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![]() 〜 リュウイン篇 〜
2007.11.28
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午前の謁見を済ませてから、リュウカは書斎に入った。 部屋のほとんどは書棚で埋められており、そこにはぎっしり古い記録が並んでいた。かび臭い本の間を縫って、窓辺へたどりつく。 窓際の机の上には、古い記録が広げられていた。九年前のヒバ村の記録である。 椅子の背に手を置き、リュウカは鳥の声に誘われて窓を見上げた。ヒノキの枝と青い空。窓枠の格子がリュウカの顔に影を落とした。 しばらくたたずんでから、椅子に腰をおろした。古い紙に古いインクの跡をたどる。訴状の内容は、イワオの言った通りだった。ヒバ村の地主が土地について申し立てをしている。長年開墾してきた土地を新参者にのっとられたというのだ。この新参者というのは、廃業に追いこまれた兵隊崩れで、盗賊団に等しく、土地を乗っ取っただけではなく、村の治安を悪化させていたらしい。この訴えは了承され、領主が兵を出して追い払い、事なきを得たこととなっている。 訴状の提出から謁見まで二シクル。裁決は謁見時に下されている。 「昼メシ持ってきたぜ」 ヒースが入ってきた。窓辺に寄ると、ウルサ人特有の金髪がきらきら輝いた。 抱えた紙袋から、机の上に中身を並べた。透明な瓶に入った水、陶器のカップ、小さな笛型のパン、葉物とハムとバター。 ヒースは瓶からカップに水を注ぎ、口をつけた。それからもう一つのカップに水を注いで、リュウカの目の前に突きだした。 受け取って口をつけると、水の匂いのほかに、何かかすかに香った。口にふくんで、その正体がわかった。 「加水用の水だな」 麦の蒸留酒は、樽で熟成直後はアルコール度が高い。瓶詰めにするとき、水を加えてアルコール度を調整する。そのときに用いる水である。 母は麦の蒸留酒の伴として、この水を常備していた。大人にふるまい酒があるときには、子どもに供されるのがこれだった。大人が酔いを醒ますときに飲むのもこれだった。 しかし、昔飲んだものは、もっと風味が強かったはず。それに、最近、似た香りを嗅いだ気がする。 「ナータラッハの水だよ」 ヒースは腰からナイフを抜いて、パンを切った。 けげんなリュウカの表情を見て、つけ加えた。 「ウィックロウで差し入れした酒だよ。あんた好みの」 ああ、とリュウカは思いだした。ウィックロウの離宮で泣いたあの夜の酒だ。 母の酒よりも風味の淡い、あの花の香り。たしかにこれだ。 「贅沢だな」 「あの酒屋さあ、毒入りジュースなんか運んじまって出入り禁止になったろ? あんたに取りなしてくれって持たされた」 「信用できるのか?」 「どうかな」 リュウカは思いだした。瓶を開けて一口めは、ヒースが飲んだではないか。 「毒味をしたのだな。もし毒に当たったらどうする」 「オレも見る目がなかったってことだろ」 ナイフでバターをとり、パンに塗った。そこへ葉物とハムとはさみこんで、リュウカに差しだした。 「だいじょうぶだって。さっき母ちゃんとオレが一個ずつ食ったから」 リュウカは差しだされたパンを見つめた。 「危ないことはやめなさい。私につきあうことはない」 「オレもかあちゃんも、あんたに頑張ってもらわなきゃ困るんだ」 リュウカはヒースの手からパンを取った。 「あのエセ英雄が王さまになっちまったろ。オレもかあちゃんも、あの国に送り返されたらヤバいんだよ。だから、あんたに踏ん張ってもらわないと」 「私などいなくとも、うまくやるだろう」 リュウカはパンをかじった。バターのいい香りがした。シャキシャキとした葉物の歯ごたえが口中に響いた。 ヒースは肩から提げた楽器袋を足下に置き、机の縁に腰かけて水を飲んだ。 金色の髪が窓から差しこむ光を受けて輝いた。その向こうに青空が見えた。 「そっちは、うまく行ってんの?」 ヒースが記録簿に顎をしゃくった。 「訴え通りの裁定がなされたと書いてある」 リュウカは皮肉めいた笑みを浮かべた。 ヒースは身を傾け、記録簿に顔を近づけた。 「兵隊崩れが村を乗っ取ったっていうの。じゃあ、あのおっちゃんはさしずめ兵隊崩れってわけ? 調査記録はどこ?」 「残っていない」 リュウカはパンをかじった。ハムの焦げ臭い香りが鼻をついた。 「なあ、リュウカ」 体を傾けたまま、ヒースがリュウカの目をのぞきこんだ。 「なんで動かなかった?」 謁見の間で、イワオが鉈を振りあげたときのことだろう。 リュウカは、ヒースの青い眼を見返した。 「おまえには、危ない目に遭わせてすまなかった。だが、私の前に出なくともよい。自分でなんとかできる」 「おとなしく殺されるつもりだったんだろ」 「まさか」 笑った黒い眼を、青い眼は離さなかった。 「あんたのかあちゃんは、生き延びろって言ったんだろ?」 黒い眼から笑みが消えた。 そっとパンに目を落とした。 「忘れんなよ。あんたは生きて、草原に戻るんだ。そして、オレと所帯を持って幸せに暮らすんだ」 リュウカは苦笑した。 「私と一緒にいるとロクなことがないぞ」 「だから、オレが幸運を運んでやるんだろ」 ヒースは楽器袋から竪琴を取りだした。弦の調整をした後に弾き始めた。低い声がよく響いた。建国の祖ヒースクリフの歌だった。極寒の地で迫害を受けたヒースクリフと仲間たちが山を越え、約束の地にたどり着き、開墾し、麦を育て、酒を造り……。 玄関先でマントを受け取り、羽織りながら馬へと向かった。 陽は西に傾いているはずだが、厚い雲に阻まれて見えなかった。 急がねばならなかった。陽がない分、夜の訪れは早い。 衛兵たちはすでに馬にまたがっていた。間を縫って馬車の前までたどりつくと、先に行ったはずのリリーたちがまだ乗りこまず、立っていた。 声をかけようとして、リュウカは留まった。馬車の入り口に、白い長衣に青いサッシュを肩がけにした男がひざまずいていた。 リュウカは辺りを見回して呼んだ。 「ラノック伯!」 しかし、小男の姿は見あたらない。 「衛兵、使者殿をラノック伯のもとへお連れしなさい」 「ラノック伯にはご了承いただいております」 白い長衣の使者が言った。 「王女殿下には、ぜひ我が国にお越しいただきます。エドアル殿下にもご帰国いただきます。我が国王陛下は、エドアル殿下にご帰国いただけないのは、貴国に囚われの身になっているためとお考えでいらっしゃいます。ならば、奪還のため国を挙げることもおありかと」 「今までにもくり返し申しあげたが、弔問にはすでにアイリーン王女が赴いた。重ねて参る必要はない。エドアル殿下にしても、まだ帰国して日の浅い私を助けていただいているのだ。今帰られては困る。そなたの国王には、そう伝えるのだな」 リュウカは使者のほうへ歩み寄った。 使者は腰から短剣を抜いた。 エドアルが短く声をあげ、リズの手を引いて衛兵たちの中に駆けこんだ。 リリーは使者を睨みつけ、衛兵たちの身はこわばった。 使者は両手で短剣を握り、ゆっくりと自分の喉へ刃先を向けた。 「お聞き入れください。この命に替えましても」 使者はリュウカに向かって言った。 「もし私が死体で帰りましたなら、我が国王はお怒りになり、必ずや貴国へ攻めこむことでしょう。そうなれば、今度こそ、ピートリークの統一はなされましょう。それでもよろしいのですか」 ラノックがこの使者を止められなかった原因はこれか、とリュウカは思った。 使者の目は真剣だった。 その緊張に、悪気のない声が割りこんだ。 「ごめん、リュウカ。ちぃっと手間取っちゃって」 衛兵の間を縫って現れたのはヒースだった。 有様を見るなり笑った。 「グニーラ伯爵さま、ご自害でもすんの? だったら、そこどいてくんない? かあちゃんが馬車に乗れないじゃん」 つかつかと使者に歩み寄る。 使者の手で短剣が揺れた。 「来るな! さもなくば死ぬぞ!」 「死んでもいいけど、そこジャマなんだよね」 近づいて、使者を蹴り飛ばした。 馬車のドアを開ける。 「かあちゃん、さっさと乗って。暗くなっちまう。リズ! エドアル! どこ行ったんだ、早く乗れよ」 「あ、危ないじゃないか!」 使者が起きあがって怒鳴った。 「どこかケガでもしたらどうするんだ!」 「だって、死ぬんだろ? だったら同じじゃん。それとも、オレが代わりに串刺しにしてやろうか?」 「デュール・グレイ!」 衛兵の間から顔を出したエドアルが叱りつけた。 使者がハッとした。 「おまえはガーダ公が賤しい女に産ませた生意気な異人野郎か!」 「あれ、覚えてたの?」 「おまえのことなら知っている。ウルサから送りこまれたスパイのクセに! まんまと我が国から逃れたつもりだろうが、異人の浅知恵だな、自分から見つかりにくるとは。こいつを捕らえろ! 我が国ばかりか、この国の内情までを探りにきたウルサのスパイだぞ!」 使者が衛兵たちに怒鳴る。 ヒースは後ろをふり返った。 「どうする? リュウカ。オレを縛り首にでもする? それとも、こいつを串刺しにする?」 リュウカは苦笑した。 「で、できるものならしてみろ! 私が死んだら我が国王陛下はたちまち攻め入るぞ!」 使者が必死に虚勢を張った。 「セージュがあんたなんかのために小指一本動かすもんか。むしろ、あんたの領地を取りあげて喜ぶんじゃねーの」 ヒースはエドアルとリズを馬車の中に押しこんだ。 ドアを閉めると同時に列の先頭に向かって叫んだ。 「出発! 大急ぎでな!」 ヒースは馬車の後ろにいたコウモリに飛び乗った。 「退がっといたほうがいいぜ、グニーラ伯爵さま。顔に蹄の痕をつけたくなかったらな」 馬列が動きだした。使者はあわてて逃げだした。 リュウカはカゲに乗り、列に合わせて進んだ。 「知り合いか?」 ヒースに訊ねた。黙っていてもコウモリはカゲに並ぶから、自然、ヒースとは顔を合わせることになる。 「あっちは覚えてねーみたい。噂で知ってるって感じだな」 ヒースはチラと後ろをふり返ってみせる。 「おまえはどうなのだ」 「オレは覚えてるよ。あっちの宮廷で剣の稽古に出されたとき、上級にあいつがいたんだよ。師範たちに褒められて鼻高々で、その割にちょっとでも剣が当たると、やれ腕が折れただの、足が痛いだの、うるさくってさ」 「それだけか?」 「そんだけ。オレ、初心者扱いだったから、剣も交えなかったし。それっきり顔出してないし」 「どうして」 「言わなかったっけ? ああいう形だけの剣は合わねーんだよ。だから、とうちゃんに言って師匠を変えてもらったんだ」 リュウカはあきれた。 「その程度の知り合いで、自殺が狂言だと、よく見抜いたな」 「まさか」 「では、なぜあんなことを」 ヒースは空を見上げた。曇り空は暗さを増していた。 「あんたも、エドアルも、あんなエセ英雄のとこにやれないじゃん。迷ってることねーんだよ。どうせ、あのエセ英雄のことだから、使者は使い捨てなんだし」 ようやくリュウカは合点がいった。ヒースは使者よりもセージュの考えを読んだのだ。 「あんたはやさしすぎるんだよ」 「私がか?」 「あんなクズでも、死んだらかわいそうだと思ったろ?」 そうかも知れない。自分たちのために、巻き添えを食って死んで欲しくはなかった。 「おまえは違うのか?」 ヒースは軽くうなってから、リュウカに笑いかけた。 「自業自得ってヤツ? 勝手に自分の命をダシに使ってんだから。それよりさ」 リュウカのほうに体を傾ける。 「今夜、ふたりで話したいんだけど」 リュウカは少し考えた。 「書斎は? みなが帰った後に」 「了解」 |
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