東南の街にたどりついたのは翌朝だった。
「馬を休ませよう。この先は、少し眠りなさい。馬車は私が操るから」
「先生が寝ろよ」
「寝ている間に置いていかれるとでも?」
リュートはからかうように笑った。
ヒースは少しホッとした。
先生にも、余裕が出てきてる。
馬車から馬を外し、飼い葉と水をやる。
馬小屋の外は、これといって変わり映えはしない
忙しげに馬車や人が行き交うだけだ。
リュートが大きなサンドイッチとスープを運んできた。
「屋台でようすを聞いた」
「どうだった?」
大口でサンドイッチに食らいつくと、たちまちむせた。ぬるいスープで飲みくだす。
「どこかの貴族が大行列で通ったばかりだとか」
「ヤバいんじゃねぇの?」
咳きこみながら答えると、リュートは少し考えこんだ。
「街は避けたほうがいいな。どこに間者が潜むか知れぬ。飼い葉を買いこんで、静かなところでほとぼりが醒めるのを待とう。髪も染めていることだし、顔見知りでもなければ、私に気づくまい。絵姿ひとつないのが幸いしたかな」
先生って、金持ちだったんだな。
ヒースは思った。
絵姿や銅像なんか庶民にゃ縁がねぇぜ。
「絵姿といえば、変わった絵師がいたな。数えきれぬほど、母を描いた。とりあげられ、決して日の目を見ることはないのに。ただ描けることが喜びだと。母はあきれていた」
「とりあげられたのに、描いたの? 何枚も?」
「それだけ母に惹かれたのだろう。珍しいことではない。大勢に慕われ敬われる、母はそういう人だった」
「そうじゃなくてさ。オレなら、描くのをやめさせるよ。とりあげる前にさ。でも、描かせておいたんだろ? じゃ、できた描いた絵は、どうしたの」
リュートは口をつぐんだ。
唇をひき結ぶ。
「急ごう」
「どうしたの?」
「絵を間者にバラまいたとしたら。私の面は割れている」
「でも、それはかあちゃんの絵なんだろ?」
「私は母似なのだ」
飼い葉と水を買って、馬車に積みこんだ。
街を出て、草地を走った。
ヒースはため息をついた。
「この辺で追いつかれたらお終いだな。隠れるとこがねぇや」
隣でリュートが答えた。
「敵も同じだ」
「先生、こっちって、ガーダの方角だよね」
「ああ」
「先生に似たヤツらがたくさんいるとこだろ? 紛れこもうって魂胆かい?」
「あの街にはできるだけ行きたくなかったのだがな」
「また、婚約者でも住んでんの?」
リュートは少し笑った。
「伯父が」
「例の、役に立たない親戚かい?」
「迷惑はかけたくない」
「姪っ子ひとり守れないの? 先生の親戚なら、腕っぷしぐらい強いかと思ったのに」
「伯父は強いぞ。人望も厚い。気さくで陽気で、おまえに似ているかな」
「その役立たずが?」
声が裏返った。
リュートは笑い声をたてた。
「少し寝ていなさい。疲れたろう」
「先生の伯父貴は、なんで先生を助けてくれないんだい?」
「助けようとするかも知れない。そうなれば害を招くことになる。いろいろ事情があってな、私が生きていてはマズいのだ」
「立ち向かわなきゃダメだよ。だって、先生、隣の国にいられなくて、こっちに逃げてきたんだろ? なのに、敵は、また追っかけてきたんだろ? キリねぇぜ。たたきつぶさなきゃ」
「もし、争いになれば、多くの罪なき血が流れるだろう。地は荒れ、街は廃れ……。よい知恵があるなら、教えてほしいものだ」
話がデカくなってきたぞ。
ヒースはツバを飲みこんだ。
「いっそ、私がいなければ済むのだが、母は生きろと言い残したのでな。しかし、母でさえかなわなかった相手に、どうしろと?」
リュートの口元に皮肉な微笑が浮かんだ。
ヒースはなんと言えばいいのかわからなかった。
剣が強くて、頭がよくて慕われるリュートの母がかなわなかった敵。やはり強くて人望のある伯父でも、逆らえば死人が出るという。そこまでして、敵は、リュートを殺すという。
オレがどうにかできるわけないよ。
いや、そんなこと問題じゃない!
ヒースは思った。
先生のかあちゃんは死んじまった。死人には、もう、なんにもしてやれることはない。
でも、先生は生きてる! まだ、手遅れじゃないんだ!
「先生は先を読みすぎるんだよ。状況なんかコロコロ変わるんだぜ。とにかく、悪いのは先生の敵とかいうヤツ。そこンとこ、忘れんなよ」
「それはそうだが……」
「まったく、先生はオレがついてないとダメなんだから!」
「おまえは、あやつを知らないから、そんなことが言えるのだ」
「じゃあ、どんな人なの」
リュートは少し考えこんだ。
「頬にキズがあってな」
「どっちの頬に?」
「左に。横暴の限りを尽くして、被ったのはそれだけだ。誰も止めることはできない。いや、唯一止められる存在がある。しかし、それはとんでもなく愚鈍で無関心で利己的で、家族を持つ資格はなく、残虐で……」
ため息がもれた。深く、長かった。
「だのに、仇を討つなとは。母上も残酷なことをおっしゃる」
「じゃあ、なおさら、オレが要るな!」
ヒースは明るく言った。
「ひとりよりふたりのほうがいいよ。敵が強いんならなおさらさ。オレ、頑張るからさ」
「きっと、いつかは殺されるぞ」
「ほら、すぐ暗くなる! よかったな、一緒にいるのがオレで。オレときたら、歌も歌えるし、話は上手いし、剣もできる!」
リュートは苦笑した。
「始めたばかりだろう。いずれにしろ、おまえには手を汚してほしくないな」
「また、それだ」
ヒースはつまらなそうに辺りを見回した。
「じゃあ、ちょっくら寝るかな。あれ?」
後方の空が黄色に染まっていた。
「先生」
「ん?」
「空ってさ、青か赤だとばっかり思ってた。黄色くなることもあるのな」
リュートがすばやくふり向いた。
馬車が止まる。
「どうしたの? 故障?」
リュートは御者台から飛び出し、馬を外す。
「なにしてんだい」
「車は捨てる」
「だって、飼い葉は? 食い物だって、薬だって……」
「空が黄色に染まるのを見たことがある」
「不吉な前兆なの?」
「数多の馬が土埃をあげているのだ。ここで追いつかれては、逃げ場がない」
「じゃあ、先生は馬車ン中に隠れて。オレがうまくやりすごすから」
「聞いてなかったのか? たったひとり始末するために、国中の黒髪を絶やす相手だぞ」
なぶり者にされる。
あわててヒースは馬を解くのを手伝った。
「この先に、森がある」
「見えねぇよ」
「街で聞いた。馬で半日だ。そこまで走るぞ」
リュートは葦毛に飛び乗った。腹を蹴ると、風のように駆けた。
ヒースの栗毛は後に従ったが、みるみるうちに引き離された。
生来の足の差に加え、馬車をひいていたのだから、当然である。
リュートは、先へ行っては待っていた。
背後の土煙は大きくなり、しまいには黒い人馬の影さえ見えるようになった。
とても森までもたない。
「とりあえず、あそこに逃げこもう」
リュートが示す先に、小さな林が見えた。
「あんなにちっちゃいの! もっと先に行こうよ。まだ、あんな遠くなんだもの。なにもできやしないよ」
林に向かう間も、影は大きくなっていった。
栗毛の脚には力がなかった。
「緩めるな!」
「限界だよ! 馬がダメになっちまう」
「蹴れ! 射程に入る!」
「まだ離れてるよ、だいじょうぶ」
人馬の群れから、空に何かが放たれた。
大きな弧を描いて、地面に何かがつき立った。
栗毛が驚いて、後足立ちになった。
ふり落とされる!
「ヒース!」
リュートが栗毛のすぐ隣につき、手を伸べた。
「おいで!」
どうやったかは、わからない。
馬の背か腹を蹴って、ヒースは飛んだ。夢中でしがみつくと、腕が力強く体を引きあげた。
気づくと、リュートの胴にぶらさがっていた。
栗毛は道を外れ、草地に入った。
やわらかなぬかるみが脚をとらえる。第二波の矢がふり注ぎ、串刺しにされた馬は沈んでいく。
底なし沼だ!
しまいまで見ることはなかった。
葦毛は林の中に入ったのである。
リュートはようやく速度を緩め、ヒースを改めて引きあげた。初めてすわる葦毛の背は、太く、安定感があった。
葦毛が不満そうに鼻をならし、体を揺すった。
「先生、さっきの、なに?」
「弩《いしゆみ》だ。大きな弓を地面に据え、数人がかりで引き絞る。私の母も、あれでやられた」
「林に入っちゃえば、もう使えないね?」
「ここで決着をつけねばなるまい」
林を出れば、また弩で狙われる。
「狭い道だ。一度に一騎か二騎しか通れぬ。ひとつひとつ向かい討つしかあるまい。
林の中には、小さな沼が点在していた。底なし沼かも知れない。道を外れるのは危険だ。
それは敵もまた、道から外れないということだ。囲まれてハチの巣にならずに済む。
「ここからは、ひとりで行きなさい」
「オレも戦うよ!」
「おまえが乗っていては、葦毛が自由にならない。かと言って、馬なしでどうやって戦う? 先に行って、どこかに隠れていなさい」
「隠れるって、どこにさ?」
「探しなさい」
「相手から馬をぶんどりゃいいだろ。それなら……」
「未熟者が足手まといになるだけだ。おまえの腕は、よく知っている」
「でも……」
「ジャマするな!」
声は静かで、鋭かった。
林の中に蹄の音が轟いた。
「死んじゃダメだよ! オレ、ゼッタイ助けにくるから!」
ヒースは下馬し、奥へと走りだした。
逃げるんじゃない!
助ける方法を探すんだ!
道は曲がりくねり、空気は湿って、うす暗かった。
人を寄せつけないわけじゃない、とヒースは思った。
道幅から推すに、訪れる人は少ない。だが、道は締まって固く、蹄の跡も多数刻まれている。
誰か、いるかも知れない。
ふと、ヒースは思った。
風雨をしのぐ林の中では、蹄の跡が散りにくい。ずいぶん前のものかも知れないし、ついさっきついたものかも知れない。
人の声が聞こえたような気がした。
風の音か?
いや、人の声だ!
胸が高鳴った。
足を速めた。
いきなり、視界が開けた。
青い空から日差しが降り注ぎ、広場を明るく照らしていた。人々は身なりがよく、フリルだの、刺繍だのが艶やかだった。男たちは朗らかに談笑し、さながら別世界だった。
周囲の木々には馬がつながれている。
なかでも目を引いたのは、たてがみとしっぽが白い、金毛の馬だった。
ごていねいにも、槍までそばに立てかけてある。
これなら、先生を手伝える!
槍なら、棒と違わないだろう。馬上で剣は使えないが、棒なら使える!
ヒースは馬を解き、槍をつかんだ。
「賊だ! 賊が出たぞ!」
「盗人だ!」
悲鳴と怒号を後にして、道を引き返した。
リュートは曲がり角に陣どっていた。
木々が弓の攻撃を防ぎ、狭い道が敵の数を限らせた。
リュートの手には、長大な剣が握られていた。鍛えられた刀身は鈍く、刃先は鋭く光った。飢えたように急所に吸いつき、命を飲み干していく。
さばいている。
ヒースにはそう見えた。
まだ、子どものケンカのほうがマシだ。なぜって……。
目の光だ。
ヒースは思った。
先生の目には生気がない。
相手を打ち負かそうとか、生きのびたいとか、何か意志があるわけではない。ただ、機械的に屠っているだけだ。
「先生!」
叫ぶと、リュートの目に光が走った。
敵のひとりが身をひるがえした。ヒースに向けて剣を突きだした。
時の流れが緩やかに感じられた。
敵の勝ち誇ったような顔、細い剣、自分の意志とは関係なく突きだした槍、練習通りの動き、首を貫く穂先、乗り手を残して道をそれる馬。そして。
敵は道に横たわり、槍は落ちて折れていた。
血の匂いがした。
「ヒース! ヒース!」
肩を揺さぶられ、ふと気づくと、リュートが心配そうにのぞきこんでいた。
「先生、オレ……、オレ……」
敵の背中はパックリと割れていた。リュートが、力任せに剣で叩きおとしたのであろう。
「オレ……」
手を見るのが怖かった。真っ赤に血塗られているような気がした。
震えた。
リュートはその両手を握った。
「ケガはないな? おまえのおかげで助かった」
「オレ……、オレ……」
刺した感覚が残っている。肉を貫く鈍い抵抗感。入っていく穂先。見開いた敵の目。勝ち誇ったままの笑み。
怖い。
「それにしても、おまえが呼んだ援軍は……。豪勢なものよ」
リュートが苦笑した。
見ると、敵の姿はとうになく、代わりに身なりの立派な連中に囲まれているのだった。
「馬盗人め!」
偉そうな男が怒鳴った。
「タダでは済むまいぞ! そこの女! おまえも同罪だ!」
「先生、どうしよう。逃げる?」
リュートは首をふった。
「もう囲まれている」
「強行突破だよ。先生の腕なら……」
「斬れと?」
リュートが苦笑した。
ホッとした。
その目はいつも通りやさしかった。決して人斬り機械ではないのだ。
「馬から下りろ! 連行する!」
下馬すると、リュートはヒースの肩を抱いた。
「おまえが無事でよかった」
胸に熱いものがこみあげてきた。