* * *
すべては順調だった。
「視察に行こうと思う」
その日の政務を終えて、レイカは言った。
「国の実情を知らなくては。というのは大義名分でな」
笑う。
「侍女たちを湯治にでも連れていってやろうと思うのだ」
「ごもっともでございます」
ラノックはおごそかに受けとめた。
「万事お任せあれ」
「うまく行きましたわね」
リリーが馬を並べて言った。
「とりあえずはな」
レイカはわが子を見た。
鞍の前部にくくりつけられたまま、首を器用にめぐらせ景色に見入っている。みっつにもなればやんちゃな盛りのはずだが、いつもおとなしく、手を煩わせることもない。
異常ではないのか?
次の子も、やはりこのようなのか?
離宮に着くと、玄関で商人がひとり待っていた。
「リリー、リュウカ、もどったか!」
鞍から娘をおろすと、商人が抱きしめて頬ずりした。
続いてリリーにも同様にしようとして失敗した。
「いつまでいるんです!」
「お頭が買いつけを終えるまでさ」
赤く染まった頬をものともせずに笑った。
「木賃宿で飯炊きとは、常勝将軍も地に堕ちましたこと!」
「馴れれば快適だぞ。うるさい敵もいなければ、面倒な女もいない」
「怖いお義母さまもね!」
声をたてて笑った。
やりこめられるのが楽しみだというのだから……。
レイカは苦笑する。
手の施しようがない。
商人に身をやつした隣国の王弟はリュウカを抱きあげた。
「ひと休みしたら、稽古をつけてやろうな」
「女はおとなしいほうがよかったんじゃございませんの」
「リュウカはおとなしいぞ。どこぞの剣士にそっくりだ」
その剣士は庭師としてひっそりと暮らしているらしい。
『グレイ侯爵というのがいてな、ちょっとした貸しがあるんだ』
王弟殿下は言ったものだ。
『その領内の地主に、庭師として雇わせた』
植木のことなど知らぬだろうに。あの無骨者には苦労をかける。
茶の後、レイカは横になった。
夕刻、目が醒めた。裏庭へ回ると、ブロンズ色のヒース野原が目に入った。
のんびりと棒を打ち合う音がこだまする。
「いい加減カンベンしろよ」
「殿下がおとなげないんです。負けてさしあげたらいいんです」
「ウソは、ならぬ!」
幼い声が凛と響いた。
棒をかまえる子どもは、姿勢がくずれていた。
「肘しめろ。ふらついてるぞ。腰落とせ」
モーヴが笑った。
「それから、剣士は引きぎわをわきまえろ。今日にこだわると、明日を失うぞ」
子どもの棒を力任せにとりあげ、抱きあげた。
「汗くさいぞ。このお姫さまが」
高々と放られて、子どもは声をあげて笑った。
「落とさないでくださいませね」
リリーがからかうように言う。
「落ちたって平気さ。この子には、ヒースの加護がある」
「なんですの? それ」
「酒商人の言いぐささ」
まるで親子だ。レイカは苦笑した。自分よりしっくりいっているではないか。
リュウカの顔がこちらを向いた。モーヴの腕から飛び降り、駆けてくる。
「危ない、転びますよ」
リリーが言うそばからつんのめった。すぐに起きあがり、レイカの腕の中に駆けこんだ。
「やっぱりお姫さまにはかないませんわね」
リリーは意地悪そうにモーヴを見た。
「リュウカはスジがいいぞ」
モーヴは気にも留めない。
「泣かんし、負けず嫌いだし。いとことは大違いだ」
「いとこ?」
リュウカがレイカの服をぎゅっと握る。
「後妻の子だよ」
兄の新しい后は王太后の遠縁と聞く。リュウカと同い年の息子を生んだが、早々に王太后にとりあげられてしまったとか。
「かんしゃく持ちの泣き虫で、手に負えないんだ」
思い通りにならないと暴れるという。
「おまけに、大のおとなたちが機嫌とりにまわるんだ」
「そんなのと、うちのちい姫さまを比べないでくださいましね」
リリーが目尻を上げる。
「ちい姫さまはお姫さまのお子なんですから」
「おつきの侍女もしっかりしてるしな」
「申しわけありませんね、たおやめでなくて!」
「せっかくほめてやったのに」
モーヴは眉をしかめた。
「まあ、気色悪いこと!」
「なんだと!」
レイカは苦笑して、館内にもどった。
「マム、湯は沸いておるか?」
「今、焚いております」
台所から顔を出した。
「もう少し横になられては」
「リュウカが泥だらけだ。風呂に入れてやりたい」
「私どもでやりますよ」
レイカは娘をおろした。
「この子もしゃべるのだな」
「おや、まあ。子爵さまじゃあるまいし」
マムは笑った。
「あいさつ以外、聞いたことがない」
「要らないことはお話しになりませんからね。賢いお子です」
母子の会話は要らないことか。避けられているのか?
足下で、娘がレイカのドレスを握った。
「ダメですよ。汚れます」
マムが幼児の手をほどいた。
「汚れるし、シワになるじゃありませんか。さあ、湯殿へまいりましょうね」
「今日は私が入れよう」
「いけません。そんなお体なのに」
「では、そばにいよう」
政務にかまけて、娘をおろそかにしていたのかも知れぬ。
湯殿で遊んでやり、夕食もともにとった。
「珍しいですこと。お姫さまがちい姫さまとお食事なさるなんて」
リュウカを寝かしつけて、リリーが言った。
「お仕事はよろしいんですの?」
「これから少しな」
暖炉で火がはぜた。
「昼間、あの子はどう過ごしておる」
「みなにかわいがられてますわ」
リリーはうれしそうに笑った。
「謁見に来られた方は、口々にお姫さまにそっくりだとおっしゃいますのよ。ちい姫さまがご挨拶なさると、賢いお子だとほめてくださります。そうそう、今日、裏の井戸で……ヒルブルークって覚えてらっしゃいます?」
ヒルブルーク?
「まだお城で謁見をなさってた頃、お姫さまのファンだった衛兵ですわ」
『王后陛下のおなり』
声が甦った。
目のきらきらした若者。
「会ったのか?」
「体を壊してお郷《くに》に帰るんですって。こちらにはご家族へのお土産を買いにきたとか。ちい姫さまを見て喜んでましたわ。お姫さまにそっくりだって」
「そうか」
そのほうがいい。城で務めるには、人がよすぎる。
「それから、井戸端には猫が何匹かおりましてね」
「野良猫か?」
「どうでしょう? 人に馴れておりますけど。ちい姫さまはいつもそこで遊んでおいでです」
人より獣が好きか。
レイカはため息をついた。
「何かご心配ですの?」
「書斎へ行く」
「ごムリはなさらないでくださいましね」
リリーが心配そうな目を向けた。
「そんなお体なんですから」
ヒースの葉がブロンズから濃緑に染まるころ、箱馬車と十数人の兵はウィックロウを後にした。
「ごゆっくりお休みください」
見送りのラノックが小さくなると、リリーはささやいた。
「うまく行きましたわね」
「まだだ」
レイカはヒースの野原を睨んだ。
リュウカはマムの膝の間に立ち、窓の外を眺めている。
「ここを出られるのは初めてですわね」
「酔いなさらなきゃいいけど」
杞憂だった。半ばですわったものの、リュウカは外の風景を食いいるように見つめていた。
昼ごろ、小さな村に着いた。
リリーは近衛兵をふたり連れて村の中へ入った。
村の中央には川が流れており、橋に立つと、境界が見えるようだった。右岸は長屋続きで、左岸は広い家屋や大きな蔵が建ち並ぶ。
橋の下から赤子の泣き声があがり、リリーはとっさにのぞきこんだ。貧しい身なりの母親が赤子をあやしていた。
胸をなでおろして先を急いだ。
洗濯場で村女をつかまえる。
「この辺で、食べ物を分けてくれそうなところはあるかしら」
村女は白髪混じりの髪に手を当てて、リリーたちを眺めまわした。
「物乞いじゃなさそうだね」
「旅の途中なの」
「王妃さまの御一行とか言うんじゃないだろうね」
つっけんどんな物言いに、リリーは黙った。
「あんた、知らないのかい。ご領主さまのお館に、今日辺り王妃さまのご一行がいらっしゃるんだとよ。そのせいで、いい牛や反物はみんな巻きあげられちまった。どこの旦那さまもカンカンだよ。あんたも日が悪かったね。きっと魚のしっぽか菜の切れ端ぐらいしかもらえないだろうさ」
リリーは何人かの村女に当たり、ようやくある屋敷で黒パンとチーズにありついた。
「浅はかだな」
もどったリリーの報告を受けて、レイカはつぶやいた。
「キツくしぼってやってくださいましね。これじゃお姫さまの評判がガタ落ちじゃありませんか。それにしても、このパンのマズいこと!」
マムが頬をすぼめた。
「リリー、もうちっとマシなものはなかったのかい? これじゃ、兵隊さんたちも
精がつかないよ!」
「すまぬな。私のわがままにみなをつきあわせてしまった」
チーズをはさんだ薄切りパンをかみしめながらレイカは言った。
「明日からは宿で弁当を用意してもらおう。リリーも手数をかけたな」
「散歩は楽しかったですわよ」
リリーは笑った。
「お弁当は兵隊さんや年寄りのマムおばちゃんの分だけにしましょう。だって、せっかくの旅ですもの、土地のものを食べなくっちゃ、もったいないですわ。ちい姫さまだって、宮廷料理ばかりじゃ、口がおごってしまいますわよ」
「本来なら私が出向くところだが。すまぬな」
「お姫さまはどーんと構えていらっしゃってください。わがまま放題でちょうどいいんです」
街道を急ぎ、夕刻には大きな街に着いた。宿となる領主の館は街外れの丘の上にそびえていた。
「今宵の宿を……」
馬車から降りて話しかけると、門番が首を振った。
「あいにく今夜はふさがっております。その人数なら、街でも宿を探せましょう。今夜はどうかお引き取りください」
「お約束をとりつけてあります。執事さんに取りついでくださらない?」
「誰も取りつぐなというのが執事の命令で」
押し問答だ。
レイカが馬車から降りた。
「王妃がきたと取りついでくれ」
門番は疲れたようにつぶやいた。
「やれやれ、またニセ王妃さまか」
リリーは門をたたいた。鉄柵が大きく鳴った。
「ご本人です!」
「朝から来る客はみんなそう言う」
門番がせせら笑った。
「あんたなんかに区別がつくもんですか!」
「ひとめでつくさ」
「つくもんですか! あんたみたいな弱いおつむで!」
門番が太い眉をあげた。
「これを見ろ!」
門柱の陰から額縁を引きだした。
あ、とリリーは声をあげた。
「うちの旦那さまは、シアケトンさまのお供でお城にあがったことがあるんだ。その時いただいた絵姿がこれだ。どうだ、似ても似つかないだろう!」
それは、家族の肖像だった。
赤いベストの小男の右に物憂げな暗褐色の髪と髭の男がすわっており、左には明るい栗色の髪の派手な女がすわっていた。その隣に、女によく似た気の強そうな女児が立っている。
「それは宰相の娘じゃないの!」
リリーは叫んだ。
「国王一家なんかじゃないわ! 本当はお姫さまが……」
白刃が閃いた。
絵が真ん中でまっぷたつに割れた。
門番があわてて飛びのいた。
「リリー、行くぞ」
剣をおさめて、レイカは身を翻した。
鉄柵の向こうで門番が怒鳴った。
「不敬罪だぞ! ロクな死に方しねぇや!」
「天罰ってものがあったらね」
リリーは怒鳴り返した。
「まずはその連中に下るでしょうよ!」
馬車にひき返すと、レイカが両手で顔を覆っていた。
「お姫さま、あんな絵なんか気にすることはありませんわ」
「そうですとも、お姫さま」
マムもうなずく。
「国王はふぬけだし、赤イタチの娘なんか下心で近づいてるだけじゃありませんか。その娘だって、本当にあのまぬけの子かどうか」
「あの赤イタチ、よくもぬけぬけとあんな絵をバラまいて!」
ふたりで悪態をついていると、レイカが顔をあげた。
「リュウカは?」
馬車の中には見あたらなかった。
リリーは外に飛びだした。
「ちい姫さま!」
「リュウカ!」
呼び声を背にしながら、門まで引き返す。
「ちい姫さま!」
幼児は鉄柵の向こう、門番の足下に転がっていた。
「ちい姫さま、こちらへ!」
幼児は起きあがり、門番を見上げてはっきりと言った。
「人殺し」
「まだ言うか、このクソガキ」
門番が蹴りつけた。
リリーは悲鳴をあげた。
「ちい姫さま! 早くリリーのところへ」
リュウカは顔をあげ、門番を指さした。
「人殺し。見つけた」
「リュウカ!」
リリーのすぐそばを黒い風が通りすぎた。
「来い! 今すぐに!」
黒髪の小さな子どもは何度か転びながら、母親の腕に飛びこんだ。
「人殺し」
門番を指して、くり返した。
レイカはため息をついて娘の髪をなでた。
「あれは、絵だ。本物ではない」
リリーは門番の手を見た。斬られた絵がさげられている。一方には国王、一方には愛妾。真ん中には……。
眉間から見事にまっぷたつだった。絵の中心人物は。
お姫さまは、あの娘に妬かれたのでも、ニセ物の家族にお怒りになられたのでもないのだわ。
リリーは悟った。
アレが憎いのだわ。
「心配だな」
馬車にひき返しながら、レイカは言った。
「父親が人殺しなどと」
「お小さいのに、覚えておいででしたのね」
リリーはうなずいた。
「忘れてくれぬものかな」
「ふたつやみっつの頃のことなど、大きくなれば忘れておしまいになりますよ。お姫さまだって、あまり覚えてらっしゃらないでしょう?」
「そうだな」
その夜は街に宿をとった。
「まるで、どこぞの王弟殿下ですわね」
マムが皮肉を言った。
「高級旅館がよかったら、次回から紹介状を持ってくるんだね」
女将が部屋に案内しながら言った。
「近ごろは、お城にご機嫌とりに行く貴族連中か、訴えかお詣りに行く貧乏人か、どちらかしか通らないからねえ」
「商人はどうですの?」
訊いてから、しまった、とリリーは思った。マムがニヤニヤ笑っている。
「ここらじゃ見かけないね。もっと西へ行けばいるって話だよ。西は戦場にならなかったからね。ここらはダメさ。金はないわ、盗賊は出るわ」
「復興資金は出ているはずだが」
レイカが口をはさんだ。
「知らないよ。税金だってどんどん高くなるしね」
「税は下げたはずだ」
レイカは口の中でつぶやいた。
「ご領主が私腹を肥やしているとか?」
リリーがたずねると、女将は笑った。
「知らないね! 王さまのお伴の貴族のそのまたお伴をしたって話は聞くけどね。噂といやあ、お后さまの話を知ってるかい?」
どきりとした。
「なに?」
「十七、八の派手な人だとか、三十過ぎの中年女で田舎に引っこんでるとか、なんだかよくわからないのさ。いや、田舎にいるのは、宰相さまの娘だって話もあるけどね」
「赤イタチの!」
マムが叫んだ。
「ウィックロウにいらっしゃるのはね……!」
幼い声がぐずりだした。小さな手が母親のドレスのすそを握っている。
「ちい姫さま、怖くありませんよ。だいじょうぶですよ」
リリーがかがんで笑いかけると、幼子はドレスに顔を埋めた。
「馴れないところで、怖いのかねえ」
マムが言うと、レイカは首をふった。
「父親を思いだしたせいかも知れぬ」
自分を殺そうとした父親。ちい姫さまのお気持ちはどんなだろう、とリリーは思った。
父親の顔を知らないほうが、まだマシだ。
通された部屋にはベッドが五つ並び、それでいっぱいだった。
「鏡台もないのね」
「ごたいそうなベッドだね。すのこに布団が敷いてあるだけじゃないか」
疲れたように笑った。
湯をもらい、体を拭いた。
リュウカは服を脱ぐのを嫌がり、食事をするのも嫌がった。
「初めてのご旅行で、落ち着かれないんでしょう」
マムは言った。
「散歩をさせてくれないか。疲れればおとなしく寝るだろう」
サミーはリュウカを連れだした。
レイカはベッドに横たわった。
「おつろうございましょう」
リリーが布団をかけた。
「おまえたちも休むといい」
レイカはたちまち寝息をたてた。
「とてもお疲れだったのね」
マムに話しかけ、リリーは思わず笑った。マムもまた寝入っていた。
明かりを消し、リリーも横になる。
女の子がいいわ。お姫さまによく似た女の子。お姫さまの後をちい姫さまが、その後を女の子が、そしてその後にまた女の子……。
延々と黒髪の女の子が続くさまを思い浮かべながら、リリーはまどろんだ。
「母上!」
押し殺した幼い声で目を醒ました。
「サミーが窓から逃げなさいと」
「ちい姫さま、お母上はお寝みですよ」
眠い目をこすりこすり、リリーはたしなめた。
「サミーは、兵隊さん、起こしています」
リュウカは母親を揺さぶった。
「リュウカ!」
頬が鳴った。
子どもはひるんだが、目は光を失わなかった。
「お姫さま、お支度を」
リリーが促した。
「ここは二階だぞ。どうやって降りろと」
レイカはしぶしぶ抱いていた剣を腰に佩いた。
「布団を投げましょう」
リリーは窓を開けた。
「雨どいがあります。お姫さまはこれを伝って降りてください。私とマムおばちゃんは、このまま飛び降りますわ」
「布団を汚せば、女将に怒られるだろうな」
レイカは苦笑した。
「弁償すれば済むことですわ」
「まったく、子どものいたずらに……」
「いたずらなら、後で叱ればいいじゃありませんの」
リリーは布団を次々と放った。
「行くわよ、マムおばちゃん」
「あたしゃ、イヤだよ」
マムが両手を合わせた。
「やべ」
幼子がにっこり笑って飛び降りた。
「ほら、ちい姫さまだって」
「おっかね」
ふいに、廊下が騒がしくなった。荒々しい大勢の足音。
レイカは雨どいにとりついた。細い雨どいはたちまちぐにゃりと曲がり、そのままゆっくりとレイカを地面に降ろした。
「もう、はあ、わがんね!」
マムはリリーに手をひかれて飛び降りた。尻から布団に着地する。
サミーが植えこみから現れた。短く口走る。
リリーはリュウカを抱きあげて、マムとともに後を追う。
「馬を」
レイカが引き返そうとする。
「馬はダメです! サミーおばちゃんがさっき言ったじゃありませんか」
「なんと?」
ああ、そうだった。
郷《くに》の言葉は、お姫さまには通じない。
「サミーおばちゃんに続いてください」
塀の一角にくぐり戸があった。勝手口だろう。
サミーが戸を開けた。
出口に敵が待ちかまえていなければいいが……。
リリーの腕からリュウカが滑り降りた。くぐり戸に入る。
あ、と青ざめると、塀の向こうから男の声が聞こえた。
「ガキか」
「つかまえといたほうがいいんじゃねぇのか?」
「そうか?」
「金になるぞ」
幼い声が叫んだ。
「三人!」
レイカがくぐり戸に飛びこんだ。
刃の交わる音が響いた。
あんなお体なのに!
リリーは歯がみした。
お助けしたいのに、あたしたちは誰も剣が使えない。
生兵法は……とお姫さまは止めたけど、こんなことなら殿下に習っておけば……。
だいたい、こんな肝心なときに、なんで殿下がいないの!
殿下の役立たず!
目の前にいたら、殴りつけてやりたい。
「済んだぞ」
塀の向こう側から声がした。くぐると、レイカが神妙な顔をしていた。
「破水した」
マムの顔が緊張した。
「どうしよう」
リリーはマムの腕を叩いた。
「いまさら止められまい」
レイカが首をめぐらす。
「よさそうな場所を探しておいで」
マムが言った。
「早く! 時間がないよ!」
リリーは駆けだした。
行きずりの旅人を助けてくれるところって、どんなだろう? 出産を助けてくれるところって?
通りは白い月明かりに照らされ、静まり返っていた。
立ち並ぶ店の扉は固く閉ざされ、人の気配が感じられなかった。
途方に暮れて裏通りに入る。
明かりが見えて、ホッとする。長屋の戸からもれているのだ。
子どものはしゃぐ声が聞こえた。
「こら! もう寝ろよ!」
年輩の女性の声と、子どもたちの走りまわる音。
戸が開いて、子どもが飛びだしてきた。リリーにぶつかりそうになる。
「こら! ツバメ!」
かっぷくのいい女が姿を現した。
「助けてください」
勝手に言葉がほとばしりでた。
「主人が産気づいて、でも、誰も助けてくれる人がいないんです。場所とお湯を貸してくれるだけでいいんです。主人とお子を助けてください」
気がつくと、相手の服のすそを握りしめていた。
かっぷくのいい女は目を丸くした。
「あの、お礼ならしますから。ホントに頼る人がなくて……」
「お金持ちでも困ることがあるんだねえ」
女はリリーの身なりを上から下まで眺めまわした。
「いいよ、連れてきな。汚いとこだけど、あたしもここで、五人産んでるからね。産婆呼びにいかせようか?」
リリーは首を振った。
レイカたちを連れて、長屋にもどる。
「心臓が飛びだしそうだよ」
仕度を整えながら、マムが言った。
「だいじょうぶよ、落ちついて」
リリーは励ました。
ウルサ山脈の里での一年、マムは産婆の手伝いをしていた。今度の旅では、その技を生かし、イズレイ伯の別荘でひそかに赤子をとりあげるつもりだった。
それが、こんなことになるなんて。
「頼むぞ」
苦しい息の中、レイカが言った。
ほどなく、赤子は産まれた。
「男か? 女か?」
「……男のお子でございます」
レイカの口から大きなため息がもれた。
「どうしましょう」
リリーは途方に暮れた。
イズレイ伯の別荘近くには、先ごろ謁見した地方貴族が住んでおり、子に恵まれないのを嘆いていた。もし男児ならば、その玄関先に捨て子として置いてくる手はずになっていた。
「でも、ここからじゃ遠すぎるわ」
男子となれば、かつての王子たちの二の舞である。宰相に存在を知られてはならない。
「殿下のところへ連れていきますわ!」
閃いて、リリーは顔を輝かせた。
「あなたの子です! って押しつけてやりますわ!」
「覚えはあるのか?」
レイカが弱々しく笑った。
「そんなの問題じゃありません! あたしが産んだって言えば……」
「ほかの男の子と思って殺さないだろうか?」
「どっかの王さまと一緒にしないでください!」
「国境はどうする?」
モーヴに会うには隣国へ渡らなければならなかった。警備兵の目にさらされれば、事が露見する。
「誰かいないかねえ」
マムがため息をついた。
「近くの町で、頼れそうな人間は……」
東は国境。西にはヒプノイズ。ダメだ。頼れる人なんかいない。ヒプノイズの西は……。
「ヒルブルーク!」
リリーは小さく叫んだ。
「ここから二日のところに、ヒルブルークがありますわ」
「それが?」
「あの近衛の故郷ですよ! 確か、病気で帰ってるはずです! あの人に預かってもらいましょう!」
「遠すぎる」
レイカは首をふった。
「往復で四日だ。おまえたちがそんなに長いこと留守にしていれば、衛兵たちは怪しむだろう。かと言って、誰かに託すわけにもいかぬ」
「昼夜、馬を乗り継げば、二日でもどってこられます! あたしだけ、はぐれたことにしてください。二日後、グラッサの街で落ち合う約束をしたとでも言って。あたし、きっと、それまでには戻りますわ」
「断られたらどうする?」
「お姫さまが命じれば、喜んで火の中に飛びこむような人じゃありませんか! 私、行きます」
リリーは手早く赤子を布にくるんだ。
「元気でな」
レイカは赤子にキスした。
「なんと言ったかな。そうだ。ヒースの加護があるように」
「まあ。殿下じゃあるまいし」
リリーは努めて笑いながら、赤子を抱きあげた。ずしりと重みが肩にかかった。
長屋の女に訊ね、商家から馬を一頭調達した。夜気に冷えぬよう、赤子を懐にくくりつけた。
満月前の月が、道を照らした。
リリーは馬を駆った。
途中の村で何度もミルクと馬とを買った。
ヒルブルークにたどりついたのは、翌日の日暮れだった。
「デュールさまに取り次いでください。都から来ました。大事な用なんです」
埃まみれで必死の形相が、何かに訴えたのだろう、門番が中に入れてくれた。
「何か用かな、娘さん」
待たされた部屋に入ってきたのは、老いてはいるものの、背すじの伸びた男だった。
「デュールさまを、デュール・ヒルブルークさまを呼んでください!」
「デュール・ヒルブルークは私だが」
リリーの背に冷たいものが流れた。
あの近衛にたばかられた?
よくあることだ。出世をもくろんで、身分や名を偽るなど。
でも……。
リリーは近衛の目を思い返した。
あの人は、そういう人じゃないわ。
「まだお若いデュールさまです。お城からさがられたばかりとうかがいました」
「孫なら、ここにはおらぬよ」
「では、どこに?」
老人は天を指した。
「三日前にな」
血の気が失せた。足から力が抜ける。眠っていた赤子が泣いた。
「その子は?」
あやす気力もわかなかった。
老人が赤子を抱きあげた。
「もしや、この子は孫の……」
はっとした。
諾と言えば、領主の一族として育てられる。素性はバレず、宰相の手も及ばない。
「名は?」
「ありません」
「では、デュールと名づけよう。代々嫡子が受け継ぐ名だ」
赤子は泣きやまなかった。
「おしめを」
リリーは震える声で言った。
「長旅で、替えることもままならず……」
「今、人を呼んで替えさせよう。そこで待っていなさい。夕食とベッドを用意させるから。今夜はゆっくり休んで、明日、孫の話を聞かせておくれ。城でどう暮らしていたのかを」
老人が部屋を出ると、リリーは一目散に逃げだした。
きっと、あの人なら、若宮さまをムゲにはすまい。きっと、心の澄んだ男の子に育ててくれる。
捨てたんじゃない、お預けしたのだ。
馬を駆りながら、リリーは思った。
あたしは母さんとは違う。橋の下に置き去りにしたんじゃない。
暑い日で、マムおばちゃんが拾ったときは、日射病で死にかけていたという。
あたしは、母さんとは違う。お命を救うためだ。そして、いつの日か親子で再会し、この国を正しく治めていただくためだ。
夢中で馬を走らせると、夕闇にグラッサの街の灯りが見えた。
閉じる寸前の城内に滑りこむと、マムが待っていた。
「マムおばちゃん」
リリーは顔をくしゃくしゃにした。涙がぼろぼろとこぼれた。
「あんたには酷なことだったね。わかっているとも。お姫さまがお待ちだよ。早くお話をきかせておあげ」
そうだ。お姫さまだって、わが子をとりあげられ、どんなにおつらいだろう!
木賃宿で、レイカは待っていた。
一部始終を聞くと、皮肉な笑みを浮かべた。
「いつかは会えるだろう。おまえも大義だった。今宵はゆっくり休みなさい」
体は疲れていたが、なかなか寝つかれなかった。
自分を夏の日ざしにさらして去った母。関わりのない赤子を拾ったマム。子どもを殺され、手放さなければならなかったレイカ。
おかあちゃん。
一度ぐらい呼んでみたい。
しかし、そんな相手はいないのだ。
浮かぶ涙を、布団でぬぐった。