* * *
若草色を基調としたリビングルームは、今やすっかりパーヴ風に彩られていた。クジャクの羽根とシュロの枝が壁に飾られ、花瓶には少し早い紅鮮色のヒースの花が生けられていた。
窓からはぬるくなり始めた風が入り、かすかに草の香りを運んでいた。
テーブルにパーヴのマイアール焼きのポットが置かれる。
「お菓子がほしいところですわね」
リリーが青いカップのみ並んだテーブルをもの欲しげに眺めた。
「就寝前に食べると太るぞ」
レイカは笑った。
「モーヴ殿下に嫌われたらどうする」
「のぞむところですわ!」
リリーはにんまりと笑った。
「でも、殿下はマムおばちゃんみたいな人が好みなんですって」
「あたしがかい」
レイカの左でマムが笑った。
「そうよ。かっぷくがよくて、陽気で大声で、肝っ玉かあちゃんみたいなとこがいいんですって」
「よかったな、マム。輿入れ先は決まったぞ」
「厭ですよ、あたしは。お姫さまのお子を育てあげたら、小さな土地をもらって悠々自適の余生を送るんです」
「望むなら、今すぐ暇をやるぞ」
「ご冗談を。あのマヌケ面と赤イタチの前にお姫さまを残していけるものですか。でも、お子の時代になれば安心です」
「なぜだ?」
「だって、お姫さまのお子ですからね! 聡明でおやさしいに決まってます! 王位につかれた暁には、あんな赤イタチ、王宮に置いときませんよ!」
「わからぬぞ。半分はアレの血をひくのだからな」
レイカが人の悪い笑みを浮かべる。
リリーがテーブルを叩いた。
「それが唯一気に入らないところですわ! あんなマヌケ面のふぬけの血を半分入れるなんて! お相手がイリムさまならまだしも!」
レイカは片眉をあげた。
「リリー。めったなことを言うものではない」
「でも……」
「おかしな噂をたてられては、子爵夫妻が迷惑だろう。あの夫婦は似合いだ。あの子どもたちを見ればわかるだろう?」
「そうだよ、リリー。イリムさまはお姫さまの大事なお友だちなんだからね」
マムがたしなめる。
「はい、はい、ごめんなさい。でも、イリムさまは私から見てもすてきな方だと思いますわ。不言実行、質実剛健ってタイプですわよね」
「見るからにムサいだろう。気の利いたことも言えぬぞ」
レイカがからかう。
「そうですとも」
マムが笑ってうなずいた。
「イリムさまときたら、おひとりでは奥方さまに求婚もできなかったんですからね」
「そうなの?」
「そうですとも! 誰が見たって相思相愛なのに、ぐずぐず思い悩んで。お姫さまがお気をきかして山荘におふたりをご招待した時もねえ。途中でお姫さまがお帰りになって、おふたりっきりにしてみたんだけどねえ」
「イリムさまは紳士だもの。図に乗って言い寄ったりしないわよ」
「ものには程度ってものがあるよ。なにも、朝から晩まで外で素振りしてることはないだろう。土砂降りだったっていうのに。夜になると、馬に乗って野宿に出かけるんだよ。朝はもどってくるけど、体についた泥も拭かせてくれやしない。ご自慢の髭は泥でガチガチに固まって、汗くさくて、あたしゃ、アンジェラさまがよほどお嫌いなのかと思ったよ」
「アンジェラもそう思ったのだよ」
レイカが苦笑した。
「あのときはまいったな。嫌いなら嫌いとはっきり言われたほうがマシだと泣きつかれて」
「それで、どうしたんですか?」
リリーをのぞく一同が笑った。サミーまで声をもらしている。
「だました」
レイカは笑いながら言った。
「お姫さまったら、お人が悪いんですから。みなさまと申し合わせてね、アンジェラさまが他の殿方と結婚することになったということにしたんだよ」
「じゃあ、それでイリムさまがついに……!」
「それが逆に落ちこんでしまってな。招待客として式にひきずり出したんだが……」
「じゃあ、式で愛の告白を……!」
「ダメだった」
レイカは笑った。
「しかたないので、有無を言わせず新郎の席に座らせて命令した」
「アンジェラさまと結婚しろ、さもなければ今日から友とは思わん! ってね。まったく、数々の武勲を立てた勇者も、女性の前では形無しなんですからねえ」
「私、ちっとも知りませんでしたわ。見るからにお強そうだから、てっきり……」
「おまえは行儀見習いで外に出ていたからな。どうだ、モーヴ殿下を見直したか?」
「どうしてそこで殿下が出てくるんです!」
リリーは再度テーブルを叩いた。空のカップが音を立てた。
「わかりやすくてよいだろう。子ども好きだし、よい父親にもなるぞ」
「やめてください! 殿下はあの女好きの父親の血をひいているんですよ! そりゃあ、お姫さまも半分はひいてますけど、でも、お姫さまはお母上さまの血が濃いですからね」
マムが大きくうなずいた。
「そうそう! お姫さまのお子も、きっとお姫さまの血を濃く受け継がれます。あんなマヌケ面の血なんか、もともといかにも薄そうじゃございませんか!」
「そうですとも! 父親が誰であろうと、お姫さまのお子ならなんでもかまいませんからね!」
「それは喜んでよろしいのでしょうかな」
ふいに、男の声が響いた。
赤いベストの小男が立っていた。後ろに長持ちを抱えた衛兵がふたり続いている。
「おまえ! ここをどこだと!」
マムが立ち上がり、レイカとしし鼻の小男との間に入った。
「お預かりしたものをお返しにあがりました」
衛兵が長持ちをおろす。
「お茶の時間でしたか。私もお相伴に預かってよろしいですかな」
「無礼者! おまえなんぞ……!」
「私がおりましてはマズいお話でも?」
小男はゆっくりと一同を見回す。
「よい。マム。席を用意してやれ」
「お姫さま!」
「よいから」
レイカは右にずれ、左に小男を招いた。
サミーが新しいカップを出し、マムが頃合いになった茶を一同に注ぎまわった。
「リリー。ちょうどいい。もどってきた菓子を宰相どのに出しなさい」
リリーがぎょっとレイカを見る。
「おそれながら、それは王后陛下が賜られたもの。私などがいただけるものでは……」
小男はやんわりと辞退する。
「私の出すものが食えぬと申すか?」
「いえ、そのような」
リリーは長持ちの中からクッキーとケーキの箱を出した。
渡したときと変わらず、美しく封じられている。リボンを解き、包みを解き、密封された缶を開けると、見た目にも美しい菓子が現れた。
震える手でクッキーを皿にあけ、ケーキにナイフを入れた。
「どうぞ」
うわずる声で、皿を押しだした。
「遠慮はいらぬ。ほんの気持ちだ」
「ありがとうございます」
小男はクッキーをつかんだ。
リリーが青ざめた。マムは息を飲み、サミーは無表情だった。レイカは唇の端に笑みを浮かべていた。
「いただきます」
一口に放りこんだ。サクサクとした音が小さく響いた。
「すばらしい。たいへん美味しゅうございます」
小男は次々にクッキーを口に放りこみ、ケーキを味わった。
「ところで、塩はどこですかな」
「塩?」
レイカは聞き返した。
「はい。茶に入れる塩でございます」
「塩!」
マムが笑いだした。緊張のあまり、すっとんきょうな笑い声だった。
「この上、差し湯まで欲しがらないでしょうね!」
「いかにも」
小男は怒りもせず、にこやかに返した。
「この茶は少々濃すぎますな。差し湯で少し薄めたほうが……」
「見かけ倒しの貧乏貴族の習慣です!」
マムは意地悪く笑った。
「茶葉が高くて買えない者が、見栄を張って飲むときの作法です。私どもは、そういうケチなことはいたしません」
「これはこれは失礼いたしました」
小男は茶を口にふくんだ。
「なるほど。実に芳しく、実に旨みにあふれている。王后陛下は食にわたっても賢くあらせられる」
「気に入ったか?」
「はい。茶も菓子も王后陛下のご趣味のよさをよく表しておりますれば」
「では、やろう。入れ物ごと部屋に持ち帰るがよい」
レイカは長持ちを目で指した。
「いえ、そのような。国王陛下から賜られたものなれば……」
「なんだ。私のものなど受け取れぬか」
「めっそうもない。もったいないことで」
「では、とっとと持っていけ」
「ありがたき幸せ」
小男は胸に手を当て、謝意を示す。
「なにをしておる。持っていけ」
「はい。茶をいただきましたらすぐに……」
「とっとと、と言ったろう。今すぐ持って失せろ」
「御意」
小男は笑みを浮かべ、衛兵を従えて退室した。
「お姫さま、だいじょうぶでしょうか?」
リリーが小声で訊いた。
「なにがだ」
「もし、あの赤イタチが死んだら、お姫さまのお立場がお悪くなるのではありませんか」
「なぜだ」
「お姫さまが毒殺したと……衛兵が見ていますし……」
「ああ、あの菓子か」
レイカは口の端を上げた。
「うまく複製したものだ」
「複製?」
「あの毒入り品をすべて複製したのだ。包みまですべてそのままで」
「そんなこと! どうしてそうお思いになりますの?」
「あれらを引き取った時のことを覚えておらぬか? 見覚えがあったのだろう。おそらく、何らかの形で王太后がアレに似たようなものを送ったに違いない。それは使われぬ前にあやつの手に渡ったのだ」
「そして、薬屋に同じものを作らせたのですね」
「それが流行病の正体というわけだ」
「では、この国の王や王子たちを殺したのも……」
「おそらくな。あのバアさんも気の毒なことだ。アレの殺害を企てたのだろうが、結果的に栄華に貢献することになったのだからな。教えてみたいものだな。憤死するかも知れん」
レイカは唇の端を上げた。
「あの方なら、逆手にとって脅しをかけてきますよ。憤死するようなタマですか」
マムが手を振った。
レイカは口を開けて笑った。
「違いない。まあ、とにかく、宰相はとうぶん私を殺す気はないらしい」
「なぜでございます?」
「毒抜きの菓子を返してよこしたからな。でなければ、あのように悠然とは食せぬよ」
「じゃあ、どうしてお渡しになってしまわれたのです。お菓子も服ももったいないじゃありませんか」
「毒抜きとわかってはいても、気分がよくないだろう」
「そうですけど」
リリーはつまらなさそうに茶をすすった。
「しかたないな。マム、缶入りのガレットがあったろう。出してやれ」
「お姫さま、甘やかさないでください。リリーのためになりませんよ」
「よいのだ。ついでに、もうひとり分取り分けてくれないか? アレに少し持っていってやろう」
マムとリリーは顔を見合わせた。
レイカは苦笑した。
「連日、遅くまで仕事をしておるのだ。たまには顔を見てやらないとな」
「確かに婚礼の夜以来、半ルーニーもお渡りがございませんからね。来たら来たでジャマですが、来なければ来ないで気にはなりますわね」
マムは席を立った。
茶と菓子をのせた盆をマムに持たせて、レイカは奥の棟に渡った。
「いちいち衛兵と顔を合わせるのは、厭な気分ですわね」
「それが仕事だからな。しかたない」
「でも、お渡りを数えられてるようで、気分が悪いですわ」
「王家はどこもそうだ。パーヴでも、前の国王が母の館に来る時はそうだったろう?」
「ええ、毎晩『お帰りになった』とか。そうなってしまえばむしろいいですよ! でも、これじゃ、寝所に入った回数をそのまま教えてるようなものです!」
「では、私も毎日通うとするかな。そうすれば、あざむけるんだろう?」
「もう、やめてくださいよ! 毎日だなんて、バカが移ったらどうするんです!」
やがて、ふたりは国王の寝室より手前で立ち止まった。執務室のドアの下から灯りが漏れていた。
「まだおるようだな」
レイカは襟元や裾を整え、ドアを叩いた。
「私だ。入るぞ」
ドアを開くと、真っ正面に赤いカーテンが見えた。右手奥に首をめぐらせば、大きな執務机があり、その上に国王がいた。書類は床に散乱していたが、落ちているのは紙ばかりではなかった。
ランプの灯りに照らされて色は定かではないが、淡いオレンジやピンクや白の、レースやフリルやリボンのついた艶やかな布地……。
レイカはもう一度視線を上げた。
国王は机上に伏し、その下から手足が見えた。細くか弱い女の手足。
「いや……、これは、その……」
国王は机から滑り降りた。
「仕事が忙しくてな。息抜きというか。ええと……その……」
女が何事もなかったかのように床の衣類を拾いあげ、着始める。
「ジャマしたな」
レイカは踵を返した。
「ど、どこが悪い!」
アプスが開き直ったかのように怒鳴った。
「予は国王だぞ! 情けをかけてやって、何が悪い!」
レイカは黙って部屋を出た。
マムが盆を抱えたまま後に従う。
「なんて男でしょう! お姫さまを放っておいて、あんな……」
「馴れているようだな」
「はい?」
「あの女はあわてなかった。無理強いでなければかまわぬ。私のほうが無粋だったわけだ」
「なにをおっしゃいますの!」
マムが怒鳴った。
「お姫さまは王妃でいらっしゃいますよ! そもそも、恋い焦がれて言い寄ってきたのはあの男のほうでございます。婚礼から半ルーニーで、それも一度きりのお渡りで、もうほかの女に手をつけるとは!」
「レ、レイカ! レイカ!」
ふり向くと、必死にズボンを引っ張りあげながら男が走ってきた。肩にはリンネルのシャツをひっかけていたが、前はすっかりはだけている。露わになった腹では、筋肉の代わりに脂肪がたぷたぷと揺れていた。
「ご、誤解するな!」
息を弾ませて、国王は叫んだ。
「あれは、ほんの息抜きで……。機嫌を直せ!」
「私も仕事でな」
レイカは気のないふうに言った。
「世継ぎを生むのも王妃の務めであろう。いや、ひとり合点だったかな。他でまにあうならかまわぬ。マム、行くぞ」
「レ、レイカ!」
国王は王妃の服をつかんだ。
「さみしい思いをさせて、すまぬ! それもこれも、ランベルのヤツが山ほど仕事を押しつけるから……」
「では、仕事にもどれ。女も放っておかれては気を悪くしよう」
「レイカぁ」
国王は泣きそうになった。
「まったく、国王ともあろう者が」
レイカは国王のシャツの前を合わせ、ボタンを留めた。
「このような恰好で回廊を走るな」
「レイカ、予は何度もそなたのところへ行こうとしたのだ。だが、ランベルのヤツが、仕事が終わるまではならぬと言って、衛兵まで使って予を留めるのだ。予は国王なのだぞ。もっとも偉いのだぞ。好きな時に食べ好きな時に寝て、どうしていかんのだ。みな、ひれ伏して拝むのだぞ。地位も名誉も予の気分次第なのだぞ」
レイカは小さくため息をついた。
「それではただの暴君だ」
「レイカ、まさか浮気などしておらぬだろうな? 予がいないからと言って、誰か引きこんだりしていないだろうな?」
レイカは深くため息をついた。
「レイカ! そなた、まさか、もう……」
「ばかばかしい!」
マムが怒鳴った。
「うちのお姫さまをなんだと思ってるんです! 黙って聞いてりゃ勝手なことを! モーヴ殿下を少しは見習ったらどうなんです! あの方なら、好いた女以外には目もくれませんよ!」
「モーヴ殿下といえば」
レイカは国王の顔をのぞきこんだ。
「私の部屋のある棟に入れぬと言っていた。衛兵が決して入れぬのだと。どうなっておるのだ?」
「とうぜんだ!」
国王は毅然として言った。
「王妃のいる棟は男子禁制だ。常識ではないか」
「モーヴ殿下はお姫さまのお兄さまでいらっしゃいますよ!」
「わかるものか! ランベルが言っていたぞ、レイカの父親は前のパーヴ国王とは限らぬ、諸説あるとな!」
「諸説?」
レイカは眉をひそめた。
「そうとも!」
国王は得意げに言う。
「蛮族の男だとか、母親の後見人だとか、間男だとか、カルヴ国王だとか……」
レイカの腕が伸び、アプスの胸ぐらをつかんだ。
「兄上だと? 正気か、きさま」
「ラ、ランベルが……」
「考えてから物を言え!」
レイカは夫を突き飛ばし、身を翻した。
「帰るぞ! マム!」
「はい、お姫さま」
盆を抱えた侍女は、通りしなに、床に転がった男の腹を踏みつけた。
「レ、レイカぁ」
弱々しい国王の声が回廊に響いた。
* * *
肌についた汗が心地よかった。
熱い茶を口にすると、いっそう汗が噴き出した。
「キリがありませんわね」
レイカの体を濡れたタオルで拭きながらマムが言った。
「また贈り物が届きましたのよ」
リリーは室内の壁一面にさげられた衣装を引きだしては品定めする。
「白とピンクのバラと黄色の小菊がたくさん」
「戸口に小山になっていたな」
「まったく、この寒い時期に、どこから集めてきたんでしょうね! それから、夜会用のドレスと、外出着が一着ずつ。大きなエメラルドのついた髪留めと、ルビーと水晶を散りばめたバッグ、見たこともない果物と……食べ方の解説がついてましたわ、それからかわいらしい籠に入ったお菓子。今朝はこんなところですわね」
「手数だが……」
「わかってます。換金して国庫に入れときます。食べ物のほうは侍女たちに配っておきますから」
「馬もほどほどにしてくださいね」
マムが腹を拭きながら言った。
「普通のお体じゃないんですから」
「暮らしぶりを変えては勘ぐられるだろう。それに、野駆けはよい。気分がすっきりする」
「心配ですよ。ご一緒なのがあの朴念仁だけじゃ、万一の時……」
「子爵は信用できる」
「こういうことに機転はききませんよ。せめて、誰か経験のある者を……」
「アンジェラは馬に乗れぬ」
「では、ほかに……」
「我々のうちで誰がおる? それとも、あやつの手のうちの者でも連れていくか?」
「おそろしい!」
マムは震えあがった。
「今度こそしくじるまいぞ」
「お腹を冷やさないでください」
リリーが下着をかぶせた。
「また男の子でしょうか」
「ふたり続いたからな。三人めも、あるいは」
「まったく、毎年よく恵まれますこと!」
「それが仕事だ。いや、それは思い違いか……」
身支度を整えると、謁見の間に足を運んだ。
「王后陛下のおなり」
扉の際で近衛兵が叫んだ。年若いきれいな顔立ちの青年である。
名前はデュール・ヒルブルークと言ったか。
リリーを従えて中に入ると、ヒルブルークの視線を浴びた。
彼の頬は上気し、まなざしは夢見るような色をたたえていた。
「ボアレー、前へ」
光沢のある紺のドレスをひるがえして腰かけると、一段低いところに立つ貴族が声を発した。
王妃づきの侍従長でゴスコット侯という。貴族の常で恰幅よく、中背で濃茶の髭を顎一面にたくわえていた。シルクやサテンをたっぷりあしらった着衣の基調は赤で、スリットの中は虹色だった。
ずいぶん費用のかかった道化だな。
右側は一面大きな窓である。薄いカーテンがかけられ、日差しが床に落ちる。それを背に、人々が三列になって立ち並ぶ。
左の壁は四、五列、正面はもっとか?
三方の壁に貼りついた人々の中からひとりが歩み出て、檀の下でひざまずいた。
その前で、ゴスコット侯の部下が訴状を読みあげる。
退屈だ。
頬杖をつきながらレイカは思う。
最初から選り分けられた訴えではないか。
あくびをかみ殺し、冗長なあまり真意のぼやけた訴状を聞き流す。
今ごろ、国を治めるべき王は、どこぞの褥で惰眠を貪っているのだろう。昼すぎには起きて、遅い朝食をゆっくりとり、入浴後にお気に入りの貴族たちを訪問する。そして、就寝まで数々の書類にサインする。
『目が回るほど忙しいのだ。仕事が終わらぬ。しかし、終わらぬと、ランベルがそなたに会わせてくれぬのだ』
成婚の記念日には、アプスが決まって言う。
『では、早く起きて片づけてしまえばよい』
レイカが枕を並べて答えると、
『しかし、ランベルが、あれもやれ、これもやれと仕事を増やすのだ』
『そなた、自分の意志はないのか?』
『そなただと! 予は国王だぞ! 陛下と呼べ!』
もはや、自分の言うことなどきかぬ。婚礼後、顔を合わせたのがたった三度きりではムリもない。
宰相が、宰相がと言うが、しょせんその程度の熱だったのだろう。ならばいっそ、世継ぎをほかの女に生ませてやればいい。
『死産ではない。たしかに産声を聞いたのだ』
成婚の最初の記念日に訴えてみたものの、父親の反応は冷たかった。
『勘違いだろう。ランベルは死産だと言ったぞ。それより、男だったそうだな。今度は元気な子を産んでくれ』
ただ手をこまねいていたわけではない。その十月後、レイカはマムとサミーの立ち会いで出産する手はずを整えた。しかし、いよいよこれからという時になって、産婆と衛兵に締めだされた。
まさに出産にさしかかっていたレイカには、どうすることもできなかった。
『足が出てきましたわ。お姫さま、男の子ですよ!』
マムが最後に叫んだのを覚えている。ほどなくして、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
腕を伸ばして我が子をかき抱こうとすると、声が消えた。
横たわったまま首をめぐらすと、誰かが何かを抱えて出ていった。
『子は!』
『産湯を浸かりに……』
やられた!
産室を飛びだしたが、出口で大勢の衛兵に足止めをくらわされ、行方を見失った。
『未熟でお産まれになったようで。手当ては施したのですが』
次男の遺体についてきた説明がそれだった。
今度こそ、しくじらぬ。
なんとしても隠し通し、春には人知れず……。
「王后陛下!」
レイカは夢想から引き戻された。壇の下で、ひざまづいていた男が叫んでいた。
「無礼者! 殿下に直々に声をかけるなど! 引っ立ていっ!」
ゴスコット侯が怒鳴った。
「よい。そのままに」
レイカは手をあげて押しとどめた。
「許す。申せ。ただし、要点をわかりやすくな。長いのは、もう飽き飽きだ」
「陛下、なりませぬ。形式は守っていただきませんと……」
「では、形式を改めよう。偉そうな役人の朗読は飽きた。本人から直接熱弁を聞く」
「しかしながら、陛下、儀礼というものは……」
「文句があるなら宰相から聞く。どうせこの形式とやらも宰相が決めたのだろう?」
「しかしながら、陛下、直訴は昔より死罪と……」
「おまえが今していることも直訴ではないか」
「しかしながら、陛下、私は陛下の侍従でございます。そこもととは身分も地位も……」
「どうせおまえも産まれた時はおぎゃあと泣いたのだろう? 物も食せば、クソも垂れるのだろう? それともかすみを口にし花でも出すのか? だったら考え直してもよいぞ」
「陛下!」
館内のそこかしこで忍び笑いが起こり、ここと思われる場所をゴスコット侯は睨みつけた。
レイカは壇の下に視線をもどした。
「話せ。悲痛な決意に応えられるかどうかはわからぬが。この通り、宰相どのの機嫌うかがいをする立場なのでな」
壇下の者は深く礼をし、早口に話し始めた。
今回の訴状は表面上のもので、直訴するのが目的だったこと。自分の領地は田舎だが、家族と仲むつまじく暮らしていること。年頃の娘がいるが、国王に差し出せと国命が下ったこと。
『ありがたきお言葉なれど、娘は近々嫁入りを予定しておりますれば、どうか辞退させていただきたく……』
しかし、代わりに法外な寄付を要求されたのだという。
「我が家は貴族とは名ばかり。地方の一領主にすぎませぬ。その日の糧にこそ困りませぬが、毎日領民とともに鋤《すき》鍬《くわ》を振るっております。さような私どもに、どうして多額の寄付をご用意できましょうか」
「要するに、そなたは娘を差しださず、寄付に応えられぬというのだな?」
「なんという我が身かわいさ、自分本位か!」
目の前でゴスコット侯が叫んだ。
「誰でもやっていることなのか?」
レイカが問うと、ゴスコット侯は大きくうなずいた。
「臣下の義務でございます。娘という娘はこぞっておそばに侍るのですぞ! 娘ばかりか寄付もともに差しだす家もあるというのに! 思いあがりもほどがある!」
「それは国王と宰相に言ってやれ」
レイカはニヤと笑った。
「すべての家に対して廃止しよう。一同の者、よく覚えておけ。この件に関して、尽力することを約束する。結果は私の力次第だ。いかばかりの裁量を持たされておるか、明らかになろう」
「へ、陛下! 軽々しく約束などなされては……」
「軽々しいのはどちらだ。娘をはべらすことが治者の務めか? だったら私は后を降りる。今すぐ髪を削ぎ、尼寺に参る」
甲高い耳ざわりな悲鳴が響いた。長く伸び、果てた後、ゴスコット侯がうつぶせに転がった。
「泡を吹いたか。誰か運んでやれ。丁重に解放してやるのだぞ」
近衛兵がふたり、ゴスコット侯を担ぎだした。影から黒髪で額の広い小男が現れた。鼻は小さく、唇は厚く、なにより大きくはない目が強い光を放っていた。
「補佐である私が代わりを務めますれば……」
「では、その者を保護するように。どんな危害も加えてはならぬ。それでよいか?」
壇下の地方貴族を見る。
「ありがたき幸せ。深いご温情を賜り、厚く御礼を……」
「務めを果たしただけだ。用は済んだか? ならば、さがれ。次の者は前へ。代弁は聞かぬ。訴状は自ら読め」
昼下がりまで、混乱した謁見は続いた。
「胸がスッとしましたわ」
リリーがケーキをつまみながら言った。
レイカは椅子の背にもたれ、中庭を見回した。芝生は枯れ、小菊とスミレがわずかに彩りを添えていた。
「覚悟の訴えだったからな、聞いてやろうと思ったのだ」
「でも、赤イタチが黙ってますかね。あたしは心配ですよ」
マムが茶をついだ。
白いテーブルを囲んで、イリム子爵とアンジェラも不安げな目を向ける。
「いい機会だ。このままでは、後の世代によくない。我々が戦っておかずにどうする? それに、今日のことは他人事ではないぞ。ドリスやエルシーにそのような命がくだったらどうする?」
「ふたりは心配いりませんわ」
リリーが笑った。
「年頃になったら、パーヴに行儀見習いに行かせます」
「あずかってくれる者がおらぬだろう」
「モーヴ殿下にあずけます。もう話はついておりますのよ。あの赤イタチの手が早いことはとうに存じておりますので」
「おまえ、いつのまに……」
レイカは苦笑した。
「きっと、今日の話にあった娘も、王にさしだすというのは名目で、実のところは宰相に対する人身御供ですわ。第一、ドリスはモーヴ殿下の奥方になるんです。赤イタチの毒牙になんかかけやしませんからね」
「おとなの都合で決めるな」
「いいえ、お姫さま」
リリーは得意そうに笑みを浮かべた。
「ドリスは、モーヴ殿下のお后になる! と申しておりますのよ」
「まだ子どもではないか」
「もう七つですわ。あと一〇年も経てば、母君に似てさぞ美しくなるでしょう。モーヴ殿下だって、若くて美しい娘をそばに置けば、心が動かないわけありません」
「それでよいのか?」
「よいですわよね」
リリーがアンジェラをふり返る。
「おまえのことだ、リリー」
レイカは微笑んだ。
「望むなら、今すぐ嫁いでもよいのだぞ。あの赤イタチとやらは、おまえにも気があるのだろう? 万一のことがある前に……」
「私はお姫さまのおそばにいます!」
リリーはぴしゃりと言った。
「殿下の奥方候補はいくらでもいますし、私には関係ございません。お姫さまのおそばにいたいんです。お味方も少ないっていうのに、私などにお気遣いなさっている場合じゃございません!」
小型の猟犬が駆けてきた。イリム子爵の足下で止まる。大柄な飼い主は両手で体を揉むように撫でた。
「噂をすれば」
マムが顔をしかめた。
「アンジェラ、中にお入り」
レイカが促すと、子爵夫人は礼をして屋内にさがった。
入れ違いに、赤いベストの小男が現れる。
「これはこれは、王后陛下。ご機嫌麗しゅう」
眉をひそめる一同を見渡す。
「今日も子爵夫人はご不在ですかな。麗しい顔《かんばせ》を拝見できませんで、残念至極」
「子爵夫人に用か?」
レイカは皮肉を投げかける。
「いえいえ。王后陛下のご尊顔を拝見に。おお、アッシュガース嬢、今日もお美しい」
リリーはあからさまに睨み返した。
「王后陛下、今朝お送りいたしました品々はお気に召しましたでしょうか」
「換金して国庫へもどした。税金のムダづかいだ、やめよ」
「甚だ心外。すべて私財でまかなっておりますれば」
「国ごと私財なのだろう」
「大きな誤解でございます。私は国のため、国王陛下の御ため、王后陛下の御ために、日々粉骨砕身しておりますれば」
「明日からしばらく、そなたの顔を見なくて済むと思えばせいせいする。で、何の用だ?」
「本日の謁見の件でございますが」
「ああ、私に尼になれと言いに来たか」
挑戦的に笑う。
「いえいえ。王后陛下におきましては、ご聡明にしてご温情あふれるご英断、このランベル、いたく感激しておりまする」
赤いベストの小男は胸に手をあてた。
「さっそく、王后陛下の命に従い、処理させましょう」
「処理とは?」
「娘という娘を実家に帰しましょう。お預かりいたしておりました娘については、期間と内容に見合う手当てを支払い、二度と召集はかけますまい」
レイカは瞬いた。
何を言っておるのだ? この男は。
「娘の代わりに取り立てた寄付も利息をつけて返しましょう。利息分は不肖ながら、私財にてまかなわせていただきます」
「ずいぶんとデキた話だな。代わりに何を望んでおる」
「何も。ただ、王后陛下が約束を違えることはあってはならぬと」
「そなたの面目は丸つぶれだな」
「私は陛下の哀れなしもべでございます。この身はすべて陛下にお捧げ申しあげました」
「もうひとりの陛下はどうだ?」
レイカは意地悪く笑った。
「夜ごと敵娼《あいかた》を取り替えているとか。新しい娘を調達できなくては、さぞかし困ろう」
「私におまかせください。陛下の御ために働かせていただきます」
「よく言う。国王はおまえにジャマされて、私のところには来られぬと言っておるぞ」
「心外でございます。何事も陛下の御ために身を砕いておりますれば」
レイカは椅子を蹴って立ちあがった。
「子爵! つきあってくれ。気分がすぐれぬ!」
「御意」
「リリー、剣を持て。マム、これを追い返せ」
「それには及びませぬ」
赤いベストの小男は礼をした。
「ごきげんよう。麗しい王后陛下」