部屋に入ると、大勢の侍女たちが待ちかまえていた。
「まずは湯浴みを」
ひとつの小さな湯船を十数人の湯女がとり囲んだ。
リュウカは、湯船のそばに大小の剣を置いた。侍女たちがとがめたが、こればかりは譲らなかった。
まだ、生きようと思うのか?
ふと、リュウカは苦笑した。
この絶望的な状況でも、まだ?
しかし、母の遺言だったのだ。
いまだ、己の生なるものは見つけられぬ。
右の指を洗うと、湯女が交代し、左を洗った。手首から肘を洗うと、肘から肩までと、また湯女が入れ替わる。
これでは、すべてが終わるまでに夜が明けそうだ、とリュウカは思った。これがリリーやマムなら、
『きちんと肩まで温まるんですよ。首の後ろから風邪はひくものですからね。髪はよく拭くんですよ。濡れたまま夜風に冷えたら、お熱が出ますからね』
と言って終わりだ。
湯浴みがこれでは、着替えは……。
考えるのをやめた。これも苦行と思い、目をつぶろう。
「お待ちを!」
扉の辺りが騒がしくなった。
「まだ湯浴み中です。お待ちを……」
リュウカは剣に手を伸べた。さやを払い、湯船を飛びだした。
泡を拭く間もなかった。
ついたての向こうから、暗褐色の髪とヒゲに埋もれた顔が現れた。
全身にとり肌がたった。
「レイカはどこだ」
記憶にある声が問うた。
腕が震え、ツバが鳴った。刃が明かりを受けて光った。
「おそろしい! 予に刃を向けるか!」
見開く目。いつか見た、そのままに。
頭の芯が熱くなり、リュウカは必死に正気を保とうとした。
「国王に刃を向ければ死罪ぞ。たとえ何者でもな。しかし、レイカの居場所を教えれば助けてやろう」
柄《つか》が泡で滑り、握りなおす。
拭くものが欲しい。されば、今すぐ斬れるものを!
見開いた目が、泡まみれのリュウカの体を眺めまわした。
「父は誰だ」
乱入者は目を細めた。
「おまえの父は誰だ! まことのことを言え!」
おまえだ、とは言いたくなかった。認めずに済むなら、どんな代償でも払っただろう。
「レイカは、今、その男のもとにいるのだな? では、おまえは何をしに来た! レイカと情夫のために、予から金も力も奪いにきたか! おまえにはビタ一文もやらん! いや、レイカの情夫など生かしておかん! どこだ! レイカは今どこにおる! 言え!」
母上!
リュウカはうめいた。
国王は懐から短刀を出した。手近にいた侍女につきつける。
「レイカの居所を言え! さもなくば、この女の耳をそぎ落とす。それとも指、いや、目がいいか?」
周りの侍女たちが悲鳴をあげ、逃げまどった。
卑怯者め。
「命が惜しくないらしいな」
リュウカは冷たく言い放った。
人質など意味はない。この距離なら、不慣れな握りをしたあの短刀が侍女のどこかを傷つける前に、懐に飛びこみ、腹を蹴り、体を後ろに飛ばすことができる。
だが、その時、国王の表情が変わった。
「その声。レイカにそっくりだ」
目がうるみ、熱っぽいまなざしを向けられる。
再び、全身にとり肌がたった。
「もっと言え。何か言え」
リュウカはうろたえた。
「レイカの声で。予のレイカ」
奇妙な恐怖が躰を貫いた。
「陛下! 国王陛下!」
夜着に着替えた小男が血相を変え、飛びこんできた。
だが、リュウカの目に、その姿は映らなかった。
突進し、国王を蹴りとばした。国王は壁まで転がり、大の字になった。
「レイカ。愛しいレイカ」
頭の芯が白く光った。
ふり下ろす!
手応えがあった。しかし、柄《つか》はぬめり、剣は手から滑り落ちた。
国王との間に、小男が入りこんでいた。
火のし用の鉄板を掲げている。
これで刃をしのいだのだ。
「それまで。どうか、それまで」
「宰相……」
「前《さき》の王后陛下なら、もう少し低いお声で『きさま』とおっしゃられるところでしょう。姫は少々お声が高い」
長い上衣を脱ぎ、背伸びをしてリュウカの体にかけた。
「野育ちというのは、のびのびとしてよろしいですな」
国王を引き起こす。
「何事もなく、安堵いたしました」
「何事もないだと! これは……情夫の娘は、予を殺そうとしたのだぞ!」
「何事もなく!」
宰相はきっぱりと言った。
「エドアル王子殿下をお預かりしている間は、何事もなきように。よいですな」
「だが、これは情夫の娘だぞ!」
「陛下がお悪い!」
宰相は国王を睨めつけた。
「王女に対して無礼ですぞ! お退がりなさい」
国王はうなだれ、ぶつぶつとつぶやいた。
「予の娘ではないのに……」
宰相は国王を部屋から引きずりだした。
ふたりが去ると、侍女たちがおそるおそるもどり、着替えの支度を始めた。
「お夜食をお運びいたします。お好みがございましたら……」
「要らぬ」
侍女が泣きそうな顔をした。
リュウカはそっとため息をついた。
「わかった。持っておいで」
大勢の侍女たちが、少しずつ、冷めた料理を運んできた。
手をつける気にならなかった。
リュウカは窓辺にもたれた。夜の中庭は暗く、母の声を思いだした。
『窓辺は危ない。近づくな』
宰相の言う通りだ。母の声はもっと低かった。
『きさま』 その通りだ。母ならそう言う。
母にはかなわない。
宰相は開口一番母の消息を訊ね、あの男でさえ、いまだ母の名を呼ぶ。
自分は王女なんかではない。『前《さき》の王妃』の娘でしかないのだ。ここにもどってくるべきは、自分ではなく、母だったのだ。
あのとき死んだのが自分だったら、どんなによかったか。
竪琴の音が響いた。
リュウカはビクリと顔をあげ、中庭に目をこらした。
よく通る低音。伸びのある心地よい声。
歌声は、普段の声とは異なるが。
「ヒース!」
窓から身をのりだした。
歌声はやまない。
小夜曲《セレナーデ》。短い恋歌。
一曲終わって、リュウカは苦笑しながら気のない拍手をした。
「こんなところに忍びこんで。つかまるぞ」
「衛兵なら、みんな伸《の》してきた」
窓の下に金色の髪が現れた。窓枠に手をかけ、よじ上る。
「味方に手を挙げてどうする。エドアルの身が危なくなるぞ」
「あのぐらいでやられちゃ、猫の仔だって防げねぇよ」
室内にたたずむ侍女たちが気づいて騒ぎだした。
「待て」
外へ知らせに行こうとする侍女を、リュウカは呼びとめた。
「不審なものではない。友人だ」
ヒースが悪びれずに笑った。
「無粋だなあ。夜這いに決まってんだろ」
「どうして事を大きくする!」
ニヤと笑う。
「何度もベッドを共にした仲だろ」
流れの薬屋だったころ。
「なるほど」
「え? 納得すんの?」
「おまえは帰りなさい。エドアルの警護はもう要らぬ」
「別に、あいつのために来たわけじゃねーよ。こっちにかあちゃんがいてさ」
かあちゃん? グレイ侯爵夫人か?
「お早く! こちらへ!」
ほかの侍女が人を呼んできたらしい。
「逃げなさい、早く」
うながしたが、ヒースは床にすわりこみ、竪琴をかき鳴らした。
ついたての向こうから、頬キズの男が顔を出した。
「よお。ジャマしてるぜ」
ヒースは竪琴でふさがった手の代わりに、足を上げた。
「リズのじーちゃん」
宰相はため息をついた。
「グレイ子爵。ここにおわすは第一王女……」
「黒龍の娘だろ。見りゃわかるよ」
「ウィックロウにお帰りください。この方は我が国の王女。めったなことがあってはなりませぬ」
「そうだよな、めったなことがあっちゃマズいよな」
ヒースはリュウカの顔を見つめた。
「リュウカ、ウィックロウへ来いよ。エドアルのヤツも呼んでやろう。あいつ、すぐ妬くからな。まったく、リズとオレの仲を勘ぐるなんて、どうかしてるぜ。リズのじーちゃん、パーヴからきた護衛とかいうヤツらも叩き起こしてくれよ。あいつらも連れてかなきゃ恨まれる」
「もう夜遅うございます。明日になさいませ」
「じゃあ、オレ、明日までここにいるぜ」
「聞き分けのない方だ。繰り返して申しあげるが、ここは我が国の王女の居室。一晩ご一緒というわけにはまいりませぬ」
「へいへい。リュウカ、行くぞ」
腕をつかんだ。
「早くメンツ集めてくれよ。でないと、ふたりっきりで逃避行になっちまうぜ」
「まったく、お父上によく似ていらっしゃる」
宰相は大きくため息をついて退がった。
欠け始めた月が、行く手を照らした。
草木が暗く影を落とす間を、白く道が浮かびあがる。
あのときは、下弦過ぎの月が昇っていた。右へ分かれれば国境の街エスクデール。母が後ろを駆けていた。
ふり返れば、今もそこに母がいるような気がする。
「こんな夜中に、なんで……」
ぶつぶつと、後ろからつぶやきが聞こえた。
「それだけ早くリズに会えんだぜ。喜べよ」
陽気な声が隣で響く。
「こんな夜中に。レディを訪問する時間じゃない。紳士のすることじゃない」
眠そうに、気合いの入らない愚痴である。
「いいじゃん。夜這いと思えば」
「失礼な! 私がかようなあさましいマネをするか!」
「へいへい」
「失礼ながら、賢明とは言いかねますな」
護衛のひとりが言った。
「夜更けに、このような連れと出歩くのは」
前後を数十の兵に囲まれていた。
「いいんじゃねーの? まだ斬る気ないみたいだし」
ヒースはのんびりと景色を見渡し、竪琴をつまびいた。
「つまらん歌はやめろ」
エドアルが不機嫌に言った。
「英雄、冥府よりご帰還の歌でも歌ってやろうか?」
「やめろ!」
「リズのお気に入りだぜ」
「私の許婚を呼びすてにするな!」
にぎやかなことだ。
ヒースは竪琴を奏で始めたが、たちまちにやみ、エドアルとの鬼ごっこに興じた。
「げっ。あいつ、マジになってやがる」
剣をふりまわすエドアルから逃れて、ヒースはリュウカの後ろにまわった。
「冗談の通じねぇヤツだ。なんとかしてくれよ」
「おまえが悪い。謝りなさい」
「許す前に斬りそうだぜ、あいつ」
黙って斬られてなどいないだろうに。エドアル相手に手こずる腕か。
「グレイ! 覚悟!」
エドアルが剣をふりあげた。
「エドアル。むやみに抜き身をふり回すものではない」
リュウカはうんざりしながら止めた。
「姉上はズルい! いつもそいつばかりひいきに……」
リュウカは鞘でヒースを打った。
「いってぇー」
「おまえが悪い」
「なんでオレが……」
「誰かが嫌がる歌など選ぶな。ほかにはないのか」
「あるよ」
ヒースは竪琴をかき鳴らした。
恋歌だった。
リュウカの周りをまわりながら歌う。
「アテつけか?」
「マジだよ、マジ」
「姉上に失礼であろう! この市井《しせい》の子が!」
エドアルが再び怒りだした。
「祭りの歌をやれ」
頭に手をあてて、リュウカは言った。
「どこの?」
「どこでもいい。陽気なものを」
「ご命令とあらば」
大げさに頭を垂れてみせ、竪琴を鳴らした。
懐かしいウィックロウの離宮は、記憶そのままだった。
「扉を開け、客を招いた。
待ちわびた客、急いて迎えよ。
逸して悔いることなきよう、
急いて迎えよ、支度もそのままに」
英雄セージュの歌の一節を、ヒースは奏でた。
「やめろ!」
エドアルは怒鳴った。
「あんな英雄、縁起でもない!」
「昔話だろ。どっかの王太子とは関係ねーよ。な、リュウカ?」
扉が開いた。燭台を掲げて女が出てきた。
「今、何時だと思っているんです! こんな大人数で! うるさくて、リズさまはもうすっかりお目覚めですよ!」
「お久しゅうございます、奥方さま」
護衛のふたりがひざまずいた。
女が後ずさりした。
「まさか、この軍勢は……」
「父ちゃんの子分はふたりだけだよ。残りはリズのじーちゃんがつけてよこした。夜道は危ないからってさ。なあ、リュウカ?」
女が燭台を高く掲げた。
「ちい姫さま!」
燭台をヒースに押しつけ、リュウカを抱きしめた。
「ちい姫さま、よくご無事で! ええ、信じてましたとも! 必ずお元気でおもどりになるって! 私にはわかっておりましたとも!」
「リュウカが窒息しかけてるぜ。バカ力緩めろよ。なあ、リュウカ」
ヒースが茶々を入れると、女は体を離した。
「お顔をよく見せてくださいまし。すっかりおきれいにおなりで。少しおやつれになりました? こんなところで立ち話もなんですから、お早く中へ。お疲れでしょう。お食事は済まされました? 湯浴みの支度を今させますわ。マムおばちゃんとサミーおばちゃんも今呼びますわ」
おばちゃん、ちい姫さまが、と叫びながらリリーは中へ駆けこんだ。
後に続くと、玄関ホールが燭台の明かりに浮かびあがった。
母の肖像があるはずだが、暗くて見えない。
代わりに、柱には無数の刀キズが浮かびあがった。壁や天井には新しそうな壁紙が貼られていた。
飾られた彫刻は、目の辺りがズタズタだった。確か、ここには宝石がはめられていたはずだ。
あの夜の名残だ、とリュウカは気づいた。
外套を羽織るヒマすらなかった。母とふたり葦毛に乗って……。
その夜の生き残りは、自分ひとり。
「おっと」
よろめいたリュウカをヒースが抱きとめた。
「イヤだった?」
ささやいた。
「あっちにいるよりはいいと思ったんだけど」
「なぜ、そう思う」
「顔色悪かった。よっぽどイヤなことでもあったんだろ。でも、こっちにはかあちゃんがいるし」
「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」
リリーがもどってきて叱りつけた。
「この方をどなただと心得てるんです! この方はね……」
「ちい姫さまだろ。わかってるよ。なあ、リュウカ」
「呼びすてにするんじゃありません! このバカ息子!」
リュウカは目を丸くした。