〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(前編)
16章 幻の民 ……その1

 

 城の外壁にもっとも近い庭、むしろ玄関の前庭というべき場所に人が集い、酒を酌み交わしていた。テーブルに立てられた無数の燭台が、人々のちぐはぐな衣装を照らしだしている。

 金の髪には高い襟、褐色の肌には巨大なターバンと濃い口ひげ、黒髪には小さなフェルト帽、背丈も言葉も違えた者たちが、狭い場所に一緒くたに詰めこまれて陽気に乾杯をくり返しているのだった。

 喧噪は最高潮に達し、訳すコクヨウの声は涸れた。

「いつか砂漠に来られよ、と」

 巨大なターバンのイリーンの言葉はなまりがひどく、聞き取りにくかった。この騒々しさでは、苦労も倍になる。

「草原にこそ、来られよと言え」

 族長が轟くような声で笑う。

 訳すまでもなく、巨大なターバンは族長と肩を組んで歌いだした。知らない歌である。

「脱げ、喪服を脱げぇ!」

 パーヴの地方貴族とかいう男が、コクヨウの黒いマントに手を伸ばした。今宵はもう何度めか。九つまでは数えたが、その三倍はゆうに上回ったろう。

「今宵は通訳は不要! 飲め、飲め! 我が娘よ!」

 族長まで酒の勢いにのった。

「イリーンの姫のために! 新しいパーヴの王太子妃のために!」

 貴賤を問わず、城中がまるでこのありさまに違いない。一シクルも続いた婚礼の末席にありつけたわけでもないのに。

 前庭の面々は、みな同じ扱いだ。卑しい交易相手たち、利益をもたらすからには酒の一杯でもふるまってやれ。卑しい身分の異人どもは感涙していっそう尽くすことだろう。

 パーヴの考えそうなことだ、とコクヨウは黒いベールの下で苦笑した。

「草原の国の族長」

 イリーンの言葉が喧噪をくぐり抜け、かすかに届いた。

 イリーンの役人である。酔いのためか、丸くふくれた頬は紅潮していた。しかし、目つきはいつになく険しい。

 しくじったか? 気に入らぬものでもあったのだろうか。

 祝いに献上した品々を頭の中で検分する。無難なものだけを選んだつもりだったが。文化の差異は難しい。

 イリーンについてはよく知らない。この一年、交易相手としてつきあってきただけだ。

「草原の国の族長。話がある。こちらへ」

 手招きをする。

 コクヨウはベール越しに族長に告げた。

「なんだ、新しいもうけ話か?」

 族長は楽観的である。

 少しはクロミカゲの慎重さを見習ったらどうだ。

 言い出したいのをコクヨウはこらえた。師の名は、族長の前では禁句である。

 そんな気持ちもつゆ知らず、族長は踊るような足取りでイリーンの役人の後に続く。

 よくもこれだけの人を詰めこんだものだ。

 人をかきわけながら、コクヨウは進む。

 族長は人の中に埋もれ、危うく見失いそうになる。

 並の背なら目立つだろう。草原の民はパーヴの人々より頭ひとつは飛びでるものだ。しかし、それもまた禁句である。フェルト帽の下と同様に、本人の気にするところであった。

 玄関の石段の前に、金髪の若者たちがたむろしていた。

 ウルサの留学生か?

 身なりは可もなく不可もなく、身分は高くはないが暮らす金には恵まれていそうな血色のよい若者たちが、ウルサの言葉で談笑していた。

 その向かいで、イリーンの役人は止まった。

「パーヴのカーチャーさまです。このたびは、草原の国と交易はどうかと」

 フリルだらけの服を着た男が、へつらいとごますりに囲まれ、侮蔑の笑みを浮かべていた。ピートリークの言葉が響く。

「これが草原の国の! ほほう、見るからに野蛮だ! 一同、見よ! これがあの先王をたぶらかした悪女のゆかりの者だぞ!」

 追従笑いが辺りを包んだ。

「貢ぎ物をすれば、臣下と認めてやるぞ。馬と剣と毛織物が特産なんだろ。よこせ、野蛮人」

 カーチャーが言えば、イリーンの役人が穏便な言葉に直して訳す。

 族長に伝えるまでもなく、コクヨウはイリーンの言葉で返じた。

「我らはイリーンの友として、遠路はるばるはせ参じた。客として歓迎されこそすれ、頭《こうべ》を垂れ、異人に屈っせよとは何事か」

 カーチャーたちがどよめいた。

「女だ。この喪服」

「草原の女は美人なんだろ。もったいぶらずに顔を拝ませろよ」

 イリーンの役人があわてた。

「通訳はみな黒衣に覆われるものでして。そのままに、そのままに」

 囲まれた。

 まいったな。

 コクヨウは族長の顔色をうかがった。

 もう、遅い。

 言葉の壁を、侮蔑は超える。

「我らを侮辱するか! 誇り高きイワツバメの一族を!」

 腰にやった手が空を切る。

 剣は鞍の下に置いてきたのである。城内は帯剣を禁じられている。

 茶褐色の髪の間で笑いが起こった。

 黒髪の族長は恥と怒りとで耳まで赤くなった。

「族長、お鎮まりください!」

 コクヨウは駆け寄ろうとしたが、マントとベールを四方からつかまれ、自由を奪われた。

 族長がこぶしを大きく振りあげ、近くの男へと突きだした。

 気持ちのいい殴打音が響いた。

 しまった! 遅かったかと見ると、ウルサの若者が右手でこぶしを受け止めていた。

「族長、お鎮まりください」

 ウルサの若者が草原の言葉で言った。

 太くはない。低く、よく響く声である。

 発音が、どことなくちがっていたが、異人にしては上手である。

「意味わかんねーけど、これでいいんだろ?」

 今度はピートリークの言葉で、青い眼がコクヨウにウィンクした。

 右手にあった族長のこぶしを放す。

 大きな手だ。皮も厚く、よく鍛えられている。

 ウルサの人は長身だが、彼は中でも目立った。よく見れば、若いというより幼い。まだ成人前かも知れない。

「客人に無礼すんじゃねーぜ、カーチャー伯爵とやら」

 彼がからかうと、パーヴの役人は怒鳴った。

「客なものか! こ、これは隣国の王をたぶらかした、あの売女めのゆかりの……」

 コクヨウの手が震えた。

 ウルサの若者が高く笑った。

「黒龍のお姫さんかい? 王さまに聞かれたら首が飛ぶぜ。王さまは、そりゃあ、あの人をかわいがってたんだからな」

「王太后さまに申しあげてやる! おまえの態度は不敬罪だぞ!」

「言いつけられるもんならやってみな、自称伯爵さま。位階詐称が表沙汰になってもいいってんならな」

 カーチャーはじりじりと後退し、やにわに人ごみに逃げこんだ。

「やべ」

 イリーンの役人をふり返ると、ウルサの若者は言った。イリーンの言葉である。

「にしゃもやべ」

 イリーンの役人は退がった。

「ちょっと残念だったな。あんたの勇姿見たかったのに」

 今度はピートリークの言葉でコクヨウに話しかける。人なつっこい笑みは、これ以上ないというぐらいご機嫌である。

「イリーンの言葉も操るのか?」

 コクヨウは同じくピートリークの言葉で問うた。

「ん、かあちゃんたちから教えてもらったから……」

 族長が走りより、ウルサの若者を強く抱きしめた。手を、腕を、肩を力強く握る。

「礼を言ってくれ」

 族長はコクヨウに言う。

「言葉は通じぬとも、我らが名誉を守ったことはわかったぞ」

 コクヨウは礼を告げた。

 ウルサの若者は笑った。

「いいよ、そんなの。それより出よう。どこ泊まってんの? 送ってくよ」

「心配ご無用。道は存じている」

「この時間じゃ、表通りは出店でいっぱいだぜ。裏通り行かなきゃ。任せな。ここは庭みたいなもんだから」

 族長に伝えるべきか迷うが、族長のほうがいっそう乗り気だった。

「我らが宿まで来てもらえ。今宵はたっぷりもてなそう」

「しかし、習慣が違いますれば……」

「気に入った。いい体をしておる」

 コクヨウはベールの下で困惑した。

「早く行こう」

 ウルサの若者がよく響く低い声でうながした。

 馬を並べて裏通りを歩いた。

 表はウルサの若者の言う通り、人でごった返し、身動きできないありさまだった。

「先ほどの諍《いさか》いで、そなたが不利にならなければよいが」

 コクヨウはカゲに揺られながら言った。

「さっきの? カーチャーのこと?」

 ウルサの若者が栗毛の鞍上で問う。

「なんねーよ、ぜんぜん。いつかとっちめてやろうと思ってたんだ」

「しかし、役人に逆らっては、そなたの立場が悪かろう」

 あの場に招かれる留学生風情では、身分はたかが知れている。

「あのさ」

 ウルサの若者が馬を寄せて、コクヨウの顔をのぞきこんだ。

「他人行儀、そろそろやめてくんない? 調子狂うよ」

 馴れ馴れしさに調子が狂うのは、こちらのほうである。

 コクヨウは馬を離した。

「前もって断っておくが、我ら草原の者は、ウルサともパーヴとも異なる習慣を持っている。ムリ強いはしないが、驚かぬように心してもらいたい」

 とつぜん、蹄の音が響いた。

 近づいてくる。

 コクヨウはふり返った。手綱を握る手が汗ばむ。

 追っ手か? まさか。もう見破られたか?

「たっ、たすけ……」

 甲高いがかすれた男の悲鳴とともに、馬が駆けてくる。

「ヴァンストン!」

 低い張りのある声でウルサの若者が叫んだ。知り合いらしい。

「どうした!」

「殿下が!」

 ウルサの若者はコクヨウを見た。

「リュウカ、ここにいろ」

 低い声ではっきりと言い残し、馬の腹を蹴る。風とともに、一気に走り去った。

 コクヨウはあっけにとられた。

 族長にヴァンストンの手当を頼み、急ぎ若者の後を追った。

 間者であれば、捨ててはおけない。

 薄闇の中、細剣が光り、怒号が轟いていた。

「迎えに来たぜ、王子さま」

 よく通る声を響かせ、ウルサの若者が人馬の間に滑りこんだ。

「グレイ! 遅い!」

 金毛《パロミノ》の陰から、背の低い男が偉そうに叫んだ。こちらもまだ年若い。

「さっさと片づけろ!」

「へいへい。そのまま動くなよ。ケガでもしたら、リズに怒鳴られるからな」

「呼び捨てにするな! 私の許婚だぞ!」

 グレイと呼ばれたウルサの若者は、すでに剣を抜いていた。刀身が太い。

 草原の剣に似ている。追いついたコクヨウは思ったが、それは形だけではなかった。

 ひと振りすると、敵の細剣が根本から折れた。ふた振りすると、落馬した。

 振り方も、パーヴよりは草原のものに似ていた。

 勝負は見えていた。

 賊はたちまち逃げに入った。

「殺すな! 生け捕りにしろ! 頭領の名を聞きだせ!」

 救われた男が命じる。

「ムダだと思うぜ」

 グレイは追わず、馬を降りて、息のある者を起こした。

 問い詰めてみれば案の定、行きずりの見知らぬ輩に金を渡されて頼まれたのだという。

「卑怯なヤツだ! 正々堂々、正面から向かって来い!」

 金毛《パロミノ》の陰から現れた男は、肩掛けをしていた。その縁取りがチラチラ光る。

 金糸か?

 だとすれば王族である。この年頃のパーヴの王族といえば……。

 ベールの下でコクヨウは苦笑した。

 エドアル王子に間違いない。声にも聞き覚えがある。

「まったくだ。正面から来ても充分叩けるのによ」

「王子をバカにするか!」

「だって、バカだろ?」

「私のどこがバカだと言うのだ!」

 パーヴの王子を相手に軽口を叩けるのはどこの誰だろう?

 ウルサの王子か? まさか。

「護衛も連れずにそのご立派な身なりで出歩きゃ、どうぞ襲ってくださいってなもんだろ」

「伴は連れてきた!」

「へえ。どこに?」

 グレイは大げさに見回してみせ、エドアルは伏し目がちに答えた。

「逃げたのだ」

 グレイは短く笑った。弦楽器を思わせる心地よい声が通りに響く。

「おまえが悪いのだ! 勝手に草原の国のお方を連れだすから! 衛兵を集める間もなく、急ぎ追ってきたのだぞ!」

 コクヨウは馬を返した。

「どこへ行く!」

 後に続くグレイにエドアルが問うた。

「あんたの忠実なしもべのとこに行くんだよ。いけ好かねーヤローだが、ほっといてくたばられちゃ寝覚めが悪ィや」

「ヴァンストンか? あいつは真っ先に逃げだしたのだ! あの弱虫め! 命を賭して主君を守るのが臣下の役目ではないか! 王子の命とたかが己の命と、どちらが重いのか!」

 コクヨウの手が汗ばんだ。

 動揺するな。今、自分は草原の民の、しかも通訳なのだ。なんのための黒装束か。

『我慢するときは、何か別の楽しかったときのことを思いだすんです』

 かつての侍女の言葉が思いだされる。

 そうだ。ウィックロウのことを……。

 しかし、追われて母は……。

 では、師のことを。

 しかし、追われて逃げる間に師は不遇のまま……。

 矢継ぎ早に考えて、コクヨウは苦笑した。どうも自分には不幸がつきまとっている。

 では、小さな歌い手のことを。高く澄んだ美声の弟子を。今ごろは舞台で名をはせているだろうか? それとも薬屋に?

 エドアル王子には、借りがある。あの子を救ってもらった。

「どっちの命が重い、だって?」

 葛藤をくり返しているコクヨウのそばで、陽気な笑い声が響いた。

「そりゃ、自分の命に決まってんだろ。あんたが死んだって、オレは平気だぜ」

「無礼者! たかが子爵の分際で王子に……」

「それが命の恩人に対する態度かね。さっさと乗れよ。置いてくぜ」

 金毛《パロミノ》はおびえて使い物にならなかった。

 グレイはエドアルを引きあげ、鞍の後ろに乗せた。

 このふたり、よい組み合わせかも知れない。コクヨウは思った。驕りがちな王子にとって、身分を越えて鼻をくじく者は貴重な存在だ。

 族長の元へもどると、ヴァンストンとかいう男がうずくまり、震えていた。

「ようすは?」

 草原のことばで訊ねる。

「おびえるので触ることもできん。背中を斬られているようだが、かすりキズだろう」

 なるほど、深手なら、背中を丸めてはいられない。

「手当を」

 コクヨウが声をかけると、震え声が応えた。

「よ、寄るな、蛮人!」

 グレイが割って入った。

「悪いけどさ、ちょっくら、こいつら送ってくるわ。黄牛《あめうし》亭で待っててくんない?」

 コクヨウは首をかしげた。

「黄牛《あめうし》亭?」

「知らない? この先を人の足で百歩ぐらい行った先に仕立屋があって、そこを左に曲がって大通りに出たら、たぶん見つかるからさ」

「無礼だぞ!」

 エドアルが怒鳴った。

「どうせおまえの言うのは卑しい飯屋か何かだろう。そんなところに大切な客人を招けるか!」

 グレイはニヤと笑った。

「黒龍のお姫さまが懇意にしてたって話だぜ。卑しいとはご挨拶だな」

「草原の国のお方、ぜひ城におもどりください。改めておもてなしいたします。今宵はゆるりと草原の国のお話でもお聞かせください」

 エドアルの申し出を、コクヨウは族長に訳して伝えた。

「王子か!」

 族長の顔が輝いた。

「よい拾いものをした。ここは機嫌をとっておこう。あとあと交易に有利になるかも知れん」

 コクヨウはため息をついた。

「交易国を増やしては、生産が間にあいますまい」

 のんびりとした暮らしを捨て、革なめしや機織りに今以上時を費やせというのか。

 暮らしを切り売りして得られる代価を、族長は過大評価しているように思えた。

「よし、今宵は王子を口説こうぞ! コクヨウ、頼むぞ」

 族長の意向は止められない。

 しかたなく諾と告げると、エドアル王子は喜んだ。

「私の叔母上も、そちらの血を引いておられたのですよ。黒龍の姫と呼ばれましてね。剣をとらせれば国一番の使い手で、馬を走らせれば追いつくものなく、思慮深く美しい方でした。隣国に嫁がれ、若くして亡くなられましたが。まことに惜しい方を亡くしました。隣国のエリザ姫も、叔母上を慕っておりましてね。城には絵も残っております。ぜひご覧ください」

 エドアルは得々と語る。

 聞かなくとも、わかっている。

 コクヨウは深々とため息をもらした。

 城へ向かう道中も、そんな調子でエドアルは話し続けた。

「叔母上は幼いころ私の父に預けられておりましてね、昼間だけ実母のところに通ったのです。この実母という方が、草原より輿入れされた萌黄の方で……」

「何と言っておるのだ?」

 族長が訊ねた。

「昔、草原ゆかりの者が、この国にいたとか」

「おもしろい。訳せ」

 コクヨウは天を仰いだ。

 口にしなかった過去を、敢えて明るみに出せというのか。

「あのさ」

 グレイが馬を寄せてきた。鞍上には、今や彼ひとりだった。

 エドアル王子はヴァンストンの馬に乗り換えたのだ。そちらのほうが上等な馬だったから。

「いつまでこの国にいるの?」

 パーヴの王子の得意話を訳すよりは、生意気な金髪の子爵を相手にするほうが気楽だった。通訳にあるまじきことだが、コクヨウは誘惑に喜んで甘んじた。

「三日もすれば発つ」

「じゃあ、オレも郷《くに》に連れてってよ」

 あきれた!

「思いつきや憧れでものを申すでない」

「今度こそ、一緒に行くぜ」

 グレイはぐいと顔を寄せ、低い声でささやいた。

「リュートせんせ」

 肌があわだった。

 コクヨウはすばやく身を引いた。右手を剣に伸ばす。

「誰かと間違えているようだが」

 グレイはニヤと笑い、ウルサの言葉で言った。

「あんたがどんなかっこしてたって、オレにはちゃあんとわかる」

 さらに、イリーンの言葉で続ける。

「二年待った。もう充分だろ?」

 コクヨウは息を詰めて金髪の子爵を眺めた。

 元々音感のよい子だった。ノードリックの浴場でウルサの言葉を器用に真似た。しかし、あのやせっぽちで幼い面影はどこにもない。年のわりに小さかった背はウルサの青年らしく高く伸び、手足も人形のように長い。あどけなかった小さな口は大きく開き、小さかった鼻も長くなった。高く澄んだ天使のような声は、低く、弦楽器のような落ち着いた響きを伴っている。

 まるで別人だ。

「あいにく子爵の知り合いはないが」

 グレイは悪びれない。

「いろいろあってさ。今はグレイ侯爵の養子になってる。爵位ももらった」

「では、パーヴに忠誠を誓ったのか」

 爵位授与には、王への忠誠がつきまとう。

「形だけさ。気持ちはいつもあんたのものだよ」

 ウィンクした。

 ああ、とコクヨウは観念した。

 このいたずらっぽい青い眼は、あの子だ。虹の清水からどこまでもついてきた小さな子。竪琴を手にいつも歌っていた陽気な歌い手。ヒース。

「口がうまくなったな」

「口だけじゃねーぜ。後で、小夜曲《セレナーデ》でも奏でてやるよ」

 相変わらず、ませた生意気な口をきく。

 いたずら心が湧いた。

「セージュには会ったか?」

 ヒース=グレイは、ニヤニヤ笑った。

「退治されなくて済んだぜ。あんたが名前を変えてくれたおかげかな」

 ごくつぶしのヘデロ。その名で呼ばれるのがイヤだと恥じた男の子。

 ヘデロは英雄セージュに退治された怪物である。

 リュウカはくすくす笑った。後から後から笑いがこみあげた。

 こんなに愉快なのは、どれぐらいぶりだろう。

 人目がなければ抱きしめてしまいたかった。小さな男の子、愛らしい弟子!

「コクヨウ!」

 族長が焦れた響きで呼んだ。

「何を話しておる」

「他愛もない話で」

 すまして答えた。

「では、王子の話をさっさと訳さぬか。ずっと話し続けておるぞ」

「そちらも他愛のない話」

 もう、どうでもよかった。

「どこにでもある自慢話です。勝手にしゃべらせておけばよろしい」

「だが、我らのゆかりの……」

「中身のない話です。適当にあしらっておきますから、族長はつまらぬことに気を使われませんよう」

 リュウカがふり返ると、ヒースが訊ねた。

「葦毛、どうしたの?」

「うん、草原に入ったときに少しもめてな。守ってやれなかった」

 思いだすにつけ、胸が痛む。母の臨終に立ち会った唯一の連れだったのに。

「これはカゲという。葦毛に劣らず気性が荒い。あまり近寄るな」

「ふうん。驪《くろうま》か」

 ヒースはリュウカからカゲを上から下まで眺めまわした。

「その黒装束じゃ、どっからどこまでが人で馬かわかんねぇや。あんたのかあちゃんが黒い龍だってんなら、さしずめあんたは驪《くろうま》の龍だな」

 笑った。

「オレ、強くなっただろ」

 ヒースの眼が意味ありげに路地を指す。

 リュウカもその黒い影には気づいていた。

 殺気がよどんでいる。

「おごりは命とりだ」

「へいへい。じゃ、謙虚な気持ちで」

 ヒースは大きく息を吸い、怒鳴った。

「そこにいるのは誰だ! 名乗れ!」

 低い声は、薄闇によく響いた。

「エドアル王子、覚悟!」

 影が動いた。

「族長、王子を狙う賊です」

 早口に伝え、リュウカは剣を抜いた。

「殺すな! 生かして頭領の名を訊け!」

 族長に守られながら、エドアルが叫んだ。

 頭領?

 前の賊といい、何かの集団に狙われているのか?

「あのさ、さっきも同じこと言ったよな」

 ひとしきり敵を追い払った後、ヒースがリュウカと同じ問いを口にした。

「狙われる心当たりでもあんのか?」

「黙れ、蛮族。おまえの関わるところじゃない。黙って殿下の御ために働けばいいのだ」

 ヴァンストンが反り返って言う。

「じゃ、好きにしな」

 ヒースは剣をおさめた。

「オレも好きにするよ。これからはせいぜい近衛にでも守ってもらうんだな」

「草原の国のお方!」

 思い詰めたように、エドアルは族長に呼びかけた。

「ここで会ったのも、大王ナージャの思し召しだろう。私にそこの者を譲ってくれないか」

「ダメダメ!」

 間髪を入れずに、ヒースが答えた。

「この人はオレと一緒に草原へ行くんだよ。な?」

 人なつっこくウィンクする。

「このままでは、私は殺されてしまう」

 エドアルの声が震えた。

「昨夜は城内でからまれた。飲んだくれのたわごとと思ったが、学友が大ケガをした。今朝は頭上から燭台が落ちてきた。階段には油が流され滑った。事故だと思った。だが、今夜は城内で暴徒に囲まれた。祝い客にまぎれていたのだ。そして、城から出ればこのありさまだ。近衛たちは婚礼にかりだされ、私には身を守る手だてがない。そなたたちを雇う以外には!」

 リュウカは族長に訳して伝えた。

「我らになぜ頼る? 見も知らぬ我らに」

 族長が首をかしげた。

「我らはいわば親戚ではないか! そなたの国の姫が嫁いできたのだぞ!」

 エドアルの言い分に、族長は納得がいかなかった。

 草原の地の、どこかの一族の女が嫁いだからと言って、自分たちの一族に、なんの関わりがあろうか?

「金ならいくらでも出す! だから、譲ってくれないか。言い値で買おう!」

 族長は答える。

 我らは誇り高い民族である。人を売ることはしない。

「だが、交易で便宜をはかってくれるのなら貸してやってもいい。どうだ、コクヨウ、誰か見つくろって、ここに置いていくか?」

 まんざらでもなさそうである。

「実は、族長、この王子には借りがある」

 リュウカは草原の言葉で言った。

「私と、大事な愛弟子の命を救ってもらった」

「それはそれ、これはこれだ。一族の利益とおまえの都合を一緒にしてはいかん。交易を軽んずるな」

「ならばこそ。私が残れば交易に便をはからせることもできようし、借りも返せる」

「ふん、異国の者どもが、すなおに言うことをきくものか。我らを蛮人めと蔑む連中だぞ。ここは充分に引き延ばし、駆け引きしよう」

「駆け引きなどいらぬ。今、約束させよう」

「異国の者は平気で約束を反故にする」

「何をもめている! 早く返事をきかせろ! 一国の王子の頼みだぞ!」

 エドアルが焦れた。

「王子の命が危険にさらされているというのに! なんとも思わないのか!」

「思わねぇよ。王子なんかクソの役にも立ちゃしねぇ」

 ヒースが笑った。陽気な響きがこだまする。

「オレにとっちゃ、こっちの驪《くろうま》のねーちゃんと草原で暮らすほうがずっと大事だ」

 草原に連れていくわけにはいかない。異質で厳しい世界だ。

 だが、残るなら……。

「ヒース」

 リュウカはピートリークの言葉で言った。

「エドアルには借りがある。おまえと私を救ってもらった」

 ヒースはぎくりとした。

「殿下を呼び捨てとは! なおれ!」

 ヴァンストンが叫び、ヒースがイリーンの言葉でさえぎった。

「二回も助けたんだぜ。借りどころか、釣りがくるぐらいだ」

「まだだ。充分ではない」

 リュウカはベールを剥いだ。

「借りを返そう。エドアル」

「あ、姉上?」

 エドアルの声が裏返った。

「ったく。頑固なとこは変わんねーぜ」

 ヒースがあきれ声を出した。

 

 

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