〜 リュウイン篇 〜

 

【第103回】

2007.11.28

 

 午前の謁見を済ませてから、リュウカは書斎に入った。

 部屋のほとんどは書棚で埋められており、そこにはぎっしり古い記録が並んでいた。かび臭い本の間を縫って、窓辺へたどりつく。

 窓際の机の上には、古い記録が広げられていた。九年前のヒバ村の記録である。

 椅子の背に手を置き、リュウカは鳥の声に誘われて窓を見上げた。ヒノキの枝と青い空。窓枠の格子がリュウカの顔に影を落とした。

 しばらくたたずんでから、椅子に腰をおろした。古い紙に古いインクの跡をたどる。訴状の内容は、イワオの言った通りだった。ヒバ村の地主が土地について申し立てをしている。長年開墾してきた土地を新参者にのっとられたというのだ。この新参者というのは、廃業に追いこまれた兵隊崩れで、盗賊団に等しく、土地を乗っ取っただけではなく、村の治安を悪化させていたらしい。この訴えは了承され、領主が兵を出して追い払い、事なきを得たこととなっている。

 訴状の提出から謁見まで二シクル。裁決は謁見時に下されている。

「昼メシ持ってきたぜ」

 ヒースが入ってきた。窓辺に寄ると、ウルサ人特有の金髪がきらきら輝いた。

 抱えた紙袋から、机の上に中身を並べた。透明な瓶に入った水、陶器のカップ、小さな笛型のパン、葉物とハムとバター。

 ヒースは瓶からカップに水を注ぎ、口をつけた。それからもう一つのカップに水を注いで、リュウカの目の前に突きだした。

 受け取って口をつけると、水の匂いのほかに、何かかすかに香った。口にふくんで、その正体がわかった。

「加水用の水だな」

 麦の蒸留酒は、樽で熟成直後はアルコール度が高い。瓶詰めにするとき、水を加えてアルコール度を調整する。そのときに用いる水である。

 母は麦の蒸留酒の伴として、この水を常備していた。大人にふるまい酒があるときには、子どもに供されるのがこれだった。大人が酔いを醒ますときに飲むのもこれだった。

 しかし、昔飲んだものは、もっと風味が強かったはず。それに、最近、似た香りを嗅いだ気がする。

「ナータラッハの水だよ」

 ヒースは腰からナイフを抜いて、パンを切った。

 けげんなリュウカの表情を見て、つけ加えた。

「ウィックロウで差し入れした酒だよ。あんた好みの」

 ああ、とリュウカは思いだした。ウィックロウの離宮で泣いたあの夜の酒だ。

 母の酒よりも風味の淡い、あの花の香り。たしかにこれだ。

「贅沢だな」

「あの酒屋さあ、毒入りジュースなんか運んじまって出入り禁止になったろ? あんたに取りなしてくれって持たされた」

「信用できるのか?」

「どうかな」

 リュウカは思いだした。瓶を開けて一口めは、ヒースが飲んだではないか。

「毒味をしたのだな。もし毒に当たったらどうする」

「オレも見る目がなかったってことだろ」

 ナイフでバターをとり、パンに塗った。そこへ葉物とハムとはさみこんで、リュウカに差しだした。

「だいじょうぶだって。さっき母ちゃんとオレが一個ずつ食ったから」

 リュウカは差しだされたパンを見つめた。

「危ないことはやめなさい。私につきあうことはない」

「オレもかあちゃんも、あんたに頑張ってもらわなきゃ困るんだ」

 リュウカはヒースの手からパンを取った。

「あのエセ英雄が王さまになっちまったろ。オレもかあちゃんも、あの国に送り返されたらヤバいんだよ。だから、あんたに踏ん張ってもらわないと」

「私などいなくとも、うまくやるだろう」

 リュウカはパンをかじった。バターのいい香りがした。シャキシャキとした葉物の歯ごたえが口中に響いた。

 ヒースは肩から提げた楽器袋を足下に置き、机の縁に腰かけて水を飲んだ。

 金色の髪が窓から差しこむ光を受けて輝いた。その向こうに青空が見えた。

「そっちは、うまく行ってんの?」

 ヒースが記録簿に顎をしゃくった。

「訴え通りの裁定がなされたと書いてある」

 リュウカは皮肉めいた笑みを浮かべた。

 ヒースは身を傾け、記録簿に顔を近づけた。

「兵隊崩れが村を乗っ取ったっていうの。じゃあ、あのおっちゃんはさしずめ兵隊崩れってわけ? 調査記録はどこ?」

「残っていない」

 リュウカはパンをかじった。ハムの焦げ臭い香りが鼻をついた。

「なあ、リュウカ」

 体を傾けたまま、ヒースがリュウカの目をのぞきこんだ。

「なんで動かなかった?」

 謁見の間で、イワオが鉈を振りあげたときのことだろう。

 リュウカは、ヒースの青い眼を見返した。

「おまえには、危ない目に遭わせてすまなかった。だが、私の前に出なくともよい。自分でなんとかできる」

「おとなしく殺されるつもりだったんだろ」

「まさか」

 笑った黒い眼を、青い眼は離さなかった。

「あんたのかあちゃんは、生き延びろって言ったんだろ?」

 黒い眼から笑みが消えた。

 そっとパンに目を落とした。

「忘れんなよ。あんたは生きて、草原に戻るんだ。そして、オレと所帯を持って幸せに暮らすんだ」

 リュウカは苦笑した。

「私と一緒にいるとロクなことがないぞ」

「だから、オレが幸運を運んでやるんだろ」

 ヒースは楽器袋から竪琴を取りだした。弦の調整をした後に弾き始めた。低い声がよく響いた。建国の祖ヒースクリフの歌だった。極寒の地で迫害を受けたヒースクリフと仲間たちが山を越え、約束の地にたどり着き、開墾し、麦を育て、酒を造り……。

 玄関先でマントを受け取り、羽織りながら馬へと向かった。

 陽は西に傾いているはずだが、厚い雲に阻まれて見えなかった。

 急がねばならなかった。陽がない分、夜の訪れは早い。

 衛兵たちはすでに馬にまたがっていた。間を縫って馬車の前までたどりつくと、先に行ったはずのリリーたちがまだ乗りこまず、立っていた。

 声をかけようとして、リュウカは留まった。馬車の入り口に、白い長衣に青いサッシュを肩がけにした男がひざまずいていた。

 リュウカは辺りを見回して呼んだ。

「ラノック伯!」

 しかし、小男の姿は見あたらない。

「衛兵、使者殿をラノック伯のもとへお連れしなさい」

「ラノック伯にはご了承いただいております」

 白い長衣の使者が言った。

「王女殿下には、ぜひ我が国にお越しいただきます。エドアル殿下にもご帰国いただきます。我が国王陛下は、エドアル殿下にご帰国いただけないのは、貴国に囚われの身になっているためとお考えでいらっしゃいます。ならば、奪還のため国を挙げることもおありかと」

「今までにもくり返し申しあげたが、弔問にはすでにアイリーン王女が赴いた。重ねて参る必要はない。エドアル殿下にしても、まだ帰国して日の浅い私を助けていただいているのだ。今帰られては困る。そなたの国王には、そう伝えるのだな」

 リュウカは使者のほうへ歩み寄った。

 使者は腰から短剣を抜いた。

 エドアルが短く声をあげ、リズの手を引いて衛兵たちの中に駆けこんだ。

 リリーは使者を睨みつけ、衛兵たちの身はこわばった。

 使者は両手で短剣を握り、ゆっくりと自分の喉へ刃先を向けた。

「お聞き入れください。この命に替えましても」

 使者はリュウカに向かって言った。

「もし私が死体で帰りましたなら、我が国王はお怒りになり、必ずや貴国へ攻めこむことでしょう。そうなれば、今度こそ、ピートリークの統一はなされましょう。それでもよろしいのですか」

 ラノックがこの使者を止められなかった原因はこれか、とリュウカは思った。

 使者の目は真剣だった。

 その緊張に、悪気のない声が割りこんだ。

「ごめん、リュウカ。ちぃっと手間取っちゃって」

 衛兵の間を縫って現れたのはヒースだった。

 有様を見るなり笑った。

「グニーラ伯爵さま、ご自害でもすんの? だったら、そこどいてくんない? かあちゃんが馬車に乗れないじゃん」

 つかつかと使者に歩み寄る。

 使者の手で短剣が揺れた。

「来るな! さもなくば死ぬぞ!」

「死んでもいいけど、そこジャマなんだよね」

 近づいて、使者を蹴り飛ばした。

 馬車のドアを開ける。

「かあちゃん、さっさと乗って。暗くなっちまう。リズ! エドアル! どこ行ったんだ、早く乗れよ」

「あ、危ないじゃないか!」

 使者が起きあがって怒鳴った。

「どこかケガでもしたらどうするんだ!」

「だって、死ぬんだろ? だったら同じじゃん。それとも、オレが代わりに串刺しにしてやろうか?」

「デュール・グレイ!」

 衛兵の間から顔を出したエドアルが叱りつけた。

 使者がハッとした。

「おまえはガーダ公が賤しい女に産ませた生意気な異人野郎か!」

「あれ、覚えてたの?」

「おまえのことなら知っている。ウルサから送りこまれたスパイのクセに! まんまと我が国から逃れたつもりだろうが、異人の浅知恵だな、自分から見つかりにくるとは。こいつを捕らえろ! 我が国ばかりか、この国の内情までを探りにきたウルサのスパイだぞ!」

 使者が衛兵たちに怒鳴る。

 ヒースは後ろをふり返った。

「どうする? リュウカ。オレを縛り首にでもする? それとも、こいつを串刺しにする?」

 リュウカは苦笑した。

「で、できるものならしてみろ! 私が死んだら我が国王陛下はたちまち攻め入るぞ!」

 使者が必死に虚勢を張った。

「セージュがあんたなんかのために小指一本動かすもんか。むしろ、あんたの領地を取りあげて喜ぶんじゃねーの」

 ヒースはエドアルとリズを馬車の中に押しこんだ。

 ドアを閉めると同時に列の先頭に向かって叫んだ。

「出発! 大急ぎでな!」

 ヒースは馬車の後ろにいたコウモリに飛び乗った。

「退がっといたほうがいいぜ、グニーラ伯爵さま。顔に蹄の痕をつけたくなかったらな」

 馬列が動きだした。使者はあわてて逃げだした。

 リュウカはカゲに乗り、列に合わせて進んだ。

「知り合いか?」

 ヒースに訊ねた。黙っていてもコウモリはカゲに並ぶから、自然、ヒースとは顔を合わせることになる。

「あっちは覚えてねーみたい。噂で知ってるって感じだな」

 ヒースはチラと後ろをふり返ってみせる。

「おまえはどうなのだ」

「オレは覚えてるよ。あっちの宮廷で剣の稽古に出されたとき、上級にあいつがいたんだよ。師範たちに褒められて鼻高々で、その割にちょっとでも剣が当たると、やれ腕が折れただの、足が痛いだの、うるさくってさ」

「それだけか?」

「そんだけ。オレ、初心者扱いだったから、剣も交えなかったし。それっきり顔出してないし」

「どうして」

「言わなかったっけ? ああいう形だけの剣は合わねーんだよ。だから、とうちゃんに言って師匠を変えてもらったんだ」

 リュウカはあきれた。

「その程度の知り合いで、自殺が狂言だと、よく見抜いたな」

「まさか」

「では、なぜあんなことを」

 ヒースは空を見上げた。曇り空は暗さを増していた。

「あんたも、エドアルも、あんなエセ英雄のとこにやれないじゃん。迷ってることねーんだよ。どうせ、あのエセ英雄のことだから、使者は使い捨てなんだし」

 ようやくリュウカは合点がいった。ヒースは使者よりもセージュの考えを読んだのだ。

「あんたはやさしすぎるんだよ」

「私がか?」

「あんなクズでも、死んだらかわいそうだと思ったろ?」

 そうかも知れない。自分たちのために、巻き添えを食って死んで欲しくはなかった。

「おまえは違うのか?」

 ヒースは軽くうなってから、リュウカに笑いかけた。

「自業自得ってヤツ? 勝手に自分の命をダシに使ってんだから。それよりさ」

 リュウカのほうに体を傾ける。

「今夜、ふたりで話したいんだけど」

 リュウカは少し考えた。

「書斎は? みなが帰った後に」

「了解」

 

   

 

 

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