「あっ! 昨日の賤民!」
エドアルの学友の中に、知った顔があった。
「貴族でもないヤツのことを賤民って言うんだぜ。昨日、父上に教わったんだ。来るな、下品が伝染る!」
「やめないか、ヴァンストン。この方はエリザ……」
「リズよ。アルの友だちなの。文句ある?」
リズは腰に手をあてて、ヴァンストン以外の面々に笑ってみせた。
「アルの友だちなら、私の友だちだわ。あなたたちがイヤじゃなかったらね」
「寄るな、賤民。なあ、おまえたちもまっぴらだろ」
ほかの少年たちは、エドアルの表情をうかがった。
「もう! 自分のことぐらい、自分で決めなさいよ!」
リズは足を踏みならした。
「しかし、みなはあなたのことを知らないのだから……」
「失礼よ! 友だちが連れてきたレディをお茶の仲間にも入れられないの? これならフォッコの友だちのほうがマシよ! 初めて来た子だって、すぐ仲間に入れてくれるわ!」
「下々の者とはちがうんだよ」
栗色のヴァンストンがせせら笑った。
「どこの馬の骨だか……」
「大っ嫌い!」
ヴァンストンの足を踏みつけた。
悲鳴が響いた。
「この賤民がぁーっ!」
ヴァンストンがこぶしをふりあげる。
「ヴァンストン! おまえが悪い!」
エドアルが叱りつけた。
「先に侮辱したのはおまえだ。その上、あろうことか、女性に手をあげるのか? この方は私の友人だ。今後、失礼のないように!」
「はい、殿下!」
ヴァンストンは直立した。
「エリザ姫、ご無礼を。では、まいりましょう」
「リズでいいわ」
エドアルの腕に手をかけた。
「お待ち!」
聞き覚えのある声がして、リズは体をこわばらせた。
「おまえ! おまえのせいで!」
そっと見やると、明るい栗色の髪をふり乱した姉が、恐ろしい形相でやってくるところだった。
袖や襟はとれかかり、裾は破れていた。
「おまえが! おまえが!」
アイリーンがとびかかってきた。
「アイリーン姫!」
エドアルが叫んだ。
アイリーンがハッとした。
「どうされたのです。今、誰かを呼びます。おケガなどございませんか?」
「おまえ、エドアル?」
アイリーンの目が再びつりあがった。
「許さない! 私を、この私をこんな目に遭わせて!」
黒いものが降ってきた。
臭い。
高笑いが響きわたった。
「少しはきれいになったろ、このブス!」
セージュ王太子だ。
従えた少年がふたり、バケツをかまえていた。泥水を放ったのだ。
「悪党の一味は、ひとり残らず成敗してくれる!」
「兄上! おやめください!」
まっ黒になったエドアルが抗議した。
「相手はリュウインの王女ですよ!」
「だから黒髪に染めてやってんだろ!」
「あたしたち、前の王妃さまの子どもじゃないわ!」
リズは叫んだ。
セージュと目が合った。
ニヤ、とその口に笑みが浮かんだ。
「ここに逃げこんでたのか」
「逃げたんじゃないわ! おねえさまが勝手に行ったのよ! あたし、あんたなんか怖く……」
風音がした。
エドアルが間に入った。
鞭がその背に降りた。
「エリザ姫、逃げてください」
「リズよ! それより、だいじょうぶ?」
「兄は女性にも容赦はありません。早く逃げてください」
リズは、エドアルの腰から剣を抜いた。
「あんたなんか!」
セージュも腰の剣を抜いた。
乾いた音を立てて、リズの得物が折れた。木片が散る。
ヤだ。ニセ物?
「剣でオレにかなうと思ってんのか?」
髪をつかまれた。
「おまえなんか、王女じゃねぇよ! リュウインなんか、オレが滅ぼしてやる!」
ぼとりと髪の毛が落ちた。
切られたのだ。
背を蹴られた。
床に倒れた。
頭を踏まれる。
「リュウインなんか! くたばっちまえ!」
「エリザ姫!」
エドアルが上から覆いかぶさった。
「どけよっ! この弱虫め!」
しばらく蹴り続けて、セージュは飽きたのか、とりまきとともに引きあげた。
「アル、だいじょうぶ?」
「あなたこそ、おケガは?」
周りには、アイリーンの姿も、エドアルの学友たちの姿もなかった。黒く汚れた床の上で、ふたりすわりこんでいる。
「おでこをすりむいたわ。それにしても、あなた弱いのね。剣もニセ物だったし」
「暴力は嫌いなんです。あいたた……」
うめいた。
「どこが痛いの?」
「背中が……」
「骨折れた?」
「わかりません」
「殿下! 侍医を連れてきました」
ヴァンストンが塔の陰から現れた。
「そういえば」
エドアルが顔をあげた。
「なあに?」
「私たちは絶交しているのではありませんでしたっけ」
「アル、私のこと嫌いになったの?」
「あなたがおっしゃったんですよ」
「そんなこと言ったかしら?」
言ったような気もする。
「いつまでも怒ってるの、好きじゃないの。アルだって、仲直りしたいでしょ」
「あなたって方は……」
「殿下、こちらへ。お早く!」
ヴァンストンが呼んだ。
「そうね、あの弟のほうなら考えてもいいわ」
帰りの馬車の中でアイリーンが言った。
「すましたところが気に入らないけど、兄よりはマシだわ」
アルはもっと気に入らないと思うわ。
手ぬぐいを口に詰められていなければ、反論したところだ。
「今度は、こちらにお招きしましょう。弟だけね。あなたがその気になって落ちない殿方はありませんよ」
キャスリーン妃があおった。
城に帰って二シクル経ったころ、リズは国王に呼びだされた。
不吉な予感がした。
醜い失敗作の私に、何のご用かしら?
応接間に入ると、国王は顔をあげ、うんざりしたようにため息をついた。
私の顔を見ると、必ずこうだわ。
「エリザ姫、こちらはパーヴのガーダ公でいらっしゃいます」
祖父が示した先に、青い上衣を着た、栗色の髪の男がすわっていた。四十代ぐらいか、日に焼け、たくましい感じがした。
その隣に、ブルネットの髪を高く結い上げた女がすわっている。男より十は若そうだ。
「あなたがエリザ姫か」
ガーダ公は口笛を吹いた。
「こりゃあ、健康そうだ。なあ、リリー?」
隣の女に話しかける。
「まずは、ご挨拶なさったらいかが。失礼でしょう、殿下」
リリーと呼ばれた女はトゲトゲしい。
「初めまして、ガーダ公」
リズは先に挨拶した。
「初めまして、ガーダ公爵夫人」
「殿下。いつご結婚されたんですか? きちんと説明なさってください」
リリーは冷ややかに言う。
「実質的には間違ってないだろ?」
「いいえ! 王太后さまに叱られますよ!」
「バアさんに気遣う必要ないさ」
「じゃあ、そのバアさんの目の前でそう言ってごらんなさい!」
ガーダ公はため息をついた。
「エリザ姫。こちらはリリー・アッシュガース嬢だ」
愛人かしら?
「初めまして。アッシュガースさま」
「甥のエドアルは知ってるな」
挨拶もせずに、ガーダ公は切り出した。
失礼ね!
「パーヴの王子の?」
「そうだ。弱虫のエドアル王子だ」
リズは頬をふくらませた。
「アルは弱虫じゃないわ! ただ、暴力が嫌いなだけよ」
「昔っからけいこはさぼってばかりだったからな」
「アルは紳士よ!」
私をあの乱暴なお兄さんから守ってくれたもの!
「おじさまは、アルの悪口を言うために、わざわざここに来たの?」
「婚約の申し入れに」
あら。
おねえさまがたぶらかすまでもなかったのね。
ガーダ公が皮肉な笑みを浮かべた。
「オレとしては、リュウインとの婚姻は願いさげなんだがな」
「どういう意味だ」
国王アプスがうなった。
「尻の矢キズに訊いてみろ」
ガーダ公がせせら笑った。
「それとも、ここに羊頭を運ばせようか?」
「まあまあ」
宰相ランベル公が割って入った。
「両国の友好のためです」
「ぶち壊したのは、そっちでしょ!」
リリーが睨みつけた。
「おまえが、お姫さまとちい姫さまを!」
「賊のしわざでございます」
「お姫さまがお戻りになったら、タダでは済まさないからね!」
「お亡くなりになったお方は、二度と戻られませぬ」
「この赤イタチ!」
リズは吹きだした。
ぴったり!
「リリー。ケンカにきたんじゃないぞ」
「じゃあ、連れてこないでください。この顔を見て、黙っていられると思います?」
「用件は別にあるだろう。エリザ姫。うちの城で、ずいぶんやんちゃをなさったとか」
急に話をふり向けられて、リズの体はこわばった。
「だって、あれは、セージュが悪いんだわ。子分まで連れてきて、殴る蹴るだったのよ」
「エリザ姫の奔放ぶりには、我々もひどく憂慮している」
「ご心配には及びませぬ」
宰相ランベル公が慇懃に笑った。
「これからは厳しく躾けましょう。女官の数を増やし、常に貴婦人たる自覚を促します」
とばっちりだわ! 結婚するのは私じゃないのに!
「兄は、リュウインには任せておけないと考えている。こちらから女官をつけ、城から離れた静かな場所で教育したいと」
「その教育係に、アッシュガース嬢が?」
「いや、これは私のそばに」
「あたしの希望じゃありませんけどね!」
リリーは不服そうに言った。
「おまえがいてくれないと、オレが困るだろう」
「ひと声かければ、代わりはいくらでも寄ってくるでしょ、常勝将軍!」
「おまえを残してみろ。部下たちが心配して大挙してくるぞ」
「そんなの、あなたが何とかしてください」
あんまり貴婦人らしくないな、とリズは思った。
男をたてよ、引いて従えと習ったのに。
「とにかく、婚礼までに、表に出ても恥ずかしくない貴婦人になっていただきます。女官はふたり、すでにウィックロウに向かわせました」
「ウィックロウ」
宰相ランベル公の目が光った。
「ほう。では、あのおふたりか」
「条件が飲めなければ、兄は破談にすると言っている」
国王アプスは口をへの字に曲げた。
「予は脅されるのは好かん。どうして、アイリーンではいかんのだ。アイリーンなら、非の打ちどころのないレディだぞ。改めて教育の必要もない。なにも、あんな醜い娘を選ばなくてもよかろう。予も、醜い孫など見たくないわ」
あら?
おねえさまの話じゃないの?
「じゃあ、この話はナシですわ!」
リリーは椅子を蹴って立ち上がった。
「殿下、帰りましょう! こちらの王さまは、また殿下を相手に戦をなさりたいそうですわよ!」
「リリー。すわりなさい」
「それとも。今すぐ決着をつけます? こちらの王さまも、前の戦では、さぞかし武勇伝をお持ちでしょうし!」
「リリー」
「美醜で人の価値を決めるなんて! お姫さまがいらしたら、今すぐ引き倒して踏みつけるところですわ!」
「リリー!」
ガーダ公はリリーの両肩を押さえた。
「リュウイン国王アプス陛下。兄には破談と伝えておく。では、失礼」
「いや、予は、別に……」
ガーダ公はリリーを連れてドアのほうへ歩いていく。
「陛下、友好が崩れては不利になりますぞ」
宰相ランベル公が早口にささやいた。
「待ってくれ!」
国王アプスは叫んだ。
「飲む! その条件でよいから!」
「それはよかった」
ガーダ公はにこりともしなかった。
「相変わらず、余興が過ぎる」
おとうさまより偉そうだわ。
隣国の公爵の態度は奇妙に見えた。
おまけに、たかが愛人まで、おとうさまに怒鳴るなんて。
その愛人は、リズをじろじろ眺めていた。
こんな人に貴婦人のなんたるかを説教されるのはごめんだわ。いっぺん、自分を振り返ってみたらいいのよ。
「エリザ姫。ご自分の結婚にご意見はございませんの?」
リリーが訊いた。
そう言われればそうね。
少し考えた。
「セージュだったら家出するとこだけど、アルだったらいいわ。友だちだもの」
「エドアルのヤツ、前途多難だな」
ガーダ公が苦笑した。