馬車は北へ向かった。
「また来やがった」
村に入ると、子どもたちが石を投げた。
「伏せていなさい」
荷台にヒースが非難すると、リュートは棒で器用に石を打ち返した。
すげぇ。
石は子どもたちの足下に落ち、ひるんだところを葦毛の馬がいなないて威嚇した。
子どもたちが逃げ、馬車は進み始めた。
「いっそ、あの馬に車を引かせて、勢いよく逃げたほうがよかったんじゃねぇの?」
馬車から顔を出すと、リュートは笑った。
「葦毛に引かせろと? それより、ケガはないか?」
「うん。なんなんだい、あいつら」
「薬屋など、このようなものだ」
リュートは多くを語らなかった。
水場でロバと馬に水をやり、自らの埃を洗っていると、村人が寄ってきた。
「キズ薬はあるかい?」
「痛み止め、よく効いたよ。また欲しいんだけどね」
彼らの腕には、魚の干物や野菜が抱えられていた。
「金になんねぇなぁ」
ヒースはため息をついた。
「頭が痛いだの、ケツが痛いだの、不景気な話ばっかりだし」
「弟子などやめてもいいぞ」
「いいや」
きっぱりと言った。
「オレはあんたと北へ行く。離れないからな!」
ヒースができることはほとんどなかった。
「薬なんて、簡単だよ! そのしわくちゃの葉をすりつぶして、混ぜりゃあいいんだろ!」
道中、リュートの作業を見ていたにも関わらず、いざとなると葉と葉の区別がつかないのだった。
「馬の餌なんて、簡単だって!」
馬にはやってはいけない毒草があるのだと初めて知った。見分けなど、まだつかない。
「メシの仕度なら、任せろって!」
焦げた魚や生煮えの野菜が並んだ。
「あんたさぁ、今度は、オレがついてくるとロクなことがないって言わねぇよな?」
あわてて先手を打った。
「弟子がいて、よかったと思うよな? ここまで連れてきたんだから、責任とるよな?」
もう、絶対もどらないぞ!
決意をこめて訊ねると、リュートが薄く笑った。
「なんだよ! 朝、こっそり置いて出ようなんて、ダメだからな!」
「よくしゃべる」
ため息をついた。
「昔を思い出しただけだ。私も母の前では、そんな顔をしていたのかな」
「そうだよ! そうに決まってる! だから、オレを連れてけよ? な? な?」
「黙って置き去りにはしない。約束しよう」
生煮えの野菜を煮直しながら、リュートはつぶやいた。
「私といても、ロクなことはないのだがな」
翌日から、ヒースは名誉挽回のため、村の女たちに声をかけた。
「煮炊きの仕方、教えてくんない? 先生にうまいもん食わしてやりてぇんだ」
薬屋の弟子、という肩書きがついただけで、女たちの態度は好意的だった。
「薬屋さんは働き者だからね」
症状によっては毎日ようすを見に来て、家事を手伝うこともあるという。
「やりすぎだよ」
その日の夕方、弟子は師に言った。
「休めばよくなるものを、休めないとなれば気の毒だろう」
やや煮崩れした野菜をつつきながら、リュートは答えた。
「でもさ、そんなんじゃ、体がもたねぇぜ」
「じょうぶだけが取り柄だからな」
「そう言えば、村の入口で石を投げたヤツら、バアちゃんが死んだの、あんたのせいだって言ってるんだってな」
「耳が早い」
「生き返らせる薬って、ないの? いっぱしの薬屋なら惚れ薬や呪いの薬ぐらい持ってるはずなのにって、村の人がぼやいてたぜ」
「それはまじない薬だ」
「それのほうが、あんたの薬より上ってこと?」
リュートは苦笑した。
「だんだんに教えよう」
「待てねぇよ! 惚れ薬ぐらいあるんだろう? 出してくれよ」
「そんなもの、どうする」
「あんたに飲ませる」
リュートは吹きだした。
「いい案だろ?」
ヒースは得意げに言った。
「そして、馬や馬車のことや、薬草や野宿のこととか、いろいろ教えさせる!」
「今と変わりなかろう」
「そうか? 少なくとも、あんたはしかめっ面しなくなるぜ。いっつもここンとこに……」
眉の間に指を立ててみせる。
「シワ立てて難しい顔してんだから」
リュートは微笑んだ。
次の村では、農場で働いた。
「この村には薬屋がある。土地の者をないがしろにして商売はできない」
最初に、現場監督の前でテストがあった。
ヒースは手押し車ひとつ扱えなかった。
「こいつは使えねぇな。ねーちゃんだけ採用だ」
リュートには三段ベッドの上段があてがわれ、ふたりはそこで寝た。馬車は農場に預け、預かり賃を毎日引かれた。食事はいつもひとり分だけがまかなわれた。
「足手まといになりたくねぇ。仕事教えてくれよ」
仕事を終えたリュートに言うと、腰を叩かれた。
「痛みはひいたか?」
手押し車を押した翌日、筋肉痛になったのだ。
「オレよか小さいのが働いてんだぜ? オレだって……」
「まずは体力をつけることだ。この細腕でなにができる?」
「器用だぜ! 足だって速いし、オレだって、ごくつぶしってわけじゃ……」
ごくつぶしのヘデロ。
親方の声が背から追ってくるような気がする。
テメェなんざ、母親からも捨てられたクズよ。誰がテメェなんか……。
「役立たずじゃねぇよ、オレ、その気になればなんだって……」
長い腕が伸びて、抱きよせられた。髪がぐしゃぐしゃにかき回される。
「母上の気持ちがわかるな。ヒース。できることからしなさい。焦っても実りはない。足下から固めていきなさい」
間近から聞く声は体ごしに伝わってくるようで、ヒースは好きだった。
翌日から、飯炊き女たちの手伝いを始めた。賃金が出るわけではなかった。
「ねえさんたちのそばにいちゃダメ? 死んだかあちゃんを思いだすんだ」
人なつっこい笑顔を浮かべてみせて、水汲みやふいご吹きにありついた。
「たいした役者だな」
師には見えすいていたが、炊事場では好評だった。
「うちの子も、あんたぐらいすなおでかわいげがあったらね」
毎日のようにおやつをせしめてきた。その半分をいつも残して、夜になると師に見せびらかした。
「芝居小屋に宗旨がえしたらどうだ」
相伴に預かりながら、師の声はまじめだった。ヒースはあわてた。
「商売にだって、愛想はいるだろ! だいたい、こんなの、薬屋になる足がかりで……」
「どうも、おまえの素質をつぶしている気がする」
リュートは苦笑した。
次に訪れたのは、にぎやかな街だった。市場には肉や野菜だけではなく、見慣れない物品が並ぶ。
「バンクの街にも店は山ほどあったけど、こんなにいろいろはなかったな」
ヒースは珍しげに店先を物色した。
「ここは交通の要所だ、湯治の街とは違う」
「商人があっちこっちから来てるってこと?」
リュートがうなずく。
「じゃあ、オレと同じ髪のヤツらもいるかな?」
「いや。もっと北へ行かなければ」
ヒースは胸をなでおろし、勢いづいた。
「やっぱり、北につれていってもらわなくちゃな!」
郊外に木賃宿を借り、大勢に混じって雑魚寝をし、大勢に混じって煮炊きをした。馬車を守るのは葦毛の役目で、煮炊きや洗濯はヒースの仕事だった。
同宿となった歌い手がヒースを弟子に欲しがった。
「歌はいっぺんで覚えるし、楽器を覚えるのも早い。なにより、いい声をしている。これぐらいで譲ってくれないかね」
高値を示されて、リュートは弟子を見た。
「領主さまや大富豪のお屋敷に泊まって、見たこともないようなごちそうがいただけるぞ。美しい奥方やかわいらしいお嬢さま方にほめられて、懐は金貨でいっぱいになるぞ。珍しい黄色い髪は、評判にもなる。どうだ、私と来ないか」
「ヤだよ」
にべもなかった。
「たとえ、王さまにしてくれるって言ってもヤだ。オレはこの人と北へ行くんだ」
歌い手はそれでもあきらめきれなかったらしく、毎日、暇さえあればヒースに歌を教えこんだ。
「せっかくの素質を。私といてもロクなことはないのに」
リュートはため息をつきながら、毎日ヒースの歌を聴いた。
「街頭で歌おうかな」
歌い手が旅立つと、ヒースは言った。
「けっこう稼げるかもよ」
「長いこと聴かせてもらった礼をしよう。外で食事にしないか?」
休みの夕刻、リュートは弟子を連れだした。
「あんたに食わせてもらっちゃイミねぇよ。うちの収入を増やさなきゃ」
「では、薬を覚えなさい。本業はどっちだった?」
西明かり時の通りは人でごった返していた。
リュートは弟子の二の腕をしっかり握って離さなかった。
街頭には楽器の音や歌声が響いていた。
ちぇっ。オレのほうが上手いや。
ひきずられてたどり着いた先は、大きな料理店だった。
ボーイが、ふたりを奥に案内すると、近くの席で食事中の若い男ふたりがあいさつした。
「姐御、いらっしゃい」
姐御!
席に着くと、ヒースはささやいた。
「あんた、いくつだって言ってんだい?」
どうみても、男たちのほうが年上だ。
「二十二だ」
「にじゅ……!」
「こんな稼業では、誰でも多少つくろう」
「つくろいすぎ!」
「そいつが例の弟分かい?」
離れた席から若い男が話しかけた。
「弟子!」
即座にヒースは言い返した。
男たちが陽気に笑った。
「いつも、ここで何言ってんだい?」
「名物は牛のステーキだ。食べてみるか?」
リュートはにこやかに笑いかけた。
「ステーキって?」
「厚切り肉を焼いたものだ」
「なぁんだ。豪勢に丸ごと焼いてくれよ」
「子どもにはデカすぎるぜ」
若い男が笑った。
「残ったら片づけてやろうか?」
「一頭丸ごと食ってやる!」
ヒースは声を荒あげた。
「頼んでくれ! 牛一頭分だ!」
リュートは指をヒースの唇にあてた。
「ひと切れ食べてもまだ空腹だったら、一頭でも二頭でも頼むがいい」
切り身が運ばれてきた。大人のてのひらのみっつ分の厚みはあった。
「豪遊してるって気分だぜ!」
半ば飽きながらうそぶくと、
「やはり、一頭のほうがよかったかな」
リュートはすましてこたえた。
「オレは二十頭でも、三十頭でもかまわねぇけど、店がつぶれちまうからカンベンしてやらぁ。で、ここには、これしか旨いもんはねぇの?」
「オレンジのシロップ煮はどうだ? いい味だぞ」
「あ、きったねぇ。今まで内緒で食ってやがったな?」
「賄いつきは、料理屋で働く利点だな」
オレンジのシロップ煮は、生のオレンジとはひと味違う旨さだった。
「オレもここで働こうかなぁ。毎日、これが食えんなら」
「気に入ったなら、また連れてこよう」
やにわに、若い男たちの目つきが険しくなった。
その視線の先で、ガラの悪い連中が店員を取り囲んでいた。
「この店じゃ、ネズミを食わせんのか?」
スープの皿に、小さな獣が見えた。
ヒースはスプーンを止めた。
気分悪ぃ。
メシん中に、ンなもんぶっこむなよ。
連中は店員をつきとばし、椅子やテーブルに手をかけた。
ヒースのそばで、若い男たちが立ちあがった。連中に近寄り、連れだって店を出た。
「なんだ、あれ」
「店の護衛だ」
「用心棒ってヤツね」
まったく、気分ぶちこわしだぜ。
「おかわり」
「今度は農園ひとつ分を食いつくすつもりか」
からかうリュートの目は笑っていなかった。
「姐御……」
ほどなく、裏口から若い男がひとり戻ってきた。
額は割れ、血が流れていた。
「ティブのヤツが……」
リュートはうなずくと、たちまち裏口へと消えた。
「だらしねぇなぁ」
ヒースは店員を呼んで道具をそろえ、応急手当てをした。
「こりゃあ、縫わなきゃダメだな。あの人が帰ってくるまで、押さえとけ」
腹の打撲もひどかった。
男はひとしきり吐くと、ぐったり横になった。
「姐御なら、きっとなんとかしてくれる」
「もうひとりのほう、もっとキズが深いのかい?」
「ヤツら、思ったより腕が立つんだ。でも、姐御なら」
イヤな予感がした。
「あの人、治療しに行ったんじゃねぇの?」
「のしに……」
「女だぞ! 年下の! 大の男が恥ずかしくないのか!」
ヒースは裏口から飛びだした。
うす暗く狭い路地。
ガタイのいい男たちが数人、おかしな恰好で倒れていた。
「ヒース、手当ての用意を頼む」
壁ぎわに、女の姿を見つけた。
「あんた、ケガしたのかい?」
「私ではない」
リュートは、若い男の止血をしていた。
「それから、中に伝えてくれ。片づいたから来るように」
ガラの悪い連中は捕縛され、役人に引き渡された。
用心棒たちはキズを縫われた。
「しばらく熱が出るから、これ飲んどきな」
ヒースが熱冷ましを持っていくと、ふたりは笑った。
「本業が薬屋だったとはなあ! で、年はいくつなんだい? 年下なんだって?」
宿にもどってから、ヒースはリュートに訊ねた。
「あんた、あの料理屋でなんの仕事してるんだい?」
「休みが台なしになってしまった。すまない」
「訊いてんだぜ、答えろ!」
リュートは少し笑った。
「わかってんのに訊くなって顔だな」
「おまえは、よく目の色を読む」
「あんた、女なんだぜ? まだ子どもなんだぜ? ケガでもしたら、どうすんだ! あいつら、かなりの腕だったって言うじゃねぇか! そんなの三人も相手にして、十四の女の子が無事でいられるわけが……」
言葉を飲みこんだ。
無事だ。かすりキズひとつない。
剣も抜かず、さやで急所を一発。神業のようだった、と用心棒は言っていた。
いったい……。
ヒースは考えこんだ。
「私が何者か訊きたいのか?」
リュートは疲れたように視線を外した。
「いいよ、そんなこと」
ヒースは手を振った。
「どうせ、言いたくないんだろ。それより、オレに剣を教えてくれよ」
「守ってやるから、女は黙って引っこんでいろと?」
「あんたを見て、そういうこと言うヤツはバカだよ」
ヒースはちゃっかり自分を棚にあげた。
「オレ、わかっちまったんだ。街頭で歌うのに、あんたが気乗りしない理由。ああいう連中にインネンつけられるからだろ?」
「だから腕っぷしを鍛えようと? くだらない。その間、学校にでも入ったらどうだ。街頭ではなく劇場を目指したらいい」
「学校なんて、そんな金、どこにあんだよ」
「働きながら通えばいい。薬の知識を身につけて、街の薬屋で……」
「薬屋にもなるし、歌い手にもなるし、剣士にもなる。あんたといると、忙しいぜ。さて、けいこつけてくれよ、先生」
リュートは腰から剣を外した。
大人が持つにも大きすぎる剣で、分厚い革のさやにおさまっていた。
両手に持ち、ゆっくりと引き抜いた。
刃が鈍く光った。それは、窓からさしこむ陽光とは異質のものだった。
汗が噴きだし、手のひらがぬるぬるするのをヒースは覚えた。
「母の形見だ」
リュートは切っ先を天井に向けた。
また、刃が光った。
耐えきれず、ヒースは目を伏せた。
「し、しまって!」
声が裏返った。
リュートは悠然と剣をおさめた。
「な、馴れれば、オレだって」
声が震えた。指先も震えていた。
「人を殺めたことはあるか?」
平然とした口調だった。
ヒースは首を振った。
「これは、殺めるための剣だ」
そうだろう。人間なんか背骨ごとすっぱり……。
想像して吐き気がした。
「あきらめなさい。向いていない」
「それじゃっ!」
ヒースは目をあげた。
「そうじゃない剣もあるってことだよな? あんただって、今日の連中を殺さなかったじゃないか!」
「急所をついただけだ。医学の知識があれば……」
「相手は動いてんだぜ! 知識だけで当たるかよ! 最初はそれでいいよ! 包丁だって、ナタだって、最初はおっかないけど、だんだんなんでもなくなるだろ? 剣だって、馴れだよ! あんただって、産まれた時から名剣士じゃなかったんだろ? オレにだって、時間は要るよ!」
リュートはため息をついた。
「そうとなれば、練習、練習! 棒を探してくるよ!」
ヒースは、その腕を叩いて飛びだした。
あれ、飾りじゃなかったんだ。
思いだすだけで背筋が凍った。
でも、いいや、あの人が持ってんなら。
刃物には魔物がとりつくって言うけど、あの人ならやっつけちまいそうな気がする。
薪割り場で、できるだけ長い枝を見つけて引き返す。
「持ってきたよ、先生。けいこ頼むよ」
「なあ、先生。北のヤツらって、すぐ見つかるかなあ」
ヒースは空をあおいだ。
「そればかりだな」
濡れた髪をタオルで拭きながら、リュートはたき火を片づけた。
「早く仕度をしなさい。昼にはノードリックの街に着く」
「うん……」
馬車に乗ると、ヒースはうなだれた。
「気分が悪いのか? 荷台で横になっていなさい」
ヒースは御者台から動かなかった。
「先生、オレ考えたんだけどさ」
「ん?」
「ヒースって、見てみると、たいそうな花じゃないのな。植え込みぐらいでしか見かけねぇ地味な木だし、花も小さくて地味だし、白くもなくて、先生が言ってた緑と白で一面が埋まってる風景なんか、どこにもねぇや」
「確かに、この辺では赤や紫しか見かけないな」
「先生、実は、弟の名前、オレにつけたろ? ヘンだと思ったんだ。オレに花なんか似あうわけねぇし」
リュートは苦笑した。
「口を滑らせてしまったな。弟のことは忘れてくれ」
「へえ」
ヒースは少し笑った。
「じゃあ、内緒にしといてやるよ。これ、貸しな」
「そういえば、昔、知人の子に弟の名をつけたことがあったな。だが、おまえの名は違う。ヒース野原は……」
リュートの目が遠くなる。
「先生?」
「うん。とても好きだった。その風景が、とても好きだった」
ヒースは横を向いた。
くそっ。やたら顔が熱いぜ。
荒れ地が畑になり、昼にはノードリックの街に着いた。
「ごらん」
入城の順番待ちをしている商人たちが並んでいた。その頭髪は金色に輝いていた。
「まだ見ない!」
ヒースは目を固くつぶった。
「オレは街の中で、市場で見るんだ!」
街に入ると、宿を見つけ、馬車を預けた。葦毛は当然にようについてきた。
ヒースは用心深く足下を見て歩いた。
風が起きて、ヒースは転んだ。誰かが走ってきてぶつかったのだ。
その証拠にほら、目の前には金髪の子どもが……。
凍りついた。
リュートが声をかけ、子どもを助け起こした。子どもは礼らしきことを言い、笑って走り去った。
「どこか打ったか?」
リュートの声が頭上から降ってきた。それは、宣告のように聞こえた。
ああ、もうダメだ。
「すわりこんでいると危ない。立てるか?」
ヒースの目は涙でいっぱいだった。
「いい馬だねぇ。いくら?」
ふいに、女が声をかけてきた。二十代半ばで、スカートが巨大にふくらんだドレスを着ている。
「売り物ではない」
リュウカはふり向きもせず答えた。ヒースに手をさし伸べる。
「お売りよ。高く買ってやるよ。あたしは貴族だからね。なんなら、そっちの子も一緒に買おうか」
ヒースの頬が熱くなった。視界がかすんだ。
リュートはハンカチでヒースの頬を拭いた。
「どちらも私の大事な連れだ。手放すつもりはない」
「ホンロに?」
ヒースは上目づかいに訊ねた。
でも、北に来ちゃったよ? オレと同じようなヤツら見ちゃったよ?
もう、ふたりをつなぐ約束はないのだ。
「鼻をかんで、さっさと立ちなさい。轢かれたらどうする」
まなざしはやさしく、背中に回る手が温かい。
立ち上がって鼻をかんでいると、女が大声で叫んだ。
「あたしは、カーチャー伯爵さまにお仕えする貴族だよ! カーチャー伯爵さまといったら、国王陛下の覚えもめでたい大貴族さまだ。この辺で商売しようってんなら、くれぐれも機嫌とっておくことだね!」
「るせぇな! 貴族だろうとなんだろうと、うちの先生に指図するな!」
ヒースは怒鳴り返した。
「おや、言葉がわかるのかい。悪いこと言わないよ、手放しちまったほうがいいよ。主人の秘密に鼻をつっこんで、外にベラベラ言いふらすに決まってんだから」
親身そうに話しかけ、とつぜん、女はぎくりとリュートの顔をのぞきこんだ。
「もしや、あんた……。やっぱり、リュートだ! 髪の色が違うんで、わかんなかったよ」
女は笑いだした。
「あたしだよ、テツ! フジノキ村の、ほら、ヒナタさまンとこで、一緒にメントルさまご夫妻を接待したじゃないか」
リュートの腕をとって振り回す。
「大きくなったねぇ! そうか、あの葦毛なら、売るはずないねぇ。ああ、おかしい」
リュートは表情を変えなかった。
「どうして、ここに?」
「聞きたいのはこっちだよ。よくも無事だったねぇ。村長があんたを追っかけたんだよ。トビ坊ちゃんが、村に戻ってきたって言うもんでね。矢でハチの巣にしたけど、川に流されて死体を回収できなかったって、悔しがってたよ」
「覚えがありません」
「じゃあ、お得意のホラ話かい。見栄っ張りだからねぇ」
「先生はお元気でしょうか」
「先生って、どっち? ああ、年寄りのほうね。死んだよ。あんたがいなくなってすぐ。もう年だったからね、風邪をひいたと思ったらぽっくりさ」
リュートはヒースを引き起こした。
「うちに寄りなよ。うちの人もきっと喜ぶ」
「所帯を持たれたのですか。お祝いを申しあげます」
「その前に、買い物つきあいなよ。荷物持ちがいてくれると助かるね」
テツは馴れたふうに市場を歩いた。
肉や野菜をねぎっては、ヒースの両腕に載せた。
「ああ、そうだ。いつも気になってたんだ」
雑貨屋の店先で、テツは立ち止まった。
「あれ、なんだい?」
オレ? オレに訊いてんの?
テツの顔を見返し、ヒースはとまどった。
見慣れない品物ばかりだ。むろん、指さされた織物がなにか、見当もつかない。
「じゃ、訊いてみな」
店主のほうに顎をしゃくる。淡い茶髪の男が青い眼を向ける。
北の異人だ。
「なんでオレが」
「生意気だね!」
テツが手をあげた。
その手を、リュートは静かに押さえた。
「私の連れだ」
「じゃあ、少しは態度ってものを教えてやりな!」
テツは手をおろした。
「まだ買い物はあるんだからね!」
リュートとヒースの腕をいっぱいにして、買い物は終わった。
荷馬車に荷をおろすと、テツは御者台にすわった。
「乗りな」
「いや、私たちは」
「じゃあ、誰が荷をおろすんだい?」
ヒースは口をへの字に曲げた。
オレたちの知ったことか。
「ゆっくり話もしたいしね。あんたは昔から融通がきかなくていけないよ。年上の言うことはすなおにきくもんだ」
「先生の郷《くに》の人?」
小声で訊ねた。
リュートの顔はこわばったままだ。
ヒースは荷台に乗った。
「それでいいよ」
満足げに女が馬にムチをくれた。
「あ」
ヒースは声をあげたが、心配はいらなかった。リュートは葦毛に乗って追ってきた。
かっくいー。
旅の間、毎日リュートは葦毛と散歩に出た。岩山でも川越えでも、人馬は一体となり、勇者セージュだってかなわないと、ヒースは見惚れたものだ。
荷馬車は大きな屋敷の中に入った。
「カーチャー伯爵さまの夏の別荘さ」
テツは得意そうに言った。
「レンフィディックのお屋敷は、もっと大きくて立派だけどね」
「あんたも貴族だって、さっき言ってたよね。でも、ここ、あんたの屋敷じゃないんだ?」
「口のきき方のわかんないガキだね」
テツはヒースを睨みつける。
「うちの人もじきに爵位がもらえるさ。由緒正しい血筋だからね」
「じゃあ、ここ、あんたんちじゃないの?」
「これだから、学のないガキは。カーチャー伯爵さまは大貴族でいらっしゃるからね、あたしたちみたいな由緒ある血筋の者しかお仕えできないんだ。だから、レンフィディックの本屋敷にも、夏や冬の別荘にも、あたしたちの部屋はご用意いただいてるんだよ。どこの馬の骨だかわかんないヤツには、とうてい縁のない話だろうけどね」
テツはにんまりと笑った。
虫の好かないヤツだぜ。
早く聞きたいことだけ聞いてしまおう。
「先生も、貴族? あんたたちみたいに」
テツはノドをのけぞらせて笑った。
「バカだね。あんな異人ヅラした貴族なんかいるはずないだろ」
勝手口の前に馬車をつけた。
ヒースは山のような荷物を抱えて、中に入った。幼児が飛びだしてくる。
「デュール!」
女の声だ。
「ヤなの!」
幼児は、ヒースの周りを回ろうとして、倒れこんだ。
押される形で、ヒースは尻もちをついた。荷物が派手に散らばった。
「こンのクソガキ……」
リュートが駆け寄ってきた。
「先せ……」
「どこか痛いか?」
ヒースを見ずに、子どもを抱き起こしている。
「デュール」
太った女が奥から出てきた。
「ケガはない?」
小さな目でのぞきこみ、リュートと目があった。
「まあ! もしかして、リュートちゃん?」
口元で両手を合わせる。
「ケガはないようだ」
リュートが手を離すと、幼児は太った女に走り寄った。
「デュール、ご挨拶なさい。あなたの名付け親ですよ。こんにちは、は?」
幼児は不思議そうにリュートを眺めた。
「ごめんなさいね、まだ小さくて、よくわからないの」
太った女は困ったように笑い、それからヒースに気がついた。
「ごめんなさいね。ケガはない?」
ヒースは芋を拾いながらうなずいた。
「ええと、どなた?」
「先生の弟子だ」
文句あるかと睨んでみせると、女は微笑んだ。
「少し時間ある? 一緒にお菓子でも食べない?」
「うちの人、明け方にならないと帰ってこないの」
女の名はシズカと言った。
「でも、ゆっくりしていって。あなたも、遠慮しないでたくさんおあがりなさい」
山盛りの焼き菓子から、ヒースはひとつをつまんでみた。旨い。
「死んだと思っていたわ。無事にこっちに逃げてこられたのね。お義父さまは心配ないと言われていたけれど」
リュートは黙っていた。
「あなたがヒルブルークの街へ行ってから、いくらも経たないうちに、お義父さまは風邪をひかれて、そのまま亡くなったの。村長のところのトビが、あなたをお義父さまのところで見かけたって言うもんだから、村長がやってきて、たいへんだったのよ」
「では、先生は乱暴されて……」
「そんなことさせるわけないでしょ。うちの兄さんが追い返したわ。ずっと熱に浮かされて、あなたは龍の仔だから心配するなって何度も私の腕を叩いたのよ」
シズカは浮かんできた涙をぬぐった。
「それでね、お義父さまが亡くなった後、離れを整理してたらね、勲章とか書状とかが出てきて、お義父さまが、実はこの国の伯爵だったってことがわかったの。それで、荷物をまとめてこっちへ来たってわけ。カーチャー伯爵さまはお義父さまをご存じだったそうで、私たち、ずっとご厄介になってるの。でもねえ、リュートちゃん、貴族って、そんなにいいものなの?」
シズカは幼児に麦湯を飲ませた。
「あの人は毎日朝帰りだし、せっかく身につけた医術も、近ごろはぜんぜんやらないの。デュールが大きくなったら、なんて言えばいいの?」
「こんなところにあがりこんで!」
勝手場のほうからテツが現れた。
「奴隷は外で待ってな!」
ヒースを睨みつけた。
「オレは奴隷じゃねぇ!」
立った勢いで、椅子が倒れた。
デュールが目を丸くしている。
「異人のクセにとぼけてんじゃないよ!」
「この人はリュートちゃんの大事なお友だちよ」
シズカが怖い顔で言った。
「だから、うちの大事なお客さまです。さがりなさい」
テツがシズカを睨みつけた。
「はい、はい。年の功には逆らえませんね」
バカにしたように笑い、引っこんだ。
「どうもな、おばさん」
ヒースは椅子を起こして座り直した。
「リュートちゃんは、うちの家族だもの。デュールのお姉ちゃんだものね」
泣きベソをかいている幼児をあやす。
「あの女、貴族貴族って鼻にかけやがって」
「あの子は、リュートちゃんがうらやましかったのよ」
「先生が?」
シズカは伏し目がちにリュートを見た。
「兄さんのお友だちがいらした時、お相手をしたでしょう? それがかっこよくてうらやましかったみたいなの。だから、ユキが隣国で貴族になるんだって言いふらしたら、あの子もついてきたいって」
「先生は、なにやったって、かっこいいさ! あんな女に真似なんかできやしない。でも、それが貴族とどう関係あるわけ?」
「リュート、え、久しぶりじゃないか!」
ろれつのまわらない男の声がした。
戸口に男がよりかかっていた。妙にひらひらした服を着ている。
「ユキ、どうしたの? こんな早く……」
「亭主が早く帰ってきて、なにが悪い! さては、おまえ、オレがいないスキに……」
「まだ日も暮れないうちに、こんなに飲んで……」
近寄るシズカを、男は乱暴に押しのけた。
「え? オレが貴族さまだと聞きつけてきたのか? 家を出たのを悔やんでるのか? そうだろう、おまえはあの材木屋なんかとつるんで、オレに恥をかかせやがった。田舎医者なんかお呼びじゃないってか? だが、オレは生まれながらの貴族だった! え? いまさらお情けにすがりにきたのか? ふん。あのクソオヤジが生きてたら、見せてやりたかったぜ! 伯爵さまやお友だちは、オヤジの話がお気に入りだ。農民どもに雨乞いされて、芋だの青菜だのをお供えされて、まったくあそこまで落ちぶれりゃあなあ!」
「ユキ、そんな言い方……」
「るせぇ、田舎女のぶんざいで!」
つきとばされて、シズカの体が飛んだ。
リュートが抱きかかえた。
ヒースは男のスネを蹴飛ばした。
悲鳴が響きわたった。
男は壁から鞭をとった。風を切り、うなる。
ヒースは椅子を男の顔に投げつけた。
鞭はなんの役にも立たなかった。ぶざまに転げ、鼻血を流している。
「女子どもに手ぇあげてんじゃねぇよ、このバカ亭主」
鞭をとりあげる。
「おばさんの亭主じゃなかったら、こんなもんじゃ済まさねぇぜ」
「あんた!」
テツが入ってきて叫んだ。
「奴隷のぶんざいで! うちの人になにすんだい!」
え?
おばさんの亭主じゃないの?
「帰るぞ」
リュートが扉を出ていく。
「先生!」
リュートの足は早かった。門のところで、ようやく追いついた。
「せ、先生、あいつ、どっちの亭主なの?」
「二、三発、鞭をくれてやればよかったのだ! おまえ、今まで何を習っていたのだ!」
門を出ると、リュートは悔しそうに眉を上げた。
「じゃあ、先生が自分でやればよかっただろ」
「私に、弱い者いじめをしろというのか!」
足を踏みならした。
「おまえは、あのヤブ医者に鞭を振るわれたのだぞ! あれで気が済むのか? 昼間から飲んだくれ、妻に手をあげるのだぞ! 子どもだろうと容赦ないのだぞ! 働く気もなく、貴族の血などと威張りちらし、あげくに父親を笑いものにしておるのだぞ! どっちが……どっちがとち狂っておるのだ! 先生は、先生は……」
「せ、先生、落ちついて」
腕をつかむと、リュートは息を整えた。
「すまない。とり乱した」
周囲を見まわし、葦毛の姿を確認した。
「そうだ、市場を見ている途中だったな。続きを見にいこう」
笑顔はまだひきつっていた。