。
このひととき、そう思ってみても、悪くはあるまい。
城も空も空気さえも、独り占めの気分だった。
しばらく歩いた。
固い敷石は冷たく響いた。歩けば歩いただけ、広さを感じた。懐かしさとは縁遠く、異質さばかりが大きくなった。
自分はなぜここにいるのだろうと思った。
誰も自分を必要としていないのに。
兄には追われ、リズには嫌われ、ヴァンストンには逃げられ、リュウカにさえ必要とされていない。
この国を正しく導くために、自分は来たのではなかったか?
しかし、誰もそれを望んでいないし、助けてもくれない。
独りだ、と思った。
野の石の用に、誰の気にも留めてもらえないのだ。
ただ歩いた。
ひたすら歩いた。
金属の鳴る音が聞こえた。朝の空気に澄んで響いた。
耳をそばだてると、音は大小織りまぜながら、幾度も鳴っていた。
誰かいるのか?
足が向いた。背筋がのびた。重心が踵からつま先に移った。足が速まった。小走りになった。
何度か迷いながら、音の源をたどった。
音がやむことを恐れたが、鳴り続いていた。
剣を合わせる音だった。
エドアルが習っている細剣ではない。斬るほうの太い剣である。
モーヴ叔父が興じていたのを覚えている。
その刃はギラついていて重く、怖くて仕方がなかった。
パーヴから連れてきた護衛たちだろうか?
現れた棟は扉が大きく開いていた。中をのぞくと、中は広くがらんどうだった。そこに男が数人。
剣技場だ。
護衛の兵たちだろうか? わからない。顔などイチイチ覚えてなどいなかった。
しかし、見知った顔を見つけて、ホッとした。中に足を踏み入れる。
黒と金。
金のほうは防戦一方で、黒がくり出す刃を必死に受け流していた。
いい気味だ、とエドアルは思った。
偉そうにしているが、女相手にぜんぜん歯が立たないじゃないか。思い知れ。
一方的な攻防は長く続いた。
変則的な動きだったが、舞いのようだった。不規則な音色が音楽のようだった。
じきに、エドアルは焦れた。
「姉上! そんなヤツ、放っておけばよいのです!」
黒髪の手が止まった。
「静かにしていなさい。集中が乱れる」
剣を下げた。
刃先が丸い。練習用の剣だろう。
「お見事ですな」
周囲で剣技に励んでいた男たちが注目した。
「休憩になさいますか?」
リュウカは小さくうなずいて、たった今までの相手に目をやった。
ヒースは床にすわりこみ、腕を組んでいた。
だらしない、とエドアルは思った。
紳士たるもの汗を拭いて、さっそうと休みの座につくものだ。
「痛むか?」
リュウカが声をかけた。
「痛くない。ぜんぜん。ちっとも」
ヒースは立ちあがった。首が腫れていた。
「ムリするな」
リュウカは笑って壁際から鞄を運んできた。軍人が持ち歩くキャンバス地の肩掛け鞄だった。
中から銀色の缶を出す。浅底円形の膏薬の缶である。
「脱ぎなさい」
「いいよ。自分でやるから」
「手間をとらすな。時間のムダだ。脱ぎなさい」
「だから、自分でやるってば」
「力ずくがよいか?」
どこから取りだしたのか、リュウカの手には短剣が握られていた。
「うあ、ストップ!」
ヒースが手を振った。
「また斬られたら、かあちゃんに怒鳴られる!」
周囲の男たちがどっと笑った。
ヒースはシャツを脱いだ。
あちこちが赤くはれていた。とりわけひどいのが、両の二の腕だった。
さっきまで腕組みしていたのは、実はここを抑えていただけだったのだとエドアルは気がついた。
意外に細い体だった。腰の辺りなど、とりわけ細い。まるで女のようだ。
リュウカは手早く膏薬を塗った。
「痛てて……」
リュウカが触れるたび、ヒースはうめいた。
「もうちょっと、そっとやってくんない?」
リュウカは容赦しなかった。
だから、手が触れるたびに、付近の肉がビクビクッと動いた。
筋肉だった。贅肉ではない。
エドアルは唇をかんだ。
ひとつしか違わないのに。痩せっぽちで女みたいなくせに、筋肉がついている。おまけに、背も高い。
エドアルは早足で歩み寄った。
「不敬罪だ!」
怒鳴った。
「王女殿下の御前であるぞ! 裸身などさらして卑猥である! 重罰に処す!」
ヒースが目をあげた。
「そりゃあ大ごとだ」
のんびりした響きが、エドアルの神経を逆なでした。
「ム、ムチ打ち百回だ! そ、その後、水責めと……磔にしてくれる!」
「だってさ!」
ヒースが首をめぐらせた。
辺りはシャツを脱いだ男でいっぱいだった。剣士たちは半裸で汗を拭いているのだった。
盛りあがった肩、女性の腿ほどもある太い腕、厚い胸板、割れた腹筋。
それぞれにフォルムの違いはあったが、見る体みな鍛えられていた。
男臭さに、エドアルは息が詰まった。
中でも毛深さと体臭には閉口した。シャツや靴を脱いだ後のそれは、半端でなく臭いたった。
ヒースの体などまだまだ貧弱だった。金色のうぶ毛が陽にきらめき、体全体がつるりとしていた。細く幼いひよっ子だった。
エドアルは胸ポケットからチーフを引きだした。鼻と口を覆った。
「姉上、ここを出ましょう」
「こんなものかな」
リュウカは膏薬をひと塗りすると、ヒースの背を軽く叩いた。
パチーンと、気味がいいほど鋭く大きな音が響いた。
ヒースが短く悲鳴をあげた。女のような甲高さだった。
「おや? 痛くないのではなかったか?」
リュウカがチラと笑った。
「シャツを着なさい。続けるぞ」
「容赦ねぇよ。ひっでー女だぜ」
ヒースはシャツを羽織った。
エドアルの手が思わず伸びた。襟首をつかむ。
「今、なんと言った! 姉上を町娘と一緒にするな!」
リュウカの笑み。
自分以外の相手になら、あんな微笑を向けるのだ。
ヒースの手が、エドアルの腕をつかみ返した。
固い手だった。
びくりとエドアルは震えた。
「ぼ、暴力に訴えるか! けだものめ!」
怒鳴った。
弱気を見せればやられる!
両手を伸ばした。ヒースの首をつかんだ。
細くて長い首だった。金の髪がやわらかくエドアルの両手にまとわりついた。
力を入れた。
固い。
視界の端に、青いものが入った。
眼だった。
ヒースはエドアルをしっかりと見上げていた。強い光。揺るがない。
エドアルの全身から汗が噴きだした。さらに力を入れた。
もっと! もっと!
渾身の力をこめたが、首は固く、指は入らなかった。
青い眼が、エドアルを見つめていた。
じっと見つめていた。
背筋に冷たいものを感じて、エドアルは手を離した。
「バケモノ……」
つぶやいた。
ヒースはうなじの辺りをかいた。
「ああ、痛ぇ。毛を引っ張るなよな。抜けちまっただろ」
「おまえなんかに、何がわかる!」
エドアルは声を荒らあげた。
「おまえなんか、殺しても死なないクセに! 私なんか命を狙われているんだぞ! 狙っているのは、血のつながった祖母や兄なんだぞ! 父も母も助けてくれず、こんな田舎に落ちても、まだ命を狙われるんだぞ! このつらさが、おまえにわかってたまるか!」
「あんた、何がしたいの?」
青い眼が問いかけている。
何が、したいの?
エドアルは言葉に詰まった。
ヒースはシャツを整えた。
「リュウカ、続きやろう」
「おまえは休んでいなさい。痛みで動きが鈍っている」
リュウカは剣を構えた。
ほかの兵たちが前に歩みでる。
「次は私を」
「私を」
「ダメダメ!」
ヒースがリュウカの前に躍りでた。
「少し感じがわかってきたんだ。つかめるまでつきあってもらうぜ。それに、痛いからって敵さんは手加減してくれないだろ?」
「しつこいな」
リュウカは剣を振った。
たちまちヒースは防戦一方となった。
エドアルは茫然と見ていた。
私は、この国を正しく導くために来たんだ。
でも、誰も協力してくれないんだ。
では、私はどうしたらよいのだ?
何ができるっていうんだ?
同じことが、頭の中でぐるぐる回った。結論などなかった。
だって、兄が殺そうとするから。
だって、父上が優秀な家来をつけてくれなかったから。
だって、この国の王が愚鈍だから。
出口がないまま、思考は回り、何かが雪だるま式に増えていった。身動きがとれない。息が苦しい。
「あがるぞ」
腕を叩かれて我に返った。
黒い眼が見下ろしていた。黒髪が頬に張りついていた。汗がこめかみをしっとりと濡らしている。
すっと腕が伸び、エドアルの首をつかんだ。
指が首にまとわりつき、ゆっくりと押さえつけた。
妙な感じがした。
痛くはない。
まさにそこ、というポイント。
一瞬で落ちてしまうような気がした。
エドアルは動けなかった。
「ここだ」
リュウカは言った。
「ここを締められれば一瞬だ。だから、少しでも遠ざけるようにしなさい。わずかでも外れれば命拾いすることもある」
「あーあ、教えちゃった」
濡れたシャツをはだけたまま、ヒースはあきれたように笑った。
「今度は、そいつ、急所を狙ってくるぜ。オレが殺られたら、どうすんの?」
「急所というものは、そう簡単には会得できまいよ。とりわけ他人の急所というものはな」
リュウカはもう一度指に力を入れた。
「この感じをよく覚えておきなさい」
指をほどいた。
「そんなんで、ホントに効きめあんのかね? 少しズレたって、苦しいのが長引くだけだろ」
ヒースが茶々を入れた。
リュウカはそっと自分自身の首に長い指を当てた。
「その違いが生死を分けたのだ。昔のことだがな」
目がギラと光ったような気がした。
エドアルはあわてて見直した。
普段のように穏やかな目だった。
ヒースが沈黙をはさんで言った。
「あんたはつけ狙われるプロだったな」