その日の明け方、蹄の音でリュウカは目醒めた。くたびれきった音だった。
こんな時間に馬を酷使するなら、早馬だろう。
リュウカはベッドの上からガウンを取り、羽織った。
寝室は三つのベッドでいっぱいだった。天蓋で遮られることもなく、リリーとリズの寝顔が見える。
リズの乱れた布団を直してから、リュウカは玄関へ出た。
深い霧の中、使者らしき男が玄関の階段ですわりこんでいた。
「水を一杯くれ」
肩で息をしながら所望するので、リュウカは裏の井戸へ回った。
白い霧の中、井戸を三人の不寝番が囲んでいた。
水が欲しいとリュウカは声をかけた。
不寝番の一人、デュール・ヒルブルークの眠気はたちまち醒めた。
「おはようございます、殿下」
真っ先に進みでて、水差しに水を汲んだ。タオルでていねいに周りの水を拭き取った。
リュウカは受け取ろうと手を伸ばしたが、デュール・ヒルブルークは抱えたまま渡さなかった。
「お部屋までお運びいたしましょう」
「そなたには仕事があろう」
リュウカはとがめた。
デュール・ヒルブルークは首を振った。
「殿下にお仕えするのも大事な仕事です」
リュウカはあきらめて、館の中に入った。
水差しを抱えて後に続こうとするデュール・ヒルブルークに、不寝番の一人がささやいた。
「朝からお盛んなことで」
デュール・ヒルブルークは片手を水差しから離し、相手の襟首をつかんだ。
相手はニヤと笑いを浮かべた。
「蛮人の女はそんなにいいか? ねずみ野郎」
デュール・ヒルブルークは声をあげ、水差しをふりあげた。
「やめなさい」
リュウカが館の中から顔を出した。
「この者は、今、ひどい侮辱をしたのです。許してはおけません」
デュール・ヒルブルークは小さな目を吊り上げて抗議した。
リュウカは、その顔から目を外し、相手を見た。
「私は蛮人の女だが、ヒルブルーク卿ははねずみではないよ」
相手は青くなった。聞こえるとは思わなかったのだ。
「軽口のつもりだろうが、慎みなさい。聞こえ方によっては火の粉がふりかかるよ」
リュウカはデュール・ヒルブルークを従えて、館の中に入った。あの場所に残しては争いになるのは目に見えている。
「すまぬ。私と一緒にいると、ロクなことがない。そなたの名誉を傷つけてしまったようだ」
リュウカが謝る。
デュール・ヒルブルークはあわてて遮った。
「いいえ、殿下の名誉が傷つけられたのです。追って、どのように罰しましょうか」
罰するほどのことでもあるまいに、とリュウカは思った。
「そもそも、なぜ、そなたなのだ? ヒプノイズ卿でなく」
「歌のせいではないでしょうか」
「どんな?」
デュール・ヒルブルークは顔を赤らめた。
「たいした歌ではありません。お忘れになってください」
「どんな?」
リュウカは重ねて訊ねた。
「その……ねずみが……」
デュール・ヒルブルークは口ごもった。
「その、本当につまらない歌なのです。殿下、お気を悪くされませんよう……」
「ねずみが?」
リュウカは促した。
デュール・ヒルブルークは目を伏せ、小声で言った。
「若いねずみが毎晩、殿下の寝台にのぼり、歌い踊って殿下をお慰めするという歌で……」
「それが、なぜそなたと関係するのだ」
「そのねずみというのが、デュールという名で……」
リュウカは吹きだした。
ヒースのことだ。
「そなたには災難だったな」
「笑いごとではありません。殿下は侮辱されているのです。歌の出処を探しだし、処罰しませんと」
歌ぐらい自由に歌わせてやればいいとリュウカは思った。王家を批判したり茶化したりできない国になど、住みたくもない。
草原では、コウギョクをはじめ、女どもが集まっては、族長や亭主どもを話の種にしては笑っていた。それが健全な姿だと思う。
デュール・ヒルブルークは迷っていた。
口に出せないほどひどい歌だと、王女に告げたほうがいいのだろうか?しかし、金色ねずみが若さをもてあまし、黒猫の寝台で夜な夜な卑猥な行為に及び、黒猫を龍《オトナ》にした、などという歌だと、どうして言えようか?
玄関の外階段で、使者が待っていた。
リュウカはデュール・ヒルブルークの手から水差しをとり、コップに注いで渡した。
使者は大急ぎで何杯も飲み干した。
「話せるか?」
リュウカがうなずくと、使者はうなずいた。
「ヒルブルークさまに言づてが。ヒルブルークさまを呼んでくれ」
「私だが?」
王女に馴れ馴れしいこの男は誰だろう? とデュール・ヒルブルークは苛立った。
男は慌ててひざまずいた。
「許婚さまが、グラッサの街を発ちました」
許婚?
王女が自分を見ているのに気づいて、デュール・ヒルブルークは慌てて言った。
「許婚など、おりません! 誓って真実でございます! 私は独り身で、そのような女性など!」
なにも自分に向かって力説しなくてもよかろうに、とリュウカは思った。
「ウソを言うな! 王女殿下が驚かれるではないか!」
叱りつけられて、使者は目を丸くした。
「ご無礼を!」
使者が床にはいつくばるのを、デュール・ヒルブルークは胸のすくような思いで眺めた。
だが、リュウカは身をかがめ、肩に手をやり、使者の身を起こさせた。
「用件をまず聞かせなさい。ムリをして駆けてきたのだろう?」
使者はうつむき加減に用件を述べた。
グラッサの街に二十人ほどの奇妙な一団がおり、そのリーダーがふたりの女剣士であること。女剣士たちは姉妹であり、そろってヒルブルークの許婚だと名乗っていること、こちらに向かってきてはいるが、迎えを要求していること。
「名は?」
リュウカは訊ねた。
「許婚さまのですか?」
「そのような者ではない!」
デュール・ヒルブルークは再度叱りつけた。
「名乗られませんでした。許婚と言えばわかるからと」
「知らぬ!」
使者は不安そうにリュウカを見あげた。
「では、お代のほうはどうなるのでしょう。半分は前払いでいただきましたが、残りはこちらでいただくようにと」
早馬とは、たいがいそのようなものだ。
リュウカは懐から金を出し、相場に色をつけて支払った。
「殿下、こんなウソつきに支払うことなどないのです。叱りつけて性根を正してやりましょう」
デュール・ヒルブルークは憤っていた。
リュウカは玄関に備えつけの呼び鈴を鳴らした。甲高い音色が早朝の館内に響いた。
ほどなく奥から使用人がやってきた。火を焚いていたのだろう、ススだらけの手をズボンで拭いている。
「朝早くから呼びだててすまない。彼に寝床と温かい食事を用意してくれないか」
リュウカはそれから使者の肩に手を置いた。
「遠いところ、ご苦労だった。ゆっくり休みなさい」
使者は目を丸くした。
リュウカは水差しを使用人に手渡し、身を翻した。
デュール・ヒルブルークはその後を追った。
「殿下、あのような者に直にお声をかけるなど」
同じデュールでも、あの子ならそんなことをは言わないだろうと、リュウカは思った。
「ねぎらう必要などないのです。私が今から行って、あのウソつきを叩きだしてやります」
「そなた、何か心当たりはないのか?」
デュール・ヒルブルークは小さな目を剥きだした。
「殿下! 真実誓って私には許婚など……」
「聞きちがいかも知れぬと言っているのだ。ほかの縁の者かも知れぬ。そなたを訪ねてきそうないとこや、世話になった誰か、あるいは、そなたの祖父や父に縁の者は?」
デュール・ヒルブルークは考えた。
「祖父に縁の者なら、あるいは」
「確かめてみたらどうだ?」
王女殿下は親身になってくださる。
デュール・ヒルブルークは照れたように笑った。
「はい、そうします」
デュール・ヒルブルークは踵を返し、リュウカは寝室にもどった。
リズとリリーは変わらず寝ていた。
リュウカはリズの布団の乱れを直してから、自分のベッドの上に腰かけた。
愛人《ねずみ》か。
『オレのかわいい黒猫ちゃん』
ヒースの声を思いだして苦笑した。
そばに置かなくて正解だった。こんな噂を立てられて、あの子はどうするつもりだったのか。まったく、私のそばにいるとロクなことがない。
それにしても、と思う。
ほかに言いようはなかったのか? 生まれはどうしようもないもの、本人の致し方ないもの。母親のことになど触れられたくなかったろう。
自分を捨てたという母親。
胸がツキンと痛んだ。
初めから、あの子を連れ回さなければよかったのだ。
最初の村でも、うまくやっていたではないか。あの子なら、どこでもすぐに馴染める。
器用な子だった。歌い手にも薬屋にも剣士にも通訳にも、なんにだってなれたのに、自分が潰してしまった。あの子は未来をすべて自分のために犠牲にしたのに、自分はあの子を傷つけ、追いだしたのだ。
今まで何度もくり返した後悔を、リュウカは詮なくくり返した。
眠れそうになかった。
リズやリリーを起こさないよう、静かに着替えて厩へ行った。
早朝の湿った霧が、肌を冷やした。
水と飼い葉を用意していると、霧の中からカゲが現れた。
ひとっ走りしてきたらしい。鼻息は荒く、真っ白で熱かった。
餌を食べている間、リュウカは霧を見ていた。
こんな日だった。ミヤシロ翁に別れを告げたのは。
もらうばかりで、何も恩返しできなかった。
いつもそうだ。誰かの命を犠牲にして生き残っている。母もミヤシロ翁も自分が殺したのだ。
ヒースも、あのまま殺してしまうところだった。森では運よく生き残ったが、この次こそきっと殺してしまう。
自分の生とは、これほど忌まわしいものなのか。だとしたら、終わりにして欲しい。今すぐこの場で……。