黒い眼が見下ろしていた。赤のドレスとマントが黒髪に映えた。
だが。
「青のほうがいい」
暗褐色の髭がつぶやいた。
「陛下、探しましたわ」
巻き毛を揺らして若い女が近づいた。大きく結いあげた髪が燭台の光で幾重にも輝いていた。
国王はふり向き、ひざまずいた。
「おお、今日もいちだんと美しい」
「髪飾りのことですの?」
「それは、そなたの頭上にあってこそ美しいのだ」
年若い女の手をとって口づけた。その指は数多の石で彩られている。
「わかっておりますわ。私など、髪飾りがよいところ。黒髪にはかないませんもの」
壁の女を見上げる。ひとまわりも年をくった女。頭上には小さな銀の王冠をいただいている。
「そろそろよろしいのではありませんか」
若い美女の後ろから、赤いベストの小男が現れた。
「この御方の一周忌も済みました。民には王妃が要りますし、陛下のおそばにも、むろん」
「お父さま、妾《わたくし》は、何も要りませんの。陛下のお心をお慰めさえできれば」
「そう言ってくれるか。陛下、これからも、このはしためをはべらせてくださいますか?」
国王は女の両手を握った。
「父娘そろって欲がない。感動した! 感動したぞ!」
壁の美女を見上げる。
「レイカ、これほど主君を思う臣下がおるだろうか。予はここに誓う。キャスリーンをそなたの後にすえることを! よいな、レイカ」
芝居がかったように、父と娘それぞれに大きくうなずいてみせる。
「レイカも、これで心おきなくあの世に逝けよう」
「さすがは国王陛下。亡くなった方にまでご温情厚くいらっしゃる。では、さっそく式の準備にとりかかりましょう。日取りは三か月後の吉日で」
「もう決めるのか?」
「ご心配なく。手配はすべてお任せください。前の王妃さまに決してひけをとらぬすばらしいものにしてご覧入れます」
「失礼ながら、国王陛下」
国王づきの侍女が息を弾ませて一礼した。
「大事なお話の最中だ。退がれ」
宰相が睨む。
「おそれながら、急な用件でございます」
「退がれ。つまらぬことで陛下のお心をわずらわ……」
「王妃さまがお帰りになりました」
侍女は早口に言った。
「侍従たちがお顔を拝見いたしました。まちがいなく王妃さまでいらっしゃいます」
「どこだ!」
国王は宰相の娘から手を離した。
「どこにおる!」
「すでに内門に入られ、こちらにお向かいあそばしていらっしゃるかと……」
国王は駆けだした。動悸の激しさに、たちまち歩を緩め、宰相とその娘に追いつかれた。
「陛下はごゆっくり。私が先に確かめてまいります」
「ならぬ!」
国王は怒鳴った。
宰相に手を引かせ、息を切らせながら内門の前へ出る。
粗末な幌馬車が止まっていた。幌はまくれており、中は無人だった。御者らしき男がふたり、手持ちぶさたに回りをうろうろしていた。
「レイカは! レイカはどこだ!」
御者らしき男が厩舎を指した。
国王は中に飛びこんだ。
「レイカ! レイカァ!」
暗い中で、人影が動いた。
背の高い女が馬と向きあっていた。何かを抱えている。
「これは、陛下」
よく通る女の声が響いた。
「少し見ない間に、いちだんと丸くなったな」
「レイカァ!」
「入らぬほうが……」
国王の靴の下で、何かがぬめった。
「おわっ」
前のめりに倒れ、腹を打った。
「だから申したのに」
両手に泥がべっとりとこびりついていた。粘着質のそれは、異様な臭いを放った。
「宰相どの、お久しゅう」
レイカは国王の頭ごしに微笑みかける。
「王后陛下、ご無事でなにより」
額で汗が光った。
「今のところはな」
「何をしておる! 起こせ!」
国王がわめいた。
宰相は厩舎に足を踏み入れ、同じようにひっくり返った。
その後ろで、若い女が叫んだ。
レイカは一瞥した後、国王を見下ろした。
「国王陛下にはお願いがございます」
「なんだ、改まって」
「離縁していただきたい」
国王は凍りついた。
「とはいえ、もはや故国へは帰れぬ身。どこぞ田舎にでも住まいをいただき、静かに暮らしたいと存じますが」
「まさか、尼におなりと……」
口を開いたのは宰相だった。
レイカは目を細めた。冷ややかな光がまぶたの下からこぼれた。
「いかようにでも。后の代わりなら、そこにおられるのだから」
「い、いや、レイカ、これは……」
国王が手を振った。
「隠さずともけっこう。噂は耳にしております」
「や、妬くなっ! 予はそなたがいちばん……」
「陛下のお好みなど、どうでもよろしい。私は静かに暮らしたいのです」
レイカの腕で、何かが動いた。
「なんだ、それは?」
「娘です」
こともなげに言った。
「じきに十か月になります」
「娘だと!」
国王は身を起こそうとして失敗した。突きでた腹と重い衣装があだになった。
「仮にリュウカと名づけました。しかし、父君によい名がございますれば……」
「女か!」
国王はため息をついた。
「予は男が欲しかったのに」
レイカの靴が、国王の背にめりこんだ。
「では、他の女に頼むがよろしい。競って世継ぎを生んでくれましょうぞ。私は王子は要らぬ。王位も要らぬ。夫も要らぬ」
「いやだ! レイカ!」
はいつくばったまま国王は叫んだ。
「そなたは予のものだ! どこにもやらぬ!」
「ごきげんよう、国王陛下」
レイカは去りかけ、戸口で足を止めた。深々と一礼する。
「ごきげんよう、宰相どの」
「どうしよう」
国王は頭を抱えた。
「この際、離縁なさっては」
隣で宰相がささやいた。
「跡継ぎの生めない女が実家に帰されるのはよくある話。隣国も文句は言えますまい」
「いやだ!」
国王は叫んだ。
「アレは予のものだ! 誰にも渡さん!」
「では、尼僧院にでも。どこか遠くの院に籠めて……」
「そばにおく! アレは予のものだ! 見たい時に見、会いたい時に会う!」
問答の結果、王都の郊外ウィックロウの離宮に王妃の一党は住まうこととなった。
「けっきょく、離縁はしてくれないんですのね」
はしごを押さえながらマムが言った。
「城から出られただけでもマシだ」
レイカは娘を抱きながら笑った。
「この子に、あれらの悪党面を見せずに済む」
「あたしの予定では、お姫さまのお子が、この国を正しく治めてくださるはずでしたけどね」
「元気に育ってくれればよい」
赤子は目を見開き、周囲のようすをじっとうかがっていた。
はしごからサミーが下りた。玄関に肖像画が増えた。
「やっと終わりましたわね。引っ越し祝いに、おいしいものでも食べましょう」
リリーが言った。
レイカは壁を見まわした。
玄関ホールに並ぶ、歴代の女主人の肖像画。国王の愛妾たち。
「目立つな」
「お姫さまがいちばんお美しいですからね」
リリーが赤子をのぞきこむ。
「ちい姫さまも、きっと美しくおなりですよ。髪も目も鼻も口も、みんなお姫さまによく似てらっしゃいます。あの男に似なくてよかったわ」
「連中とは無縁でいてもらいたいものだ」
リリーはうなずいた。
「まさか、ここまでは追ってこられませんわ」
その予測は外れた。
ふた月ほど経ったある朝、離宮の扉が叩かれた。
「お姫さま、訴えを聞いてほしいと」
レイカは眉をひそめた。
「城の仕事だ。断れ」
リリーは即答しなかった。困ったように立ちつくす。
レイカは言い聞かせるように、やさしく言った。
「おおかた城で謁見を断れ、未練がましく立ち寄ったのだろう。帰ってもらいなさい」
「お姫さまのおかげで、たくさんの女たちが助かったのですわ」
直訴の件か。地方の名もなき貴族を許しただけだ。
「今は名ばかりの后なのだよ。何ができる?」
「来てくださいませ」
リリーは廊下に出ると、窓の外を示した。
「ごらんなさいませ」
雪原に、人の列が続いていた。
レイカは十二まで数えてやめた。その三倍は越えているだろう。
「あの者どもを放ってはおけますまい」
男の声が響いた。廊下を額の広い男が歩いてくる。
「誰だったかな?」
レイカは首をかしげてみせた。
「侍従長の補佐のラノックでございます。現在は侍従長を任ぜられ、城外に待機しております」
さては、直訴の件に荷担したカドで、左遷させられたか。
「そなたか、あれらを案内したのは」
「人の口に戸は立てられません。いずれはこうなりますこと」
「政は城の役目だろう。私がくちばしをはさむことではない」
「おそれながら、王后陛下は現状をご存じない」
左遷された男がかしこまって答えた。
「国王陛下はキャスリーンさまに夢中で、朝は褥《しとね》に、昼からはピクニックにいらっしゃる。宰相殿下の手ほどきで狩りも始めたそうです」
「アレは馬には乗れぬ」
レイカはニヤと笑ったが、目鼻の小さな男は動じない。
「小さな馬車にお乗りです。御者をつけた二輪の馬車です」
「考えたものだな」
「御自らはお手を下されません。宰相殿下をはじめ、臣下が屠るさまをご覧になるばかりです」
アレらのやりそうなことだ。
「城はもぬけの空でございます。謁見はなくなりました」
「私には関わりのないことだ。みなに帰るよう申せ。そなたもおとなしくしていることだな。目立てば災いがふりかかろうぞ」
「給金が滞っております」
「失せろ」
「官吏や兵に踏みたおされ、商家は暮らし向きに困っております。栄えるのは娼館ばかり」
レイカは身を翻した。
「干ばつで西部の農民は苦しんでおります。水を引かなければ、開墾地は全滅でございます。東部では戦の傷跡も癒えてはおりません。親を失った子どもたちが徒党を組み、民家を襲っております……」
自室の扉を閉めた。赤子用のベッドの中から、黒い眼がじっとレイカを見つめていた。
同情を誘う安っぽい決まり文句だ。
まっぴらだ。権力など、欲しい者同志で奪いあえばいいのだ。
娘を抱きあげると、胸に重みがのしかかった。
「野駆けに行く。子爵を呼べ」
部屋を出て、リリーに言いつけた。
「お待ちください、陛下」
追いすがる王妃づき侍従を蹴りとばした。
娘は何も言わず、身動きもせず、一部始終をじっと見ている。
欠けているのではないか?
不安になる。
懐妊中の不安が、生育を妨げてしまったのか。
それとも、早産がよくなかったのか。
いや、発熱をくり返したのがいけないのかも知れない。
長くはないのだろうか。
裏口から出た。娘を馬の背にくくりつけ、雪原に伸びた細い道を歩く。風は冷たいが、薄い雲を通した日差しは強くもなく弱くもない。
娘は頬を赤くして、周囲を見まわし、耳をそばだてる。
「ドリスやエルシーもこのようだったか?」
先をゆくイリム子爵はふり返り、申しわけなさそうに首を振った。
子育てはすべて妻任せで、知らないのだろう。
醸造所へ寄ると、騒がしかった。
「人が増えたもので」
主人が頭をつるりとなでた。白い頭髪が、耳の辺りにわずかに残る。
「この時期にか? 景気がよいものだな」
レイカは銀貨を置いた。
「ご存じないので?」
主人の広い額にしわが寄った。
「この先のキットヒルんとこの醸造所をお偉い貴族さまがお買い上げになったんですよ。つぶしてお屋敷にするんだとか。私どもは御方さまにお役立てなさるとうかがったんですが?」
上目づかいに酒瓶を二本差しだす。
「聞いておらぬな」
「キットヒルんとこはオヤジが年ですからね。息子たちだって、みんな兵隊にとられちまったし。今のうちに売れて、あいつぁツイてましたよ」
では、人が入ったというのは、そこの雇われ人か?
「戦が終わって、日が経つだろう。息子たちは帰ってこなかったのか?」
「帰ってきたさ! 腕も腹もなくしてな!」
髪をくしゃくしゃにした少年が、主人の後ろに立っていた。両手に肥えた猫を抱えている。
「うちには寝たきりの病人ばっかりだ! オレがおとなになるまで、待てなかったんだよ!」
レイカを睨みつける。眼の中には憎悪の炎が見えるようだった。
「貴族なんか、大っ嫌いだ! オレたちから金を巻きあげては、そいつでオレたちの頬っぴたを叩きやがる! 誰が稼いだ金だと思ってるんだ、このタダメシ食らい!」
レイカの腕に目を止める。
「まだタダメシ食らいを増やしやがったのか!」
肥えた猫を投げつける。
レイカは身を引いた。猫が身をひねらせて華麗に着地する。
「このアホウ!」
主人が手をあげる。
レイカは二の足を踏んだ。腕にはリュウカがあり、蹴るわけにもいかない。
くぐもった音が響いた。
大柄な男の袖がへこんでいた。
主人が頭まで青くなった。
「申しわけ……」
「あんたが悪いんだ! 飛びだしてくるから!」
少年が逃げた。
イリムは黙って退がった。
「かさねがさね申しわけ……」
「よいのだ」
レイカは苦笑した。
長年の友は猫を拾いあげた。
レイカの腕の中で、娘が珍しく身動きした。興味深げに手を伸ばす。
「おやめになったほうが」
猫を近づけるイリムに主人が言った。
「ねずみ取りの猫でございます。どこで何に触っているか……」
「酒蔵にねずみか?」
レイカがおもしろそうに訊ねる。
「酒になる前の麦を守るのです。こんな図体でも、なかなか効きめはありまして」
役立たずは、われらだけか。
レイカは酒瓶を携えて帰途についた。
離宮の裏口では、ラノックが待っていた。
「そなたもしつこいな」
迎えに出たリリーに酒瓶を渡す。
「聞いたぞ。醸造所を買い取ったとか」
「お耳がお早い。謁見のためのホールと宿泊部屋を造っております」
「雨露はしのげるか?」
「それはもう。二日ほどお待ちいただければ陛下にお似合いの装飾を……」
「表の者たちを案内してやれ。そこで会う」
ラノックの顔がゆがんだ。
「お待ちください。まだ天蓋もじゅうたんも……」
「ここは狭い。大勢は入れぬ」
「ひとりずつお招きになれば」
「野ざらしか? あまり美しい絵ではないな」
娘を馬から下ろす。
「マム、出かけてくる。リュウカを頼む」
マムが奥から駆けてくる。
「どこへいらっしゃるんですか?」
「食い扶持を稼ぎにな」
「陛下、いかがなさいました」
鼻にかかった甘ったるい声が訊ねた。
「予は……男としてはどうなのか」
「ご立派ですわ」
スプーンを置いて、若い女は言った。
「たくましくて魅力にあふれていらっしゃいますわ。お声をかけられて喜ばない女はおりませんでしょう?」
国王は深々とため息をついた。
「昼前、予は例の離宮に寄ってみたのだ。田舎暮らしで不自由しておると思ってな」
「まあ、なんておやさしい!」
女が両手をあわせて叫ぶ。
「だが、追いだされてしまったのだ。謁見の時間だとか言われてな」
「さすがは王后陛下。かしこくあられる」
宰相が手を叩いた。
「予と仕事とどちらが大事なのだ。だいたい、あんな男を連れ歩きおって」
「と言いますと?」
「いつもレイカの後ろについて歩いている気味の悪い男よ。隣国から連れてきた」
「イリム子爵ですな。口の重い信頼に足るお方です。王后陛下はご趣味がよろしい」
「無礼な大男だぞ。予が近づいても、にこりとも笑わぬ! バカにしておるのか!」
「とんでもございません。王后陛下は、ただ、田舎でございますから、お心細くもあられるのでしょう。陛下なきお心のすきまを埋めるには、あれぐらいの男でなければ」
「予は、あの程度か? あんなに愛想がなく、あんなに暑苦しいか?」
「どんな男でも、国王陛下には及びますまい。ほんの間に合わせでしょう。剣や馬をたしなむという話ですから」
「予がそういうものをせぬは知っておろう!」
「さよう。国王陛下には先んずべき事柄が山ほどございますからな。しかし、王后陛下のお心をお慰めするには、ちょうどよろしいのでしょう」
「あの男が! あの男が!」
国王は奥歯をギリリと噛んだ。
「あいたた……」
あごを押さえる。
「陛下、痛みますの?」
女が国王の顔をのぞきこむ。
「デザートだ、やわらかいのを持ってこい!」
国王は声をあげた。
壁際に控えていた侍女たちが退がる。
くそっ。いまいましい虫歯め!
「ときに、王女殿下はお元気でしたか?」
「知らん」
予が欲しいのは王子だ。女など、嫁に行って終わりではないか。育てる価値もない。
「聞くところによれば、王女殿下は、アイリーンとそうお変わりないのだとか。もう、ふたつにおなりというのに」
「まあ、うちのアイリーンと、ひとつと違いませんのに」
女が大げさに驚いてみせる。
「ご病気がちだとも聞く」
「では、王妃さまのお血筋でしょうか。うちのアイリーンは風邪ひとつひきませんもの」
「それに、ほとんど口をきかれないそうだ」
「まあ。うちのアイリーンは、もう、ママパパが言えますわよ」
「しかし、馬は怖がらぬとか」
「信じられませんわ。獣じゃありませんの」
馬など、大嫌いだ。
病だと? 予は、あのおそろしい流行病を乗りきったのだぞ。おまけに、無口だと?
「どなたに似られたのでしょう」
「出かけてくる」
国王は椅子を蹴った。
「陛下、本日の狩りは……」
「やめだ、知るか!」
箱馬車に乗りこみ、侍者とともにすわっていると、思いはますます燃えるようだった。
予を笑顔で迎えてくれ。恋しくてたまらなかったとひざまずいてくれ。あんな男など眼中にはないと踏みつけてくれ。
窓の外は、いつしか緑と白に彩られていたが、国王の目には入らなかった。
離宮に着くと、車輪の止まるのももどかしく、外に飛びだした。
侍者が後ろから叫んだ。
「陛下! お靴が汚れます!」
「お姫さまはお留守ですよ」
馬車の音を聞きつけたのか、マムが玄関の扉を開けて立っていた。
「さきほども、申しあげましたでしょう。夕方までお帰りになりません。お待ちになるというなら、かまいませんけどね」
「呼べ! 今すぐあれを呼べ!」
「ご自分の侍者でも行かせてください。お姫さまがお聞き入れなさるとは思えませんけど」
国王は頬を赤く染めた。
侍女の顔に拳を入れた。
驚く顔が小気味よかった。
侍女はあおむけに倒れ、何か叫んだ。
「予は国王なるぞ!」
国王は腹を蹴った。
つま先に痛みが走った。
こんなことなら、先の固い靴を履いてくるんだった。
「こいつをぶて」
侍者に言った。
「何を用いましょうか。棒で? 鞭で?」
「鞭があるのか?」
「あの通り」
侍者が示す先には御者台があった。
国王は満足そうにうなずいた。目が光っていた。
「鞭にしよう」
侍女が逃げだした。
「追え! 追え!」
侍者が走った。
先回りしてやろう。
国王は離宮をぐるりと回った。
裏庭に出た。
低木が一面に生い茂っていた。
知っている。
既視感に襲われ、我を忘れる。
もっと若かりし頃。
王位に縁のない、田舎出の青二才でしかなかった頃。
細かい枝葉をかきわけて忍びこんだのだ。
名も知らぬ、異国風の姫。
容赦なく背を踏み、高らかに笑う凛々しい姫。
ただただ、あの黒い眼に見つめられたくて……。
夢想はとつぜん破られた。
白い花に彩られた濃緑の枝の間で、黒いものが動いたのだ。
姫!
駆け寄った。
それは、子どもだった。
肩までそろえた黒い髪。幼い顔は青白く、黒い眼が国王を見つめている。
間違うはずはなかった。
これは、レイカが生んだ、あの男の……。
頭の芯が熱くなった。
夢中だった。
首は細く、両手をかけると、たちまち事は済んだ。
子どもは抗いもせずに正体をなくした。
放り投げると、低木の上に落ちた。
「リュウカ!」
女の声があがった。
ふり返ると、黒髪の女が向かってくるところだった。
「レイカ! 帰ったか。夕方になるとか申しておったが……」
女は国王を素通りし、幼児に駆け寄った。
息を見る。
背中でも踏んでやれ。
国王は見下ろしながら思った。
もう手遅れだがな。
女は幼児の顔にかぶさった。
「息がもどった。イリム、医師を!」
駆けだそうとする男の前に、国王は立ちはだかった。
「なんで予が背中で、それが口なのだ! この男の子がそんなに大事か!」
幼児をさらった。
「始末してくれる!」
頭上に掲げたものを、渾身の力をこめて足下に叩きつける。
狙いはそれ、地面ではなく、低木に落ちた。茂みに沈んで消えた。
細かい葉と小さな花が舞った。
国王は剣を抜いた。
トドメを刺してやる!
重い音が響いた。驚いて見やると、大柄な男が倒れていた。辺りが赤く染まっている。
「陛下、ご覧ください。不貞の輩は始末いたしました」
国王は凍りついた。
あっけなく事切れた男と、流れ出る血に、思考が止まった。
「リュウカはまごうことなき陛下の娘でございます」
長い指が、剣を奪う。
「もう、お心をわずらわせることはございません。どうぞ、中へ。茶をお淹れしましょう」
一面の緑と白の中を、黒髪の美女に手を引かれて進む。
これは、言い伝えか?
国王は夢心地に思った。
黒龍の姫に導かれし国王。
成就した、と思った。
三日を過ごして、国王は戻った。
「イリム夫妻は、どうした?」
馬車がヒース野原の向こうに消えると、レイカは訊ねた。
「はい。葬儀を済ませてございます」
マムが言った。
「無縁墓地に葬りましたので、明るみになる恐れはないかと」
骨の山だ。誰の骨とは区別がつくまい。
「無事、国境を越えたかな」
「今さら、赤イタチが動こうと間に合いませんとも」
マムが東の彼方を見やった。
「傷の具合は?」
「深手でしたから。動くのがやっとで」
『逃げろ』
ささやいて斬りつけた。
意味をさとったのだろう、あのまま動かずにいてくれてよかった。でなければ、さらに斬らねばならなかった。
両手を見る。
娘と友を救うには、ほかに手だてはなかったのか。
「色じかけか」
苦笑する。
まるでビンズイ、あの人のようだ。我が子を王の娘だと言い張り、男をたぶらかす。
「血は争えぬな」
「まったくです」
マムがうなずいた。
「ちい姫さまときたら、将来大物におなりですよ。あんな目に遭われたというのに、外に出たがって」
「散歩に連れていってやろう。それから、ラノックを呼べ。三日も政を休んでしまった」
侍従長が着くまでの間、我が子を連れて外に出る。
鞍の前部にまたがる幼児の首は、あざになっていた。腕や顔はすりきずだらけだった。
「ヒースに守られたな」
つぶやきは風に消えた。
視界はいやに寒々としていた。
あれは大きかったからな。
レイカは薄く笑った。
いつも視界をふさいでおって。消えてみると、なるほど、世界は広々としておるわ。
幼子の髪に水滴が落ちた。
小さな手が伸び、青白い顔が空を仰いだ。鞍にくくりつけられているため、ふり向くことはできなかった。
その背で、レイカは声を殺した。
助けてくれ。
友は去り、夫は子の命を狙い、民はすがってくる。
何を頼りに生きよというのか?
この地獄から、誰か救い出してくれ。
短い散歩から戻ると、侍従長が待っていた。
我が子を鞍から下ろす。
「王女殿下は、おケガを?」
幼い娘はレイカにしがみついた。
「人見知りですかな」
「今日からこの子を連れ歩くことにした。面倒をかけるが」
「さしあたって、警護をつけましょう」
ラノックは、首のあざを見つめながら言った。
「勇猛果敢な龍の子でも、ヒナのうちはただの仔猫ですからな」