【第115回】

 

〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(中編)
21章 亡命 ……その2

2008.06.18

 

 人の気配を感じて、手が剣へとのびた。身は緊張で引きしまり、耳も目も鼻も肌も鋭敏にとぎすまされる。

 習性だった。

 この体は、よほど生に執着があるらしいと、リュウカは内心シニカルに笑った。

 カゲも桶から顔をあげ、耳を後ろに向けていた。

「誰だ」

 低い声で誰何した。

「王女殿下」

 うれしそうな声が聞こえた。デュール・ヒルブルークである。

「これから朝駆けでいらっしゃいますか。お伴いたします」

 リュウカはあっけにとられた。

「そなたは、確かめに行くのではなかったか」

「よく考えたのですが」

 デュール・ヒルブルークは照れるように笑った。

「あんなウソつきの戯言につきあう必要はないと気がつきまして。今の私にとって一番大事なのは、殿下をお守りすることです」

 リュウカの肌があわだった。

 カゲの頬を叩いた。

 食直後に走るのはよくないが、頼む。

 鞍を出し、カゲの背にのせた。

 馬番には野駆けに出ると告げ、館を発った。デュール・ヒルブルークを連れて。

「殿下、どこまでいらっしゃるのです」

 一ニクルほど経って、デュール・ヒルブルークが訊ねた。

「グラッサまで」

 リュウカは短く答えた。

「まさか、殿下、あんなデタラメを」

「確かめたのか?」

「そんなことは、私一人で充分……」

「一人でなら行ったのか?」

 問い詰められて、デュール・ヒルブルークは口ごもった。

 リュウカは口調をやわらげた。

「そなたを頼ってきたのだ。むげにするものではないよ」

 デュール・ヒルブルークは、やさしげな王女の黒い眼を見た。やさしげな声音、やさしげな物腰。

「はい!」

 目を輝かせて答えた。

 もし、これがエドアルなら、とリュウカは考えた。

 エドアルなら不平不満をぶつけてくるだろう。リズなら真っ正直だ、返事をしたなら必ず改善しようとするだろう。

 ヒースなら……。

『じゃ、あんたはあのミヤシロ伯爵の末裔とかいうヤツらが頼ってきたら、力貸すの?』

 ニヤニヤ笑って憎まれ口を叩くだろう。

 あるいは、

『あんたは力貸しすぎ。訴えなんか、王さまに押しつけて、オレと逃げねぇ?』

 心の弱さを突くようなことを言いだすのだ。

 しかし、このデュール・ヒルブルークは、返事はいいが、何を考えているのかわからない。

 血のつながった弟だというのに、何もわかってはいないのだ。

 グラッサの手前で、その一行に出逢った。

 白いフード付きマントの下は白装束。袖は長く手まですっぽり覆い、ズボンの裾は靴まで覆った。

 巡礼団である。

 ウルサの国に入ると、こうして巡礼地に詣でる修行僧の集団を見かける。行く先々で一目置かれ、祈願を頼まれ、寄付を得る。パーヴでも来たの街ノードの周辺で見かけることがある。

 デュール・ヒルブルークは気味悪がった。

 ウルサと国交のないリュウインでは見かけないのだった。

 隊の先頭を守る二人の女剣士は、巡礼団には似つかわしくなかった。

 リュウカは二人に話しかけた。

「失礼ですが、あなた方はヒルブルーク卿の縁の方でしょうか」

 女剣士たちは、巡礼服の袖をまくり、裾をまくり、フードをまくって、顔も手足も露わにしていた。

 髪はありふれた茶褐色、一人は二十代半ば、もう一人はもう少し年上だった。顔は似ていたが、若いほうはかわいらしい美人であり、もう一人のほうはお世辞にもそうとはいえない、骨張った造りだった。

「リュウカが出てくるとはね」

 姉が妹に話しかけた。

「よっぽどお気に入りなんじゃないの? 噂になるくらいだもの」

 妹が少し肩をすくめた。

「デュールはどこ?」

 姉が周囲を見回した。

「ヒルブルーク卿なら、こちらに」

 リュウカは少し後ろを示した。

「誰? それ。あたしたちは、デュールに用があんだけど」

「あなたのお気に入りのねずみちゃん」

 妹がいたずらっぽく笑った。

 もしや、とリュウカは思った。

 ウルサ風の巡礼団に、グラッサの街。グラッサの東には、パーヴとの国境。

「デュール・グレイ子爵をお訪ねですか?」

「当たり前じゃん。大事なねーちゃんほっといて、あいつ、どこうろついてんの?」

 デュールちがいか!

 リュウカは内心苦笑した。

 どこかで話が混じったにちがいない。

「あの子はおりません。代わりに、私でよければ御用を承りましょうか」

 えーっ。と姉のほうが不満そうに声をもらした。

「あんたじゃ頼りないなあ」

「自分のねずみも呼びつけられないの?」

 妹も言う。

 リュウカは首をふった。

「あの子とは何でもありません。ただの噂です」

「噂ってことはないわよ。だって、リリーがこっちへ来てもついて行かなかったのに、あなたにはついていったのよ?」

「エドアル王子についてきたのです」

 姉妹は笑った。

「そんなわけないじゃん。大っ嫌いなのに」

 ずいぶん事情を知っている、とリュウカは思った。ヒースとは親しい間柄なのだろう。

「よろしければ、私がご用件をお伺いいたします」

 あの子を追いだしたのは自分だ、という負い目があった。

「あれ、何?」

 姉のほうがデュール・ヒルブルークを目で指した。

「デュール・ヒルブルーク卿です」

 リュウカが答えたとたん、姉妹は事情を察して笑った。

「アレの婚約者だと思ったわけ? あたしら、そこまで趣味悪くないよ」

「では、本当にあの子の許婚なのですね」

 姉妹は大笑いした。

「そう言や、あいつ、あわてふためいてやってくるだろ」

「そんなことで動じる子ではないと思いますが」

「何言ってんだい。あんなビビリ屋の弱虫、真っ青な顔で走ってくるに決まってるよ」

 またしてもデュールちがいだろうか? リュウカは首を傾げた。

 姉妹はデュール・ヒルブルークを遠ざけるよう求めた。

 デュール・ヒルブルークは拒んだ。

「私に縁のない者とわかったからには、帰りましょう。みなさまにご心配をおかけしてはいけません」

「では、先に戻って、私はだいじょうぶだからと伝えなさい」

 デュール・ヒルブルークは女剣士たちを睨みつけた。

「素性も知れない怪しい者たちの元に殿下を残してはいけません。殿下をお守りするのが、私の役目です」

「うるさいね」

 姉のほうが得物を抜いた。

 デュール・ヒルブルークもすばやく応じた。

 それを見て、姉のほうはおもしろそうに笑った。

 刃を交える。

 金属のすれる音。

 よく練習している、とデュール・ヒルブルークを見てリュウカは思った。

 体勢は崩れず、バランスを失わず、馬の脚をよく使った動き。基本をおろそかにしない、美しい動きである。

 が、実戦向きではない。

 相手の動きをまるで予測できていない。すんでのところで止めるので精いっぱいである。

 姉のほうは、それがわかって楽しんでいるようだった。

 スキを突き、トドメを刺さずに、またスキを突く。

 笑みを浮かべてくり返すさまは、獲物を弄ぶ猫さながらだった。

「ヘタクソ」

 と、姉のほうは言った。

「こんなんで護衛が務まるとでも思ってんのかい。うちの泣き虫デュールのほうが、よっぽどマシだね」

 デュール・ヒルブルークの肘は下がり、顎は上がり、疲労しているのが見てとれた。意地だけで剣を振っていた。

 それに応じた力で、姉のほうは刃を押し返し、弾いていた。

「もうやめなさい」

 リュウカは言った。

「剣をおさめなさい。この方々は私の客人だ。敵ではないよ」

 デュール・ヒルブルークはすばやく馬を引いた。距離を充分にとり、相手が追ってこないのを確認して、剣をおさめた。

 姉の顔からは笑みが消え、つまらなそうに舌打ちした。

「そなたは帰りなさい」

 リュウカは静かに言った。

「しかし、私は殿下をお守りするのが……」

「帰りなさい。これは命令だ。この方々のことは口外しないよう」

「しかし、殿下に万一のことがあったら……」

 妹が横から口を出した。

「リュウカ王女は、あなたを深く信じて頼んでるの。わからない? これはリュウカ王女とあなたの二人だけの秘密。大事な秘密。わかるわね?」

 デュール・ヒルブルークの顔が、パッと輝いた。

 深い信頼。ふたりだけの秘密。

「はい! このことは、命に替えても口外いたしません。誓います」

 デュール・ヒルブルークは早々に立ち去った。

「単純ねぇ」

 と、妹は言った。

「うちのデュールとは大ちがいだわ」

 

 

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