岩に背もたれながら、ヒースはぬれた髪を手ぬぐいでかきまわした。
チラと後ろを盗み見ると、肌の白がまぶしかった
やっぱ、先生はきれいだぜ。
白い躯に流れるような黒い髪。せっかく垢を流したばかりだというのに、赤く染めてしまうのは惜しい。
オレしか知らないんだぜ。
長身には精悍さとともにそこはかとなく艶気が漂う。
言ってみりゃあ、先生もお年頃ってヤツだよなあ。乳なんて、あんなにいい形してるしさ。
いいなあ。オレも早くおとなになりてぇなあ。
ふたり並んだところを思い浮かべる。
長身の黒髪の美女と、さらに長身の金髪の剣士。金髪のほうはかなり美化されているが、本人は気にしない。
窓辺に腰かける女剣士に、竪琴を奏でてきかせる金髪の男。声は高く澄んで、女剣士はうっとりと目を閉じる。
「素振りをするのではなかったか」
空想は破られた。
目の前に、褐色の髪の美人が立っている。じょうぶでごわついた服を着て、腰には長剣を佩いている。
「もう、終わったよ。休んでたとこさ」
「ここはずいぶん眺めがいいな」
リュートは川を見やる。水浴びの場所が丸見えだ。
「いつでも見張れるようにさ」
ヒースは悪びれなかった。
「何を?」
「美女を襲う野獣とかさ」
「口の減らない」
リュートはヒースの頭に手を置いた。
「少しは練習しなさい。刃物は棒とは勝手が違うのだぞ」
「はいはい。傷つける度合いが違うから、正確に振れなきゃいけないんだろ。わかってるよ。今、練習するよ。ところでさ、先生」
「ん?」
「また、胸デカくなった?」
殴られた。
夕刻までにボグニーの街に入った。
「ねーさん、頼むよ。ここの料理が楽しみで、ムリを押して来たんだ。だからさ」
注文を打ち切った店に、ムリを言って入れてもらう。
「まず、ぶどうのワイン煮! それからぶどうの炭酸割りとぶどうのシャーベットと……」
「デザートだけかい」
おかみが渋い顔をした。
「鴨のシチューと青菜の炒め物、白パンとチーズももらえますか」
リュートが後を引き継いだ。
「先生、デザートだけでいいよ」
「好き嫌いはよくない」
「たまにはいいんだよ! 各地のデザートを食い尽くすのが、人生で二番めのテーマなんだから!」
「お客さん、注文はこれでぜんぶですね」
リュートがうなずく。
「えーっ、まだ半分しか頼んでねーよ」
「明日にしなさい」
「一期一会だぜ。明日、もしオレの身になにかあってみろよ。先生、ゼッタイ後悔するって。あのとき腹いっぱい食わせてやればよかったのにって」
「見かけねぇ顔だな。どこのもんだ」
カウンターで酒をくらっていた男がふり向いた。
「オレたち、親を亡くしたきょうだいでさ、ふたりで街から街をさすらってんのさ」
ヒースは軽口を叩いた。
店の客たちがゲラゲラ笑った。
「きょうだいだとよ」
ヒースはすばやく店内に目を走らせる。
突き指してるヤツがいるな。きれいに包帯を巻かれてる。
こっちのヤツは転んだのか頬に湿布を貼ってる。
どっちもシロウトの技ではない。
同業者アリか。この街じゃ、本業はムリだな。
「仕事を探してるんだ。手っ取り早く金になる仕事。なんかないかな」
「そっちのねえちゃんなら、いくらでもあるだろ」
客のひとりが下品に笑った。
「ダメダメ。うちの先生は愛想はねぇし、気が短くて。こないだなんか、言い寄ってきた男を川に投げこんじまった。力はあるんだ。マジメに稼げる仕事はないかな」
客たちが笑った。
「ジャジャ馬か。美人がもったいねぇ」
「言っとくけど、オレも力はあるよ。なんかないかなあ」
「ぶどう摘みの仕事ならあるかもなあ。農園あたってみな」
料理が運ばれてきた。
ヒースは片っ端からがっついた。
「それはなんだ?」
椅子の背にかけた袋を指さされる。
「竪琴」
ヒースはいっぱいに頬ばったまま答えた。
「弾けるのか」
「もちろん」
「陽気なのをやってくれや」
「タダじゃ弾かねぇよ」
ヒースは食べるほうに夢中だった。
「ふん、ガキが偉そうに」
カンに触った。
「一皿につき一曲かな。払ってくれりゃ歌うよ。言っとくけど、オレ上手いから」
「しょってやがる」
客は笑い、興じて一曲求めた。
ヒースは溶ける前にとシャーベットを飲みくだし、水で喉を整え、指を手拭きで念入りに拭くと、袋から竪琴を取りだした。
実は調弦済みである。
客を待たしちゃ、商売にマイナスだからな。
弦を弾いて音を確認すると、深く息を吐いた。
気が鎮まる。
歌いだした。
陽気な歌だった。
「なんの歌だ」
「ジャンデッカー村の祭りの歌さ。夜中までたき火を囲みながら踊るんだよ」
「あんたの生まれた村か」
「旅してると、いろいろ覚えるのさ。ティノ村の歌はどうだい? 成人の祭りで女の子を口説くときの歌は。それとも、笑い祭りの歌がいいか? ペンヘール村じゃ、ひと晩笑い続けると鬼が逃げるって言い伝えられてんのさ」
「どっちもやってくれ」
あっという間に、夕食の勘定はチャラになった。
「スピカータ村には龍の子の伝説があって、祭りンときには猫を池に放りこむんだぜ。どうなると思う? おっと、続きはお代をいただいてからだな」
「もう、肩代わりする皿はねぇだろ」
「じゃあ、おもしろ話を聞かせてくれよ。この村の祭りとか、できごととか、陽気なヤツをさ。今日はサービスだ、コインを出せとは言わないさ」
店には笑い声が響き渡った。
「愉快なヤツだな、今夜はうちに泊まれ!」
太った男がヒースの肩を抱いた。
「前の街でも誘われたっけな。そいつは夜中に笑いこけて、シャツのボタンがみんな弾けとんじまった。とたんに、おかみさんに追いだされたよ、ほうきをふりあげて」
手をふり回してみせる。
「よくも仕事を増やしやがって! ボタンを縫うのは馴れてるが、亭主の腹までは縫えないよってね。亭主は笑いすぎて、腹が裂けちまったのさ」
飲んべえたちが爆笑する。
「だから、遠慮しとくよ。また明日、よろしく」
酒の席での約束ごとなどアテにならない。ついて行ったあげく、おかみさんに嫌がられ、朝になって、亭主が一言。
『おめぇ、誰だ?』
そんな目には一度遭えば充分だ。
それに……。
「じゃ、そろそろお開きってことで。これから宿を探すよ。どっかいいとこないかな」
リュートが立ちあがると、酒飲みたちの視線が集中した。
腕が伸びるその前に立ち、ヒースはいちいち手を握り返した。
「あのねーちゃんなら、稼げるぜ」
誰かが言った。
「やめときな。逆さづりにされちまうぜ」
ヒースは笑っていなして、リュートを戸口から押しだした。
「あれぐらい言われても、私は何もしないぞ」
リュートがうす暗がりで苦笑した。
「オレがヤなの!」
あんなねぶるような目で見られてたまるか! オレの先生なんだぞ!
馬車に近寄ると、リュートがヒースを遮った。
「何者だ!」
一喝した。耳の奥がビリビリした。
「待ちましたぜ、この馬の飼い主ですかい?」
馬車のそばから、フードをかぶった男がゆらりと立ちあがった。
「いい馬ですねぇ。そっちの葦毛のほうですぜ。実にいい! 馬車引きなんかにゃもったいない。出すとこに出しゃ、それなりの値がつきますぜ。だが、このまま駄馬同様の扱いをしちゃあ、ムダに年をとるばかり。実力も引きだせやしない。物は相談だ。あたしに預けなせぇ。きっといい飼い主を見つけてやりますよ」
「失せろ」
リュートが低い声で言った。
「脅して値をあげさせようったって、そうはいきませんぜ。こちとら商売人だ。適正価格ってヤツで取引させてもらいましょ。剣に手をかけたってムダですよ。あたしも多少は心得がありましてね。飾りもんを振り回されたところで退がりませんよ」
「しつこいぞ」
ヒースは馬車を出した。
商人は馬に乗り、なおもついてくる。
「損はさせませんよ。あたしにお任せなさい。こんな機会、めったにあるもんじゃない」
「売りもんじゃねぇの! 先生が怒ると怖いぞ。早いうちに帰れ」
「ねぇ、坊ちゃんからも口添えしてくださいよ。あの馬は、あたしに会うために、この街に来たようなもんだ。なんてったって、隣の街には王子殿下がいらしてるっていうじゃありませんか。ご婚約者のお姫さまと一緒に」
「バァカ、もし、そうなら、この街だって大騒ぎになってるだろ。だまされるもんか」
「だから、あたしたちの情報網はバカにできないってんです。なんでも、お忍びなんだそうですよ。あの方たちに売ればいくらになると思います? あなたたちじゃ相手にしてもらえないでしょうが、あたしぐらいになると、いくらでもツテはあるもので」
「王子だろうとなんだろうと、売らないよ」
「あの馬がかわいそうだと思いやせんか? 名馬に生まれながらただの馬車馬で一生を終えるなんてねぇ。狩り場で先頭を切ってもおかしかないのに。立派な鞍に王子さまかなんか乗せてね。いやね、あたしは何も、坊ちゃん方の扱いがどうこう言ってんじゃないですよ。むしろ、たいしたもんだ、あんな名馬をこれだけ立派に育ててるんですからね。ただ、あの馬には一度ぐらい華々しい思いをさせてやっても悪かないと、こう思うわけですよ。そうだ! 坊ちゃん方も馬丁として王子さまに売りこんであげましょう。そうすりゃ馬と離れなくて済みますし、坊ちゃん方もラクしていい暮らしができる! そうだ! そうしましょう!」
オレよりしゃべるヤツがいやがる。
世の中、広いなあ。
「悪いこと言わないから、おとなしく引っこみな。うちの先生、気が短いから」
「年若いご婦人と坊ちゃんのふたり連れじゃ、行く先々いろいろ不都合もおありでしょう。金なんていくらあっても困るもんじゃあない。ここはどーんとあたしに任せてごらんなさい。王さまの馬番となりゃ、金も名誉も身の安全も、みぃんな手に入るんですぜ。こんないい話、ほかにありませんよ。王さまの馬番! ね? 気分いいでしょう?」
あーあ、地雷踏んじまった。
光が走った。
商人の喉元に長い刀身が当てられた。
動じなかった。そっと刀身を眺め、ご執心の馬上の主に笑い返した。
「この剣! この剣も値打ちものですな。この刃先! 手入れがよく行き届いていらっしゃいますな。いやあ、相当の達人とお見受けしました。すばらしい! 明るいところでよく拝見させてくださいよ。ご婦人にはちょいと重たすぎるんじゃありませんか? 手ごろなモノを探してきてさしあげましょう! 代わりに、これをあたしに預けちゃくれませんか。いやいや、もちろん差額はたっぷりお支払いしますとも。これなら、買い手は山ほどつきます。思いきり高値で買いとらせましょう。もしかして、王子さまご本人がお買いあげになるかも知れません。いや、しかし、これほどの剣の使い手となると、見当もつきませんな。強いて言うなら、昔、あたしが隣の国で見かけたきっぷのいいお嬢ちゃん、あの子が大きくなってりゃ、使いこなせるかも知れませんねぇ。そういえば、この馬とよく似た葦毛に乗って……」
商人は急にぎくりとして、リュートの顔に見入った。
「もしや、もしやと思いますが、ラノックの街で、ぶどう摘みの娘さんを助けた女剣士のお嬢ちゃん?」
リュートは剣をひいた。
「ヒルブルークの宝石商か」
「ああ、やっぱり! それならそうと早く言ってくださいよ!」
「先生、知り合い?」
ヒースが訊ねると、リュートはうなずいた。
「こう暗くなくちゃ、きっとひとめでわかったんですけどねぇ。あのときのお嬢ちゃんなら話が早い。貸しを返してもらえませんかね」
リュートは答えなかった。
「借りがあっちゃ、そちらも寝醒めが悪いでしょう。相手がお嬢ちゃんとあっちゃ、あたしもムリは申せません。そこで、だ。仔馬をくれるというのはどうで? ご心配なく、あたしが種つけは世話しますよ。これで貸し借りはナシだ。どうです? いい話でしょう!」
ダメだ。
葦毛が発情するのを見たことがない。
外見にはわからないが、おそらく去勢されているのだ。
なぜって?
いつでも使えるように。
先生はそうとうシビアなとこで育ったんだろう。
だが、わざわざ教えてやる義理はない。
ヒースは黙って事のなりゆきを見守った。
「あたしはね、お嬢ちゃんにもうけ話を持ってきたんですよ。何ひとつ損をさせやしませんよ。なんたって、あたしゃ、お嬢ちゃんにほれこんでるんだ。こうして再会できたことだって、うれしいんですよ。この国に逃げこめたのだって、あたしがお触れを先んじて教えてさしあげたからでしょう?」
「何に追われている?」
リュートが口を開いた。
「そちらもスネにキズ持つ身ではなかったか」
「それとこれとは……」
「己が逃れるために葦毛が要るのだろう? 預けたが最後、もどらぬことはわかっている」
「いえいえ、よもやそんなことは……」
「あいにく、この馬は私のほかは乗せない」
「またまたぁ、あきらめさせようったって……」
「先生はウソをつかねぇよ」
ヒースは口をはさんだ。
「あんたとちがってな。そいつ、オレが近づくだけでにらむんだぜ。餌だってまともに喰ってくれやしない。それより、何から逃げようってんだい? 先生は腕がたつし、相手と金によっちゃ相談にのるぜ」
用心棒でひと稼ぎできるかも。
いよいよ、オレも剣デビューか。
ようやく稽古は棒術や弓から剣に移ったところだ。実戦で試してみたい。
「向かい討てるような相手じゃございませんよ」
商人の顔に皮肉な笑いが浮かぶ。
目から愛想の色が消える。
「よもや、こんなところでかち合うとはね。お嬢ちゃん、あんたも気をつけなせぇよ。さっき、そこの店から出たヤツが、その葦毛をさんざん眺め回してどっかに消えましたがね。もしや、タレコミ屋かも知れませんぜ。酒を買う金欲しさに、そういうヤツはどこにでもいるもので。我らが祖国のお姫さまがご自由に出入りなされば、歓迎したくないお客人もうごめき出すわけで」
「隣国の間者がいると?」
「お尋ね者は注意するに越したことはないと。おやおや、また貸しを作っちまったかな」
「王子たちはどこにいる」
「一昨夜は西の街にお泊まりだったとか。今ごろはレンフィディックにもどられる途中だそうで。仲間うちでは、そういう話でしたけどねぇ」
リュートが何かを商人に放った。
「なんですか? 財布? はした金じゃゴマかされませんぜ」
商人はニヤニヤ笑いながら財布を開けた。
凍りついた。
「なんですか、これは」
「石だ。大金を運ぶのによいと言ったのは、誰だったかな」
「こんな大金、いったいどうしたんです」
「稼いだのさ」
得意そうにヒースは言った。
「あんたみたいに汚い手は使ってないぜ。まっとうな金さ。オレたち腕はいいんだ。ま、これで貸しはチャラな」
「ありがたくちょうだいしときますよ」
商人は何度も財布の重さを確かめた。
「借りができましたな。次にお目にかかったときには、きっと返しますよ。馬と剣の話もそのときに。ところで、この坊ちゃんはどうしたんで。髪が真っ白じゃないですか」
「よけいなこと訊いてんじゃねぇぜ。とっとと消えろ。でなきゃ、気が変わってそいつをとりあげちまうぜ」
暗がりでは色ははっきりしない。だが、金髪だと教えてやる筋合いもない。
「そりゃあ、たいへん」
商人はひやかすように笑い、手綱を引いた。
「次の機会まで預けときますよ、あたしの馬と剣」
馬首を変え、駆けだした。
「誰だい、ありゃ。貸し借りがどうの、馬がどうのってうるさいヤツだな」
「おまえに言われては終わりだな」
リュートは苦笑した。
「あれだけの大金、もったいねぇな。先生、気前がよすぎるよ」
「あぶく銭だ。どうせ身につかぬ。それに、あの男には借りがある」
「あの詐欺師に?」
「髪や肌を染めることも、手配が回っていることも、あの男に教えられた。今、また、あの国の者が来ているとも」
「ウソかも知れないぜ」
「あの男も私も、たぶん敵は同じなのだろう。ならったほうがいい、この街を出よう」
「来たばっかりなのに」
「おまえは来なくともよいのだぞ。いや、私と一緒のところを見られている。念のためだ。髪を染めなさい」
リュートの染料では明るすぎた。炭をまぶしてどうにか明るい栗色におさめる。
「多少の汗はいいが、あまり濡らさないようにしなさい。混ぜものをした分、ノリが悪い」
街を抜けて、南東へ向かった。王都レンフィディックとは逆の方向である。
「隣の国じゃ、黒髪は殺せってお触れが出たんだろ?」
馬車を葦毛と並べながら、ヒースは訊いた。
「そンとき逃げたのはわかる。でも、今度はなんで逃げるんだい? これじゃまるで、黒髪のお触れは、先生をねらって出されたみたいじゃねぇか」
笑い飛ばしてくれよ。
しかし、答えはなかった。
ヒースは解した。
「先生、何やったんだい? 敵って、誰だい?」
「私と一緒にいると、ロクなことがない。おまえはどこかで別れて……」
「先生のかあちゃんのことだから、どっかの悪党を敵に回しちまったんだろ? まったく親子そろって要領が悪ぃんだからな」
ヒースは終いまで言わせなかった。
「おまけに、あんな詐欺師に儲けをやるなんて。安心しな。オレの分が残ってる。きっと役に立つから」
前の街で用心棒をやり、誘われてバクチに加わった。ヒースはそこそこに当たったが、リュートは一発で大穴を当てた。
『金貨は重いな』
早々に石に替えた。
『いいか、ヒース。ざくろ石は色合いと透明度が命だ。ごらん。これは少し淡いだろう。こちらには混じりものがある』
たっぷりと石の講釈を受けた。
ヒースの稼ぎは少なかったから、現金のままとりおいた。
急ぎの旅となった今は、換金する間も惜しい。現金を手元に残したのは正解だった。