腹の痛みで目が醒めた。
「腹減ったなあ」
つぶやきながら、少年は木の枝から飛び降りた。
草丈は高く、行く手をはばんだ。
かきわけて進むうち、音が耳に入った。
「水だ」
さらに行くと、急に開けて、眼下に沢が見えた。
「あぶね」
少年は草をつかんだ。足下は崖だった。おとなふたり分の高さはある。
腰を落として、滑り降りる。水ぎわに駆け寄り、膝をつく。
「飲まぬほうがよい」
女の声がして、少年は飛びあがった。
「だ、誰……」
白と黒。
まぶしいコントラストに目がとらわれた。
岩の上で、女が黒髪をすいていた。水浴び中か、白い裸体があらわである。
森の精だ。
少年はわなないた。
人間とは思えない。髪は黒すぎるし、目はひまわりの種みたいだし、きれいすぎる……。
「水浴びにはよいが、飲んでは腹を壊す。この先に泉がある……」
「化け物!」
少年は女を見つめながら、必死で叫んだ。
目が離れない! くそっ! これも化け物のしわざか? 魂を食われちまう! やっとツキが回ってきたと思ったのに!
女は眉根を寄せた。
白いものが飛んだ。弧を描いて少年の手元に落ちる。水筒だった。
「泉の水だ」
少年は、急いで水筒を開けた。
浴びるように飲む。したたり落ちる水をあごの下で拭い、もう一度見ると、女の姿はなかった。
消えた!
ぶるっと震えた。
本物の化け物か!
目を落とすと、揺れる川面に汚い子どもの姿が映った。泥が貼りついて白くこわばった髪、真っ黒に汚れた穴だらけのシャツ。大きな青い眼が、自分を見返している。
化け物!
ののしる子どもたちの声が甦る。
足で水面を蹴った。
こんなナリじゃなかったら、かあちゃんだってオレを捨てやしなかったのに!
水を飲み干すと、上流にのぼり始めた。
泉はほどなく見つかった。岩の間からほとばしる清水を腹いっぱいに飲んだ。
旨そうなキノコが木の根元から伸びていた。
あぶねぇ、あぶねぇ。
うっかり手を出した仲間を思いだす。腹をこわし、糞尿にまみれて死んだ。
あんな惨めな死に方はごめんだ。
細い踏み跡をたどりながら、赤い実を摘む。
すっぱい。けど、食えるからな。
ポケットに押しこむ。
視界が開けると、山小屋が建っていた。
しめた! メシにありつける!
車庫には馬車が、厩にはロバが入っていた。
山小屋は二階建てで、煙突から煙と煮炊きの匂いが立ちのぼっていた。
勝手口へまわると、庭先で巨漢が肉をさばいていた。
唾液がこみあげてきた。
巨漢はナタを肉につきたてる。大きな音が響いた。
こりゃあ、いただくのはムリだな……。
大柄だが、手さばきから推すに、鈍そうには見えない。
頭から、あいつを突きたてられちゃあ……。
ぶるっと震えた。
表に回ると、人の姿はなかった。
玄関から忍びこむと、目の前が食堂だった。やはり、誰もいない。
よし、こっちから食い物を……。
厨房に向かいかけて、体が宙に浮かんだ。
「どこから入りこんだ、悪ガキ」
しまった! 戸の陰にいたのか!
ひげ面の男に首根っこをつかまれ、頭の中がフル回転する。
「ね、ねえちゃんに会いに来たんだ!」
締まりそうになる襟元を必死でつかんで叫ぶ。
「ねえちゃんだと?」
「若い美人のねえちゃんだよ! 黒髪で色白の!」
「そんな客はいねぇなぁ」
「鼻がすっと通って、目がひまわりの種みたいな、美人のねえちゃんだよ!」
沢の女は、きっとここの客にちがいない! きっと、そうだ! そうに決まってる!
「アッシャでも見たか?」
ひげ面の男が笑った。
その時、食堂の前を女が通った。
とび色の髪、赤銅色の肌。だが、目鼻立ちはさっきの女だ!
「いた!」
少年は叫んだ。
「ねえちゃん! オレだよ! オレ! セージュだよ!」
女がふり向いた。
「お知り合いで?」
ひげ面の男が訊ねると、女は首を振った。
「知らんとよ。さて、親はどこだ?」
「ねえちゃんは、ケンカしたから知らんぷりしてるだけだ! ねえちゃん!」
化け物呼ばわりしたのを、根にもっているんだろうか?
「親もねぇのか。じゃあ、人買いに渡すか」
背筋が凍った。
また、逆もどりだ! せっかく親方ンとこを抜けだしてきたのに!
「ここで働かせてくれよう」
少年は涙を浮かべてみせた。
「オレ、なんにも悪いことしてないじゃないか」
「どうせ盗みにでも入ったんだろう。うちには手クセの悪いガキを置く余裕なんかないね。明日、街の人買いに引き渡してやる」
本気だ。
相手の目は揺るがない。少年は震えあがった。
「許してくれよう。腹が減ってただけなんだよ」
「縄持ってこい!」
ひげ面男が少年を抑えつけながら、厨房に叫んだ。五十前後の女が太い縄を運んでくる。
「売らないで! 売らないで!」
「うるせぇガキだな。ボロ持ってこい。口に詰めろ」
「主、すまない。その子は私の弟だ」
静かだが、よく通る声が響いた。
とび色の髪の女が、そばに立っていた。
「そんなわきゃねぇでしょう」
「離してやってくれないか。それから、この子に食事を出してやって欲しい」
「お客さん、下手な情けをかけると、タメになりませんぜ」
しぶしぶひげ面の男が手を離した。
「この子の宿代だ」
女が金を渡す。
「へへーん、みたか!」
少年はふんぞり返った。
「オレは客だぞ! 礼儀をわきまえろ!」
「わきまえるのは、どちらだ」
女が少年の襟首をつかんだ。
「洗濯桶と湯を用意してくれないか」
厨房にもどりかけた五十女に言う。
「何すんだよ!」
女は有無を言わさず、少年を湯の中に突っこんだ。
湯上がりの食事は最高だった。
「食べ終えたら発つといい」
女が財布を手渡した。
少年は中をのぞいた。金貨が二枚。
げっ。本物?
「出すな」
少年の手に、女は手を重ねた。
女のクセに大きな手だ。皮も厚くて堅い。だが、長い指や甲の形は美しい。
胸の中がむずがゆくなって、少年は手をはねのけた。
金貨が自分のモノになるなんて初めてだ。こっそりガメたら、誰かが必ず親方に告げ口して、自分はゲンコツとムチを、誰かはごほうびをたっぷりといただいたから。
「私はじきに発つ。その前に発ちなさい」
「でも、今夜の宿代、払ってくれたんだろ」
「食事のためだ。ひとりで残ると、売られるかも知れない。早く山を下りなさい」
手が伸びて、金色の髪をなでた。
少年はびくっと身を引いた。
「触んじゃねぇ!」
何考えてんだ、このアマ。
女ってのは、うす汚ぇって逃げるもんだぞ。それをごていねいに風呂にまで入れやがって。この髪だって、気持ち悪がるんだぞ。きっと呪われて色をなくしたんだって。
「言われなくても、行くさ。バーカ」
少年は金貨の入った財布を握って、山小屋を飛びだした。
馬車の音で目が醒めた。
やっとお出ましか。
枝の上で身を起こす。
いてて。食い過ぎかな?
腹をおさえて、ようすをうかがう。
ロバにひかせた小さな馬車がゆっくりと山道を下りている。
少年は木から降りて、後をつけた。
誰が逃がすか、この金づる。
女は器用に馬車を操り、狭い山道を下りていく。
急な斜面を過ぎると、なだらかな広場があった。馬車はそこで止まった。女は馬車を置き、茂みに入っていく。
しめた! このスキに!
少年は急いで御者台に飛びついた。手綱を探す。
あれ、ない?
ようやく、木の幹に縛られているのに気づく。
えーっと、どうやって外すんだ?
あちこち引いてみるが、手綱は堅く、外れない。
その手元に、影が落ちた。
見あげると、大きな馬だった。息は荒く、歯をむき出しにした。
「うああっ!」
尻もちをつき、立ちあがって逃げようとする。馬がその服をかんだ。
「旨くないっ! オレ旨くないよう!」
「その辺にしておやり」
女が馬の頬をやさしく叩いた。
どっから現れた!
少年は今度こそ逃れようと身をねじった。
馬が服を離した。
「オレンジはどうだ?」
空に弧を描いてくるのを、少年は反射的に受けとめた。
女は御者台に立ち、オレンジをかじる。
かっくいー。
腰には剣をひっさげて、立派な馬をひき連れて、片手でオレンジをがぶり……。
にげぇ。
少年は口の中のものを吐きだした。
あの女、なんで皮をむかないんだよう。こんな苦いの、よく食えるな。
皮をむいてひとつめを食べると、ふたつめが飛んできた。
ふたつめを食べると、みっつめが飛んできた。
女は馬にもオレンジを放った。器用に口でとらえ、飲みこむ馬。きれいな葦毛の馬だ。
「馬になんかやるなよ!」
「どうして?」
「オレのだぞ!」
「じゅうぶんにある。食べたければ……」
「それも、ぜんぶオレのだったら!」
馬車も荷物もロバも、その馬も、残りの金もみんな!
その時、激痛が走った。
腹だ。腹が、しめつけられるように痛い!
「ちくしょう! 毒を入れたな!」
おかしいと思ったんだ。馬車を盗むとこを見てたのに、物をくれるなんて。
だまし討ちだ、やさしくするふりをして、この女!
「ちくしょう! ちくしょう!」
うずくまる。
「見せてみろ」
女が背に手をかけた。
「うるせぇ!」
腕を振ると、逆にとられた。あっというまに仰向けに倒される。
風呂の時もそうだったが、この女、バカ力なんだ……。
手が腹を這い、激痛に少年は悲鳴をあげた。
「虫垂炎だな」
声が遠くに聞こえる。
オレ、死んじまうのかな……。
「これを飲め」
薬包が目に入る。
「いやだ! いやだ!」
これ以上苦しませようってのか、この女は!
ぐいっと鼻をつままれた。
や、やめろ!
空いた口に粉と水が注ぎこまれ、口がふさがれた。
息が! 息が苦しい!
夢中で口の中のモノを飲みこんだ。
死んじまう! オレはここで死んじまうんだ! せっかく親方ンとこを抜けだしてきたのに!
「かあちゃん!」
涙が出た。
「かあちゃん!」
意識を失った。