〜 リュウイン篇 〜

 

【十一 源流の魔女(一)】

 

 

 腹の痛みで目が醒めた。

「腹減ったなあ」

 つぶやきながら、少年は木の枝から飛び降りた。

 草丈は高く、行く手をはばんだ。

 かきわけて進むうち、音が耳に入った。

「水だ」

 さらに行くと、急に開けて、眼下に沢が見えた。

「あぶね」

 少年は草をつかんだ。足下は崖だった。おとなふたり分の高さはある。

 腰を落として、滑り降りる。水ぎわに駆け寄り、膝をつく。

「飲まぬほうがよい」

 女の声がして、少年は飛びあがった。

「だ、誰……」

 白と黒。

 まぶしいコントラストに目がとらわれた。

 岩の上で、女が黒髪をすいていた。水浴び中か、白い裸体があらわである。

 森の精だ。

 少年はわなないた。

 人間とは思えない。髪は黒すぎるし、目はひまわりの種みたいだし、きれいすぎる……。

「水浴びにはよいが、飲んでは腹を壊す。この先に泉がある……」

「化け物!」

 少年は女を見つめながら、必死で叫んだ。

 目が離れない! くそっ! これも化け物のしわざか? 魂を食われちまう! やっとツキが回ってきたと思ったのに!

 女は眉根を寄せた。

 白いものが飛んだ。弧を描いて少年の手元に落ちる。水筒だった。

「泉の水だ」

 少年は、急いで水筒を開けた。

 浴びるように飲む。したたり落ちる水をあごの下で拭い、もう一度見ると、女の姿はなかった。

 消えた!

 ぶるっと震えた。

 本物の化け物か!

 目を落とすと、揺れる川面に汚い子どもの姿が映った。泥が貼りついて白くこわばった髪、真っ黒に汚れた穴だらけのシャツ。大きな青い眼が、自分を見返している。

 化け物!

 ののしる子どもたちの声が甦る。

 足で水面を蹴った。

 こんなナリじゃなかったら、かあちゃんだってオレを捨てやしなかったのに!

 水を飲み干すと、上流にのぼり始めた。

 泉はほどなく見つかった。岩の間からほとばしる清水を腹いっぱいに飲んだ。

 旨そうなキノコが木の根元から伸びていた。

 あぶねぇ、あぶねぇ。

 うっかり手を出した仲間を思いだす。腹をこわし、糞尿にまみれて死んだ。

 あんな惨めな死に方はごめんだ。

 細い踏み跡をたどりながら、赤い実を摘む。

 すっぱい。けど、食えるからな。

 ポケットに押しこむ。

 視界が開けると、山小屋が建っていた。

 しめた! メシにありつける!

 車庫には馬車が、厩にはロバが入っていた。

 山小屋は二階建てで、煙突から煙と煮炊きの匂いが立ちのぼっていた。

 勝手口へまわると、庭先で巨漢が肉をさばいていた。

 唾液がこみあげてきた。

 巨漢はナタを肉につきたてる。大きな音が響いた。

 こりゃあ、いただくのはムリだな……。

 大柄だが、手さばきから推すに、鈍そうには見えない。

 頭から、あいつを突きたてられちゃあ……。

 ぶるっと震えた。

 表に回ると、人の姿はなかった。

 玄関から忍びこむと、目の前が食堂だった。やはり、誰もいない。

 よし、こっちから食い物を……。

 厨房に向かいかけて、体が宙に浮かんだ。

「どこから入りこんだ、悪ガキ」

 しまった! 戸の陰にいたのか!

 ひげ面の男に首根っこをつかまれ、頭の中がフル回転する。

「ね、ねえちゃんに会いに来たんだ!」

 締まりそうになる襟元を必死でつかんで叫ぶ。

「ねえちゃんだと?」

「若い美人のねえちゃんだよ! 黒髪で色白の!」

「そんな客はいねぇなぁ」

「鼻がすっと通って、目がひまわりの種みたいな、美人のねえちゃんだよ!」

 沢の女は、きっとここの客にちがいない! きっと、そうだ! そうに決まってる!

「アッシャでも見たか?」

 ひげ面の男が笑った。

 その時、食堂の前を女が通った。

 とび色の髪、赤銅色の肌。だが、目鼻立ちはさっきの女だ!

「いた!」

 少年は叫んだ。

「ねえちゃん! オレだよ! オレ! セージュだよ!」

 女がふり向いた。

「お知り合いで?」

 ひげ面の男が訊ねると、女は首を振った。

「知らんとよ。さて、親はどこだ?」

「ねえちゃんは、ケンカしたから知らんぷりしてるだけだ! ねえちゃん!」

 化け物呼ばわりしたのを、根にもっているんだろうか?

「親もねぇのか。じゃあ、人買いに渡すか」

 背筋が凍った。

 また、逆もどりだ! せっかく親方ンとこを抜けだしてきたのに!

「ここで働かせてくれよう」

 少年は涙を浮かべてみせた。

「オレ、なんにも悪いことしてないじゃないか」

「どうせ盗みにでも入ったんだろう。うちには手クセの悪いガキを置く余裕なんかないね。明日、街の人買いに引き渡してやる」

 本気だ。

 相手の目は揺るがない。少年は震えあがった。

「許してくれよう。腹が減ってただけなんだよ」

「縄持ってこい!」

 ひげ面男が少年を抑えつけながら、厨房に叫んだ。五十前後の女が太い縄を運んでくる。

「売らないで! 売らないで!」

「うるせぇガキだな。ボロ持ってこい。口に詰めろ」

「主、すまない。その子は私の弟だ」

 静かだが、よく通る声が響いた。

 とび色の髪の女が、そばに立っていた。

「そんなわきゃねぇでしょう」

「離してやってくれないか。それから、この子に食事を出してやって欲しい」

「お客さん、下手な情けをかけると、タメになりませんぜ」

 しぶしぶひげ面の男が手を離した。

「この子の宿代だ」

 女が金を渡す。

「へへーん、みたか!」

 少年はふんぞり返った。

「オレは客だぞ! 礼儀をわきまえろ!」

「わきまえるのは、どちらだ」

 女が少年の襟首をつかんだ。

「洗濯桶と湯を用意してくれないか」

 厨房にもどりかけた五十女に言う。

「何すんだよ!」

 女は有無を言わさず、少年を湯の中に突っこんだ。

 


 湯上がりの食事は最高だった。

「食べ終えたら発つといい」

 女が財布を手渡した。

 少年は中をのぞいた。金貨が二枚。

 げっ。本物?

「出すな」

 少年の手に、女は手を重ねた。

 女のクセに大きな手だ。皮も厚くて堅い。だが、長い指や甲の形は美しい。

 胸の中がむずがゆくなって、少年は手をはねのけた。

 金貨が自分のモノになるなんて初めてだ。こっそりガメたら、誰かが必ず親方に告げ口して、自分はゲンコツとムチを、誰かはごほうびをたっぷりといただいたから。

「私はじきに発つ。その前に発ちなさい」

「でも、今夜の宿代、払ってくれたんだろ」

「食事のためだ。ひとりで残ると、売られるかも知れない。早く山を下りなさい」

 手が伸びて、金色の髪をなでた。

 少年はびくっと身を引いた。

「触んじゃねぇ!」

 何考えてんだ、このアマ。

 女ってのは、うす汚ぇって逃げるもんだぞ。それをごていねいに風呂にまで入れやがって。この髪だって、気持ち悪がるんだぞ。きっと呪われて色をなくしたんだって。

「言われなくても、行くさ。バーカ」

 少年は金貨の入った財布を握って、山小屋を飛びだした。

 


 馬車の音で目が醒めた。

 やっとお出ましか。

 枝の上で身を起こす。

 いてて。食い過ぎかな?

 腹をおさえて、ようすをうかがう。

 ロバにひかせた小さな馬車がゆっくりと山道を下りている。

 少年は木から降りて、後をつけた。

 誰が逃がすか、この金づる。

 女は器用に馬車を操り、狭い山道を下りていく。

 急な斜面を過ぎると、なだらかな広場があった。馬車はそこで止まった。女は馬車を置き、茂みに入っていく。

 しめた! このスキに!

 少年は急いで御者台に飛びついた。手綱を探す。

 あれ、ない?

 ようやく、木の幹に縛られているのに気づく。

 えーっと、どうやって外すんだ?

 あちこち引いてみるが、手綱は堅く、外れない。

 その手元に、影が落ちた。

 見あげると、大きな馬だった。息は荒く、歯をむき出しにした。

「うああっ!」

 尻もちをつき、立ちあがって逃げようとする。馬がその服をかんだ。

「旨くないっ! オレ旨くないよう!」

「その辺にしておやり」

 女が馬の頬をやさしく叩いた。

 どっから現れた!

 少年は今度こそ逃れようと身をねじった。

 馬が服を離した。

「オレンジはどうだ?」

 空に弧を描いてくるのを、少年は反射的に受けとめた。

 女は御者台に立ち、オレンジをかじる。

 かっくいー。

 腰には剣をひっさげて、立派な馬をひき連れて、片手でオレンジをがぶり……。

 にげぇ。

 少年は口の中のものを吐きだした。

 あの女、なんで皮をむかないんだよう。こんな苦いの、よく食えるな。

 皮をむいてひとつめを食べると、ふたつめが飛んできた。

 ふたつめを食べると、みっつめが飛んできた。

 女は馬にもオレンジを放った。器用に口でとらえ、飲みこむ馬。きれいな葦毛の馬だ。

「馬になんかやるなよ!」

「どうして?」

「オレのだぞ!」

「じゅうぶんにある。食べたければ……」

「それも、ぜんぶオレのだったら!」

 馬車も荷物もロバも、その馬も、残りの金もみんな!

 その時、激痛が走った。

 腹だ。腹が、しめつけられるように痛い!

「ちくしょう! 毒を入れたな!」

 おかしいと思ったんだ。馬車を盗むとこを見てたのに、物をくれるなんて。

 だまし討ちだ、やさしくするふりをして、この女!

「ちくしょう! ちくしょう!」

 うずくまる。

「見せてみろ」

 女が背に手をかけた。

「うるせぇ!」

 腕を振ると、逆にとられた。あっというまに仰向けに倒される。

 風呂の時もそうだったが、この女、バカ力なんだ……。

 手が腹を這い、激痛に少年は悲鳴をあげた。

「虫垂炎だな」

 声が遠くに聞こえる。

 オレ、死んじまうのかな……。

「これを飲め」

 薬包が目に入る。

「いやだ! いやだ!」

 これ以上苦しませようってのか、この女は!

 ぐいっと鼻をつままれた。

 や、やめろ!

 空いた口に粉と水が注ぎこまれ、口がふさがれた。

 息が! 息が苦しい!

 夢中で口の中のモノを飲みこんだ。

 死んじまう! オレはここで死んじまうんだ! せっかく親方ンとこを抜けだしてきたのに!

「かあちゃん!」

 涙が出た。

「かあちゃん!」

 意識を失った。

 

 

   

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