〜 リュウイン篇 〜

 

【十五 逃亡(一)】

 

 

 夢を見た。

 内容は思い出せなかった。

 大声を出したらしい。

 侍女が薬湯を持ってきた。

「夢魔払いでございます」

 迷信じゃないか。

 飲まずに捨てた。

 朝食をとる気分ではなかった。砂糖とミルクをたっぷり入れた寝醒めの茶さえ、飲む気になれなかった。

 どうか一口だけでも、と侍女が泣いたけれども、うち捨てた。

 上のヤツに叱られるのがイヤなだけじゃないか。心配なんかしてないクセに。

 学友たちのおべんちゃらは耳に入らなかった。午前の講義ときたら、ひどいものだった。

「イリーンの東には広大な砂漠が広がり、交易人だけが命をかけて渡ってくるのです」

 そんなの、どうでもいいじゃないか。

 剣術も散々だった。

「突きだしたとき、左手の形はこうでなければいけません」

 作法がなんだというのだ。自分には必要ない。決闘など、バカがすることだ。

 食欲もまったくなかった。口元にスプーンを運び、パンをちぎってみるものの、何かを入れる気にはならないのだった。

「殿下、お体がすぐれないのですか」

 ヴァンストンが訊ねた。

「ため息が多うございます」

「別に。何もかもイヤ気がさしてるだけだよ。この世は灰色だな。王子なんか義務に縛られているだけで、自由も何もない」

「まったくでございます。面倒なことはすべて上の者に押しつけられるのですから」

「わかったようなことを言うな!」

「申しわけございません」

 午後はもっと悪かった。

 法律の講義は何度も質問され、ひとつも答えられず師を失望させたし、ウルサ語の授業ときたら、ぼんやり窓の外を眺めるだけだった。

「どうしたのだ」

 夜に、父王が部屋に訪ねてきた。

「具合でも悪いのか。食事にはほとんど手をつけていないという話だが」

「そのような御用向きでいらっしゃったのですか?」

 イラ立ちを隠さず、エドアルはトゲトゲしく訊き返した。

「いや」

 カルヴは気弱に笑い、そばにあった椅子に深々と腰をおろした。

「先日の、リュウインの王女だがな」

「私の婚約者は姉上だけです! あんな女とは結婚しませんよ!」

 先回りして言った。

「姉上と叔母上をお助けするため、ひいてはこのパーヴの安泰のため、私のリュウイン入りはあったはずです。しかし、姉上と叔母上亡き今、私ひとり乗りこんだところで、あの国を変えられやしません。よもや、父上、私にあのイタチを退治しろとは言いますまいな?」

「あの妹のほうはどうだ? 仲がよさそうに見えたが」

「論外です!」

 エドアルは怒鳴った。

「幼くて、気まぐれで、何を考えているのか、さっぱりわかりません! 平気でとんでもないことをやらかすし、その自覚も反省もないし、好き勝手に人をふり回すし、生意気だし……」

「すまぬ。それほど嫌っておるなら、勧めはせぬ。そうだな、リュウカには賢さでも勇敢さでも劣るな。何より、容姿があれでは……」

「見かけは関係ありません!」

「毎日見る顔だぞ。あの赤イタチめにそっくりの大きな目に大きな鼻……」

「似たのは本人の罪じゃありません! それに、そっくりなのは形だけで、中身がまるで違います! 父上は、あの黒目がちな目が、何でもおもしろがってよく動くのをご覧にならなかったのですか? 話を聞いて、損得にとらわれない純粋な心を持っているのに気づかれなかったのですか? あの人は王女としては幼く教養も足りないけれど、心根は決してイタチや姉姫のように腐ってはいません!」

 父王はからかうように笑った。

「ずいぶんと買っておるのだな」

「言われのない非難は、放っておけないだけです。あんなふうでも、あの人は一応レディですからね」

「行く末が心配だな」

「私の関与するところではありません。あの人は他国の王女で、あのイタチの孫です」

「いわば、レイカとリュウカの仇だな」

「あの人は関係ありません!」

「イタチの一族は根絶やしにするのではなかったか?」

「あの人は別です!」

「たとえば、攻め入ったとき、そんな理由が通用するかな? ひとめでイタチの身内とわかる顔だ。言い逃れするヒマもあるまい」

「関係ないと言ったら関係ありません! 叔父上が厳しく部下に申し渡してくださればだいじょうぶです!」

「どうかな? アレのそばには、ほれ、レイカの元侍女たちがおるからな。ひとりの例外も認めるなとそそのかすかも知れん」

「それは、あの人の人柄を知らないからです! 知ればきっとわかってくれます! 私が直接説明しに行ったっていい!」

 カルヴは声をあげて笑った。

「何がおかしいんです! 父上!」

「あの娘は幼い。いわば白布だ。イタチは染めるのを怠ったのだな。今後次第で何色にも染まろう」

「とんでもない! あんなじゃじゃ馬! 生意気で怖いもの知らずで乱暴で、何をしでかすかわからない危ない人ですよ! 少しそばにいるだけでとばっちりを受けるんです。父上はご存じないから、そんなきれい事をおっしゃるんです!」

「そなたは、けなしたいのか褒めたいのか、どちらなのだ?」

「どちらでもありません! 父上がおかしなことをおっしゃるから!」

 カルヴはため息をついた。

「聞きなさい。この国はわしの退位後、ふたつに割れるだろう」

 とうにわかっている。

 兄のセージュは王太子だ。父王の正統な後継者である。しかし、それは王太后の強力な後押しによるものだ。

 反王太后派は自分を推すだろう。一時は勢力を弱めたものの、王太后が孫のセージュを溺愛している間に、反王太后派は回復してきている。影にはウルサもいるようだ。

 祖母は疫病神だ。

 だが、誰にも追い出すことはできない。

「姉上さえ生きていらしたら」

 エドアルはつぶやいた。

 リュウカなら、あの老女の眼に打ち勝てるに違いない。

「繰り言を言ったところで始まらぬ。国が割れぬために、諸外国につけ入るスキを与えぬために、どうすればよいか」

「それを考えるのは、父上のお役目でしょう!」

「セージュには東国の姫をとらせる。交易に勢いをつけるためにな。そなたには西か北を抑えてもらいたいのだが、北は渋るだろう。前例があるのでな」

 先王の弟に嫁いだウルサの姫は、夫殺しの末逃亡した。とは、表向きの話。

 ウルサは王太后を憎んでいる。

「では、リュウインと? しかし、父上、私ひとりで、あのイタチは抑えられませんよ。叔母上と姉上がいらっしゃれば話は別ですが」

「こちらには、レイカに仕えた侍女がおる。あちらに潜む反勢力が寄ってこよう。そなたは内側からあの国をかき乱せ。我らを攻めるヒマを与えるな」

「うまく行きそうもありませんね。あの王女が、私の言うことなどききますか?」

 婚姻など、しょせんは政略的なものだ。リュウカが死んでからは、形式的なものとわりきっている。

 あんな鬼女でもかまいやしない。目的さえかなうものなら。

「姉姫はムリだろう。しかし、妹姫はどうかな? 母親や祖父に毒されておらぬ。レイカの侍女をつけて、こちらの色に染めてしまえばよい。なに、そなたの役目は国を治めることではない。乱すことだ。跡取りを相手と定める必要はない」

 エドアルは黙った。

 イタチに思い知らせてやりたい。翻弄したら、どんなに気分がいいだろう。

 祖国のためにもなる。

 いや、むしろリュウインのためではないか? あのイタチに泣かされてきた人々と手を組むのだ。一矢報いさせてやるのだ。

 しかし、あの姫を巻きこむのか? 企みごととは無縁な、単純でまっすぐな姫を?

 いや、だいじょうぶだ。

 あまりは頭はよくないようだもの、内緒にしておくだけでいい。あとは、叔母上の侍女たちがうまくやってくれるさ。

「父上の命とあらば、喜んで」

「では、さっそく使者を立てよう」

 東の国境から、叔父が呼びよせられた。

 


「腕は上がったか?」

 国王との面会後、辺境の常勝将軍は訊ねた。

 開放した窓から心地よい風が入り、中庭の緑が目に鮮やかだった。

 熱い茶とケーキは満点のデキだった。

 こんなお茶なら、あの人も喜ぶだろうな、とエドアルは思った。

「遠方より、ご足労おかけします」

「兄上のやることはまだるっこしい。とっとと攻めて潰せばいいんだ。王も后も王女も宰相もとりまきも、まとめて首を刎ねてやるのに。空いた席へおまえを据えれば、話は簡単だ」

 大口を開けて、ケーキを放りこんだ。

 この人は宮廷向きじゃない。

 戦争をする時代でもない。

 かわいそうに。時代遅れの野蛮人なのだ。

「リリー、なくなったぞ」

 呼ぶと、ブルネットの婦人が奥から現れた。

「そんなにガツガツしたら、帰りまでもちませんよ」

「また焼けばいいだろ」

「簡単に言いますけどね。こちらじゃ材料が手に入らないんです」

「ケチケチするなよ。かわいい甥っ子に料理上手な愛妻の料理を食わせてやりたいだろ」

「殿下がおひとりで平らげてるんでしょう。第一、いつご結婚なさったんです!」

 リリー・アッシュガース。

 名門アッシュガース家の養女で、王弟の愛人におさまった女性だ。

 母よりいくらか年上のはずだが、若く見える。

 愛人だからな。せいぜい着飾って若作りしていればいいさ。

 リリーはケーキを置くと、奥に引っこんだ。

「相手の王女は、どんなだ?」

「どんなと申されましても」

「美人か?」

「イタチによく似ています」

「そりゃあ……」

 叔父は顔をしかめた。

「毎日見る顔だぞ。だいじょうぶか?」

 父と同じことを言う。

「関係ありません」

「料理は?」

「一国の王女がすることではありません」

「義姉《ねえ》さんはするだろう」

「ただの趣味です」

「では、相手の王女の趣味は?」

「存じません」

「ホレた女の趣味も知らないのか?」

「何をおっしゃいますか!」

 エドアルは怒鳴った。

「イタチの孫ですよ! 私はただ国を守るために婚約するんです! それが王族たる者の務めです!」

 皮肉だった。

 卑しい愛人などにたぶらかされ、叔父は務めを果たしていないのだ。この年にして正妻をもたないとは、なんと恥知らずか。

「形だけの夫婦なんか、ロクなもんじゃないぞ。あのバアさんがいい例だ。おかげで、おふくろも兄たちも殺された。兄上も前の后と離縁させられ、レイカは追いだされた。そのレイカだっていい例だ。嫁ぎ先で居場所をなくし、殺された」

「持論はけっこうですが、私まで巻きこまないでください」

「リュウインとの婚姻は反対なんだ。レイカの二の舞はもうごめんだ。それに、おまえは剣も下手だし」

「暴力など頼りにするものではありません。父上がおっしゃいませんでしたか? あの王女には我が国への忠誠を植えつけるのでしょう? そのために侍女をつけると」

「ホレた女と一緒になるのはいいぞ」

「ご心配なく。もしそんなご婦人が現れましたら、叔父上にならって愛人にでもします」

「生意気言うな」

 叔父の声が怒気を帯びた。

「叔母上と姉上がご無事ならよかったんです!」

 エドアルも負けじと怒鳴った。

「こんなことになったのは、どなたの責任です! 姉上をしっかりお守りしてくだされば、あの人と結婚なんか! あの人はおとなしいそこらの姫とは違うんです! 思い通りになんかなるものですか!」

 リズの顔が浮かんだ。笑ったり泣いたり、表情がくるくる変わる。

「あの人は、こんな謀《はかりごと》に向く人じゃないんです! ひどく変わっていて、手のつけられないお転婆で、わからず屋でダダっ子で、とにかく、どうしようもないんです。まったく子どもだし……」

 叔父がニヤついている。

「なんですか! 何がおかしいんですか!」

「リリー、支度してくれ。出かけるぞ」

 叔父は立ちあがった。

 去りざまに、エドアルの髪をかき回した。

 ムカついた。

 いつまでも、子ども扱いしやがって!

 冷めた茶は、悔しいことに、まだ旨かった。

 


 ガーダ公が帰還したのは、二シクルも経ってからだった。

 本来なら、一シクルの行程である。

 不都合でも生じたのだろうか?

 エドアルの胸中は穏やかでなかった。

 まさか……。

 栗色の巻き毛の美少女の顔が浮かんだ。

 あちらのほうと縁談がまとまったなんてことはないだろうな?

 先方は、アイリーン王女とのほうが乗り気だったのだ。考えられる。

「ここにいたか。今、兄上に話してきたところだ」

 中庭に面した廊下で、叔父が手をあげていた。

 その腰の辺りで、女の子がうろうろしている。

「エリザ姫!」

「アル!」

 リズが手を振った。

「どうしてこんなところに……」

 リズはにこにこと笑った。

「あなたの叔父さまって、すてきね。私、大好きだわ」

 まさか!

 不吉な予感がした。

 年若い娘が高位の老人に嫁ぐ。珍しい話ではない。

 叔父には愛人がいるが、正妻はない。王弟の元に、隣国の姫が嫁いでも……。

 目の前が真っ暗になった。

 天真爛漫な笑顔を見て、甥にやるのは惜しくなったのかも知れない。日ごろ、まんまと愛人の座におさまったやり手ババアを見馴れているのだもの、さぞかし新鮮だったろう!

 野蛮人だけど、女子どもに人気のある人だ、世間知らずの小娘ひとり、手なずけるのは造作もなかっただろう。

 そして、ジャマな甥には、残った、あの鬼のような姫を押しつけて……。

「叔父上! あなたという方は!」

「怒るな。この子を連れてくる件でもめて遅れたんだ」

「あたり前です! とんでもないことを、よくもしでかしてくれましたね!」

「アルにも見せたかったわ」

 リズが笑った。

 その笑い声までもが憎らしい。

「おねえさまの顔ときたら! 顔の半分がひきつっちゃって、お医者さままで呼んだのよ。よっぽど気に入らなかったみたい。私がいるとますます悪くなるっていうから、落ち着くまで外に出されちゃった。でも、あなたに会えてうれしいわ」

 ひきつりたいのはこっちのほうだ。

 リズがエドアルの手をとった。

「ありがとう。私を選んでくれて。早くお礼を言いたくて、おじさまに探していただいたの」

「何の礼です?」

 縁結びの礼か?

「決まってるじゃない、婚約よ」

 ほら、みろ。

「お父様はイヤな顔なさったんだけど、あなたの叔父さまと叔母さまがうまくまとめてくださったの」

「叔母なんかいません!」

「あら、ごめんなさい。みんな、奥方さまって呼んでたから」

 リズは照れたように、チラ、と赤い舌を出した。

 息が詰まった。

 鼓動が早くなる。

「みんな言ってたわ。王さまが許してくれないだけで、リリーは正真正銘の叔父さまの奥方さまだって。私もそう思うわ。それに、前の王妃さまの侍女だったっていうじゃないの! 私、たくさんお話うかがったわ。あら、アル、顔が赤いわよ。熱あるの?」

 ガーダ公が笑った。

「探しものはみつかったようだし、そろそろ退がってもよろしいかな、お姫さま」

「もう行っておしまいになるの?」

「リリーが妬くからな」

 いけしゃあしゃあと!

「まったく不誠実な人だ!」

 ガーダ公が去ると、エドアルは憤慨した。

「それって、まさか叔父さまのこと?」

「あなたも、あんな人を信用してはいけません。年上で世間馴れしているから、錯覚しているだけだ」

「誤解しているわ。叔父さまも叔母さまもすてきな方よ。はじめはイヤな人だと思ったけど。特に叔母さまは、私のこと誤解してらしたし。でも、私が先の王妃さまが好きってわかってからは、それはもうよくしてくださって。いいお友だちになったわ」

「それはよかったですね!」

 正妻と愛人が仲良しだなんて前代未聞だ。破綻するに決まってる!

「お姉さまがよくなるまで帰れないの。一緒にきた侍女がうるさい人で、イヤになっちゃう。それにお伴の近衛も、なんだか目つきの悪い人たちばっかりなの。でも、あなたと一緒にいられるのはうれしいわ。お姉さまなんか、一生治らなきゃいいわ」

「ひどい人だ!」

 エドアルは息を吐いた。

 叔父の婚約者なのに、ずっと自分と一緒にいるだと?

「血も涙もない。こんなことなら、姉君を選べばよかった!」

「まあ!」

 リズは目を丸くした。

「あなたなら、私の気持ち、わかってくれると思ったのに!」

「わかりませんね! サイテーだ! もう、あなたの顔なんか見たくもない!」

 エドアルは言い捨てて立ち去った。

 自分は不幸だと思った。

 世の中に、これほど不幸な人間は、ほかにあるまい。

 

 

   

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