〜 リュウイン篇 〜

 

【第104回】

2008.01.10

 

 白に近い塗り壁を暖炉の火が赤く染めていた。暖炉の薪は赤々と燃え、鍋がかけられていた。長テーブルを入れたらいっぱいの部屋。

 王族の食堂とは比べものにならないほど粗末で狭苦しい。

 グラスにはワインやオレンジジュースがつがれていた。

 侍女が三人、皿やフォークを並べ、焼き目のついたパンを運び、忙しく立ち働いている。

 そのうちの一人は前王弟の愛人である。

 たまらない気分で、エドアルは席についた。

 王族の食堂に入る限り、甘いイチゴワインが供されるのは王命だと言う。しかし、下々の食堂ではその限りではない。

 それが宰相ランベルの折衷案だった。

 もう少しマシな部屋はなかったのかと、エドアルは思う。それもこれも、デュール・グレイの交渉がヘタだからだ。使えないヤツだと思う。

 エドアルが席に着くと、リズが入ってきた。

「今日はなあに?」

 上機嫌でストーブのそばの席を陣取る。

「牛のワイン煮込みですよ」

 サミーが鍋から皿にスープを注ぎ、マムが皿を置いていく。

「これは?」

 マムが答えた。

「香味野菜のスープです」

「デザートはなあに?」

「そんなに訊いては、後からの楽しみがなくなっちまいますよ」

 リュウカが入ってきた。

「遅れて済まぬ」

「遅くないですよ。今から始めるところです」

 マムが席に着いた。

 リュウカはふくらみの小さなドレスに着替えていた。ショールを肩からかけ、髪はおろし、ゆるく編んでいた。

 部屋着姿でも美しいと、エドアルは思った。続いて金髪の生意気な男を思いだした。

「あいつ、今日はお茶の時間にも来なかったし、帰りも遅れてきましたね。早くしないから、あんな面倒に巻きこまれたんです」

 リュウカは首を傾げ、それから使者のことを思いだした。

「あの使者、グニーラ伯と言ったかな、知っているのか?」

「知りませんよ。どうせ使いっ走りでしょう」

 エドアルはイライラした。今はあいつの話をしているのに。

「姉上はあいつに甘すぎます。少しはきちんとするように言ってくださらなくては」

「マム、ワインはいいよ。水をくれないか」

 リュウカはワインの入ったグラスを押しだした。

「ちい姫さま、少しのお酒は体にいいんですよ」

「まだ仕事がある」

「お姫さまはいつも何倍も強いお酒を召しあがりながらお仕事をされていましたよ。ちい姫さまも、これぐらいどうってことありませんよ」

 リュウカはそれ以上何も言わなかった。

「姉上、ちゃんと私の話を聞いてください」

 エドアルは言った。

「今日はあいつのせいで死ぬところだったんですよ。私も姉上も刺されるところだったじゃありませんか」

 マムとサミーの身がこわばった。

 リュウカは気づいて、やわらかな声音で説明した。

「心配いらないよ。私たちに危害を加えようとしたのではない。パーヴの使者が自分の命を脅しに使ったのだ」

 リリーも応援した。

「もちろん、脅しには負けなかったわよ。うちの子が蹴飛ばしてやったんだから」

 マムが笑った。

「そりゃあ、いい気味だね」

「姉上! 私の話を聞いているんですか?」

 エドアルが声を荒あげた。

「あいつは姉上と私を守らなくちゃいけないのに、平然と遅れてきたんですよ! もし、あの使者が殺し屋だったら、どうなさったんですか!」

 リュウカは少し考えてから答えた。

「ラノック伯と衛兵に注意しておこう。そなたの言う通り、警戒が足りなかったな」

「私が言ってるのは、あいつのことですよ! 勝手に職場放棄したってことじゃありませんか! 

 処罰すべきです!」

 リリーの顔が不安そうに曇った。

 エドアルはそれを見逃さなかった。

「私の言ってることは正論だな? アッシュガース伯爵夫人」

 リリーはツバを飲みこみ、気丈に顎をあげた。

「ええ、ごもっともですわね。しかしながら、殿下、ひとつだけご訂正いただきます」

 エドアルはムッとした。

「どこに文句があるんだ」

「私は伯爵夫人ではございません。王さまはもう亡くなったんですから。もちろんセージュさまには忠誠を誓っておりませんので、もう爵位はありません。ここにいるのは、ちい姫さまの侍女であの子の母親のリリーです。ただ今私の申しあげたことは正論ですわね?」

 エドアルは詰まった。

 そのすきにリリーはリュウカに向き直った。

「ちい姫さま、たしかにあの子にはいいかげんなところがございます。如何ようにでも罰してくださいませ」

「お待ち」

 マムが割りこんだ。

「あたしは難しいことはわかんないけど、リリーやあたしらに爵位がないってんなら、あの子だって同じことだろ? じゃあ、エドアルさまをお守りする義務はないってことかい?」

 リリーはしらばくれた。

「もし王さまから命じられていたとしても、もう王さまは亡くなっているんですからね。むしろ、危ない目に合わせたほうが、セージュさまには喜ばれるんじゃない?」

 エドアルは青くなった。

「バカなことを!」

 怒鳴ってみるが、侍女たちの白い眼はやまない。

 助けを求めるように、リュウカを見る。

 リュウカは小さく息を吐いた。

「温かいうちにスープをいただこう」

 息を詰めて見守っていたリズが笑顔でスプーンをとった。

「よかったぁ! 私、おなかペコペコだったの! ねえ、アル、リリー、マム、サミー、早く食べましょう? ねえ、マム、オレンジジュースのおかわりちょうだい」

 気遣う、その明るさの半分でも自分にあればと、リュウカは思った。

 ひと匙、口を湿らせた。手間暇をかけて煮込んだのだろう。カラメルのような香りや香味野菜のスパイシーな香り、野菜と焦げたような甘み、かすかな渋みと辛み。味も香りもよくわかる。

 だが、いつものように喉に詰まった。

 作り手の気持ちを思えば、旺盛に飲み、食べるべきである。母のように。

 リュウカはスプーンを置いた。

 テーブルの下ですばやくスカートをまくりあげ、剣の柄に手をやった。

 廊下から近づく気配。床のきしみはかすかだが長い。リズムは不規則で、装具の金属音はない。衣擦れの音と疲れてはいるが整った息づかい。

 衛兵ではなく、力仕事に従事する使用人ではない。それ以外の年配の男……。

 足音が戸口で止まった。

 その男は、開いたドアを二つノックした。

 一同の視線を浴びて、その赤い胴衣の男はにっこりと優雅に足をひいて挨拶した。

 リュウカは奥歯をかんだ。

「みなさま、ごきげんうるわしゅう」

 と、宰相ランベル公は言った。

「あなたさえいなければね」

 間髪入れずにリリーが言った。

 ランベル公は再びにっこり笑った。左頬の古傷がもりあがった。

「お部屋はお気に召しましたか?」

 腕を伸ばし、ぐるりと室内を指し示した。

「壁紙もタイルもないまっさらな塗り壁、飾りのない柱、木でもタイルでもなくまっさらに塗っただけの床、窓がなく、厨房から近い部屋とのお話でしたが、ご要望にお応えできましたか?」

 身を隠して待ち伏せすることができず、隠し部屋が作れず、外から射殺すこともできず、毒を入れる隙を最低限に抑えられる部屋。

 王族の食堂を出るからには、用心を怠ってはいけない。すでに、一度ウィックロウの離宮で狙われているのだから。

 リュウカはわかりきったことを頭の中でなぞる。

 右手が剣の柄を強く握りしめ、腕が震えていた。

 考えろ、とリュウカは自分にいいきかせた。

 動くな。考えろ。

「用件を聞こうか」

 リュウカは低く押し殺した声で言った。

 ランベル公は軽く会釈した。

「さすがは殿下。お話が早い。では、単刀直入に申しあげますが、殿下には明日よりご旅行にお出かけいただきます。場所はヒプノイズ。葡萄のワインの旨いところです。趣旨としては、殿下のご婚姻のお相手候補を訪問すると……」

「姉上の結婚相手だって?」

 エドアルが立ちあがった。

「姉上は、そんな、どこの馬の骨ともわからぬ男となど結婚しないぞ!」

 ランベル公は落ち着いていた。笑みさえ浮かべ余裕だった。

「ヒプノイズ家は代々続く名門ですし、リュウインの中でも十指に入る財産家です。ヒプノイズの現領主はタラン・ヒプノイズ子爵、三十二歳、もちろん独身です。学識教養人望はそろっておりますが、見目はそこそこ。弟たちは奥方似の美男ぞろいですのに、残念ですな」

「姉上はウルサから婿を迎えるのだ! 下々の者を婿になどさせないぞ!」

 エドアルは怒鳴った。

「ウルサの王族には問題がございます、殿下」

 ランベル公は恭しく言った。

「ウルサの現国王には子がありません。ご兄弟もなく、いちばん近い男子はお従弟さまですが、亡命中です。次に近いのは、又従兄弟ということになりますが、いずれもまだお小さく」

「いくつなんだ?」

「いちばん大きなお子さまで十二か十三におなりだとか」

 子どもじゃないか、とエドアルは思った。

「じゃあ、どうするんだ?」

「こちらにお連れしまして、仮初めのご婚礼をなさるがよろしいかと」

「それならよかろう」

 仮初めのご婚礼ってなんだろうとエドアルは思ったが、うそぶいた。

「しかしながら、お連れするまでお時間がかかります。その間、王女殿下にはヒプノイズにお出でいただきます。そうすれば万事滞りなく運ぶでしょう。いかがでしょう、王女殿下」

 ウルサの事情はリュウカも知っていた。草原の民イワツバメの元でウルサとの交易に携わっていたのだから。

 セージュの催促から逃れ、時間稼ぎをし、目をそらせるためにも、ヒプノイズ行きは名案である。

 しかし、宰相にはなんのもくろみもないのか?

「考えてみる」

 リュウカは低い声で答えた。

「ご即決いただけますと、誠にありがたいのですが」

「なぜだ」

 ランベル公はおおげさに辺りを見回してみせた。

「あの御方がいらっしゃいませんな。その間にお決めになられたほうがよろしいかと」

 ヒースか。宰相はアレが苦手なのか?

「できぬ」

「では、いつまでなら」

 明日? 三日後?

 夕方の騒動を思いだした。きっと、あの使者は明日の朝も押しかけてくるに違いない。また新たな手を使って。それに、セージュも四度めだ。焦れてどんな手に出てくるか。

 早いほうがいい。事態は思ったより深刻だ。

「わかった。宰相の良いように」

「かしこまりました。では、明日の朝お発ちください。もう用意は整えてございます」

 さすがである。手際がよい。

 宰相は一礼して、すばやく立ち去った。

「ああ、怖かった」

 リズの声が張りつめた空気を割った。

「おじいさまって、苦手。なんだか自分が石ころにでもなったような気分になるわ」

 リズはスープを飲んだ。

「すっかり冷めちゃったわ。ねえ、お姉さま、仮初めのご婚礼って、なあに?」

 リュウカはぼんやりとリズのようすを見ていたが、我に返った。

「成人しなければ結婚できないからね、先に式だけを済ませてしまおうと言うのだ」

「そんなことって、できるの?」

「両国の合意があればね」

 リュウカは剣から手を離し、テーブルの上に載せた。

「でも、ヘンなの」

「なにがおかしいんですか?」

 エドアルが訊ねた。

「だって、お姉さまはウルサの王子さまに会ったこともないんでしょう? 向こうだってそうでしょう?」

「それのどこがおかしいんです?」

「好きでもないのに結婚するの?」

 エドアルは笑った。

「王族は国のために結婚するのですよ。好き嫌いを言っちゃいけません。それに、ウルサの王子などしょせんは敵国の人間ですからね、心なんか許せませんよ」

 リズはムッとした。

「じゃあ、あなたはどうなの?」

 エドアルは返答に詰まった。

「私のこと、好きじゃないの?」

 エドアルはうなりながら、なんとか言葉を絞りだした。

「ウルサは田舎ですからね。熊みたいに図体ばかりでかくて頭のトロいヤツが来ますよ。王の血をひいているとはいえ、かなり外れているわけだし。だから、私たちが姉上を支えて頑張らなくては。ねえ、姉上、頑張りましょう」

 宰相は何をたくらんでいるのだろう?

 リュウカは手を伸ばした。指先がグラスに辺り、小さな音を立てた。見れば赤い液体が揺れていた。

 水を、と言いかけてやめた。さっきも同じことをしたばかりだ。

「悪いが、書斎へ行く」

 マムが留めた。

「ちい姫さま! ちゃんと召しあがりませんと! それに、明日の朝お出かけになるんですから、今夜は早くお休みになりませんと!」

「出発前にまとめておかなければいけないからね」

 リュウカは席を立った。

「まったく。お姫さまだって、これほどじゃありませんでしたよ。ちい姫さまはマジメすぎます」

 聞き流して、食堂を出た。

 

   

 

 

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