少年の名はマルタンと言った。
「お母ちゃんが本の中から偉い人の名前をとってくれたんだ。知ってるか? マルタンっていうのは、悪いヤツらから、人を逃がした勇者なんだ」
正しくは、神から、である。
神の支配から逃れるため、約束の園から逃げだした人間たちの指導者で、洞窟で灯りを掲げて最後まであきらめずに歩き通した。途中で落伍者が次々と生じ、最後までついてこられたのは少数だったという。
しかし、マルタンはそこまでは知らないようだ。
マルタンの家では祖母と弟妹が待っていた。
弟はヴァレリアン、妹はイッポリートと言うのだと、マルタンは紹介した。
ヴァレリアンは知らないが、イッポリートの由来はエドアルも知っている。山の頂の雪から生まれた女神で、原始の母である。空と交わり雷が生まれ、雷と交わり谷が生まれ、山と交わり川が生まれ……という具合で、多産と母性の象徴でもある。
「立ってないで、手伝ってよ」
と、その多産の象徴はエドアルに布巾を差しだした。
「テーブル拭いて」
「私が?」
エドアルは仰天した。
汚らしく指先で布巾をつまみあげた。
「この家では客まで働かせるのか?」
「何言ってんの? マルの友だちなんでしょ」
「家事は女の仕事だ」
「男のクセに、ぐだぐだうるさいわね。うちでは、みんな働くの。さっさとやりなさい」
「こんな汚い布で拭けるか」
「拭かなきゃ食事にならないわ」
「衛生上問題があるって言ってるんだ」
「いいから拭いて!」
マルタンがエドアルの肩を叩いた。
「あきらめろよ。ポリーには誰もかなわないんだから」
「ムダ口きいてるヒマがあったら、マルはお皿を出して!」
女っていうのは、どうしてうるさいんだろう。
うんざりしてテーブルの前に立ち、エドアルは気づいた。
どうやって拭いたらいいんだろう?
迷った。
いいや、テキトーで。