たどりついた先は、小高い丘に建つ屋敷だった。
「女はこんなところにいるのか?」
たてがみにしがみつきながら、エドアルは訊ねた。
「もう、へたばったか」
ヒースがチラと笑う。
「おまえが悪い! 先へ進むから!」
「これでも待ってやったんだぜ」
「それが臣下の態度か!」
「あんたの臣下じゃねーぜ」
確かに、王子の臣下ではない。貴族はみな国王の臣下である。
「黙れ! もとはといえば、おまえの生まれなど……」
姉上が連れていた子ども。実はそれ以上知らないことに、エドアルは気づいた。
あの姉上が連れていたということは。
もしかしたら、深いお考えがあるのかもしれない。ひょっとすると、ウルサの王の落胤が落ちのびて……。
よぎった考えを急いで打ち消した。
王族とは威厳と高貴さを生まれもつものだ。歌や踊りに明け暮れるこいつは決してちがう!
「おまえを叔父上に預かっていただいたのは名案だったな。あの賤しい女とおまえが母子とは、似合いではないか」
「まったくだ。感謝してるぜ、王子さま」
けろりとした顔でヒースは流した。
「その態度はなんだ! 王子に対して無礼だぞ!」
「無礼はそっち。うちのかあちゃんはイイ女だぜ。とうちゃんは見る目あるよ」
「たかが愛人じゃないか」
「王さまもだらねぇぜ。あんなクソババア怖がって、弟を結婚させてやれねぇんだからな」
「父上を侮辱するか!」
「なんなら、名誉をかけるか?」
ヒースが剣の柄を鳴らした。
心臓がばくんと反応した。
「暴力はサイテーだ」
エドアルは必死に冷静を努めた。
「それで、どんな女だ?」
「あ?」
「女に会いに来たのだろう?」
美人だろうか。
少なくともこんな屋敷に住んでいるようじゃ田舎者だろう。
いやいや、屋敷の姫君とは限らない。下働きの女中をくどいたのかも知れない。せいぜい、その辺りが似合いだ。
「ちょいと! 割りこみは許さないよ!」
門の前にたむろう乞食の列に馬を乗り入れると、女に怒鳴られた。
「後ろに並びな!」
じろりと、数多の目に睨みつけられる。
「見てわからんのか! 私は……」
乞食なんかと一緒にされてたまるか!
「誰だろうと、順番は守ってもらうよ!」
女は引かない。
「仕事で来たんだよ」
ヒースが朗らかに言った。
「中に入れてくれないかなあ。でないと、あんたたちまで順番回ってこないかもよ」
「あんた、お役人かい?」
乞食たちが色めきだった。
「じゃあ、うちの娘使ってくれよ! 水くみも針仕事もなんでもできる便利な子だよ!」
「うちの息子だって、力には自信あるよ!」
「うちの孫だってね……」
ヒースは人の列を避けて、門の中に入りこんだ。エドアルも必死で続く。
列は敷地内まで延々と続いていた。
おかしな屋敷だなあ、とエドアルは思った。
前庭に花園はなく、踏み固められた地面が広がっていた。棟がいくつあるが、住まいというより工場や蔵のように見えた。
もっとも大きな建物に列は連なっていた。ヒースはそこへつけて馬から降りた。
迷わず、大きな扉を開ける。
役人らしきお仕着せを着た男が立ちふさがり、ヒースを押し戻そうとした。
ヒースは迷わず男をつきとばした。
なんてことだ!
「デュール・グレイ!」
エドアルは追いかけた。ヒースはどんどん中へ入っていく。
ホールには、椅子に座った乞食が十人ばかりいた。
「賊だ! 取り押さえろ!」
後ろで声があがった。
ホールの奥から数人の衛兵が駆けつけた。
「デュール・グレイ! 謝れ!」
エドアルは必死で叫んだ。
無罪放免とはいかなくとも、自分の口添えがあれば罪も軽くなるだろう。とにかく、この乱暴者をおとなしくさせるのが先決だ。
衛兵たちが抜き身の剣を大きく引いた。
ああ、間に合わない! このまま、自分も仲間として斬られるのか?
脳裏に一枚の絵が閃いた。剣で貫かれる自分自身!
「デュール・グレイ!」
突きだされる剣先を身軽に交わして、ヒースは兵の懐に飛びこんだ。腕をおさえてみぞおちを打つ。身を翻しながら横の兵に蹴りをくらわす。兵は二馬身は吹っ飛んだ。ヒースはその場で跳ねて後ろの兵に蹴りを入れる。剣が折れ、腰の引けた兵はヒースの二発目の蹴りを受けて床を滑る……。
エドアルの目では、それ以上とらえられなかった。数人があっという間に横たわり、ヒースは迷わずホールわきの扉を開けた。
そこは広間だった。大勢の乞食と衛兵の目が一斉にこちらに向けられた。
悲鳴があがった。
数多の足音とざわめき。
ヒースの後から広間に入ったエドアルの目に、隅へ逃げようとする数十人の姿が映った。
衛兵が棒をかまえ、小走りに向かってくる。
やられる!
「衛兵、退がれ」
凛とした女の声が響いた。
「元の位置にもどれ」
「殿下! ここはおまかせください! 一刻も早く殿下は安全な場所へ!」
衛兵が棒をふりおろした。
ヒースは身を翻し、一打めを器用に交わした。懐に入りこみ、相手の腕をつかむ。ねじる。衛兵がうめく。その手から棒が離れる。床に落ちて弾んだ。音がコォーンと反響する。
もうひとりの衛兵が棒をふりあげた。
ヒースは足先に転がった棒を引っかけ、跳ねあげた。腰までふぅわりと浮かびあがる。過たずつかむ。棒は水平に回転し、先端がすばやく衛兵の胸を突いた。
衛兵がよろけて尻もちをついた。
後方に残る衛兵は二人。
ヒースはさらに踏みこみ、棒を突きだした。
衛兵の後ろから、背の高い人影が躍りでた。
黒髪。
叔母上!
エドアルは目を疑った。
黒髪が突きだされた棒の先を抑えた。ヒースの動きが止まる。
「場をわきまえなさい」
静かな声が棒を押し返した。ふくらんだ袖から伸びた豊かなアンガジャントが閃いた。
「いたずらが過ぎる! みな怯えているではないか」
胸元の大きく空いた襟ぐり。青い光沢のあるドレスが、肌の白によく映えている。高く結いあげた黒髪は、金糸のネットでまとめられ、そこかしこに宝石をちりばめている。
品のある美しさ。リュウインにありがちな過剰な装飾に走らず、血の高貴さが身からにじみでるような。まさしくパーヴの姫にふさわしい。強い意志を宿す黒い眼。その眼が、今、エドアルに向けられた。
全身がこわばった。
震えが走った。
「外で、待っていなさい。じきに終わるから」
黒髪の美姫は言った。
やわらかな目。やわらかな物言い。
そうじゃない、とエドアルは思った。
もっと毅然とすべきだ。強く、傲慢なほど超然と。
姉上は甘すぎる。
「おまえもだ。用があるなら、後で聞く」
リュウカの白い細面が傾いて、黒い眼がヒースを見た。
「オレひとりで突破できる守りなんか、イミねぇよ」
ヒースは棒を引っこめて言った。
「客だっていんのにさ。早いとこ守り固めろよ。今日のとこは、オレがそばについててやるけど」
「おまえはエドアルについていなさい」
ヒースは身を翻した。
戸口に向かったが、広間から出ずに、壁にとん、と背を預けた。
「始めろよ。客を待たせちゃ悪いだろ。おまえらも物騒なもんしまって、持ち場に立てよ」
おまえがメチャクチャにしたんじゃないか。
エドアルはリュウカを見た。
叱責が飛ぶぞ。剣を抜くかも知れない。
胸が躍った。
しかし、リュウカは小さなため息をついただけだった。身をひるがえし、椅子にもどる。
衛兵を手招きし、何事か話しかけた。
衛兵は扉を出た。やがて、布張りの椅子をひとつ運んでくる。
ヒースの横に置いた。
「エドアル」
リュウカが呼びかけた。
「すまないが、しばらくそこで待っていなさい」
エドアルはムッとした。
「下座にいろとおっしゃるのですか? ここでは、立場上、姉上の隣がふさわしいと存じますが?」
「これはリュウインの国務だ。退がっていなさい」
「だからといって、下座など……!」
「そこが、もっとも安全なのだ。ここは城ではないのだから」
確かに、ヒースごときに負かされる衛兵では心もとない。
「しかし、姉上、気になさる必要はないのではありませんか? 現に、ここまでの途上、賊は現れませんでしたし」
「では、外に出ていなさい」
は?
リュウカは広間を見渡した。
「騒がせてすまぬ。これらは私の友人だ。少々にぎやかだが、みなには手荒なことはせぬ。カーミットのオオミキどの、話が中断してしまったな。許せ。続きを」
にぎやかなのはデュール・グレイです! 私ではありません! 一緒にされては困ります!
抗議したかったが、リュウカはもはやエドアルを見なかった。
まあ、いい。公務中ということで、ここは引いてさしあげよう。しかし、後で必ず抗議しますぞ、姉上!
下座に用意された椅子に着く。
腹の辺りがムカムカしていた。
右を見ると、ヒースの腕が見えた。
顔が見えない。
視線を上にたどり、顎をあげ、見あげた。
不意に、自分の姿勢に気づく。
なんたることだ!
王子たるものが、下々の者を見あげるなんて!
「無礼者! 見下ろすな!」
エドアルは小声で叱りつけた。
ヒースがニヤリと笑った。
「じゃあ、あんたも立てば」
「無礼者! おまえが下がれ!」
ヒースはしゃがみこんだ。
股を大きく広げたさまは、ふてぶてしく、ひどく下品だ。顔には挑発するような笑みまで浮かんでいる。
「ひざまずけ! 臣下の礼をとれ!」
「あんたの臣下じゃないんでね」
「私は王子だぞ! パーヴの者なら、従うのが道理であろう!」
「立場わかってる? 誰が守ってやってんだよ」
「偉そうな! おまえなんか追い出してやる!」
叫んだ。
七、八馬身ほど向こうで、リュウカがふり向いた。
「出ていきなさい」
「悪ィ。静かにするからさ」
間髪入れず、ヒースがウィンクした。
「姉上に! 無礼であろう!」
声をひそめて、エドアルは叱りつけた。
ヒースは大げさに肩をすくめてみせると、遠くに眼を移した。
その視線の先には、青い麻の服を着た乞食がいた。リュウカの前にひざまずき、大げさに身振り手振りをしながら話をしていた。
「税は死人からも赤子からも取るのです。畑の代わりに山をあてがい、畑と同じだけの麦を納めよと言うのです。我々の村では、もはや生むことも死ぬこともできません」
どうやら乞食と思っていたのは農民らしい。生意気にも領主への不満を語っている。
さらに農民は、娘が領主にとりあげられただの、遠方に開墾に行かされて食うにも困るだのと並べたてた。
「まれに、返される娘がおりますが、決まって孕んでおります。孕んでいてはじゅうぶんに働けませんし、子が生まれたら生まれたで手がかかります。しかし、麦は二人分納めなければなりません。納められなければ村全体に不足分と罰則分が課せられます」
その口ぶりに、エドアルは苛立った。
「領民は、領主の言うことをおとなしく聞いていればよいのだ」
思わず口走った。
「それが民の務めだ。賢しいことを申しおって! 土地のことは、領主が考えておるのだ、民はよけいなことを申さず、すなおに役目を果たせ!」
農民がキッと顔を向けた。
「私腹を肥やすこと以外、何をお考えとおっしゃるのですか」
エドアルの体内で、血が沸騰した。
「口答えするな! そこに直れ! 性根をたたき直してやる! 誰か鞭を持て!」
「つまみ出せ」
リュウカが静かに言った。額に手を当てている。
ほら、見ろ! 姉上だってあきれていらっしゃる……。
足が宙に浮いた。
「何をする!」
後ろから羽交い締めにされていると気づいたときは遅かった。
重い扉から、外に放りだされた。
床に膝をしたたかに打ちつけた。
「痛いっ!」
大声でわめいたが、誰も応じない。扉は閉まった。廊下に人気はない。
ざわめきが聞こえる。だが、それはどことも知れない遠くからだった。
扉を叩こうか。
いや、王子ともあろう者が。
腰をさすりながら起きあがった。
それより、声をたどろう。
あれだけ大勢いるのだ。中には道理のわかる者がいるに違いない。
薄暗い塗り壁の廊下には、いくつもの似たような曲がり角があった。
いくつか角を曲がりたどっていくと、急に声が失せた。
方角をまちがったのだろうか? 反響にだまされることは、よくある。
戻ってみよう。
いくつかの角を曲がり直す。
気のせいか、来たときとは違う風景のようだ。
まさか。
不安とともに、廊下の薄暗さが増していくような心地がする。
ちがう。
気のせいなどではない。
迷った!
どうしよう?
天井まで低くなったような気がした。圧迫感に息苦しさを感じる。
落ち着け。こんなときこそ、王者の風格が試されるのだ。
深呼吸を二度した。
ここは無人じゃない。誰かが通りかかるのを待とう!
……もし、誰も来なかったら?
今まで誰とも通りすがらなかった。
背筋がぞっとした。
いや、そんなはずはない。姉上がきっと気づいて探しにきてくださる。
今ごろ慌てふためいていることだろう。
このまま野垂れ死にしたら、姉上のせいだ! 姉上なんか、一生責任を感じて後悔すればいいんだ!
私を放っておいたら、どんなことになるのかわかっているのか?
私は危ない身なんだぞ。王太后陛下や兄上に命を狙われて……。
一気に、血の気が失せた。
そうだった!
私は狙われていたんだ!
膝から力が抜けた。
カタカタと音が鳴っている。
なんだろう?
体の中から響くような、イヤな音……。
音の源をたどり頬に手を当てる。
それは、自分の歯が鳴る音だった。
食いしばろうとしても、口はいうことをきかなかった。
寒気がした。
両腕でギュッと体を抱きしめたが、その手も震えて頼りなかった。
レンフィディックの夜。次から次へと追ってくる刺客。
ウィックロウの離宮。のたうちまわるヴァンストン。
剣か毒か、それとも?
もどらなければ!
エドアルは歩いた。
薄暗い廊下は、さらに暗さを増したような気がした。
足はのろのろと進まず、先は永遠に続くのではないかと思われた。
見覚えないか?
見た気がする。
いや、やっぱり覚えがない。
きっと覚えていないだけだ。角を曲がればきっと思い出せる。
…………。
自問自答ばかりがくり返された。
ますます迷っているような気がする。
そのとき、葉ずれの音がした。
外だ!
心の中がまぶしい光で満ちた。
外にさえ出られれば! 玄関を見つけて入り直せばいい。玄関には、誰かしらいるだろう。そうしたら、姉上を呼んで……。
いいや!
自分が無事だなんて言うもんか!
斬られて虫の息だと言ってやる。
姉上は慌てて駆けつけるだろう。
私は死にそうなフリをして、姉上は涙ながらにわびて、そしたら何もかも許してあげる。姉上は、こんなところに私を連れこんだ罪で、あいつを百叩きの上に獄にぶちこむだろう。それから私は芝居だったことを明かす。姉上は大喜びで、あいつより役者が上だと褒めてくれる。そして、姉上は女王となり、私は宰相として姉上をお守りするのだ。
もしかしたら、姉上は、代わりに王になってくれとおっしゃるかも知れない。私の補佐をしたいと……。
いいや、ダメだ。私にはリズという妻がいるし。
妄想がふくらんだ辺りで、気がついた。
葉ずれの音ではない。水音だ。
川があるのか?
どちらにしろ、外に出ることには変わりない。
音はどんどん近くなり、急に視界が開けた。
そこは、外などではなかった。
四方を渡り廊下に囲まれた小さな中庭で、中央に小さな池があった。その端に岩が積み上げられ、頂から勢いよく水が噴き出していた。
音の源は、ここであった。
もう、ダメだ。
外ではなかった。
もう、一生、ここから出られないんだ。
岩の陰で、何かが動いた。
女だった。
見覚えのある顔。
リリー・アッシュガース。
助かった! これで外に出られる!
一歩踏みだした。
リリーは岩に手を当て、身を起こした。
優美さのかけらもない!
女性なら、片手を当てるときは、もう片手を添えるし、身を起こすときは、そっと手を胸元に添えるべきだ。そういうところに、品の良さが出るのだ!
それに、まるで侍女のような姿ではないか!
スカートのふくらみは貧弱だし、袖からのぞくレースは小さく、胸元は首近くまで布地で覆われている。
これが仮にも王弟の愛人か? パーヴの品位を疑われるではないか!
ここは、ウィックロウの離宮ではないのだぞ! 衆目にさらされているというのに!
近づくごとに怒りがこみあげてきた。
リリーはエドアルに気づき、周囲を見回した後、手を高くあげて大きく打ち鳴らした。
「デュール! 出てらっしゃい! 隠れてもムダですよ、わかってるんですから」
ギョッとして、エドアルはふり返った。
後ろから、金髪が現れた。
ニヤと笑う。
「見られてない自信はあったんだけどなあ」
「見てませんよ」
リリーはあっさり答えた。
「じゃあ、なんでわかっちまったんだ?」
「ちい姫さまなら、エドアルさまをおひとりにはなさいませんからね。おまえをつけておくでしょ」
「かなわねえなあ」
ヒースは棒を高く放り投げた。
くるくると回って、手元に吸いつく。
「ずっとつけていたのか!」
エドアルは怒鳴った。
迷っていたさまを見られた!
「他人の散歩をのぞきみるなど、貴族のすることではないぞ!」
「へえー、散歩? あれが?」
ヒースは意地悪く笑った。
「オレには、迷子が泣きそうになっているように見えたけどなあ」
「私が迷うものか! それより、なぜアッシュガースがここにいるのだ」
「私はちい姫さまのお伴をしてきたんです。エドアルさまこそ、何をなさってますの?」
リリーは悠然と答えた。
偉そうに! たかが愛人の分際で。王子と対等になったつもりか?
「答える必要などない。あれこれ詮索しおって、何さまのつもりだ!」
「お答えなさりたくなければ、けっこうですわよ。お城を出られるなんて、ずいぶん無謀ですこと! さぞかし厳重な警備をご用意されたのでしょうね?」
リリーは腕組みをして、ひたとエドアルの目を見つめた。
「も、もちろんだとも!」
気押されながらも、ふんばってみせた。
「おまえに心配されるいわれはないぞ!」
「私が心配なのは、ちい姫さまですの」
口調は決して荒々しくない。が、いやに風格があった。
「エドアルさまが軽率なことをなさいますと、ちい姫さまがみんな尻ぬぐいをなさるんですからね。まさか、ほとんどお伴を連れずにいらしたんじゃないでしょうね」
ぎくり。
無礼な物言いに腹立ちながらも、図星を指されて浮き足だった。
「もし、万が一、そのようなことがあったら、ちい姫さまはうちのバカ息子に言いつけて、エドアルさまがあまり遠くにいらっしゃらないようにするでしょうね。お帰りは、ご自分の護衛をみなエドアルさまにおつけになるばかりか、お自ら警護につかれるでしょうね。一日中、お仕事で疲れていらっしゃるというのに! そこのところ、おわかりになっていらっしゃるんでしょうかね、ご本人さまは!」
「あ、いや……」
「命を狙われるということが、少しはおわかりになってるんですか? 一瞬のスキを狙われればお終いなんですよ! 殺すほうはたった一瞬! 守る方は、一瞬のスキもなく! どう考えたって、守るほうが分が悪いんです。たいした理由もなく出歩くなんて、どういう神経なさっているんですか! お小さいころのちい姫さまだって、まだマシでしたわよ!」
図星に次ぐ図星である。
まるで、見てきたかのようだ。
反論しなければ! 王子の威厳が!
「小さいころの姉上だって? バカにするな! 姉上には叔母上がついていらしたのだぞ! 危ないめに遭われるわけが……」
「あのお姫さまですら、手こずったのですよ! 何度死にかけたことか! 少しは命の大切さをちい姫さまに教えていただきなさい!」
まさか。
あの叔母上を出し抜く?
そんなバカな。
あの眼に睨まれたら、誰だって……。
白い細面に空いた二つの暗い穴。
『リュウカ!』
思いだしただけでエドアルは縮みあがった。
あの鋭い一喝を聞いたら、何者だって……。
父王よりも大きな体で、声も大きかった。大きな白い手はエドアルにかざされることはなかったが、リュウカには容赦なくとんだ。見ているだけで恐ろしかった。
父王はそんな叔母を、いつも慈しむようなまなざしで見つめていた。
『アレは龍の仔なのだ』
龍の仔を逃がしたからこそ、父は祖母に頭があがらないのだ。
私なら、逃がしはしない。
「ここにいたか」
高い声がした。エドアルはふり向いた。
そこには闇色の眼が二つあった。しかし、やわらかく、か弱い光だ。
ちがう、とエドアルは思った。
龍ならもっと強くあるべきだ。見る者をひれ伏せるような。
「お昼にしましょう」
リリーが岩陰から包みを出した。
「私はよい。三人でおあがり」
「ちい姫さま。きちんと召しあがっていただかないと。お仕事になりませんわよ」
リュウカは小さく苦笑した。
「あまり食欲がない」
「ムリにでも召し上がってください。そのままになさったら、ますます食が細くなりますよ」
ヒースが青いマントを跳ねあげた。
腰にさげた麻袋をとり、放った。続いて水筒を放る。
ゆるやかな弧が二つ。
宙を描いて、ぼすんとリュウカの膝に落ちた。
白い手袋が、袋の口を解いた。夕暮れ色の小さな球が転がりでた。濡れたオレンジ。水の滴がきらきら光る。
「そいつなら、食えるだろ」
リュウカはオレンジを口元に当てた。口を開いた。白い歯が皮に当たった。
エドアルの背筋に悪寒が走った。
『リンゴは、丸ごとかじったほうがおいしいの!』
シャリリリと音を立てて、リズは赤いリンゴに歯を立てたものだ。もともと粗野な育ちだからしかたがない。
しかし、リュウカは!
パーヴとリュウイン双方の血を引く由緒正しい王女だ。偉大なヒースクリフに由来する、これ以上はない正統な血筋だ!
「おやめくださ……!」
「ちい姫さま! そんな得体の知れないもの!」
エドアルの声は、リリーの怒鳴り声にかき消された。
「毒でも入っていたら、いかがなさいますの!」
「今朝、氷屋から買ってきたヤツだから、だいじょうぶだよ」
「身元はしっかりしているのでしょうね?」
「フツーの氷屋だよ。心配ねえって。あんなとこまで手を回しっこないんだから」
「なんですって! ちい姫さま、召しあがってはいけません! どこで毒が……」
「だいじょうぶだって」
母子のケンカをよそに、リュウカは瞬く間にその夕暮れ色の果実をひとつたいらげた。
「エドアル」
リュウカは首をめぐらせた。
黒い眼とぶつかり、エドアルはドキリとした。
「城から迎えがきている。昼を終えたら帰りなさい」
城から? 迎え?
「姉上、おかしいですよ。私はここまでコレにムリヤリ連れてこられたんです。私でさえ、どこに着くかわからなかったのに、どうして国王が、私がここにいることを知っているのです」
「城を出るときは、この子と一緒だったのか?」
「そうですが」
リュウカは苦笑した。
「宰相どのなら察するだろう。この子が行きそうな場所は決まっているから」
その笑みに、エドアルはなぜだかホッとした。
今なら、安心して話せそうな気がした。
「姉上は、ここで何をなさっているのです? 仕事とかおっしゃっていらっしゃいましたが」
「謁見だ。以前、母上がここで行っていたように」
おかしなこともあるものだ、とエドアルは思った。
「それは国王と王妃の務めでしょう。姉上にはまだ早すぎると思われますが。それに、拝謁する人々を少しも見かけませんが」
「先ほど、そなたも見ただろう。ここを訪れるのは上流の者たちではない」
エドアルは首をかしげた。
「では、誰です?」
「あんたの嫌いな下賤の者どもだよ」
横からヒースがからかった。
エドアルは怒鳴った。
「おまえは黙れ! 私は姉上とお話しているのだ! 第一、民など領主に従っていればいいのだ! 愚かな民どもに何がわかる!」
「では、そなたに何がわかるのだ」
リュウカは静かに言った。
「たとえば、このオレンジはどこでいつ取れる? どこからどのように運ばれる? 毎年どれだけの量がとれ、どれだけの富を生む? そのうちどれだけが誰の懐に入る?」
「そんなことは領主どもが考えることです! 私たちが煩わされるべきことではありません!」
「では、その領主が道を誤っていたら? 誰が誤りだと判断を下す? どのように?」
「それは誤っていたら、の話でしょう! そんな心配なんかしていたらキリがありません。第一、領主は領地を治めるのが仕事なのですよ。誤ることなどあり得ません!」
リュウカが小さく息を吐いた。
「私は仕事にもどる。そなたたちは城に帰りなさい。よいな」
オレンジの袋をしめ、立ちあがる。ヒースに手渡し、軽く腕を叩いた。
「エドアルを頼んだぞ」
「水筒は持っていけよ。謁見中でも水ぐらいは飲むんだろ」
「では、借りておこう」
リュウカはふり向かなかった。床を滑るような足どりで、迷いなく立ち去った。
「ちい姫さまったら、あれしか召しあがらないなんて」
リリーがため息をついた。
ぎっしりと詰まった弁当箱が、敷物の上に広がっていた。
「しょうがないわね。あなたたち、片づけてしまいなさい」