【第114回】

 

〜 リュウイン篇 〜
第4部 ふたたびリュウイン(中編)
21章 亡命 ……その1

2008.06.04

 

 その日の明け方、蹄の音でリュウカは目醒めた。くたびれきった音だった。

 こんな時間に馬を酷使するなら、早馬だろう。

 リュウカはベッドの上からガウンを取り、羽織った。

 寝室は三つのベッドでいっぱいだった。天蓋で遮られることもなく、リリーとリズの寝顔が見える。

 リズの乱れた布団を直してから、リュウカは玄関へ出た。

 深い霧の中、使者らしき男が玄関の階段ですわりこんでいた。

「水を一杯くれ」

 肩で息をしながら所望するので、リュウカは裏の井戸へ回った。

 白い霧の中、井戸を三人の不寝番が囲んでいた。

 水が欲しいとリュウカは声をかけた。

 不寝番の一人、デュール・ヒルブルークの眠気はたちまち醒めた。

「おはようございます、殿下」

 真っ先に進みでて、水差しに水を汲んだ。タオルでていねいに周りの水を拭き取った。

 リュウカは受け取ろうと手を伸ばしたが、デュール・ヒルブルークは抱えたまま渡さなかった。

「お部屋までお運びいたしましょう」

「そなたには仕事があろう」

 リュウカはとがめた。

 デュール・ヒルブルークは首を振った。

「殿下にお仕えするのも大事な仕事です」

 リュウカはあきらめて、館の中に入った。

 水差しを抱えて後に続こうとするデュール・ヒルブルークに、不寝番の一人がささやいた。

「朝からお盛んなことで」

 デュール・ヒルブルークは片手を水差しから離し、相手の襟首をつかんだ。

 相手はニヤと笑いを浮かべた。

「蛮人の女はそんなにいいか? ねずみ野郎」

 デュール・ヒルブルークは声をあげ、水差しをふりあげた。

「やめなさい」

 リュウカが館の中から顔を出した。

「この者は、今、ひどい侮辱をしたのです。許してはおけません」

 デュール・ヒルブルークは小さな目を吊り上げて抗議した。

 リュウカは、その顔から目を外し、相手を見た。

「私は蛮人の女だが、ヒルブルーク卿ははねずみではないよ」

 相手は青くなった。聞こえるとは思わなかったのだ。

「軽口のつもりだろうが、慎みなさい。聞こえ方によっては火の粉がふりかかるよ」

 リュウカはデュール・ヒルブルークを従えて、館の中に入った。あの場所に残しては争いになるのは目に見えている。

「すまぬ。私と一緒にいると、ロクなことがない。そなたの名誉を傷つけてしまったようだ」

 リュウカが謝る。

 デュール・ヒルブルークはあわてて遮った。

「いいえ、殿下の名誉が傷つけられたのです。追って、どのように罰しましょうか」

 罰するほどのことでもあるまいに、とリュウカは思った。

「そもそも、なぜ、そなたなのだ? ヒプノイズ卿でなく」

「歌のせいではないでしょうか」

「どんな?」

 デュール・ヒルブルークは顔を赤らめた。

「たいした歌ではありません。お忘れになってください」

「どんな?」

 リュウカは重ねて訊ねた。

「その……ねずみが……」

 デュール・ヒルブルークは口ごもった。

「その、本当につまらない歌なのです。殿下、お気を悪くされませんよう……」

「ねずみが?」

 リュウカは促した。

 デュール・ヒルブルークは目を伏せ、小声で言った。

「若いねずみが毎晩、殿下の寝台にのぼり、歌い踊って殿下をお慰めするという歌で……」

「それが、なぜそなたと関係するのだ」

「そのねずみというのが、デュールという名で……」

 リュウカは吹きだした。

 ヒースのことだ。

「そなたには災難だったな」

「笑いごとではありません。殿下は侮辱されているのです。歌の出処を探しだし、処罰しませんと」

 歌ぐらい自由に歌わせてやればいいとリュウカは思った。王家を批判したり茶化したりできない国になど、住みたくもない。

 草原では、コウギョクをはじめ、女どもが集まっては、族長や亭主どもを話の種にしては笑っていた。それが健全な姿だと思う。

 デュール・ヒルブルークは迷っていた。

 口に出せないほどひどい歌だと、王女に告げたほうがいいのだろうか?しかし、金色ねずみが若さをもてあまし、黒猫の寝台で夜な夜な卑猥な行為に及び、黒猫を龍《オトナ》にした、などという歌だと、どうして言えようか?

 玄関の外階段で、使者が待っていた。

 リュウカはデュール・ヒルブルークの手から水差しをとり、コップに注いで渡した。

 使者は大急ぎで何杯も飲み干した。

「話せるか?」

 リュウカがうなずくと、使者はうなずいた。

「ヒルブルークさまに言づてが。ヒルブルークさまを呼んでくれ」

「私だが?」

 王女に馴れ馴れしいこの男は誰だろう? とデュール・ヒルブルークは苛立った。

 男は慌ててひざまずいた。

「許婚さまが、グラッサの街を発ちました」

 許婚?

 王女が自分を見ているのに気づいて、デュール・ヒルブルークは慌てて言った。

「許婚など、おりません! 誓って真実でございます! 私は独り身で、そのような女性など!」

 なにも自分に向かって力説しなくてもよかろうに、とリュウカは思った。

「ウソを言うな! 王女殿下が驚かれるではないか!」

 叱りつけられて、使者は目を丸くした。

「ご無礼を!」

 使者が床にはいつくばるのを、デュール・ヒルブルークは胸のすくような思いで眺めた。

 だが、リュウカは身をかがめ、肩に手をやり、使者の身を起こさせた。

「用件をまず聞かせなさい。ムリをして駆けてきたのだろう?」

 使者はうつむき加減に用件を述べた。

 グラッサの街に二十人ほどの奇妙な一団がおり、そのリーダーがふたりの女剣士であること。女剣士たちは姉妹であり、そろってヒルブルークの許婚だと名乗っていること、こちらに向かってきてはいるが、迎えを要求していること。

「名は?」

 リュウカは訊ねた。

「許婚さまのですか?」

「そのような者ではない!」

 デュール・ヒルブルークは再度叱りつけた。

「名乗られませんでした。許婚と言えばわかるからと」

「知らぬ!」

 使者は不安そうにリュウカを見あげた。

「では、お代のほうはどうなるのでしょう。半分は前払いでいただきましたが、残りはこちらでいただくようにと」

 早馬とは、たいがいそのようなものだ。

 リュウカは懐から金を出し、相場に色をつけて支払った。

「殿下、こんなウソつきに支払うことなどないのです。叱りつけて性根を正してやりましょう」

 デュール・ヒルブルークは憤っていた。

 リュウカは玄関に備えつけの呼び鈴を鳴らした。甲高い音色が早朝の館内に響いた。

 ほどなく奥から使用人がやってきた。火を焚いていたのだろう、ススだらけの手をズボンで拭いている。

「朝早くから呼びだててすまない。彼に寝床と温かい食事を用意してくれないか」

 リュウカはそれから使者の肩に手を置いた。

「遠いところ、ご苦労だった。ゆっくり休みなさい」

 使者は目を丸くした。

 リュウカは水差しを使用人に手渡し、身を翻した。

 デュール・ヒルブルークはその後を追った。

「殿下、あのような者に直にお声をかけるなど」

 同じデュールでも、あの子ならそんなことをは言わないだろうと、リュウカは思った。

「ねぎらう必要などないのです。私が今から行って、あのウソつきを叩きだしてやります」

「そなた、何か心当たりはないのか?」

 デュール・ヒルブルークは小さな目を剥きだした。

「殿下! 真実誓って私には許婚など……」

「聞きちがいかも知れぬと言っているのだ。ほかの縁の者かも知れぬ。そなたを訪ねてきそうないとこや、世話になった誰か、あるいは、そなたの祖父や父に縁の者は?」

 デュール・ヒルブルークは考えた。

「祖父に縁の者なら、あるいは」

「確かめてみたらどうだ?」

 王女殿下は親身になってくださる。

 デュール・ヒルブルークは照れたように笑った。

「はい、そうします」

 デュール・ヒルブルークは踵を返し、リュウカは寝室にもどった。

 リズとリリーは変わらず寝ていた。

 リュウカはリズの布団の乱れを直してから、自分のベッドの上に腰かけた。

 愛人《ねずみ》か。

『オレのかわいい黒猫ちゃん』

 ヒースの声を思いだして苦笑した。

 そばに置かなくて正解だった。こんな噂を立てられて、あの子はどうするつもりだったのか。まったく、私のそばにいるとロクなことがない。

 それにしても、と思う。

 ほかに言いようはなかったのか? 生まれはどうしようもないもの、本人の致し方ないもの。母親のことになど触れられたくなかったろう。

 自分を捨てたという母親。

 胸がツキンと痛んだ。

 初めから、あの子を連れ回さなければよかったのだ。

 最初の村でも、うまくやっていたではないか。あの子なら、どこでもすぐに馴染める。

 器用な子だった。歌い手にも薬屋にも剣士にも通訳にも、なんにだってなれたのに、自分が潰してしまった。あの子は未来をすべて自分のために犠牲にしたのに、自分はあの子を傷つけ、追いだしたのだ。

 今まで何度もくり返した後悔を、リュウカは詮なくくり返した。

 眠れそうになかった。

 リズやリリーを起こさないよう、静かに着替えて厩へ行った。

 早朝の湿った霧が、肌を冷やした。

 水と飼い葉を用意していると、霧の中からカゲが現れた。

 ひとっ走りしてきたらしい。鼻息は荒く、真っ白で熱かった。

 餌を食べている間、リュウカは霧を見ていた。

 こんな日だった。ミヤシロ翁に別れを告げたのは。

 もらうばかりで、何も恩返しできなかった。

 いつもそうだ。誰かの命を犠牲にして生き残っている。母もミヤシロ翁も自分が殺したのだ。

 ヒースも、あのまま殺してしまうところだった。森では運よく生き残ったが、この次こそきっと殺してしまう。

 自分の生とは、これほど忌まわしいものなのか。だとしたら、終わりにして欲しい。今すぐこの場で……。

 

 

[an error occurred while processing this directive]