火の匂いで目が醒めた。
薄暗い。
どこだろう?
身を起こしかける。腹に激痛が走った。
「いででで……」
「動くな。縫ったばかりだ」
女がすぐ横にいた。
「うわあっ」
とび起きそうになるのを、女が抱き寄せた。
「動くなというに」
ぬくもり、熱い息に、少年は罪悪感のようなものを覚えた。
「オレ、オレ、なんでここに……、ここ、どこ?」
「里の農家の土間だ。一度説明しただろう? 覚えていないか?」
覚えがなかった。
なんでも、痛み止めで眠ってしまったらしい。里まで運ばれ、土間で麻酔を飲み、手術されたらしい。一昼夜も前のことだ。
「山の中で切るのは、危ないからな」
感染症がどうとか言ったが、少年には聞こえていなかった。
「ちょっと待てよ! オレの腹、かっさばいたのか?」
「キズは目立たないよう……」
「もうお終いだ! オレ、死んだ!」
少年は目を覆った。
「生きているではないか」
「すぐ死ぬよ! だって、腹ン中には大事なものがいっぱい詰まってるって聞いたよ。その証拠に、腹蹴られて死んだヤツ、いっぱいいるもん。ああ、オレはもうダメだ。こんなことなら、もっと旨いもん食っとくんだった! 肉だんごとか、鳥の蒸し焼きとか、焼きオレンジとか、まだ食ったことないのに! ミルクプディングとか、白チーズのキイチゴソースかけとか、まだ名前しか聞いたことないのに!」
涙を流しながら切々と訴える。
女が吹きだした。
「明日になれば、スープぐらいは飲めるだろう」
「旨いのにしてくれよ。今生の別れなんだから」
女が当てた布きれで鼻をかんだ。腹がズキズキした。
「やっと、かびてないパンが食べられると思ったのに。すっぱくないミルクが飲めると思ったのに。知ってるか? 飴がけの卵プディングって。スプーンでつっつくと、パリパリって音を立てて割れるんだぜ、上にかかった飴がさ。高そうなレストランで女の子が食べてるの見たことある。くそうっ、アレ食ってから死にてぇなあ。茶って知ってるか? アレもすすってみたかった! おとなになったら飲めるって聞いてたのに!」
「よくしゃべる」
女は毛布を直した。
「土間は冷える。温かくしてよく休め」
再び抱き寄せられた。
ぬくもりが、抗いがたかった。
「かあちゃん」
夢心地でつぶやいた。
翌日、馬車に乗せられて移動した。
一シクル半もすると、動き回れるようになった。
「あんた、名医だな! すげー! ホントに縫い合わせた痕がある!」
少年は腹を見て叫んだ。
「ただの薬屋だ」
「オレ、あんたみたいな名医になるよ! それで、すげー金持ちになって、王さまになる!」
少年は薪を並べた。
「馬車と馬を盗るのではなかったか?」
女はそれを並べ直した。
「それより、ずっといいよ! こんな金貨、何枚でも稼げんだろ?」
もらった財布を持ちあげてみせる。
「それで終わりだ」
「へ?」
「儲かる商売ではないし、面倒も多い。それを元手にほかの仕事を探したらいい」
少年は悟った。
「あんた、全財産をオレにくれたのか!」
「稼げば済むことだ」
「弟子にしてくれ!」
「ついてきてもロクなことはない。どこか街に出て……」
「オレに何ができるんだ! まだガキだし、知ってる人はいねぇし、どうせまた誰かにとっつかまって稼がされるんだ! だいたい、こんな色の髪、誰が近寄ってくるもんか!」
「きれいな髪だ。ウルサの人の髪と目だな」
「なんだい? ウルサって」
たき火はすっかり燃えて、湯が沸いていた。
串で突くと、輪切りの芋に通った。
「北の国だ」
「行ったことあんの?」
「商人がやってくる。北へ行けば見られるぞ」
「よし! 決めた! オレ、あんたの弟子になって、北へ行く!」
「私は流れ者だ。北に行くとは限らない」
「いいや! 行くんだ! 今決めた! でも不思議だな。あんた、沢ンとこで見た黒い髪のほうが、ずっと似あうよ。色白だしさ。いいドレスでも着たら、きっと領主さまの奥方にだってなれるぜ! いいや、お后さまかな! ホント、ホント! もったいねぇや」
バタンと仰向けになる。
「でも、あんたはオレと一緒に北へ行くんだ。そして、なんとか人ってヤツらを見るんだ、オレとおんなじ髪のヤツらを。それから、いろんな珍しい食い物……」
月がきれいだ。
「自由っていいなあ! もし、王さまにしてやるって言われたって、オレ、きっと、あんたと北へ行くよ。馬の乗り方教えてくれよ。それと、馬車の転がし方も」
ばっと起きあがる。
たき火が小さくはぜた。
女の顔が穏やかな光に浮かびあがっていた。
どきんとした。
ひまわりの種のような目が細くなっていた。
「セージュ」
「へ?」
「山ではそう名乗ったな」
それが本名だったら、どんなにいいだろう。勇者セージュ。伝説の英雄。
「違うのか? 名前は?」
こぶしを握った。
もう、ウソはつきたくなかった。
「わ、笑うなよ。ヘデロ」
早口に言った。
化け物のヘデロ。英雄に退治された、ドロドロの化け物。
「だっ、だから、虹の清水にだけは行くなよ! あんたと国中まわるけど、あそこだけは……」
女は声をあげて笑いだした。
「わ、笑うなって言ったろう!」
泣きそうになって、少年は怒鳴った。
「すまない。笑ったのは……」
軽く頬杖をついた。
「虹の清水だ。あの山小屋の辺りはそう呼ばれている」
「へ?」
「私たちが会ったのは、そこだよ」
少年は絶句した。
「ヒバリかヒタキのようだな」
「……なんだよ、ヒバリって」
「高い声でよくしゃべる」
自分のことだと知って、少年はムッとした。
「あんたこそ、バカ力で……」
「ヒース」
「なんだよ、それ」
「うん、ヒースがいい」
「だから、そのヒースって……」
「北国の木で、濃い緑の葉に、白い花をつけるのだ。夏になると、野が緑と白とで埋まる。私はリュートだ。よろしく、ヒース」
「オレの名前かよ! 花か? オレは花なのか? トビとか、ハイタカとか、なんか強そうなのねぇの?」
「それで、ヒース、年はいくつだ」
決定かよ。
少年はため息をついた。
「十一」
「三つ違いか」
「誰と?」
「私と」
「ウソっ!」
腹に激痛が走った。
「イデデデ……」
「大声を出すな。まだキズに響く」
芋汁が器に入れられた。
痛みがひくと、ヒースは汁にありついた。
「あんた、五つはごまかせるぜ」
「都合がいい」
「そりゃあな。ガキに見られちゃ仕事になんねぇし。まあ、若い時に老けてると、年とってから若く見えるって言うから、いいんじゃねぇ? でも、あんた、落ち着きすぎ」
芋汁の後は、オレンジで腹を満たした。
「なあ、あんた、生まれは?」
食後、並んで横になり、空を眺めてヒースは訊ねた。
「オレはずっとバンクの街に住んでたんだ。親方がいて、仲間がいて、毎日トロい湯治客の懐をかすめとってさ。オレ、こんなナリだろう? かあちゃんが気味悪がって捨てたんだってさ」
「誰がそのようなことを?」
「親方が言ってた。ゴミ山から拾ってやったんだ、恩を返せって」
「事実かな? 何か事情があったのかも……」
「事情って、なんだよ!」
「昔」
リュートはゆっくりと言った。
「母に置き去りにされたことがある。役立たずで捨てられたのかと思った。だが、それは身を案じてのことだった」
「じゃあ、オレもそうだっていうのか!」
「母を恨むな」
「ちぇっ。で、あんたのかあちゃんは、どうしてんだよ。郷《くに》で待ってんのか?」
「天に還った」
ヒースは一瞬口をつぐんだ。
「……あんたも天涯孤独ってヤツか」
「弟がいるらしい」
「らしいってなんだよ」
「生き別れになってな。年は、ちょうど、おまえぐらいか」
「実は、オレがその弟だったりして」
「この色は、血筋にないな」
そっと髪をなでる。
「ちぇっ。つまんねぇの!」
「少ししゃべりすぎた。もう寝よう」
静かな寝息が聞こえてきた。
早っ! もう眠ったのか?
ヒースは星空を見あげた。
体を横にずらして、くっつく。
いい匂いがした。
そして、心地よいぬくもり。
眠りについて、つぶやいた。
「かあちゃん」