* * *
「お待ちください」
「待つのは嫌いな性分でな」
さえぎる衛兵を、レイカは力で押しきった。
「宰相! 出てこい! 来ぬならいぶり出してやるぞ!」
大声で王妃の棟をまわる。
いや、寵姫の棟か?
内心、皮肉に笑う。
「宰相! どこに隠れて震えておる!」
「私はここに」
小男が襟を正しながら一室から出てきた。数ある客間の一室である。
レイカは閉じかけた扉から中をかいま見た。
裸の少女が、散らばった着衣の上ですすり泣いていた。
こやつは、アレより悪い。
宰相の左頬に入った刀傷を見ながら思った。
アレは合意の上だが、こやつはムリ強いだ。しかも、それを勲章のように思っている。
「ラノックを刺したな」
「ラノック?」
小男は赤いベストのボタンをしめながら、首を傾げてみせた。
「思い出せぬなら、助けてやろうか」
「いえいえ、思いだしました。なるほど、そういえば王后陛下の侍従長が、そんな名前でしたかな」
「よくもとぼける」
「だんだんに思いだしましたぞ。昨日の夕刻、何者かに刺されたとか。城からの帰りでしたかな。なんでも盗賊に襲われて虫の息だとか」
「死んだ。これでせいせいしたか」
「新しい侍従長が要りますなあ」
「その部下も一掃するつもりか」
「王后陛下にあられましては、政からも手を引かれ、王女殿下の養育にお力を注がれますよう。この国を背負われるお方ですからな。聞き及ぶところによりますれば、剣のけいこなどに励んでいらっしゃるごようす。無用ですぞ。城にもどられて、きちんと教育を授けられますよう」
「業を煮やしたか。刺客をことごとく討たれて。住処を移すつもりなどさらさらないわ。それより! ラノックを刺したのは、きさまだ」
「ご乱心めされましたか?」
レイカが剣に手をかけるのを悠然と眺める。
だから、こやつは嫌いなのだ。
レイカは思う。
ここで斬りつければ、王妃といえど、獄送りとなるかも知れない。となれば、残されたリュウカはどうなる?
したがって、レイカは剣を抜くことができない。
見通しているのだ。
「多額の不明金があるな」
レイカは低い声で言った。
「兵に払われるべき金がどこかに消えておる」
「そもそも兵の数が多いのです」
赤いベストの小男はすまして答えた。
「これからは政治がモノを言う時代です」
「国の治安はどうする。出没する賊は?」
「街や村の自治にまかせればよろしい。われわれのすべきことは、その街や村を潤すことですよ」
「潤っておるのは、そなたの懐だけではないか」
「人聞きの悪い。証拠もなく、推測だけでおっしゃるのはいかがなものかと。王后陛下」
小男の目が笑う。
「証拠をつかまれて、ラノックを刺したのだろう? ぶじに消せたのか? それとも私の手元にあるのかな。これを兵に示そうか。それとも隣国を手引きしようか。主導権は、さて、どちらにあるものか」
レイカは冷ややかに言い、扉に手をかけた。
「仕度をして出ておいで。郷《くに》にお帰り。手の者に送らせよう」
中で、まだ少女はすすり泣いていた。
小男は足早に立ち去った。
今度こそ、国王に談判しなければならぬ!
レイカは国王の棟に出向いたが、王は留守だった。寵姫たちと森へお茶に出かけたのだ。
帰りを待つか。
書斎で本を手にとる。
どう説得したものか?
図解で埋められたページを上の空でめくった。
昔のように叱りつけてどうにかなるものだろうか?
息子がいるのだと打ち明けようか? 昔は信じなかったが、今はどうだろう? 守るために宰相を遠ざけてくれるだろうか?
あの時、手をさし伸べなければよかったのだ! あの雪の中、安っぽい憐れみを持たなければ! 反射的に手を伸ばしたとはいえ、あのまま雪洞に運ばず、放置しておけば……。
ページを操る間に、うたた寝をしてしまった。
気づくと、辺りは暗かった。
足音がふたつ廊下に響き、扉の前で止まった。
ふたつ?
国王のものだとしても、ひとりではない。
とっさに、レイカは書棚の陰に隠れた。
灯りが室内を照らし、ふたつの人影が浮かびあがった。
「陛下、由々しき事態ですぞ」
ランプを掲げた小男が言った。
「予は眠いのだ。早くしてくれ」
太った男がだるそうにあくびをした。
「これにサインを」
ランプを机に置き、小男が懐から書状を取りだした。
「明日でいいだろう。予は眠いのだ」
「一刻を争うのです。さあ」
ペンをインクに浸し、太った男に渡す。
「気味の悪い書面だな。人の名前がズラズラと……文字もてんでバラバラだし。昔見た、あれだ、あの、連判状とかいうのに似ているぞ」
「その通りでございます」
「ほう。今度はなにをやるのだ?」
「まずは、サインを」
「予が訊いておるのだぞ! 答えぬか!」
「賊の討伐を」
「なんだ、つまらん」
ペンを置いた。
「予の手をわずらわせるほどのことではないわ。勝手にやれ」
「一筋縄ではいかぬ国賊で」
「ぐずぐず言わずに、さっさと首をはねてまいれ」
「手の届かぬお方なれば」
「他国の者か?」
「そうであるような、ないような」
「はっきりしろ!」
「王后陛下でございます」
「レイカだと! 話にならん!」
書状を払いのける。小男は拾いあげ、再び机に広げた。
「兄君と通じ、兵を挙げるも辞さぬと」
「おまえが何事かよからぬことを企むのは見て見ぬフリをしてきた。それで、もう、いいではないか」
「しかし、同志はこれだけおりますぞ」
紙を叩く音が響いた。
「こんなに、レイカは嫌われておるのか?」
違う。宰相が金と脅しで集めた連中だ。嫌っているわけではない。
レイカは、説明しようと足を踏みだしかけた。
「あの娘の始末はどうか?」
「なかなか。王后陛下の守りが堅く……」
「いまいましい! このままでは、不義の子に、王位を譲ることになってしまうではないか! あの口のきけぬ無礼な男の子などに! 予はアイリーンに譲ると、そなたに約束した! そなたも約束を果たしてくれなくてはな! ええい、確かにこの手で始末したと思ったものを!」
体が凍りついた。
「何年かかっておる! たかが小娘ひとりに!」
国王はイライラと手を振り、その指先が読みさしの本に当たった。
レイカはひやりとした。先ほどまでレイカが繰っていた図鑑である。
「薬草の本か」
王はつぶやいた。
「そうだ。毒を使えばよいではないか。毒入り菓子を作り、あの小娘に握らせろ。子どものことだ、すぐに口にしてくたばるだろう」
「すでに試しております」
「失敗したのか?」
「子どもながら、容易には口になさいません。王后陛下のご教育の成果と存じます」
「生意気な小娘め!」
国王は手を叩きつけた。本が鳴った。
「あの小娘さえいなくなれば、レイカも予のもとに帰ってくるにちがいないのだ! あの男を忘れてくれるのだ!」
「おそれながら、陛下。王后陛下はご自分のお命に替えても御子を守り通すご所存。もし、御子が傷つけられようものなら、隣国の兵を招き入れましょう。陛下がお選びあそばすのは、ふたつにひとつでございます」
長いこと、国王はペンを握りしめていた。
「誰か! 誰かぁ! 黒い髪の女の人が!」
廊下で叫び声があがった。幼い女の子の声で、レイカは内心飛びあがった。
「アイリーンか!」
国王が立ちあがった時には、宰相は部屋から飛びだしていた。国王があたふたと後を追う。
レイカは書棚の間から出て、机の上を見た。
このままにはしておけぬ。
丸めて懐に入れる。
「あーははは。ひっかかった!」
子どもの笑い声が響いた。
「心配いたしましたぞ。めったなことをお言いくださるな」
「だいじょうぶ! 悪い王妃さまなんか、爺じが退治してくれるって、ママ言ってたもん!」
レイカは窓から庭に出た。
この連判状で、取引ができるかも知れない。
少なくとも、新たな連判状を作るまで、いくばくか時を稼げるだろう。
しかし。
ああ! リュウカの殺害を命じたのが、誰あろう実父だったとは! 宰相を追いつめたところで、事態は変わらぬ!
もはや、安住の術《すべ》はない。一刻も早く隣国に!
離宮に到着すると、レイカは急いで一筆したためた。
「リリー! これをモーヴ殿下に届けておくれ」
「では、早馬を」
飛びだそうとするリリーの腕を、レイカはつかんだ。
「いや、おまえでなくては。大事な用件なのだ。ほかの者には任せられぬ。今すぐ発ってくれ。一刻を争うのだ」
リリーはレイカの目を見てうなずいた。
夜が更けて、今度はマムとサミーを呼びだした。
「リリーの後を追ってくれ」
「あたしたちじゃ、追いつきませんよ。早馬をやって足止めを……」
「ほかの者ではマズい。一日遅れでも構わない、今すぐリリーの後を追い、この書状をモーヴ殿下に届けておくれ」
「夜中でございますよ。それに、みんな出かけてしまっては、家の中は……」
「いいから、お行き。私には、頼れる者がほかにいないのだ。わかるな?」
ふたりは発った。
「母上。みなに暇を出したのですか?」
翌朝、ひと気のないのを不審がって、リュウカが訊ねた。
「ひと足先に行ってもらったのだ」
詳しくは告げず、買い物に連れだした。
かつて、リリーは商人に紛れて隣国へ渡った。ならって、エスクデールで商人を探そう。服は民のもののほうが目立たぬだろう。食料も要る。それから……。
娘の顔を見る。今年で十になった。まだまだ幼い。
もはや、この国の王女として生きていくことはできない。
が、これから先、暗殺を一日一日恐れる必要はなくなるのだ。
「そなたは、どんな大人になるのかな」
「母上のようになれればと」
即答に、レイカは苦笑した。
「母に似れば、夫に恵まれぬぞ。そなたはそなたの道を行け」
飲みこめない表情ながら、リュウカはうなずいた。
明日は政を片づけて、明後日の早朝にここを発とう。
兄上やモーヴ殿下には頼るまい。王太后が睨みをきかせている間は、自分たちはお荷物だろう。
しばらくは、民に紛れて生きるか。
王太后が死んだら、兄上たちを頼ればいい。
パーヴに亡命した我らに、アプスたちは口出しできまい。この連判状がある限り。
きっと、うまくいく。
東の空を見上げた。
龍は郷《くに》へ帰るのだ。