「また贈り物が」
書を読むレイカに、リリーが言った。
「赤い大輪のバラがたくさん。お菓子と、旅行用のお召し物が二着、乗馬用のブーツが二足と、帽子がみっつ、大きなエメラルドの指輪に真珠のネックレスとイヤリング、サファイヤの髪飾り。帰国してから換金いたしましょう。それにしても、明日から当分こんな物を受け取らなくていいと思うと、ホッとしますわね」
「毎日手間をかけさせるな」
窓から夜風が吹きこんだ。ほてった体に心地よい。
「湯冷めなさいますよ」
リリーが窓を閉める。
「お姫さま、国王から晩餐の呼びだしが。今宵はテネラ侯のお館にいらっしゃるとか」
マムがリビングにもどってくる。
「ああ、あそこには美人の奥方と娘がいたな。どちらが目当てなのか」
「もうお断りしましたけど、よろしいですね?」
「ああ。形式にすぎぬ。のこのこ出かけては、アレも迷惑だろう。私ではなく、奥方や娘と踊りたいのだからな」
扉を叩く音がした。
三人は顔を見合わせた。
「赤イタチかしら? まったく、しつこいんだから!」
「違う。あやつなら、そのまま入ってくる」
「確かに、赤イタチめはドアなんか叩いた試しがございませんわね」
マムが戸口により、すぐにもどってきた。
「さきほど贈り物を持ってきた侍女がもどってきたんですわ。これを、お姫さまにと」
小さな封書を渡す。
「妙だな」
裏返してレイカはつぶやいた。
「封は閉じてはあるが、封蝋がない」
中には、小さな紙切れが入っていた。
『窓をお開けください』
レイカは書をテーブルに置いた。
「弓を」
マムがクローゼットから弓を持ってくる。
「影にひそんでおいで」
ふたりにささやくと、窓際に寄り、矢の先で窓を押し開いた。
「誰だ」
「スタッグ・ラノックでございます」
男のささやき声が返ってきた。
「矢をお納めください」
「知らぬ」
「本日、お声を賜りましたではありませぬか」
「顔を見せろ」
「では、矢を……」
「見せるのが先だ」
壁際からそっと人影が現れた。窓から漏れる明かりに黒髪が浮かびあがった。
広い額に小さな目鼻、強い眼光。ゴスコット侯の補佐である。
「何の用だ」
「ですから、矢を……」
「下ろせば衛兵を呼ぶが、どちらがよいか」
「陛下、私は陛下の御ために……」
「それは、私が判断する。用を言え」
「陛下のお役に立ちたいのです。ゴスコット侯はお役目を下ろされました。私が謁見の間の一切を任されました」
「どうせ、宰相の小間使いだろう」
「いいえ、とんでもない! 私は感激したのです。陛下はまさに臣民のことを考えていらっしゃいます。本日のお裁き、お見事でございました。陛下こそ、我が生涯をかけてお仕えする方です。ぜひ私めを手足としてご用立てください」
「立ててもよいが、タダというわけにはな」
「これは私としたことが」
スタッグ・ラノックは矢を見つめながら、静かにかがんだ。
「これを」
震える手に、かよわいスミレが握られていた。
レイカは片頬で笑った。
「帰れ」
「陛下……」
「申し出は考えておく。帰れ」
「はっ。ありがたき幸せ」
レイカは窓を閉め、矢をおろした。
「お姫さま」
マムとリリーが駆け寄ってくる。額は青ざめ、瞳は揺れている。
「何者でございます」
「侍従長の代理だ。私の味方になると申しておった」
「それはよかった!」
と、リリー。
「信用してよろしいのですか」
と、マム。
「どうかな」
レイカは首をかしげた。
「宰相のスパイかも知れぬ。それとも、ただの野心家か。せいぜい利用させてもらおう。バカではなさそうだからな」
「どうしてわかりますの?」
「私が賄《まいない》を催促したろう? 庭のスミレを摘んで応じおった」
「なるほど。お姫さまが賄賂を要求するわけないと踏んだわけですね」
マムの言葉にレイカはうなずいた。
「味方を作ろう。足場を固めておかねば」
「そうですわね。お子が将来この国をよく治められますように」
「気が早いな」
レイカは笑った。
「子を守ってもらうためだ。産まれても無事育つとは限らん」
「じゃあ、あのスタッグなんとかって男は信用できますの?」
リリーが訊ねた。
レイカは首を振った。
「さあ、どうかな。だが、ジャマしなければじゅうぶんだ。今日のように。直に裁ければ、恨みも買おうが、味方もできよう。そういえば、今日の近衛の顔を見たか?」
「どの近衛です?」
「デュール・ヒルブルークといったかな。最近、謁見の間の出入り口におるだろう」
「『王后陛下のおなり』って言う人ですね? よく名前なんか覚えていらっしゃいますね」
「私が裁決するたび、視線がな。ただでさえ、私を女神かなにかと誤っておるようなのに」
「では、その近衛が、まずお姫さまのお味方になりそうですわね」
「やめておけ」
レイカは笑った。
「純真さは美徳だが、さしたる力はない。巻きこまず、そのまま捨てておけ。時間を置かずして、役立つ者が近づいてくるさ」
「冷えますわね」
リリーが馬車に乗りこんだ。
息が白い。
レイカが歩を進めるたび、足下でシャリシャリと小気味のいい音が鳴る。
「どうか、お気をつけて」
侍従長補佐のスタッグ・ラノックが手を差しだす。
「ひとりで乗れる」
「しかし、私の立場が……」
「知らぬ」
「王妃さま、行ってらっしゃい」
イリム子爵夫人の足下で小さいエルシーが手を振った。
「違うでしょ。ごきげんよろしゅうって言うのよ」
姉のドリスがたしなめる。
イリム子爵は無表情だが、視線は落ちつきなくさまよった。。
レイカは微笑んで手を振った。
馬車が出発すると、リリーが大きく体を震わせた。
「私、寒いのは苦手ですわ」
「そばにお寄り」
レイカはマントの端を広げてリリーの肩にかけた。
「来ることはなかったのに。これからもっと寒いところに行くのだぞ」
「お姫さまがいらっしゃるなら、私も参ります! だいたい、ウルサの言葉がわかる者が、一行の中にどれだけいるんです!」
「あたしたちは、パーヴの王宮で聞いてるからねぇ」
マムはため息をついた。
「片言しかしゃべれないにしても、日常語はだいたいわかる。しかし、リュウインの連中ときたら!」
「長らく国交が途絶えておったのだ。ムリもない」
レイカは揺れるカーテンのひだを見た。
「リュウインの西や南に国はなく、北には大国ウルサ、東にはパーヴが接しておる。さらに東には小国がいくつもあり、山脈を経て海に出るという。リュウインが交易をするにはウルサとパーヴを無視するわけにはいかぬ」
「海って、湖みたいなものでしたわよね」
「私も聞いただけだ。イリーンの大使がアラワースで聞いたとか。海から商人が来るのだと。気球を飛ばしたあの者も、山の向こうに海があり、人がいたと申しておった」
「やっぱり、魚や貝や水草があるんでしょうかね」
「何もかも大きいとか」
「では、大きいだけで、ただの湖じゃございませんこと!」
マムは笑った。
「龍がおるかも知れぬ」
レイカは真面目に答えた。
「気球の者は、そこで雲が造られると申しておった。ならば、そこに龍がおり、雲を造って運んでおるのかも知れぬ。大きな魚が数多おるなら、そのひとつが龍であってもおかしくはあるまい?」
「では、お姫さまも海からいらしたのですか?」
マムはからかった。
「それより、赤イタチ、見送りにおりませんでしたわね。マヌケ面はともかくとして、こういうことには抜け目がないと思いましたのに」
「私も気になっておる」
その疑問は昼頃解けた。
馬車から降りようとすると、御者が手を差しだした。
「まあ、赤イタチ……じゃなかった、宰相さま」
マムが頬を覆った。
「お手をどうぞ、王后陛下」
「のけ」
「お手を」
「言葉が通じぬとみえる。誰ぞ! この赤牛をのけよ! 出口をふさいでおるぞ!」
宰相はさがった。
「どこまでついてくる気でしょうね」
マムがささやいた。
「足手まといにならねばよいが」
レイカは眉をひそめた。
その心配は現実のものとなった。
馬車で四日の予定が、八日でウルサ山脈の裾野に到着した。
「大隊では山を越えられぬ」
業を煮やして、レイカは御者に言った。
「幾度言ったらわかる」
「ご心配なく。山道は馴れております」
「峠は雪になるぞ」
「そういえば、侍者がそのようなことを申しておりましたな」
「私が伝えるように申したのだ」
「雪道など、馴れております。おそるるに足りません」
「峠の雪道は平地などとは比べ者にならぬ」
「私の兵は雪の中、王后陛下のお国と戦ったこともあるのですよ。お任せあれ」
里でレイカは人員を減らし、装備を整えた。前もって作らせていたのである。
しかし、宰相の隊は装備を替えなかった。
替えられなかった、と言ったほうが正しい。
金を積もうが脅してみようが、ないものはなく、かと言って王妃の隊から奪いとるわけにもいかなかった。
「紛れこむまではよかったですけどね。後があんまりお粗末じゃございませんか」
マムがささやいた。
「しょせん、モーヴ殿下のまねごとですからね。モデルが悪すぎますよ」
懐炉を抱きながらリリーは言った。
峠を待たずして雪は深まり、里で手に入れた馬はわかんを履いてソリを引いた。雇った里人は、よくソリを操った。わかんをつけて馬のそばを歩き、右に左に難所を避け、吸いこまれるような雪の中に声がよく通った。
新参の隊のソリは人が引いた。大金をはたいて雇った里人は鼻つまみ者だった。ソリは下りでしばしば暴走し、幾人もの兵が負傷して山を下りた。宰相は最初の転倒で荷物もろとも雪に埋もれ、以来、ずっとわかんで歩き通しだった。
道が険しく細くなると、ついに新参者たちは前に進めなくなった。
「下りよ」
レイカは言った。
「山を下りよ。我らは峠を越え、山向こうの村から馬に乗る。しかし、そなたたちには馬はなく、用立てることもできまい。我らの貨幣は通用せぬのだ」
「貨幣以外にも、馬を求める手だてはありましょう」
雪にまみれた小男は答えた。
「では、試みるか? 物も価値も言葉も異なる土地で我らを追えるか? そなたたちを待つ余裕はない。王太子の婚礼が終わってしまう」
小男は歯がみした。
「もう気が済んだろう。身のほどをわきまえよ。言葉ひとつ知らず、我らにぶらさがる気であったか」
「私と側近数人なら、なんとかなりましょう」
「まだ言うか!」
「このように厳しい山行を、麗しき王后陛下だけに強いたとあっては、男がすたります」
宰相は歩き始めた。平らに見えたその道が、もろくも崩れた。
「お姫さま!」
リリーが叫んだ。
レイカは宰相とともに雪の中を落ちていった。
宰相が首を振った。
「ここは?」
「寝ておれ」
ほの暗い中で、レイカはビスケットを宰相に放った。乱れた髪が肩からこぼれる。
「ここはどこです? ずいぶん狭い……」
薄闇の中で青みを帯びた壁が迫っていた。
「雪洞だ。かなり落ちたようだな」
「陛下。崩落に巻きこみ、申しわけございません」
「雪庇に踏みこむからだ」
「陛下は私に手を差しのべてくださいました。腕をおとりになったこと、覚えております」
「ほう。頭は明晰なようだ、残念だな」
「感謝いたしております。しかしながら、陛下は私のことをお嫌いとばかり」
「反射的なものだ。気にするな」
「雪洞まで掘られ、私まで中に入れてくださるとは」
「もののついでだ」
レイカは消えかけた固形燃料の火をロウソクに移した。沸いた湯をカップに注ぐ。
「温まるぞ」
カップの中には干し肉が溶けていた。
「恐縮でございます」
カップを受け取り、周囲を見回す。
「陛下は?」
「後でもらう。器はひとつなのでな」
「では、陛下がお先に」
「とっとと飲め。残りの湯が冷める」
固形燃料の火は消えていた。
宰相は、ほぼひと息に飲み干した。
「ごちそうさまでした」
レイカはあきれた。
「やけどしただろう」
「陛下こそ、早くお温まりください」
ため息をついた。
「あきれたヤツだ。これが我らを出し抜いて権益を得ようとする者か」
「権益とは?」
「ウルサと密約でも交わしにきたのだろう。交易は私腹を肥やすには絶好だからな。察しはついておる」
「ご明察おそれいります」
「すなおに吐いたな」
「しかし、それはもののついで」
「ほかに目的があると?」
「大それた望みなれば」
レイカは鍋をカップに傾けた。
「何を欲しておる?」
「陛下のみ心を」
思わず吹きだした。手が滑り、鍋が膝に落ちた。
「失礼!」
宰相がすばやくコートをまくりあげたが、湯はキュロットにしみていた。
レイカは立ちあがりかけ、足首を押さえた。
宰相が雪洞から飛びだし、雪を運んでキュロットに当てた。
「おみ足に痕が残らねばよいのですが」
「わからぬ男だな」
レイカは首をかしげた。
「嫌っておるのは、そなたのほうだろう。私の子をふたりも殺しておきながら。いっそ、ここで私を始末したらどうだ」
「陛下こそ、私を八つ裂きにするよい機会ではございませんか。なぜ、お助けになります?」
レイカは深くため息をついた。
「陛下、お慕いしております」
「ざれごとを」
「ともに、国を治めましょう」
「すでに、そなたが治めているようなものではないか」
「いえ。王冠は別のところにございます」
「国王になりたいのか?」
冷笑を浮かべる。
そばにいながら、宰相はますます間合いを詰めた。
「私は賤しき生まれ。冠をいただくことなど、誰が許しましょうか」
「生まれの賤しさなら、私もひけはとらぬ」
「陛下は違います。隣国の王女として輿入れなされた。私はどこまで行きましても臣下。決して王族にはなれませぬ。しかし、子ならば」
「それで私が憎いのか。娘を嫁がせる障壁となるゆえに」
「おそれながら、陛下、私には娘も息子もおりません」
「子ができぬのか」
レイカは眉をひそめた。
「おやさしい陛下。憐れみは不要でございます。子は数多恵まれました」
「病を得たのか?」
「いえ」
「まさか、始末を……」
「場合によっては、いたし方なく。しかしながら、多くは他家の子として生きております」
「なるほど。どこぞの奥方に手を出したと」
育ての父は、知らずに、この男の子を育てさせられているというわけか。
宮廷で人妻と関係するのは珍しいことではない。
「陛下。ご伴侶にどれだけの愛妾がおわすかご存じでしょうか」
「そなたがあてがっておきながら」
皮肉な笑みを浮かべる。
「私が? おそれながら、その気のないお方には手だてはございませんわけで」
「アレが悪いと申すか」
「では、お教え願いたい。誰が宰相ならば気に入るのです? 誰を宰相に据えおけば、ご伴侶がよき夫、よき君主におなりで?」
「確かに、宰相に足る人材は見あたらぬ。どれもこれも私腹を肥やそうと待ちかまえておる。しかし、そばに私がついておれば、少しはマシな君主になろうというもの」
「ご伴侶が、陛下のお言葉をお聞き入れなさると? 甘言を数多ささやかれるお立場で、陛下のお諫めにお耳を傾けると? わずかでもお気持ちさえございますれば、臣下の言葉などに鼻であしらい、陛下のもとにお渡りできますはずの、あのお方がですか?」
レイカは唇をかんだ。
「どうぞ、ご存分に私をお責めください。お気持ちがお済みになるのでしたら。しかし、私さえいなければ、陛下はお幸せになれたとおっしゃるのですか? 私さえいなければ、頭脳明晰な君主、慈愛深き君主になったと?」
「言うな」
「陛下。陛下は国母として崇めたてまつられるお方です。このような粗暴な扱いに甘んじてはなりません」
「何を今さら。そなたは私の子を……」
「陛下のお子に手を下したのではございません」
「ふざけるな!」
「あれは玉座に居座る男の子でございます」
レイカは口をつぐんだ。
「麗しい陛下。陛下のお子ならば、みめ麗しくご聡明でしょう。民ももろ手をあげて歓迎することでしょう」
「何が言いたい?」
「ともに国を治めたく……」
レイカの背筋に悪寒が走った。
「わ、私に、そ、そなたは……」
みなまで言えなかった。
「かしこき陛下。あらゆる女の頂点にあらせられる陛下。この世にこれ以上の母がおわしましょうか。陛下、私ならば、あの男のような非情な仕打ちはいたしません。一生、国母としてお守り申しあげます。陛下は何ひとつ失うことはなく、ただお子をお慈しみになっていらっしゃればよろしいのです」
この男は、私に子を産めと。誰でもない、この男の子を。
「全力でお守りいたします。陛下もお子も。ご伴侶のように口先だけではございませぬぞ。必ずや陛下のお子を玉座におつかせ申しあげます。そして、ともにこの国を治めましょうぞ」
答えるべき言葉は見つからず、ただ目を見開く。
「ご聡明な陛下はご承諾なさいます。断ることなど、どうしてできましょう。今の暮らしのどこに、女として幸せがございますか? 夫にはかえりみられず、美しいお姿は賞賛する者なく老いていくのですぞ。私なら、陛下をじゅうぶんに満足させることができます。陛下、承諾なさい。うなずくだけでよいのです。あなたは美しい。夜ごと胸に抱かれれば、もはや馬や剣などで気を紛らわす必要などないのだ。気を張って男勝りに振る舞うこともない。まことのあなたはかよわき聖女だ。馴れぬ隣国で、宮廷のしきたりや男どもの勝手な言いぐさに振り回され、おそれおののいているのだ。だが、それも昨日までの話。あなたを守ろう、オレが……」
やにわに、レイカは笑い声をあげた。
宰相の派手な抑揚つきの滑らかな舌が止まった。
「かよわき聖女か。剣や馬は満たされぬ欲求の代償か。あいにくだったな。女の幸せなど欲しておらぬ。相手を選んで口説け、色男め」
宰相は黙し、背を向けて寝転がった。
数ニックを経て、雪洞の入口が明るくなる。
レイカは雪を温めて干し肉を溶かした。宰相に与えて、後に自らも飲んだ。
どちらも、何も語らなかった。
やがて、遠くに人の声が聞こえた。
「お姫さまぁ!」
「宰相さま!」
「助けがきたようだな」
レイカは荷物をまとめて雪洞を出た。
ゆっくりと足を運ぶ。
「ここだ!」
大声で叫び返す。
歩くのは難しそうだが、ソリや馬に乗れば先へ進めるだろう。さしたる障害にはなるまい。
「陛下。昨夜のことは……」
背で、宰相がつぶやく。
「忘れろ」
レイカはふり向かずに言った。
「私と子のことは放っておけ。王位にも興味はない。欲しいならくれてやる。だが、ほかの方法を考えろ」
「黙っていると?」
「我らに手を出さなければな。静かに友や子と暮らせればじゅうぶんだ」
「子ですと? まだ、あの男に執着なさいますか」
「何をバカな」
「では、ほかの男の?」
「くどい」
何かを斬る音がした。
レイカはふり向いた。
宰相の右手にナイフが握られていた。
見覚えがある。レイカの荷物から抜き取ったに違いなかった。
左手には、黒髪がひと房巻きついていた。
「いつのまに」
「ごきげんよう、麗しいレイカ姫」
強い力で突き飛ばされた。
くじいた足首は、体勢を保つことができなかった。二、三歩よろけて倒れた。
雪はもろくも崩れた。なだれ落ち、雪煙があがった。
視線をあげると、真っ白に化粧した木々の向こうから、馬と人とが姿を現した。
「お姫さまっ!」
マムが叫んだ。
宰相は一行の中に部下の姿を認めた。手をあげる。
「やべっ!」
低い女の声が、雪煙を貫いた。
「はあ、やべっ!」
馬にまたがった女が、崩れた雪庇に飛びこんだ。
リリーが持っていた荷物を、続けざまに放り投げた。
「おっかね。いんごげね……」
足のすくんだマムの腕をとり、崖に飛びこむ。たちまち姿は雪煙の中に消えた。
宰相はあっけにとられて、見送った。
それから残りを見渡し、手をあげたまま言った。
「王后陛下は不慮の事故でお亡くなりになった。異論のある者は?」
剣を構えた部下たちに囲まれて、王妃の一行たちは黙した。
宰相は満足げにうなずいた。
「では、国へ引き返そう。早く陛下を弔ってさしあげねば」