〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(前編)
16章 幻の民 ……その3

 

 部屋に入ると、大勢の侍女たちが待ちかまえていた。

「まずは湯浴みを」

 ひとつの小さな湯船を十数人の湯女がとり囲んだ。

 リュウカは、湯船のそばに大小の剣を置いた。侍女たちがとがめたが、こればかりは譲らなかった。

 まだ、生きようと思うのか?

 ふと、リュウカは苦笑した。

 この絶望的な状況でも、まだ?

 しかし、母の遺言だったのだ。

 いまだ、己の生なるものは見つけられぬ。

 右の指を洗うと、湯女が交代し、左を洗った。手首から肘を洗うと、肘から肩までと、また湯女が入れ替わる。

 これでは、すべてが終わるまでに夜が明けそうだ、とリュウカは思った。これがリリーやマムなら、

『きちんと肩まで温まるんですよ。首の後ろから風邪はひくものですからね。髪はよく拭くんですよ。濡れたまま夜風に冷えたら、お熱が出ますからね』

 と言って終わりだ。

 湯浴みがこれでは、着替えは……。

 考えるのをやめた。これも苦行と思い、目をつぶろう。

「お待ちを!」

 扉の辺りが騒がしくなった。

「まだ湯浴み中です。お待ちを……」

 リュウカは剣に手を伸べた。さやを払い、湯船を飛びだした。

 泡を拭く間もなかった。

 ついたての向こうから、暗褐色の髪とヒゲに埋もれた顔が現れた。

 全身にとり肌がたった。

「レイカはどこだ」

 記憶にある声が問うた。

 腕が震え、ツバが鳴った。刃が明かりを受けて光った。

「おそろしい! 予に刃を向けるか!」

 見開く目。いつか見た、そのままに。

 頭の芯が熱くなり、リュウカは必死に正気を保とうとした。

「国王に刃を向ければ死罪ぞ。たとえ何者でもな。しかし、レイカの居場所を教えれば助けてやろう」

 柄《つか》が泡で滑り、握りなおす。

 拭くものが欲しい。されば、今すぐ斬れるものを!

 見開いた目が、泡まみれのリュウカの体を眺めまわした。

「父は誰だ」

 乱入者は目を細めた。

「おまえの父は誰だ! まことのことを言え!」

 おまえだ、とは言いたくなかった。認めずに済むなら、どんな代償でも払っただろう。

「レイカは、今、その男のもとにいるのだな? では、おまえは何をしに来た! レイカと情夫のために、予から金も力も奪いにきたか! おまえにはビタ一文もやらん! いや、レイカの情夫など生かしておかん! どこだ! レイカは今どこにおる! 言え!」

 母上!

 リュウカはうめいた。

 国王は懐から短刀を出した。手近にいた侍女につきつける。

「レイカの居所を言え! さもなくば、この女の耳をそぎ落とす。それとも指、いや、目がいいか?」

 周りの侍女たちが悲鳴をあげ、逃げまどった。

 卑怯者め。

「命が惜しくないらしいな」

 リュウカは冷たく言い放った。

 人質など意味はない。この距離なら、不慣れな握りをしたあの短刀が侍女のどこかを傷つける前に、懐に飛びこみ、腹を蹴り、体を後ろに飛ばすことができる。

 だが、その時、国王の表情が変わった。

「その声。レイカにそっくりだ」

 目がうるみ、熱っぽいまなざしを向けられる。

 再び、全身にとり肌がたった。

「もっと言え。何か言え」

 リュウカはうろたえた。

「レイカの声で。予のレイカ」

 奇妙な恐怖が躰を貫いた。

「陛下! 国王陛下!」

 夜着に着替えた小男が血相を変え、飛びこんできた。

 だが、リュウカの目に、その姿は映らなかった。

 突進し、国王を蹴りとばした。国王は壁まで転がり、大の字になった。

「レイカ。愛しいレイカ」

 頭の芯が白く光った。

 ふり下ろす!

 手応えがあった。しかし、柄《つか》はぬめり、剣は手から滑り落ちた。

 国王との間に、小男が入りこんでいた。

 火のし用の鉄板を掲げている。

 これで刃をしのいだのだ。

「それまで。どうか、それまで」

「宰相……」

「前《さき》の王后陛下なら、もう少し低いお声で『きさま』とおっしゃられるところでしょう。姫は少々お声が高い」

 長い上衣を脱ぎ、背伸びをしてリュウカの体にかけた。

「野育ちというのは、のびのびとしてよろしいですな」

 国王を引き起こす。

「何事もなく、安堵いたしました」

「何事もないだと! これは……情夫の娘は、予を殺そうとしたのだぞ!」

「何事もなく!」

 宰相はきっぱりと言った。

「エドアル王子殿下をお預かりしている間は、何事もなきように。よいですな」

「だが、これは情夫の娘だぞ!」

「陛下がお悪い!」

 宰相は国王を睨めつけた。

「王女に対して無礼ですぞ! お退がりなさい」

 国王はうなだれ、ぶつぶつとつぶやいた。

「予の娘ではないのに……」

 宰相は国王を部屋から引きずりだした。

 ふたりが去ると、侍女たちがおそるおそるもどり、着替えの支度を始めた。

「お夜食をお運びいたします。お好みがございましたら……」

「要らぬ」

 侍女が泣きそうな顔をした。

 リュウカはそっとため息をついた。

「わかった。持っておいで」

 大勢の侍女たちが、少しずつ、冷めた料理を運んできた。

 手をつける気にならなかった。

 リュウカは窓辺にもたれた。夜の中庭は暗く、母の声を思いだした。

『窓辺は危ない。近づくな』

 宰相の言う通りだ。母の声はもっと低かった。

『きさま』 その通りだ。母ならそう言う。

 母にはかなわない。

 宰相は開口一番母の消息を訊ね、あの男でさえ、いまだ母の名を呼ぶ。

 自分は王女なんかではない。『前《さき》の王妃』の娘でしかないのだ。ここにもどってくるべきは、自分ではなく、母だったのだ。

 あのとき死んだのが自分だったら、どんなによかったか。

 竪琴の音が響いた。

 リュウカはビクリと顔をあげ、中庭に目をこらした。

 よく通る低音。伸びのある心地よい声。

 歌声は、普段の声とは異なるが。

「ヒース!」

 窓から身をのりだした。

 歌声はやまない。

 小夜曲《セレナーデ》。短い恋歌。

 一曲終わって、リュウカは苦笑しながら気のない拍手をした。

「こんなところに忍びこんで。つかまるぞ」

「衛兵なら、みんな伸《の》してきた」

 窓の下に金色の髪が現れた。窓枠に手をかけ、よじ上る。

「味方に手を挙げてどうする。エドアルの身が危なくなるぞ」

「あのぐらいでやられちゃ、猫の仔だって防げねぇよ」

 室内にたたずむ侍女たちが気づいて騒ぎだした。

「待て」

 外へ知らせに行こうとする侍女を、リュウカは呼びとめた。

「不審なものではない。友人だ」

 ヒースが悪びれずに笑った。

「無粋だなあ。夜這いに決まってんだろ」

「どうして事を大きくする!」

 ニヤと笑う。

「何度もベッドを共にした仲だろ」

 流れの薬屋だったころ。

「なるほど」

「え? 納得すんの?」

「おまえは帰りなさい。エドアルの警護はもう要らぬ」

「別に、あいつのために来たわけじゃねーよ。こっちにかあちゃんがいてさ」

 かあちゃん? グレイ侯爵夫人か?

「お早く! こちらへ!」

 ほかの侍女が人を呼んできたらしい。

「逃げなさい、早く」

 うながしたが、ヒースは床にすわりこみ、竪琴をかき鳴らした。

 ついたての向こうから、頬キズの男が顔を出した。

「よお。ジャマしてるぜ」

 ヒースは竪琴でふさがった手の代わりに、足を上げた。

「リズのじーちゃん」

 宰相はため息をついた。

「グレイ子爵。ここにおわすは第一王女……」

「黒龍の娘だろ。見りゃわかるよ」

「ウィックロウにお帰りください。この方は我が国の王女。めったなことがあってはなりませぬ」

「そうだよな、めったなことがあっちゃマズいよな」

 ヒースはリュウカの顔を見つめた。

「リュウカ、ウィックロウへ来いよ。エドアルのヤツも呼んでやろう。あいつ、すぐ妬くからな。まったく、リズとオレの仲を勘ぐるなんて、どうかしてるぜ。リズのじーちゃん、パーヴからきた護衛とかいうヤツらも叩き起こしてくれよ。あいつらも連れてかなきゃ恨まれる」

「もう夜遅うございます。明日になさいませ」

「じゃあ、オレ、明日までここにいるぜ」

「聞き分けのない方だ。繰り返して申しあげるが、ここは我が国の王女の居室。一晩ご一緒というわけにはまいりませぬ」

「へいへい。リュウカ、行くぞ」

 腕をつかんだ。

「早くメンツ集めてくれよ。でないと、ふたりっきりで逃避行になっちまうぜ」

「まったく、お父上によく似ていらっしゃる」

 宰相は大きくため息をついて退がった。

 欠け始めた月が、行く手を照らした。

 草木が暗く影を落とす間を、白く道が浮かびあがる。

 あのときは、下弦過ぎの月が昇っていた。右へ分かれれば国境の街エスクデール。母が後ろを駆けていた。

 ふり返れば、今もそこに母がいるような気がする。

「こんな夜中に、なんで……」

 ぶつぶつと、後ろからつぶやきが聞こえた。

「それだけ早くリズに会えんだぜ。喜べよ」

 陽気な声が隣で響く。

「こんな夜中に。レディを訪問する時間じゃない。紳士のすることじゃない」

 眠そうに、気合いの入らない愚痴である。

「いいじゃん。夜這いと思えば」

「失礼な! 私がかようなあさましいマネをするか!」

「へいへい」

「失礼ながら、賢明とは言いかねますな」

 護衛のひとりが言った。

「夜更けに、このような連れと出歩くのは」

 前後を数十の兵に囲まれていた。

「いいんじゃねーの? まだ斬る気ないみたいだし」

 ヒースはのんびりと景色を見渡し、竪琴をつまびいた。

「つまらん歌はやめろ」

 エドアルが不機嫌に言った。

「英雄、冥府よりご帰還の歌でも歌ってやろうか?」

「やめろ!」

「リズのお気に入りだぜ」

「私の許婚を呼びすてにするな!」

 にぎやかなことだ。

 ヒースは竪琴を奏で始めたが、たちまちにやみ、エドアルとの鬼ごっこに興じた。

「げっ。あいつ、マジになってやがる」

 剣をふりまわすエドアルから逃れて、ヒースはリュウカの後ろにまわった。

「冗談の通じねぇヤツだ。なんとかしてくれよ」

「おまえが悪い。謝りなさい」

「許す前に斬りそうだぜ、あいつ」

 黙って斬られてなどいないだろうに。エドアル相手に手こずる腕か。

「グレイ! 覚悟!」

 エドアルが剣をふりあげた。

「エドアル。むやみに抜き身をふり回すものではない」

 リュウカはうんざりしながら止めた。

「姉上はズルい! いつもそいつばかりひいきに……」

 リュウカは鞘でヒースを打った。

「いってぇー」

「おまえが悪い」

「なんでオレが……」

「誰かが嫌がる歌など選ぶな。ほかにはないのか」

「あるよ」

 ヒースは竪琴をかき鳴らした。

 恋歌だった。

 リュウカの周りをまわりながら歌う。

「アテつけか?」

「マジだよ、マジ」

「姉上に失礼であろう! この市井《しせい》の子が!」

 エドアルが再び怒りだした。

「祭りの歌をやれ」

 頭に手をあてて、リュウカは言った。

「どこの?」

「どこでもいい。陽気なものを」

「ご命令とあらば」

 大げさに頭を垂れてみせ、竪琴を鳴らした。

 懐かしいウィックロウの離宮は、記憶そのままだった。

「扉を開け、客を招いた。

 待ちわびた客、急いて迎えよ。

 逸して悔いることなきよう、

 急いて迎えよ、支度もそのままに」

 英雄セージュの歌の一節を、ヒースは奏でた。

「やめろ!」

 エドアルは怒鳴った。

「あんな英雄、縁起でもない!」

「昔話だろ。どっかの王太子とは関係ねーよ。な、リュウカ?」

 扉が開いた。燭台を掲げて女が出てきた。

「今、何時だと思っているんです! こんな大人数で! うるさくて、リズさまはもうすっかりお目覚めですよ!」

「お久しゅうございます、奥方さま」

 護衛のふたりがひざまずいた。

 女が後ずさりした。

「まさか、この軍勢は……」

「父ちゃんの子分はふたりだけだよ。残りはリズのじーちゃんがつけてよこした。夜道は危ないからってさ。なあ、リュウカ?」

 女が燭台を高く掲げた。

「ちい姫さま!」

 燭台をヒースに押しつけ、リュウカを抱きしめた。

「ちい姫さま、よくご無事で! ええ、信じてましたとも! 必ずお元気でおもどりになるって! 私にはわかっておりましたとも!」

「リュウカが窒息しかけてるぜ。バカ力緩めろよ。なあ、リュウカ」

 ヒースが茶々を入れると、女は体を離した。

「お顔をよく見せてくださいまし。すっかりおきれいにおなりで。少しおやつれになりました? こんなところで立ち話もなんですから、お早く中へ。お疲れでしょう。お食事は済まされました? 湯浴みの支度を今させますわ。マムおばちゃんとサミーおばちゃんも今呼びますわ」

 おばちゃん、ちい姫さまが、と叫びながらリリーは中へ駆けこんだ。

 後に続くと、玄関ホールが燭台の明かりに浮かびあがった。

 母の肖像があるはずだが、暗くて見えない。

 代わりに、柱には無数の刀キズが浮かびあがった。壁や天井には新しそうな壁紙が貼られていた。

 飾られた彫刻は、目の辺りがズタズタだった。確か、ここには宝石がはめられていたはずだ。

 あの夜の名残だ、とリュウカは気づいた。

 外套を羽織るヒマすらなかった。母とふたり葦毛に乗って……。

 その夜の生き残りは、自分ひとり。

「おっと」

 よろめいたリュウカをヒースが抱きとめた。

「イヤだった?」

 ささやいた。

「あっちにいるよりはいいと思ったんだけど」

「なぜ、そう思う」

「顔色悪かった。よっぽどイヤなことでもあったんだろ。でも、こっちにはかあちゃんがいるし」

「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」

 リリーがもどってきて叱りつけた。

「この方をどなただと心得てるんです! この方はね……」

「ちい姫さまだろ。わかってるよ。なあ、リュウカ」

「呼びすてにするんじゃありません! このバカ息子!」

 リュウカは目を丸くした。

 

 

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