〜 リュウイン篇 〜

 

【第108回】

2008.04.16

 

 ヒースはヒルブルークを見、ヒルブルークはヒースを見た。

「あんた、デュールっての?」

 ヒルブルークは軽く頭を下げた。

「はい。おそれながら、我がヒルブルーク家では代々嫡子がこの名をいただいております」

 自分の顔がすでに凍りついていてよかったと、リュウカは思った。

 暗褐色の髪、暗褐色の眼は、ピートリークにはありふれたものだったが、あの男のものでもあった。そして、小さな目も。

 ヒースはデュール・ヒルブルークの高い肩や広い背中を叩いた。

 その立派な体つきは、リュウカに母を思い出させた。

「いい体してんな。父ちゃん譲り?」

「いいえ。父方はごく普通の背丈で。母方だと思います」

「母ちゃんって?」

「詳しいことは存じません。私を生んですぐに亡くなったそうです」

「どこの誰かわかんねぇの?」

 デュール・ヒルブルークは口ごもり、声は不機嫌に低くなった。

「可憐な花のような人だったと聞いています」

「ああ、悪ィ。オレと同じぐらいの背のヤツって珍しいからさ。年いくつ?」

「十六です」

「じゃあ、オレと同じか」

 エドアルが叫んだ。

「なに! おまえ、私より一つ上だって言っていたじゃないか!」

 ヒースはすました顔をしている。

 リュウカはため息をついた。

「そんなことを言ったのか?」

「あいつがチビチビ、バカにするからさ。一発かましてやろうと思って」

「あきれた」

 たしかに、ヒースをエドアルに預けたとき、その年ごろにしてはかなり小さかった。

 今ではひょろりと背が高い。当時とほとんど背丈の変わらないエドアルをゆうに追い越し、大人たちと並んでも目立つ。

「あきれたのはこっち。黙って置いていかないって約束だろ!」

「そんな約束をした覚えはないが」

「した! オレが盲腸炎起こしたとき、あんたたしかにそう言った!」

 リュウカはわずかに苦笑した。

「私といてもロクなことがないのに」

「あンときも、あんたはそう言った」

「わかっているなら、来なければよいだろう」

「だからぁ、いつも言ってんだろ。ふたりならいくらかマシになるって。あんたは、オレがいなくちゃダメなんだから」

 ヒースの手がのび、リュウカの眉間を指で撫でさすった。

「ほら、またシワが寄ってる。せっかくの美人が台なしだぜ」

「やめろ! デュール・グレイ!」

 エドアルが間に割りこんだ。

「姉上を侮辱するな! おまえみたいな賤しい者が近づける方じゃないんだぞ!」

「まあ! なんてひどい言い方! デュールはあなたのいとこでしょ!」

 リズまで割りこんできた。

 ヒースは逃げるようにコウモリに飛び乗った。

「リュウカ、来いよ」

 走りだす。

 リュウカもカゲに乗り、後を追った。

 野営の灯りを遠くに見、月光の下を走った。ほどなくして、ヒースは馬を止め、リュウカはそこに並んだ。

「ラノックじーちゃんのことだけどさ」

 ヒースが言った。

「あんたがいなくなってから、オレに仕事を丸々押しつけやがった。椅子に縛りつけて、連日面会で、山のように訴状を持ってくんだぜ? オレにできるわけねーだろ、この国の法律も事情もろくに知りゃしないし、誰がオレなんかの話をありがたがって聞くかね」

「おまえのことだから、それでも一生懸命やってくれたのだろう」

「施しぐらいは手配したけど、係争とかはぜんぶパス。無責任なことできねーもん。あんたが帰ったら、山ほど仕事残ってるぜ。それより、オレが言いたいのは、あのラノックじーちゃんのことだよ。あんた、前の晩、指示書作ってなかったっけ? ぜんぜんあの通りにしてねーぜ」

「では、私の思慮不足だろう。何か行き届かない点があったのだ」

「だからって、オレに代わりやらすか? あんたよりオレのほうがよっぽど思慮がたりねぇよ」

「何か事情があるのだろう。ラノック伯は、母のころから仕えてくれている数少ない貴族だ。よくやってくれている」

 ヒースが首を振った。馬上で白く光る髪が揺れる。

「あんたのかあちゃんは、うちのかあちゃんたちをパーヴに逃がしたんだ。あんたたちも遅れてくるつもりだった。つまり、あんたのかあちゃんには、リュウインに頼れるヤツが誰もいなかったんだ。その間、ラノックじーちゃんは、どこにいたんだ? あんたのかあちゃんが死んだと見せかけたんだとしたら、いったい誰にかくまわせたんだ? そんなヤツがいるなら、うちのかあちゃんたちだって、国境を越えなくても済んだろうし、あんただって放浪しなくて済んだだろう」

「ラノック伯は、個人的なツテを頼ったのかも知れない」

「それは、オレも考えた。けど、今回のことはおかしい。あんたから指示書を受け取っといて、オレに代わりをやらすか? そんなことしたら、あんたが積みあげてきたものがパァになっちまう。そんなことがわからない人間じゃないだろ」

 リュウカは空を見た。

 月明かりで、青く染まった空。

 母と逃げた夜も、こんな空だった。

「それでは、おまえはラノック伯が何か企んでいると?」

 ヒースはうなった。

 空を見あげ、月の光を浴びた。青い空。白い月は小さいくせに、その輝きは周囲の星の瞬きを隠している。

「一緒に逃げねぇ?」

「逃げているではないか。もうすぐヒプノイズに着く」

「……グラッサの東に山があるじゃん」

 ハッとして、リュウカはヒースを見た。

「パーヴへ入るつもりか?」

「とうちゃんから、いろいろ抜け道は聞いてんだ」

 モーヴは常勝将軍と謳われたほどであるから、いくつか秘密は聞いているのだろう。しかし……。

「パーヴへ入ってどうする? 昔のように旅でもして暮らすか?」

 リュウカは自嘲的に笑った。たちまちセージュに捕まるだろう。

「いいや。パーヴに入ったら、ガーダにたどりついて、ファイアウォーに抜けて、草原へ帰るんだ」

「うまく行くはずはないし、帰るとしても私だけだ。草原はおまえの故郷ではないよ」

 ヒースは夜空から顔をふり向けた。

 目がひたとリュウカを見据える。

「あんたのいる場所が、オレの家さ。いつだって」

 リュウカの背筋がひやりと冷えた。

 この子は本当に追ってくるかも知れない。

 二年前、パーヴの森で追われたときも、この子は逃げずに馬を盗んで戻ってきた。自分のために手を血で染めた。

 この国に来てからも、自分を守るために王の前に立ちふさがり、キットヒルの館でも身を呈し、今度は草原までついてくるという。命がいくつあっても足りない。

 あのとき虹の清水で拾われたのは、この子ではなく、自分のほうではないのか?

 母の最期が脳裏をよぎった。

 荒い息の中、湿地の泥にまみれた声が響く。

『自分の生を生きよ』

 強い眼の光。永遠に失われた黒い眼。

 剣をとれば強く、馬を駆れば疾く、いつも目の前をふさいでいた温かな壁。

 母が敵わなかったものに、この小さな子が敵うはずがない。

 もうたくさんだ。

「私は近いうちに婿を迎える」

 ヒースは軽くうなずいた。

「ヒプノイズは候補その一なんだろ? そうやって、その二、その三と渡り歩いて時間稼ぎするつもりなんだろ。わかってるよ。つきあうよ」

「それは宰相から聞いたのか?」

「いいや。リズのじーちゃんときたら口が堅くてさ」

 やはり、あの男はヒースを信用していないのだ。

 しかし、それでも、この子はどこからか嗅ぎつける。

「ウルサから婿を迎える」

 リュウカはゆっくりと言った。

「ウルサの王子と結婚する」

 ヒースは笑った。

「ウルサには王子はいないぜ。王さまは二回結婚したけど子どもはいないし、兄弟もいないし、一番近い身内の従弟はドーンに亡命中で結婚してる」

 パーヴでウルサの留学生たちと交わっていただけあって、事情には詳しい。

「又従兄弟がいる」

「そりゃ、王子とは言わねぇよ」

「婚前に王の養子とすればよい。今必要なのものは、パーヴに対抗できる力だ。そのためには、ウルサの力が要る」

「だったらさ、ほかにも方法はあるだろう?」

「どんな? リュウインにあるものは、ほとんどパーヴにもある。優位に取引できるものはない。手を打つのが遅れれば、ウルサはむしろパーヴと結び、この国に攻め入るかもしれない。私はこの国の王女だ。この国で暮らす人々を守る義務がある」

「王女ならほかに二人もいるじゃん。少しはそっちに義務を果たしてもらったら? っていうか、それってあんたじゃなくて、王さまや王妃さまが果たす義務なんじゃねぇの?」

 痛いところを突く、とリュウカは唇をかんだ。

「ま、いっか。あんたはしたいようにすりゃいいよ。頑固者の石頭だってことは重々承知してんだから。あきらめて、つきあってやるよ。でも、結婚はナシな」

 この子は飽くまでもついてくる気だ。

 ダメだ、そんなことは。

 底なし沼に沈んでいく母の姿が脳裏にくり返された。泥に飲まれ、ただの物体になり果て、ゴミのように埋もれていった。あの偉大な母でさえ。

「貴き血が必要なのだ」

 リュウカは言った。

「人が崇め、頼るものは血筋なのだ。あんな王でも、王家の血を継ぐからこそ、みなひれ伏し敬うのだ。エドアルもリズもそうだ。ヒプノイズやヒルブルークでさえ、何代かさかのぼれば王家に行きつくだろう。貴族とはそういうものだ。だがおまえはどうだ? エドアルがひとこと言えば伯父の子ではないと明らかになる。そもそも……」

 つばを飲みこんだ。口にしたくない言葉だった。胸に手をやり、押さえて続けた。

「そもそもおまえの親は誰だ? おまえを捨てた母親は王家の末裔だとでもいうのか?」

 ヒースは答えなかった。

 リュウカは胸がえぐられるようだと思った。自分は卑劣で残酷だと思った。

「おまえの母の名を申してみよ。生んだ母親の名前も言えぬなら、そんな血には用はない。失せろ。私がこれから行く道は、貴き血の者にしか通れぬのだ。それに……」

 こらえきれず、息を吐いた。

 まだ残酷なことを告げる己の喉を、できることならかっさばいてやりたかった。

「デュールはふたりも要らぬ。ニセモノは失せろ」

 返事を待たず、リュウカはカゲの腹を蹴った。

 下から突き上げられ、宙に浮いては固い鞍に落下する。そのくり返し。

 夜風が、頬をかすめ、髪を奪っていく。

 月明かりに浮かぶおぼろげな道。

 来るな。あきれ果て、見放しておくれ。どうか遠くで幸せに暮らしておくれ。

 あの子は虹の清水で拾った子だ。実の弟ならば、同じ呪われた血とあきらめてももらえようが、あの子には何の縁もない。

 なのに、あの子は他人の私の前に迷わず身を投げだす。

 もうたくさんだ。

 隊にもどると、ヒルブルークが迎えた。

「殿下、お待ちしておりました。そろそろ発ちましょう。グレイ卿は?」

「来ない。待たずに発とう」

 ようやくヒプノイズにたどり着いたころ、エドアルが言った。

「あいつ、あの名馬まで持っていきやがった!」

 せめてものたむけだと、リュウカは思った。

 

   

 

 

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