【第182回】

 

~ リュウイン篇 ~
第4部 ふたたびリュウイン(中編)
25章 英雄 ……その16

2009.10.7

 

 少年の名はマルタンと言った。

「お母ちゃんが本の中から偉い人の名前をとってくれたんだ。知ってるか? マルタンっていうのは、悪いヤツらから、人を逃がした勇者なんだ」

 正しくは、神から、である。

 神の支配から逃れるため、約束の園から逃げだした人間たちの指導者で、洞窟で灯りを掲げて最後まであきらめずに歩き通した。途中で落伍者が次々と生じ、最後までついてこられたのは少数だったという。

 しかし、マルタンはそこまでは知らないようだ。

 マルタンの家では祖母と弟妹が待っていた。

 弟はヴァレリアン、妹はイッポリートと言うのだと、マルタンは紹介した。

 ヴァレリアンは知らないが、イッポリートの由来はエドアルも知っている。山の頂の雪から生まれた女神で、原始の母である。空と交わり雷が生まれ、雷と交わり谷が生まれ、山と交わり川が生まれ……という具合で、多産と母性の象徴でもある。

「立ってないで、手伝ってよ」

 と、その多産の象徴はエドアルに布巾を差しだした。

「テーブル拭いて」

「私が?」

 エドアルは仰天した。

 汚らしく指先で布巾をつまみあげた。

「この家では客まで働かせるのか?」

「何言ってんの? マルの友だちなんでしょ」

「家事は女の仕事だ」

「男のクセに、ぐだぐだうるさいわね。うちでは、みんな働くの。さっさとやりなさい」

「こんな汚い布で拭けるか」

「拭かなきゃ食事にならないわ」

「衛生上問題があるって言ってるんだ」

「いいから拭いて!」

 マルタンがエドアルの肩を叩いた。

「あきらめろよ。ポリーには誰もかなわないんだから」

「ムダ口きいてるヒマがあったら、マルはお皿を出して!」

 女っていうのは、どうしてうるさいんだろう。

 うんざりしてテーブルの前に立ち、エドアルは気づいた。

 どうやって拭いたらいいんだろう?

 迷った。

 いいや、テキトーで。

 

 

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