市場は広かった。テツに連れ回された一角を抜けると、見馴れない食べ物や衣服が並んでいた。
「先生、あれ、なに?」
テツに訊かれたのと同じような織物を指さした。
「あれは壁かけだ。魔除けの力があると言われている」
「へえ。どの辺が?」
「トゲのある蔓が描かれているだろう? あれはノバラを模したもので、ノバラは魔を払うと信じられているのだ」
「ふうん。知ってたんなら、あの女に言ってやりゃあよかったのに」
「訊かれもしないのに?」
「でも、知り合いなんだろ?」
「おまえに乱暴するような知り合いはいないよ。昔は、あんなふうではなかったのに」
「あの女、オレのことをさんざん奴隷よばわりしやがって。オレのどこが……」
えもいわれぬ香りが漂ってきた。
源は、山と摘んだピンク色の果実だった。
「先生、あれ、なに?」
「桃だ」
店主に金を渡し、山からふたつ、色づいたものを選ぶ。
「さんきゅ」
産毛の生えた皮はツルリと向けた。白い果肉にかぶりつくと、たちまち甘い汁がしみだした。
「旨い! 旨いよ、これ!」
あっというまに消え去った。
口の中で、溶けてるみたいだ。
物欲しそうに種の周りをなめるヒースの前に、リュートがもうひとつを差しだした。
「先生の分だろ?」
「おまえの分だ。ひとつで足りたのか?」
「わかってるぅ」
ふたつめを平らげても、まだイケるような気がした。
「先生、オレ、やっぱ、北の人間だな」
「どうして?」
「故郷の食い物は、身にしみるっていうか、体に合うっていうか」
「ずっと南でもとれるのだぞ」
「ウソっ」
「農園でも始めるか? 山ほど食べられるぞ」
「うーん」
真剣に悩んでいると、目の前を、鎖でつながれた異人たちが通った。棒で追い立てられている。
リュートに腕をつかまれた。
「せ、先生?」
「離れないようにしなさい。どさくさに紛れてさらわれては困る」
「なに、あれ?」
声が震えた。訊ねなくてもわかる。
「奴隷だ。さらってきた者を、この国で売っているのだ」
なぜ、テツが自分を奴隷と呼んだのかわかった。
この街では異人が当たり前のように売られているのだ。
「オレのかあちゃんも、奴隷だったのかな……」
うなだれてつぶやいた。
「私の祖母は奴隷だったぞ」
リュートはさらりと言った。
「さらわれて、この国で売られたのだ。今でも、東の街ガーダへ行けば、私とそっくりの奴隷を見ることができる」
ヒースは顔をあげた。
「先生はイヤじゃないの? 自分たちが奴隷なんだよ?」
「商人もいるし、兵隊もいる。きっと、薬屋や歌い手もいるだろう。北の国の人々は、決して奴隷という種族ではないよ」
「でも……」
「私の母は奴隷の腹から産まれた。その母を私はとても誇りに思うし、母譲りの髪や顔立ちも誇りに思う。おまえの金色の髪も青い眼も、私は好きだ。どの土地でどのような扱いを受けていようとも変わらないよ」
あちまち、ヒースの顔に笑みが浮かんだ。
「先生、もっと見物しようぜ! オレ、異国のことに、がぜん興味持っちゃった!」
「離れないようにしなさい」
駆けだそうとするヒースの腕を、リュートはあわててつかみ直した。
「ここには人さらいが多いのだから……」
「じゃあ、しっかりつかんでてくれよ」
青い眼がウィンクした。
葦毛の鞍の下に、リュートは剣を隠した。
「蒸し風呂と水風呂を往復するだけだ。あまりいいものではないぞ」
「でも、それが北の国流なんだろ? せっかく来たんだから試してみなくちゃ」
公衆浴場の入口に、筋肉隆々とした大男がふたり立っていた。
中は蒸していた。客が次々に荷物をカウンターに預けている。
意味不明の言葉が辺りを飛び交う。
「なにやってんの?」
「刃物や武器は持ち込み禁止ですよ。飲酒もいけません」
カウンターの向こうから、三十すぎの男が話しかけた。赤みがかった金髪で青い眼である。
「なんで?」
ヒースが訊ねると、青い眼が流暢に答えた。
「刃傷沙汰はいけません。初めてですか?」
「ええと……」
「土地の人ですか?」
「ええと……」
「浴衣がいりますね?」
カウンターに白い袷着が積まれた。
「なに? これ」
「中で着る服だ」
リュートが口を出した。
「風呂は裸で入るものだが、わけありの者や、興味で来る観光客は、これを羽織って中に入る」
「要らねえよ」
ヒースは胸を張った。
「どうせやるなら、本場通りじゃなくっちゃ! だいたい、裸のつきあいって言うだろ! 男同士、隠すことなんか……」
「男同士ではありませんね。男も女もみな一緒です」
カウンターの男が笑った。
意味がわからずリュートを見る。
「混浴だ。私はどちらでもよいのだが……」
「そうそう、混浴といいます。浴衣、よろしいですか?」
「よろしくない!」
ヒースは真っ青になって叫んだ。
「あんたもだ! ダメに決まってんじゃん!」
蒸し風呂は木造の小屋の中だった。
大人が十人も横になったらいっぱいの広さで、床は平らではなく、階段状になっていた。奥に石で囲まれた小さな池があり、水面は泡立ち、沸きたっている。
十人ほどの先客があり、みな裸だった。
ヒースはうつむいた。
すいている上段に、リュートと並んで陣取る。
ひとりが、ヒースに話しかけた。
知らない言葉で、響きがいやに強く、一本調子だった。
リュートが何か答えた。
異人がうなずいた。
「先生、言葉がわかんの?」
「少しな」
「なんて言われたの?」
「どこの生まれかと。この国の生まれで、言葉がわからないと答えた」
別の異人が、今度はリュートに話しかけた。
「今度は、なんて?」
「間柄を訊かれた。なんと答えるべきかな」
「弟子だよ、弟子!」
でも、リュートはちゃんと自分を弟子だと言ってくれるだろうか?
「ねえ、先生。弟子って、異人の言葉でなんていうの?」
「ウルサ語では……」
奇妙な言葉が響いた。
「……というな」
ヒースは真似てみた。
「カンがいいな」
リュートは苦笑した。
「聞き取りにくい音だと思うのだが……」
ヒースは、異人に向かって言ってみた。
異人が、また何か言った。
「今度はなんて?」
「なんの弟子だ、と」
通じたらしい。
「薬屋って、なんていうの?」
教わりながら答えると、異人たちはおもしろがった。
「茹だったぁ」
しばらく言葉をやりとりしてから、ヒースは舌を出した。
「オレ、外に出てるよ、先生」
小屋から出ると、肌がひやりとした。
石風呂には、大勢が浸かっていた。温度をみようと手を入れてみる。
冷たっ!
これに、入れって?
男が数人湯船から出て、小屋に入った。
ヒースを追い越して、小屋から出た客が水風呂に沈んでいく。
うひゃあ、マジかよ。
水を足にかけてみた。
冷たい。
膝にかけ、腿にかけ、徐々に馴らしてみる。しまいには、やっと湯船に浸かった。
浴衣がふくらみ、首や袖から泡が出る。
意地でも……意地でも味わってやる!
水風呂で体が冷えると、ふたたび小屋に入った。
うわ。あっち。
水風呂のほうが、まだマシだったかな。
異人たちの顔は、みな同じに見えた。先ほど話した人物かどうか見分けがつかなかった。
リュートは同じ場所にすわっていた。膝を抱き、腕に顔をうずめていた。
「先生、気分悪い?」
ずっと、中にいたのだから。
リュートは首を振った。
「先生、ホントにだいじょうぶ? 先生?」
リュートが顔をあげた。
「先にあがっているか? 外に出ないようにしなさい」
「せっかくきたんだ、たっぷり楽しまなくちゃ。先生こそ、よく、こんなとこに長くいられるね」
「私は……」
言いかけて、リュートの目から大きな雫が落ちた。
ドキン、とした。
「先生、泣いてる?」
「少しな」
リュートはまた腕の中に顔をうずめた。
ヒースはしばらく横にいたが、暑さにたまりかねて、席を立った。
「冷えたら、すぐもどるからな」
何度か往復した後、リュートが顔をあげた。
「先にあがっていなさい」
「オレ、ジャマ?」
「のぼせてしまう。何か飲みながら待っていなさい」
脱衣所を出ると、カウンターはすいていた。ヒースは飲み物を買った。
「風呂はどうでした?」
赤みがかった金髪の男が訊ねた。入館の時に話した男のようだ。
「まあまあかな」
グレープジュースを飲む。
「冷たいね、これ」
「川で冷やしていますから」
男はにこにこと笑った。
「あんた、オレたちの言葉、うまいね」
「通訳でしたから」
「今だって、通訳じゃん」
「今はただの風呂屋です。以前は、旅人に付き添っていたのです」
「ふうん。なんでやめたの?」
「風呂屋のほうが安全で儲かりますから。盗賊にも襲われませんし、乱闘にも巻きこまれません」
「たしかに、武器はぜんぶ取りあげられるし、用心棒もいるしなあ。考えたね」
「お連れさんも通訳ですか?」
「なんで?」
「きれいな言葉を話します。段階の高い人々に対して使う言葉です」
「段階の高い人々?」
「はい。この街にもたくさんいるようですね」
「よくわかんねぇけど」
ヒースは首をひねりながら答えた。
「オレたち、流れの薬屋なんだ」
「流れの……?」
「薬屋。薬売ってんの。国中を旅しながら。わかる?」
「薬売りの旅人ですか?」
「そんなもんかなあ」
ジュースを飲み干すと、男がもう一杯おごってくれた。
「どちらのご出身ですか?」
「オレ? ずーっと南のほう」
「そちらにも、我々の仲間が住んでいるのですね」
「どうかなあ? 見たことないや」
「これから、故国に帰るのですか?」
「故国?」
「我々の大国ウルサです。我が故国」
「わかんねぇや。先生に訊かねぇと」
「あの人は、故国の人ではありません。草原の国の人です」
「草原の国?」
「あなたも、故国に帰るといいです。もう二度と国を出ようと思わなくなります。いいところです」
じゃあ、なんであんたは出てきたんだ?
と訊きかけて、脱衣所から出てきたリュートに気がついた。
「先生!」
カウンターから荷物を引き取り、リュートは早々に浴場を出た。
「先生、知ってた? あの人、通訳だったんだって」
「そうか」
「通訳より、風呂屋のほうが安全でいいって言ってたよ。儲かるとも言ってた。先生の言葉はきれいだって褒めてた。通訳かって訊かれたよ」
宿につくまでの間、ヒースは夢中でしゃべった。
あらかたしゃべると、リュートが言った。
「あまり、この国のようすは話さないようにしなさい」
「どうして?」
「今は平和だが、いつウルサが欲を出さないとも限らない。できるだけ、内情は知らせないほうがいい」
「おおげさだよ」
「おまえは、自分が思うよりたくさんのことを見てきているのだよ。口をつぐむようにしなさい」
そんなのムリだよ!
ヒースは唇を引き結んだ。
試しにやってみせようか? オレがしゃべらなかったら、どんなにヘンかって。
無言の道のりは重苦しかった。
先生が謝るまで、何日だって、何週間だって、口をきいてやるもんか!
「おまえはやさしい子だな」
宿が見えてから、リュートが口を開いた。
「何も訊ねない。ヒース、私の目は腫れているだろうか? 熱い風呂に浸かっていれば、泣いても腫れないと聞いたのだが」
自分から切り出すか?
ヒースはとまどった。
「おまえに話したことがあっただろうか、私にも先生がいてな。今日訪ねたあの元医者の父君で、すばらしい人だった」
ああ、あの、風邪で死んだとかいう……。
あの元医者を見た感じじゃ、オヤジのほうもロクな人じゃなさそうだけどな。
「もう会えないと思うと、たまらなくてな。泣きたくなったのだ」
「そのために、風呂に行ったの?」
「私と一緒にいると、ロクなことがない。疫病神だな」
リュートは苦笑した。
「足手まといの私を連れて母は死に、先生も風邪などひきこまれて亡くなった」
「先生! オレはずっと一緒にいるよ!」
無言の誓いなど、どこかに吹き飛んだ。
「薬売りの手伝いもするし、歌もいっぱい歌うよ。用心棒も一緒にやるよ、異人の言葉だって覚えるよ。そしたら、さみしくないだろ?」
「おまえは、自分の生き方を探しなさい」
リュートは金髪をなでた。
「私で足りることなら教えよう。でも、それは誰かのためではないのだよ。自分のために、身につけなさい」
「そんなの、わかんねぇよ」
「私にもわからない」
リュートはため息をつき、つぶやいた。
「だが、それが母上の遺言だったのだ」
翌朝、市場へ繰りだした。
「北でしかとれない薬草がある。そろえておきたい」
リュートの腰で大きな剣が揺れている。
「先生は人を殺したことがあるんだろ?」
ふと、訊いてみる。
前々から訊きたいと思っていた。
「初めて人を殺したときは、どんなだった?」
リュートの表情は複雑だった。驚いたようでもあり、考えこんだかと思うと、少し笑った。
「得意だったな。母にほめてもらおうと思った。その時、家の者に叱られた」
「家の者って? ばあちゃん?」
「母の友人だ」
敵を斬って意気揚々としているところを、その友人とやらにひっぱたかれたという。
『敵でも殺し屋でも関係ありません!』
友人はそう主張し、母親は反論した。
『殺らねば殺られる。我が身を守ってなにが悪い』
『相手にだって、家族もあれば友だちもおります。将来だってあったでしょう。その重みを知らないで、ただの人斬りになったら、どうしますか!』
『無用だ。一瞬の迷いが命取りになる』
『だからって、自慢することじゃありません!』
リュートは苦笑しながら話をしめくくった。
「私がただの人殺しにならなかったのは、その人のおかげだな」
「びっくりだな」
ヒースは目を丸くした。
「先生って、命を狙われてたんだ?」
リュートが一瞬身をすくめる。
「先生のかあちゃんって、そいつらに斬られたの?」
「おまえといると、よく口が滑る」
リュートは市場を見まわした。
「買い物を済ませよう。この街に長居はしたくない」
「先生は隣の国にいたんだろ? そいつらに追われて、こっちに来たの? 昨日の元医者たちって、そいつらの仲間?」
「北の国の薬草を見る機会は少ない。よく見ておきなさい」
リュートは答えようとしなかった。
薬草売りの店先で、リュートは長いこと薬売りと話した。北の国の言葉で、ヒースには退屈だった。
店の片隅に、竪琴が立てかけてあった。弦を弾いてみると、音が狂っていた。見当で、弦を調整してみる。
こんなもんかな?
試しに一曲奏でてみた。
いい感じ。
声を出した。
昔々、名もなき国に気弱な王さまおりました
気も小さければ体も小さい
間尺の足りない小さな仔馬にまたがって
小さな沼を散歩しました。
高い声が、市場の喧噪を抜けていく。
気分がいいぞ。もう一曲。
若い男女が足を止めた。子どもがふたり、母親の腕を引いてくる。
集まってきた、オレの歌を聴きに。
また一曲。
もう一曲。
歌が終わるたび、コインが飛んできた。
十数曲歌うと、気が済んだ。
人が散り、ヒースはコインを拾った。
「先生、こんなに稼いだよ」
店先で、薬売りが何か言った。
リュートが怒ったように言い返した。
薬売りがヒースを指さし、さらに言う。
しばらく言い争いが続いた。
「どうしたの、先生」
「その竪琴だ。使用分を払えというのだ」
そうか。手元を眺める。
「勝手に使っちゃったもんなぁ。いいよ、払うよ」
「その竪琴は値打ち物だというのだ。稼げたのは、そのせいだと」
よく見ると、木枠に何か彫られていた。けっこうな細工物だったのだろうか。
「冗談ではない。たいした彫り物でもないし、弦だって上等の物ではない。払えないと言ったのだ」
確かに、たいした音色じゃなかった。調弦したのオレだし。
「すると、タダで竪琴はやると言いだした。代わりに、おまえをくれと」
「ええっ!」
「その声は惜しい、失われないようにしてやるというのだ」
「どういうこと?」
「じきにおまえの声は、大人の低い声に変わってしまう。それを止めるというのだ」
オレの声が変わる?
いやだ。
「確かに、ウルサには、そういう歌い手たちがいると言う……」
「なんで教えてくれなかったんだよ! オレの声、変わってもいいのか?」
リュートは少し驚いたように、ヒースの目をのぞきこんだ。
「声だけではない。姿形もそのままだ。おまえが望むとは知らなかった。ならば、ほかの機会に……」
待てよ?
「姿形も、そのままって言った?」
リュートはうなずいた。
「多少は変わるが、子どものままだ」
「じゃあ、やめる」
「そうだと思った」
納得したように笑った。
リュートは竪琴を返し、またもや言い合いをしてから引きあげた。
「先生、ごめん。もう薬草売ってもらえなくなったね」
ヒースは並んで歩きながら、上目づかいに見上げた。
「そんなことはない」
リュートは両手に抱えた大袋を揺すった。
「要るものは買えた」
「でも、次からは売ってくれないだろ?」
「言い争ったからか?」
リュートは笑った。
「商人はしたたかなものだよ。弱気になるのがいちばんいけない。それより、稼いだ金で竪琴を買おうか」
「ホントに?」
楽器売りの店先には、見覚えのあるものから見当もつかない楽器まで大小数十がひしめきあっていた。
ひとつひとつつまびいて、ヒースは異国風の竪琴を選んだ。少し大きかったが、明るい音色が気に入った。
「大勢で集まったときに使うそうだ」
リュートが店主の話を訳してくれた。
「音が大きいだろう。子どもや恋人に語るときは、こちらの小さいほうを使うらしい」
「じゃあ、やっぱり、これがいいや」
「もっと大きいものはどうだ?」
「運べねぇだろ」
「舞台で弾いたら……」
「先生!」
金は足りなかった。
リュートが予備の弦と込みで、残りを支払った。
「後できっと払うから」
「その分、歌をきかせておくれ」
ヒースは買ったばかりの竪琴をつまびいた。
「待ちきれないのか?」
ヒースは満面に笑みをたたえてうなずいた。
「先生が最初のお客さん」
後ろで、葦毛が鼻を鳴らした。
リュートがふり向いた。
「どうしたものかな」
表情が固かった。
ヒースもふり向いた。
子どもの泣き声が響いた。
「デュール、泣かないの、デュール」
転んだ子どもを、太った女があやしていた。
「リュートちゃん、待って。ねえ、リュートちゃん!」
「先生?」
リュートの顔は引き締まっていた。凛々しいという人もあるかもしれない。
だが、ヒースにはこわばっているように見えた。
「ヒース、手当てをたのむ」
大袋を抱えたリュートを置いて、ヒースは子どもに歩み寄った。
膝がすり向けていた。汚れを消毒して、薬を塗りこんでやる。
「おばさん、こんなとこで何してんだよ」
シズカが顔をあげた。
にっこり笑い、子どもをヒースに押しつける。
「会えてよかったわ」
リュートに駆け寄った。
「うちに来ない?」
「することがたくさんありますので」
「家族一緒に暮らしましょう。ユキもね、酔ってただけなのよ。後で、一緒に暮らしたいって言ってたわ」
リュートは黙って歩いた。
ヒースは片手に竪琴を持ったまま、子どもを背負った。手を引いては、追いつけない。
「昨日市場にいたっていうから、来てみたの。異人ばかりで、怖かったわ。でも、会えてよかった。リュートちゃんが帰ってきてくれれば、ようやく家族がそろうわ」
子どもが、竪琴に手を伸ばしてくる。
「よせったら」
叱ると泣きだした。
「触らせてあげなさい。デュールはまだ赤ちゃんなんだから」
「ゼッタイダメ! これは商売道具なんだから!」
初めて、自分で稼いだ金で買ったんだ!
「いいじゃない。まだ赤ちゃんなんだから」
「ヒース」
冷ややかな声がとんだ。
「袋にしまいなさい」
「は、はいっ」
反射的に答えて、肩から下げた革のケースに竪琴を押しこんだ。
「弦をゆるめておきなさい」
そうだった。しまうときは、必ずそうしろって言われたっけ。
立ち止まって子どもをおろした。子どもは母親を追いかけた。
竪琴を出して弦を緩め、またケースにしまった。
リュートを追う途中、デュールを追い越した。
背負ってってやったほうがいいかな? 先生の名付け子だし。
いや。先生はご機嫌ななめだ。放っといたほうがいいだろう。
「……テツったら、もう奥さんきどりなのよ。正妻は私よ。お妾のクセに」
シズカはリュートにこぼしている。
「ユキもユキよ。毎日伯爵さまのご機嫌とりばっかり! 医者なんか、下々のやることだって言うのよ? 父さんが学校まで行かせてやったのに! 感謝もなにもないんだから!」
リュートは黙々と歩いている。
「だいたい、ユキは愛情がないのよ! テツのほうがちょっと若いからって! うちの実家のほうが、今のユキよりよっぽどマシよ!」
「じゃあ、実家帰れば?」
ヒースは口をはさんだ。
「冗談じゃないわ! デュールは伯爵家の血を引いているのよ!」
反論して、シズカは周囲を見まわした。
「デュールはどこ?」
「置いてきた」
シズカは悲鳴をあげて、後ろへもどった。
「ヒース」
リュートは言った。
「走るぞ」
ふたりは駆けだした。葦毛がリュートの背を押す。
走るぐらいなら、乗れ、と言わんばかりだった。
宿まで走り、ふたりは息を切らした。不満そうに、葦毛が鼻を鳴らした。
「せ、せんせ……」
息が苦しい。
「ぜ、全力で走るほど、嫌いなの?」
「かわいそうな人だ」
息を整えるのは、リュートのほうが早かった。
「話し相手がほしいのだろう」
「うざってぇな」
ヒースは笑った。
葦毛が鼻を鳴らした。
リュートが大袋をおろした。
「棒はあるか?」
「あるよ」
ヒースは腰から棍棒を引き抜いた。
「ヤバいの?」
「誰だ!」
リュートが一喝した。明瞭な堂々とした声。凛とした張りのある声。
かっくいい。
やっぱ、先生はかっくいいぜ。
「やっと帰ってきたか」
大きな男が、宿の影から現れた。
淡い茶色と、茶色がかった金髪の異人をふたり連れている。
「その馬を目印に、夕べからずいぶん探させたんだぞ。久しぶりだなあ。すっかり美人になったじゃないか」
突き出た広い額。やたらに大きな鼻。面立ちから察するに十四、五歳か。だが、体は育ち過ぎだった。
服にはムダにビラビラしたフリルがついており、昨日見た元医者のものに似ていた。
「おまえに貧乏させておくのは不憫だからな、こうしてわざわざ迎えに来てやったんだ。感謝しろよ」
「私は用心棒をやる」
リュートはヒースに言った。
「おまえは真ん中を」
「よし、任された!」
「話を聴けよ! オレはカーチャー伯爵さまのご子息に仕えてるんだ。じきにオレも貴族の仲間入りだ。そうしたら、おまえにもそれなりの暮らしをさせてやる。おまえはきれいな服でも着て、オレのご機嫌をとってりゃいいんだよ」
リュートは男など見ていなかった。
「容赦はいらぬ。存分にたたきのめせ」
「了解!」
リュートの動きは早かった。
異人の用心棒を、素手で二発。それで終わりだった。
ヒースのほうは、そうはいかなかった。
男は細剣を抜いたのだ。
振るたびにしなり、予測が難しい。
おまけに、男は目を狙って突いてくる。リーチはヒースよりもぐんと長い。
右に左にと受け流すが、キリがない。
「オレに逆らうのは、カーチャー伯爵さまに逆らうことだぞ!」
男は低い声で脅してきた。
「へえ。あんたもあの元医者のお仲間かい。貴族の寄生虫め」
「ミヤシロ家は元伯爵家だぞ! オレもゆくゆくは伯爵になる男だ、無礼は許さん!」
「あんたが貴族だってんなら、オレは王族だね! オレのかあちゃんは、隣の国のお姫さまだぜ!」
口先なら負けねぇぜ。
「ふざけんな! 奴隷の分際で! オレはリュートの許婚だ。オレに手をあげると、リュートが放っておかないぞ!」
「たたきのめせって言ったのは、そのリュート先生でね」
「あいつは昔からすなおじゃないんだ。オレに心底惚れてるクセに。嫌い嫌いも好きなうちさ」
「イヤよイヤよ、だろ」
「うるせぇ! あいつは、毎日オレんちに通ってきたんだ。日に二回は顔を合わせたもんだ。お触れが出たときだって、オレがかくまってやるって言ったのに、あいつは恥ずかしがって逃げやがってよ!」
お触れ?
「おまえが勝手に追い回してただけだろ!」
「あいつは、本当は黒髪なんだぜ。知ってるか? 肌もずっと白いんだ。日に灼けてなきゃ、すき通るみたいなんだぜ。知らないだろう!」
灼けてんじゃなくて、染めてんだよ!
ヒースが黙っていると、相手は調子にのった。
「知ってるか? 隣の国では、黒髪の女といい馬を持ってるヤツは殺せってお触れが出たんだ。オレはあいつをかくまってやれたんだ。なのに、あいつはオレに迷惑をかけないように、ひとりで逃げだしたんだ。けなげだろう? かわいい女なんだ! この街に来たのも、オレに会いたかったからなんだ! どうだ、知らなかったろう!」
この街に来たのは、オレのためなんだよ!
「許婚に手を出して、いいと思ってんのか。え?」
ムカついた。
ああ、ムカついたとも!
剣を受け流し、背中から懐に踏みこんだ。顎に頭突きを食らわす。
剣が落ちた。
おまえなんかに、武器は要らねぇよ!
素手で殴り飛ばし、蹴り飛ばした。
男は頭を抱え、泣きだしたが、ヒースは許さなかった。
気を失うまで蹴り飛ばした。
「先生、これぐらいでいいかい?」
「すぐ発つぞ」
リュートは大袋を抱えて宿の入口に向かった。
「発つのは明日の朝じゃなかった?」
ヒースは追いかけた。
「アレはしつこい。面倒はごめんだ」
宿に出発を告げ、馬車を出そうとすると、主人が目を丸くした。
「許婚だという貴族の方が、馬車とロバをお連れになりましたけど」
リュートとヒースは顔を見合わせた。
「たぶん、伯爵とやらの屋敷だろう」
「取り返しに行く?」
門に向かうと、ふたりの用心棒と貴族もどきの男の姿はなかった。
「あきらめよう」
リュートは首を振った。
「えーっ。もったいねぇよ。あれだけの道具を揃え直すのって、たいへんじゃねぇ?」
「ぐずぐずしていると、いっそう大勢でやってくるぞ」
「先生の腕なら平気だろ。だいたいさあ、あの偉そうなヤツ、すっげぇムカつくんだよな。今度は、先生がちゃっちゃと……」
「殺めるか?」
リュートの目が冷たく光った。
ヒースの背筋に冷たいものが走った。
「次は、耐えられるか定かではない」
カタカタと、何かが鳴っていた。
リュートが手を置いた剣の、柄が小刻みに震えているのだ。
「怖いの?」
「アレは約束を破った」
リュートはゆっくりと言った。
「私を見たと触れ回った。そのために先生は……」
急に、テツの言葉がよみがえった。
『村長があんたを追っかけたんだよ。トビ坊ちゃんが、村に戻ってきたって言うもんでね。矢でハチの巣にしたけど、川に流されて死体を回収できなかったって、悔しがってたよ』
シズカもこう言っていなかったか?
『村長のところのトビが、あなたをお義父さまのところで見かけたって言うもんだから、村長がやってきて、たいへんだったのよ』
あの男が、そのトビとやらだ。約束を破って、先生を見たと言ったんだ。それで、先生も、先生の先生もツラい目にあって……。
まだ、柄が鳴っていた。
先生は、怒ってるんだ。ぶっ殺したいほど、あいつを憎んでるんだ。
「先生、あいつを斬りに行こう!」
リュートの手を引いた。
「復讐しよう! あんなヤツ、生かしちゃおけない! ね?」
リュートは首を振った。
「母上もマムも喜ばぬ。感情に任せて斬れば、ただの人殺しになりさがる」
もう一度首を振った。
「発とう」
街を出る前に、栗毛の馬を一頭買った。
薬の大袋とわずかな携帯品に二頭の馬。それがふたりの全財産だった。
「私といるとロクなことがない」
街の門を出ると、リュートは苦笑した。
「心配するなよ」
ヒースは肩にかけた革のケースを軽く上げて見せた。
「オレの美声で稼いでやるって。先生は運がいいな。オレが道連れで」
「ねえ、先生、怒ってない?」
その夜、野宿しながらヒースは訊ねた。
川魚をたき火であぶり、煙が目にしみた。
「オレが北へ行こうって言ったから、あんなヤツらに会ったんだって思ってない?」
「バカな」
リュートは笑った。
「あの街には、前にも行ったことがある。今までは運がよかっただけだな」
「あいつら、先生の家族だって言ってたね。ホント? あ、許婚はウソだってわかってるよ。いくらんでも、あそこまで趣味悪くないだろ」
「母が死んでから、しばらく厄介になったのだ。感謝すべきだろうな」
「先生のかあちゃんの親戚か何か?」
「いや」
「先生のかあちゃんって、どんな人だったの?」
「やさしい人だった」
リュートの口元が和んだ。
「賢く、勇敢で、とてもやさしい母だった」
黙った。
「どうしたの?」
気づいた。
「もしかして、オレに気ぃつかってる? かあちゃんのこと知らないから。いいんだよ。先生のかあちゃんのこと聞きたいんだ」
「だが……」
「先生のかあちゃんって、きれいだったんだろ? 前に、先生に似てるって言ったよね?」
「母のほうがきれいだった。祖母ゆずりだとか」
「奴隷だったっていう?」
リュートはうなずいた。
「決してこの国の言葉はしゃべらなかったそうだ。色目を使い、次々に男をたらしこんだと」
ヒースは口笛を吹いた。
「やるぅ」
「母には反面教師になった。まじめな人で、仕事をするかたわら、私にたくさんのことを教えてくれた。おまえの命が助かったのも、母のおかげなのだよ」
「なんで?」
「手術の現場にずいぶん連れていかれたからね。虫垂炎の手術も、幾度も見た」
「先生のかあちゃんって、医者だったの?」
「いや」
「じゃあ、とうちゃんが……」
空気がビリリと震えた。
「いや」
しまった。
地雷踏んだみたいだ。
「きょうだいはいないの?」
しまったぁ!
弟がいることは内緒だった。
「あ、えっと、し、親戚とか、友だちとか……」
リュートは少し笑った。
「いとこがいたな。夏によると遊びに行った。同い年の生意気ないとこがいてな、いつも泣かしては母上に叱られた」
「なんで? どうせいとこのようが悪かったんだろ?」
「弱い者いじめはするなと」
「じゃあ、かあちゃんの友だちにも怒られた?」
「もっとやれとふっかけられた」
ふたりは笑った。
「先生は、そのいとこのうちには行かなかったの? かあちゃんが、その……いなくなってから」
「伯父上には、私を守る力がない」
「どうして命を狙われてるの?」
リュートは少し考えた。
「定めだ。生まれ落ちた時から決まっていた。私さえいなければ母上も……」
「ちがうだろ。先生たちをつけ狙ってるヤツらがいちばん悪い!」
ヒースは魚をリュートに手渡した。
「熱いから気をつけて。今にみてなって。オレがそのうちこてんぱんにやっつけてやるから。どんどん強くなるぞ!」
「おまえには、平和に竪琴を鳴らしていてもらいたいんだがな」
リュートは魚に歯をたてた。
「先生は運がいい。オレが一緒なら、歌は聴けるし、薬屋も繁盛するし、仇討ちだってできる」
「私といてもロクなことはないぞ」
「うん、そうさ。でも、ふたり合わせたら、少しはマシなるだろ?」
熱っ。とリュートは口を引いた。
「気をつけてって言ったろう! あー、もう先生はオレがいなくちゃダメなんだから!」
リュートは水を飲んだ。
「この程度でダメなら、おまえはどうなのだ?」
うっ。
リュートは笑った。
「今に、先生より強くなってみせるからな」
ヒースはムキになって言い返した。
「頼れる弟子になってやる!」
「では、早く食べて寝なさい。明日の稽古は厳しくするから」
「げっ」
リュートはまた笑った。
先生が笑うんなら、いいや。
ヒースは思った。
笑ってくれるんなら、一緒にいるのも悪くない。