〜 リュウイン篇 〜

 

【九 呪詛(三)】

 

 

「また贈り物が」

 書を読むレイカに、リリーが言った。

「赤い大輪のバラがたくさん。お菓子と、旅行用のお召し物が二着、乗馬用のブーツが二足と、帽子がみっつ、大きなエメラルドの指輪に真珠のネックレスとイヤリング、サファイヤの髪飾り。帰国してから換金いたしましょう。それにしても、明日から当分こんな物を受け取らなくていいと思うと、ホッとしますわね」

「毎日手間をかけさせるな」

 窓から夜風が吹きこんだ。ほてった体に心地よい。

「湯冷めなさいますよ」

 リリーが窓を閉める。

「お姫さま、国王から晩餐の呼びだしが。今宵はテネラ侯のお館にいらっしゃるとか」

 マムがリビングにもどってくる。

「ああ、あそこには美人の奥方と娘がいたな。どちらが目当てなのか」

「もうお断りしましたけど、よろしいですね?」

「ああ。形式にすぎぬ。のこのこ出かけては、アレも迷惑だろう。私ではなく、奥方や娘と踊りたいのだからな」

 扉を叩く音がした。

 三人は顔を見合わせた。

「赤イタチかしら? まったく、しつこいんだから!」

「違う。あやつなら、そのまま入ってくる」

「確かに、赤イタチめはドアなんか叩いた試しがございませんわね」

 マムが戸口により、すぐにもどってきた。

「さきほど贈り物を持ってきた侍女がもどってきたんですわ。これを、お姫さまにと」

 小さな封書を渡す。

「妙だな」

 裏返してレイカはつぶやいた。

「封は閉じてはあるが、封蝋がない」

 中には、小さな紙切れが入っていた。

『窓をお開けください』

 レイカは書をテーブルに置いた。

「弓を」

 マムがクローゼットから弓を持ってくる。

「影にひそんでおいで」

 ふたりにささやくと、窓際に寄り、矢の先で窓を押し開いた。

「誰だ」

「スタッグ・ラノックでございます」

 男のささやき声が返ってきた。

「矢をお納めください」

「知らぬ」

「本日、お声を賜りましたではありませぬか」

「顔を見せろ」

「では、矢を……」

「見せるのが先だ」

 壁際からそっと人影が現れた。窓から漏れる明かりに黒髪が浮かびあがった。

 広い額に小さな目鼻、強い眼光。ゴスコット侯の補佐である。

「何の用だ」

「ですから、矢を……」

「下ろせば衛兵を呼ぶが、どちらがよいか」

「陛下、私は陛下の御ために……」

「それは、私が判断する。用を言え」

「陛下のお役に立ちたいのです。ゴスコット侯はお役目を下ろされました。私が謁見の間の一切を任されました」

「どうせ、宰相の小間使いだろう」

「いいえ、とんでもない! 私は感激したのです。陛下はまさに臣民のことを考えていらっしゃいます。本日のお裁き、お見事でございました。陛下こそ、我が生涯をかけてお仕えする方です。ぜひ私めを手足としてご用立てください」

「立ててもよいが、タダというわけにはな」

「これは私としたことが」

 スタッグ・ラノックは矢を見つめながら、静かにかがんだ。

「これを」

 震える手に、かよわいスミレが握られていた。

 レイカは片頬で笑った。

「帰れ」

「陛下……」

「申し出は考えておく。帰れ」

「はっ。ありがたき幸せ」

 レイカは窓を閉め、矢をおろした。

「お姫さま」

 マムとリリーが駆け寄ってくる。額は青ざめ、瞳は揺れている。

「何者でございます」

「侍従長の代理だ。私の味方になると申しておった」

「それはよかった!」

 と、リリー。

「信用してよろしいのですか」

 と、マム。

「どうかな」

 レイカは首をかしげた。

「宰相のスパイかも知れぬ。それとも、ただの野心家か。せいぜい利用させてもらおう。バカではなさそうだからな」

「どうしてわかりますの?」

「私が賄《まいない》を催促したろう? 庭のスミレを摘んで応じおった」

「なるほど。お姫さまが賄賂を要求するわけないと踏んだわけですね」

 マムの言葉にレイカはうなずいた。

「味方を作ろう。足場を固めておかねば」

「そうですわね。お子が将来この国をよく治められますように」

「気が早いな」

 レイカは笑った。

「子を守ってもらうためだ。産まれても無事育つとは限らん」

「じゃあ、あのスタッグなんとかって男は信用できますの?」

 リリーが訊ねた。

 レイカは首を振った。

「さあ、どうかな。だが、ジャマしなければじゅうぶんだ。今日のように。直に裁ければ、恨みも買おうが、味方もできよう。そういえば、今日の近衛の顔を見たか?」

「どの近衛です?」

「デュール・ヒルブルークといったかな。最近、謁見の間の出入り口におるだろう」

「『王后陛下のおなり』って言う人ですね? よく名前なんか覚えていらっしゃいますね」

「私が裁決するたび、視線がな。ただでさえ、私を女神かなにかと誤っておるようなのに」

「では、その近衛が、まずお姫さまのお味方になりそうですわね」

「やめておけ」

 レイカは笑った。

「純真さは美徳だが、さしたる力はない。巻きこまず、そのまま捨てておけ。時間を置かずして、役立つ者が近づいてくるさ」

 


「冷えますわね」

 リリーが馬車に乗りこんだ。

 息が白い。

 レイカが歩を進めるたび、足下でシャリシャリと小気味のいい音が鳴る。

「どうか、お気をつけて」

 侍従長補佐のスタッグ・ラノックが手を差しだす。

「ひとりで乗れる」

「しかし、私の立場が……」

「知らぬ」

「王妃さま、行ってらっしゃい」

 イリム子爵夫人の足下で小さいエルシーが手を振った。

「違うでしょ。ごきげんよろしゅうって言うのよ」

 姉のドリスがたしなめる。

 イリム子爵は無表情だが、視線は落ちつきなくさまよった。。

 レイカは微笑んで手を振った。

 馬車が出発すると、リリーが大きく体を震わせた。

「私、寒いのは苦手ですわ」

「そばにお寄り」

 レイカはマントの端を広げてリリーの肩にかけた。

「来ることはなかったのに。これからもっと寒いところに行くのだぞ」

「お姫さまがいらっしゃるなら、私も参ります! だいたい、ウルサの言葉がわかる者が、一行の中にどれだけいるんです!」

「あたしたちは、パーヴの王宮で聞いてるからねぇ」

 マムはため息をついた。

「片言しかしゃべれないにしても、日常語はだいたいわかる。しかし、リュウインの連中ときたら!」

「長らく国交が途絶えておったのだ。ムリもない」

 レイカは揺れるカーテンのひだを見た。

「リュウインの西や南に国はなく、北には大国ウルサ、東にはパーヴが接しておる。さらに東には小国がいくつもあり、山脈を経て海に出るという。リュウインが交易をするにはウルサとパーヴを無視するわけにはいかぬ」

「海って、湖みたいなものでしたわよね」

「私も聞いただけだ。イリーンの大使がアラワースで聞いたとか。海から商人が来るのだと。気球を飛ばしたあの者も、山の向こうに海があり、人がいたと申しておった」

「やっぱり、魚や貝や水草があるんでしょうかね」

「何もかも大きいとか」

「では、大きいだけで、ただの湖じゃございませんこと!」

 マムは笑った。

「龍がおるかも知れぬ」

 レイカは真面目に答えた。

「気球の者は、そこで雲が造られると申しておった。ならば、そこに龍がおり、雲を造って運んでおるのかも知れぬ。大きな魚が数多おるなら、そのひとつが龍であってもおかしくはあるまい?」

「では、お姫さまも海からいらしたのですか?」

 マムはからかった。

「それより、赤イタチ、見送りにおりませんでしたわね。マヌケ面はともかくとして、こういうことには抜け目がないと思いましたのに」

「私も気になっておる」

 その疑問は昼頃解けた。

 馬車から降りようとすると、御者が手を差しだした。

「まあ、赤イタチ……じゃなかった、宰相さま」

 マムが頬を覆った。

「お手をどうぞ、王后陛下」

「のけ」

「お手を」

「言葉が通じぬとみえる。誰ぞ! この赤牛をのけよ! 出口をふさいでおるぞ!」

 宰相はさがった。

「どこまでついてくる気でしょうね」

 マムがささやいた。

「足手まといにならねばよいが」

 レイカは眉をひそめた。

 その心配は現実のものとなった。

 馬車で四日の予定が、八日でウルサ山脈の裾野に到着した。

「大隊では山を越えられぬ」

 業を煮やして、レイカは御者に言った。

「幾度言ったらわかる」

「ご心配なく。山道は馴れております」

「峠は雪になるぞ」

「そういえば、侍者がそのようなことを申しておりましたな」

「私が伝えるように申したのだ」

「雪道など、馴れております。おそるるに足りません」

「峠の雪道は平地などとは比べ者にならぬ」

「私の兵は雪の中、王后陛下のお国と戦ったこともあるのですよ。お任せあれ」

 里でレイカは人員を減らし、装備を整えた。前もって作らせていたのである。

 しかし、宰相の隊は装備を替えなかった。

 替えられなかった、と言ったほうが正しい。

 金を積もうが脅してみようが、ないものはなく、かと言って王妃の隊から奪いとるわけにもいかなかった。

「紛れこむまではよかったですけどね。後があんまりお粗末じゃございませんか」

 マムがささやいた。

「しょせん、モーヴ殿下のまねごとですからね。モデルが悪すぎますよ」

 懐炉を抱きながらリリーは言った。

 峠を待たずして雪は深まり、里で手に入れた馬はわかんを履いてソリを引いた。雇った里人は、よくソリを操った。わかんをつけて馬のそばを歩き、右に左に難所を避け、吸いこまれるような雪の中に声がよく通った。

 新参の隊のソリは人が引いた。大金をはたいて雇った里人は鼻つまみ者だった。ソリは下りでしばしば暴走し、幾人もの兵が負傷して山を下りた。宰相は最初の転倒で荷物もろとも雪に埋もれ、以来、ずっとわかんで歩き通しだった。

 道が険しく細くなると、ついに新参者たちは前に進めなくなった。

「下りよ」

 レイカは言った。

「山を下りよ。我らは峠を越え、山向こうの村から馬に乗る。しかし、そなたたちには馬はなく、用立てることもできまい。我らの貨幣は通用せぬのだ」

「貨幣以外にも、馬を求める手だてはありましょう」

 雪にまみれた小男は答えた。

「では、試みるか? 物も価値も言葉も異なる土地で我らを追えるか? そなたたちを待つ余裕はない。王太子の婚礼が終わってしまう」

 小男は歯がみした。

「もう気が済んだろう。身のほどをわきまえよ。言葉ひとつ知らず、我らにぶらさがる気であったか」

「私と側近数人なら、なんとかなりましょう」

「まだ言うか!」

「このように厳しい山行を、麗しき王后陛下だけに強いたとあっては、男がすたります」

 宰相は歩き始めた。平らに見えたその道が、もろくも崩れた。

「お姫さま!」

 リリーが叫んだ。

 レイカは宰相とともに雪の中を落ちていった。

 


 宰相が首を振った。

「ここは?」

「寝ておれ」

 ほの暗い中で、レイカはビスケットを宰相に放った。乱れた髪が肩からこぼれる。

「ここはどこです? ずいぶん狭い……」

 薄闇の中で青みを帯びた壁が迫っていた。

「雪洞だ。かなり落ちたようだな」

「陛下。崩落に巻きこみ、申しわけございません」

「雪庇に踏みこむからだ」

「陛下は私に手を差しのべてくださいました。腕をおとりになったこと、覚えております」

「ほう。頭は明晰なようだ、残念だな」

「感謝いたしております。しかしながら、陛下は私のことをお嫌いとばかり」

「反射的なものだ。気にするな」

「雪洞まで掘られ、私まで中に入れてくださるとは」

「もののついでだ」

 レイカは消えかけた固形燃料の火をロウソクに移した。沸いた湯をカップに注ぐ。

「温まるぞ」

 カップの中には干し肉が溶けていた。

「恐縮でございます」

 カップを受け取り、周囲を見回す。

「陛下は?」

「後でもらう。器はひとつなのでな」

「では、陛下がお先に」

「とっとと飲め。残りの湯が冷める」

 固形燃料の火は消えていた。

 宰相は、ほぼひと息に飲み干した。

「ごちそうさまでした」

 レイカはあきれた。

「やけどしただろう」

「陛下こそ、早くお温まりください」

 ため息をついた。

「あきれたヤツだ。これが我らを出し抜いて権益を得ようとする者か」

「権益とは?」

「ウルサと密約でも交わしにきたのだろう。交易は私腹を肥やすには絶好だからな。察しはついておる」

「ご明察おそれいります」

「すなおに吐いたな」

「しかし、それはもののついで」

「ほかに目的があると?」

「大それた望みなれば」

 レイカは鍋をカップに傾けた。

「何を欲しておる?」

「陛下のみ心を」

 思わず吹きだした。手が滑り、鍋が膝に落ちた。

「失礼!」

 宰相がすばやくコートをまくりあげたが、湯はキュロットにしみていた。

 レイカは立ちあがりかけ、足首を押さえた。

 宰相が雪洞から飛びだし、雪を運んでキュロットに当てた。

「おみ足に痕が残らねばよいのですが」

「わからぬ男だな」

 レイカは首をかしげた。

「嫌っておるのは、そなたのほうだろう。私の子をふたりも殺しておきながら。いっそ、ここで私を始末したらどうだ」

「陛下こそ、私を八つ裂きにするよい機会ではございませんか。なぜ、お助けになります?」

 レイカは深くため息をついた。

「陛下、お慕いしております」

「ざれごとを」

「ともに、国を治めましょう」

「すでに、そなたが治めているようなものではないか」

「いえ。王冠は別のところにございます」

「国王になりたいのか?」

 冷笑を浮かべる。

 そばにいながら、宰相はますます間合いを詰めた。

「私は賤しき生まれ。冠をいただくことなど、誰が許しましょうか」

「生まれの賤しさなら、私もひけはとらぬ」

「陛下は違います。隣国の王女として輿入れなされた。私はどこまで行きましても臣下。決して王族にはなれませぬ。しかし、子ならば」

「それで私が憎いのか。娘を嫁がせる障壁となるゆえに」

「おそれながら、陛下、私には娘も息子もおりません」

「子ができぬのか」

 レイカは眉をひそめた。

「おやさしい陛下。憐れみは不要でございます。子は数多恵まれました」

「病を得たのか?」

「いえ」

「まさか、始末を……」

「場合によっては、いたし方なく。しかしながら、多くは他家の子として生きております」

「なるほど。どこぞの奥方に手を出したと」

 育ての父は、知らずに、この男の子を育てさせられているというわけか。

 宮廷で人妻と関係するのは珍しいことではない。

「陛下。ご伴侶にどれだけの愛妾がおわすかご存じでしょうか」

「そなたがあてがっておきながら」

 皮肉な笑みを浮かべる。

「私が? おそれながら、その気のないお方には手だてはございませんわけで」

「アレが悪いと申すか」

「では、お教え願いたい。誰が宰相ならば気に入るのです? 誰を宰相に据えおけば、ご伴侶がよき夫、よき君主におなりで?」

「確かに、宰相に足る人材は見あたらぬ。どれもこれも私腹を肥やそうと待ちかまえておる。しかし、そばに私がついておれば、少しはマシな君主になろうというもの」

「ご伴侶が、陛下のお言葉をお聞き入れなさると? 甘言を数多ささやかれるお立場で、陛下のお諫めにお耳を傾けると? わずかでもお気持ちさえございますれば、臣下の言葉などに鼻であしらい、陛下のもとにお渡りできますはずの、あのお方がですか?」

 レイカは唇をかんだ。

「どうぞ、ご存分に私をお責めください。お気持ちがお済みになるのでしたら。しかし、私さえいなければ、陛下はお幸せになれたとおっしゃるのですか? 私さえいなければ、頭脳明晰な君主、慈愛深き君主になったと?」

「言うな」

「陛下。陛下は国母として崇めたてまつられるお方です。このような粗暴な扱いに甘んじてはなりません」

「何を今さら。そなたは私の子を……」

「陛下のお子に手を下したのではございません」

「ふざけるな!」

「あれは玉座に居座る男の子でございます」

 レイカは口をつぐんだ。

「麗しい陛下。陛下のお子ならば、みめ麗しくご聡明でしょう。民ももろ手をあげて歓迎することでしょう」

「何が言いたい?」

「ともに国を治めたく……」

 レイカの背筋に悪寒が走った。

「わ、私に、そ、そなたは……」

 みなまで言えなかった。

「かしこき陛下。あらゆる女の頂点にあらせられる陛下。この世にこれ以上の母がおわしましょうか。陛下、私ならば、あの男のような非情な仕打ちはいたしません。一生、国母としてお守り申しあげます。陛下は何ひとつ失うことはなく、ただお子をお慈しみになっていらっしゃればよろしいのです」

 この男は、私に子を産めと。誰でもない、この男の子を。

「全力でお守りいたします。陛下もお子も。ご伴侶のように口先だけではございませぬぞ。必ずや陛下のお子を玉座におつかせ申しあげます。そして、ともにこの国を治めましょうぞ」

 答えるべき言葉は見つからず、ただ目を見開く。

「ご聡明な陛下はご承諾なさいます。断ることなど、どうしてできましょう。今の暮らしのどこに、女として幸せがございますか? 夫にはかえりみられず、美しいお姿は賞賛する者なく老いていくのですぞ。私なら、陛下をじゅうぶんに満足させることができます。陛下、承諾なさい。うなずくだけでよいのです。あなたは美しい。夜ごと胸に抱かれれば、もはや馬や剣などで気を紛らわす必要などないのだ。気を張って男勝りに振る舞うこともない。まことのあなたはかよわき聖女だ。馴れぬ隣国で、宮廷のしきたりや男どもの勝手な言いぐさに振り回され、おそれおののいているのだ。だが、それも昨日までの話。あなたを守ろう、オレが……」

 やにわに、レイカは笑い声をあげた。

 宰相の派手な抑揚つきの滑らかな舌が止まった。

「かよわき聖女か。剣や馬は満たされぬ欲求の代償か。あいにくだったな。女の幸せなど欲しておらぬ。相手を選んで口説け、色男め」

 宰相は黙し、背を向けて寝転がった。

 数ニックを経て、雪洞の入口が明るくなる。

 レイカは雪を温めて干し肉を溶かした。宰相に与えて、後に自らも飲んだ。

 どちらも、何も語らなかった。

 やがて、遠くに人の声が聞こえた。

「お姫さまぁ!」

「宰相さま!」

「助けがきたようだな」

 レイカは荷物をまとめて雪洞を出た。

 ゆっくりと足を運ぶ。

「ここだ!」

 大声で叫び返す。

 歩くのは難しそうだが、ソリや馬に乗れば先へ進めるだろう。さしたる障害にはなるまい。

「陛下。昨夜のことは……」

 背で、宰相がつぶやく。

「忘れろ」

 レイカはふり向かずに言った。

「私と子のことは放っておけ。王位にも興味はない。欲しいならくれてやる。だが、ほかの方法を考えろ」

「黙っていると?」

「我らに手を出さなければな。静かに友や子と暮らせればじゅうぶんだ」

「子ですと? まだ、あの男に執着なさいますか」

「何をバカな」

「では、ほかの男の?」

「くどい」

 何かを斬る音がした。

 レイカはふり向いた。

 宰相の右手にナイフが握られていた。

 見覚えがある。レイカの荷物から抜き取ったに違いなかった。

 左手には、黒髪がひと房巻きついていた。

「いつのまに」

「ごきげんよう、麗しいレイカ姫」

 強い力で突き飛ばされた。

 くじいた足首は、体勢を保つことができなかった。二、三歩よろけて倒れた。

 雪はもろくも崩れた。なだれ落ち、雪煙があがった。

 視線をあげると、真っ白に化粧した木々の向こうから、馬と人とが姿を現した。

「お姫さまっ!」

 マムが叫んだ。

 宰相は一行の中に部下の姿を認めた。手をあげる。

「やべっ!」

 低い女の声が、雪煙を貫いた。

「はあ、やべっ!」

 馬にまたがった女が、崩れた雪庇に飛びこんだ。

 リリーが持っていた荷物を、続けざまに放り投げた。

「おっかね。いんごげね……」

 足のすくんだマムの腕をとり、崖に飛びこむ。たちまち姿は雪煙の中に消えた。

 宰相はあっけにとられて、見送った。

 それから残りを見渡し、手をあげたまま言った。

「王后陛下は不慮の事故でお亡くなりになった。異論のある者は?」

 剣を構えた部下たちに囲まれて、王妃の一行たちは黙した。

 宰相は満足げにうなずいた。

「では、国へ引き返そう。早く陛下を弔ってさしあげねば」

 

 

   

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