人の気配を感じて、手が剣へとのびた。身は緊張で引きしまり、耳も目も鼻も肌も鋭敏にとぎすまされる。
習性だった。
この体は、よほど生に執着があるらしいと、リュウカは内心シニカルに笑った。
カゲも桶から顔をあげ、耳を後ろに向けていた。
「誰だ」
低い声で誰何した。
「王女殿下」
うれしそうな声が聞こえた。デュール・ヒルブルークである。
「これから朝駆けでいらっしゃいますか。お伴いたします」
リュウカはあっけにとられた。
「そなたは、確かめに行くのではなかったか」
「よく考えたのですが」
デュール・ヒルブルークは照れるように笑った。
「あんなウソつきの戯言につきあう必要はないと気がつきまして。今の私にとって一番大事なのは、殿下をお守りすることです」
リュウカの肌があわだった。
カゲの頬を叩いた。
食直後に走るのはよくないが、頼む。
鞍を出し、カゲの背にのせた。
馬番には野駆けに出ると告げ、館を発った。デュール・ヒルブルークを連れて。
「殿下、どこまでいらっしゃるのです」
一ニクルほど経って、デュール・ヒルブルークが訊ねた。
「グラッサまで」
リュウカは短く答えた。
「まさか、殿下、あんなデタラメを」
「確かめたのか?」
「そんなことは、私一人で充分……」
「一人でなら行ったのか?」
問い詰められて、デュール・ヒルブルークは口ごもった。
リュウカは口調をやわらげた。
「そなたを頼ってきたのだ。むげにするものではないよ」
デュール・ヒルブルークは、やさしげな王女の黒い眼を見た。やさしげな声音、やさしげな物腰。
「はい!」
目を輝かせて答えた。
もし、これがエドアルなら、とリュウカは考えた。
エドアルなら不平不満をぶつけてくるだろう。リズなら真っ正直だ、返事をしたなら必ず改善しようとするだろう。
ヒースなら……。
『じゃ、あんたはあのミヤシロ伯爵の末裔とかいうヤツらが頼ってきたら、力貸すの?』
ニヤニヤ笑って憎まれ口を叩くだろう。
あるいは、
『あんたは力貸しすぎ。訴えなんか、王さまに押しつけて、オレと逃げねぇ?』
心の弱さを突くようなことを言いだすのだ。
しかし、このデュール・ヒルブルークは、返事はいいが、何を考えているのかわからない。
血のつながった弟だというのに、何もわかってはいないのだ。
グラッサの手前で、その一行に出逢った。
白いフード付きマントの下は白装束。袖は長く手まですっぽり覆い、ズボンの裾は靴まで覆った。
巡礼団である。
ウルサの国に入ると、こうして巡礼地に詣でる修行僧の集団を見かける。行く先々で一目置かれ、祈願を頼まれ、寄付を得る。パーヴでも来たの街ノードの周辺で見かけることがある。
デュール・ヒルブルークは気味悪がった。
ウルサと国交のないリュウインでは見かけないのだった。
隊の先頭を守る二人の女剣士は、巡礼団には似つかわしくなかった。
リュウカは二人に話しかけた。
「失礼ですが、あなた方はヒルブルーク卿の縁の方でしょうか」
女剣士たちは、巡礼服の袖をまくり、裾をまくり、フードをまくって、顔も手足も露わにしていた。
髪はありふれた茶褐色、一人は二十代半ば、もう一人はもう少し年上だった。顔は似ていたが、若いほうはかわいらしい美人であり、もう一人のほうはお世辞にもそうとはいえない、骨張った造りだった。
「リュウカが出てくるとはね」
姉が妹に話しかけた。
「よっぽどお気に入りなんじゃないの? 噂になるくらいだもの」
妹が少し肩をすくめた。
「デュールはどこ?」
姉が周囲を見回した。
「ヒルブルーク卿なら、こちらに」
リュウカは少し後ろを示した。
「誰? それ。あたしたちは、デュールに用があんだけど」
「あなたのお気に入りのねずみちゃん」
妹がいたずらっぽく笑った。
もしや、とリュウカは思った。
ウルサ風の巡礼団に、グラッサの街。グラッサの東には、パーヴとの国境。
「デュール・グレイ子爵をお訪ねですか?」
「当たり前じゃん。大事なねーちゃんほっといて、あいつ、どこうろついてんの?」
デュールちがいか!
リュウカは内心苦笑した。
どこかで話が混じったにちがいない。
「あの子はおりません。代わりに、私でよければ御用を承りましょうか」
えーっ。と姉のほうが不満そうに声をもらした。
「あんたじゃ頼りないなあ」
「自分のねずみも呼びつけられないの?」
妹も言う。
リュウカは首をふった。
「あの子とは何でもありません。ただの噂です」
「噂ってことはないわよ。だって、リリーがこっちへ来てもついて行かなかったのに、あなたにはついていったのよ?」
「エドアル王子についてきたのです」
姉妹は笑った。
「そんなわけないじゃん。大っ嫌いなのに」
ずいぶん事情を知っている、とリュウカは思った。ヒースとは親しい間柄なのだろう。
「よろしければ、私がご用件をお伺いいたします」
あの子を追いだしたのは自分だ、という負い目があった。
「あれ、何?」
姉のほうがデュール・ヒルブルークを目で指した。
「デュール・ヒルブルーク卿です」
リュウカが答えたとたん、姉妹は事情を察して笑った。
「アレの婚約者だと思ったわけ? あたしら、そこまで趣味悪くないよ」
「では、本当にあの子の許婚なのですね」
姉妹は大笑いした。
「そう言や、あいつ、あわてふためいてやってくるだろ」
「そんなことで動じる子ではないと思いますが」
「何言ってんだい。あんなビビリ屋の弱虫、真っ青な顔で走ってくるに決まってるよ」
またしてもデュールちがいだろうか? リュウカは首を傾げた。
姉妹はデュール・ヒルブルークを遠ざけるよう求めた。
デュール・ヒルブルークは拒んだ。
「私に縁のない者とわかったからには、帰りましょう。みなさまにご心配をおかけしてはいけません」
「では、先に戻って、私はだいじょうぶだからと伝えなさい」
デュール・ヒルブルークは女剣士たちを睨みつけた。
「素性も知れない怪しい者たちの元に殿下を残してはいけません。殿下をお守りするのが、私の役目です」
「うるさいね」
姉のほうが得物を抜いた。
デュール・ヒルブルークもすばやく応じた。
それを見て、姉のほうはおもしろそうに笑った。
刃を交える。
金属のすれる音。
よく練習している、とデュール・ヒルブルークを見てリュウカは思った。
体勢は崩れず、バランスを失わず、馬の脚をよく使った動き。基本をおろそかにしない、美しい動きである。
が、実戦向きではない。
相手の動きをまるで予測できていない。すんでのところで止めるので精いっぱいである。
姉のほうは、それがわかって楽しんでいるようだった。
スキを突き、トドメを刺さずに、またスキを突く。
笑みを浮かべてくり返すさまは、獲物を弄ぶ猫さながらだった。
「ヘタクソ」
と、姉のほうは言った。
「こんなんで護衛が務まるとでも思ってんのかい。うちの泣き虫デュールのほうが、よっぽどマシだね」
デュール・ヒルブルークの肘は下がり、顎は上がり、疲労しているのが見てとれた。意地だけで剣を振っていた。
それに応じた力で、姉のほうは刃を押し返し、弾いていた。
「もうやめなさい」
リュウカは言った。
「剣をおさめなさい。この方々は私の客人だ。敵ではないよ」
デュール・ヒルブルークはすばやく馬を引いた。距離を充分にとり、相手が追ってこないのを確認して、剣をおさめた。
姉の顔からは笑みが消え、つまらなそうに舌打ちした。
「そなたは帰りなさい」
リュウカは静かに言った。
「しかし、私は殿下をお守りするのが……」
「帰りなさい。これは命令だ。この方々のことは口外しないよう」
「しかし、殿下に万一のことがあったら……」
妹が横から口を出した。
「リュウカ王女は、あなたを深く信じて頼んでるの。わからない? これはリュウカ王女とあなたの二人だけの秘密。大事な秘密。わかるわね?」
デュール・ヒルブルークの顔が、パッと輝いた。
深い信頼。ふたりだけの秘密。
「はい! このことは、命に替えても口外いたしません。誓います」
デュール・ヒルブルークは早々に立ち去った。
「単純ねぇ」
と、妹は言った。
「うちのデュールとは大ちがいだわ」